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悪役令嬢に仕立て上げられた私が幸せになるまで

作者: 春樹凜
掲載日:2025/08/28



 私の前世での一番最後の記憶は、どこまでも続く真っ青な空と、体中に広がる強い痛みだった。

 

 ああ、頭が痛い。

 体が痛い。

 息が苦しい。 


 目の前には小学生と思しき子供がいて、こっちに向かって何かを必死に叫んでいる。

 それを見ながら、なんでこんなことになったんだったけなと、ズキズキして意識を手放してしまいそうになる頭で必死に考える。


 確か、青になった横断歩道を渡ろうとした瞬間、先を歩いていた小学生に向かってトラックが突っ込んできたんだ。

 

 恐怖で動けない小学生、同じく身動きできずその場で固まる通行人。

 そんな中、その一通行人だった私は、考える間もなく勝手に体が動いて、その小学生を突き飛ばし、そして────。


 気付いたら今の状況で、何とか手を頭にやれば、ぬるっとした大量の血が掌にべっとりついていた。


「────────っ!!」


 小学生が変わらず叫んでるけど、鼓膜がやられたのか、やっぱり何言ってるか分かんないや。


 被っている帽子も制服も、近くにある名門私立小学校の物だ。

 いいな、君は。

 いい学校行かせてもらって、将来はきっと有望な大人になるんだろう。

 

 対する私の人生は、一体何だったんだろう。

 なんてくだらなくて、いいことなんてまるでない人生だったんだろうか。

 

 母親は常に男を連れ込み浮気三昧。挙句の果てに若い男と蒸発。

 父親は父親で毎日浴びるほど酒を飲み、すぐに手を上げる。母がいなくなると矛先の全ては私に向かい、幼い頃はそれにただ怯える日々だった。


 だから高校を卒業したら、こっそりバイトして溜めていたお金を持って逃げるように家を飛び出して、ようやく抜け出せたと思ったら就職した先はまさかのブラック企業。

 残業泊まり当たり前、休日はあってないようなもの。給与は最低ランク。働いても働いても楽にならないし、体調は常に悪いし毎日眠い。


 ついでにろくでもない男に引っかかってお金を持っていかれたりする有様で。

 あの母にしてあの父だ。私はその母に似て男を見る目がないんだろう。


 友人もおらず、趣味と言えるものも何もない。そもそも趣味に使える時間も気力も体力もない。


 それでも、通勤の時間を減らして睡眠時間を確保するためにと、会社に近いところに半年くらい前に引っ越しをしたけれど、そうすると家が近くなったんだからとよりたくさんの仕事を振られるようになって、むしろ休める時間が減るという悪循環に陥ってしまった。


 あと、別れたはずの例の元彼が引っ越し先に押しかけてきて、お金をよこせと言われたので断ったら理不尽に殴られた。が、自分でやったくせに倒れた私が動かなくなって恐怖したのか、何もとらずに逃げていった。

 警察を呼ぼうかと思ったけど、その気力すらなくて、痛みに耐えながらも、これであの男が来ることはもうないかなと胸を撫で下ろした。


 そして今日、相変わらず生きる屍と化した私は、いつものようにいつもの道を通り、眠気マックスで会社に向かう途中だったのに、まさか子供を庇ってトラックに轢かれることになるなんて、ついてないどころじゃない。


 だけどこれでもう会社に行かなくていいやと思うと、なんだか心が穏やかな気持ちになる。もう先輩に怒鳴られなくていいんだ。

 それに、こっちのスマホの番号を調べ上げた父親から、ひっきりなしに金を貸せと連絡が来ていた。それに応対しなくていいのも嬉しい。


 ようやく全部から解放されるんだと私はほっと胸を撫で下ろすと、ゆっくりと目を閉じかけ……そこで小学生が泣いていることに気が付いた。


 私がここで死ぬのはまあいい。仕方がない。この痛みと傷だ。どうせ助からない。

 最後に誰かを助けて死ねるんなら、誰かの役に立てたってことで私がこの世に生きていた意味はあったんだろう。


 だが、この小学生はどうだ。

 目の前で自分を庇った人間が死ぬのだ。折角助かっても、これじゃあトラウマになりかねない。


 私が体を張って守った命だ。まして彼はお坊ちゃんっぽい。生まれた時から色々詰んでた私とは違う。

 なら、死んでしまう私のことは気にせず、キラキラ輝く未来に向かって生きていってほしいじゃないか。


「ね、え、少年……」


 あー、思うように声が出ない。というか呼吸をする度に肺が尋常じゃないくらい痛む。

 それでも私はその痛みに耐え、小学生を呼ぶ。

 名前は分からないから、少年としか呼べないけど、それは許してほしい。


 私の呼びかけに、小学生ははっと目を見開く。

 通学時間と被っているのか、この横断歩道でよく見かけていたその顔は、いつも帽子でよく見えてなかったけど、案外可愛い顔をしている。将来は絶対に女子達が放っておかないな。


 そんなことを思いながら、私は尚も痛む胸に辟易しながらも口を開く。


「心配、しなくていい。私、は、いったんはこっちでは、いなくなるけど、死ぬ前に君を、助けたから。きっと、神様が、ボーナスくれて、今より、いい人生に、転生させてくれる、はず。だから君が、気に病むことはないよ」

「────────っ!?」


 言葉は聞き取れない。口の動き的には、馬鹿なのか、とか、そんなことを言っている気がする。

 でもちゃんと聞こえないから本当にそう言っているか分からないし、反論する気力も残っていない。

 だから私は一方的に喋る。


「少年は、悪くない。これは私が、私の新しい、人生のために、やったことだから。ほら、よくあるでしょう? 最期に、人助けして、異世界転生して、第二の幸せな人生を、送るって話。今回も、きっと、そのパターン。君が悲しむ必要は、ない。だから。泣かないで」


 そして私は、既にほとんど動かせなくなっている顔の筋肉を気合いで動かして、笑い顔を作る。


 別に本気で転生とか、そんなこと思ってるわけじゃない。たまに読んでいた漫画や小説にそんな設定はあったけど、ここはファンタジー世界じゃなくて現実だ。


 私はただ、少しでもこの少年の憂いを取りたかった、それだけだ。自分のせいで私が死ぬんだと思わなくていいように。

 こんなことで少年の気持ちがおさまるとは思えないけど、頭の悪い私にはこんな言葉しか思いつかなかった。


 けれどもう限界だった。

 息ができない。視界が霞む。命の灯が消えてくのが、自分で分かった。


 それでも笑い顔だけは崩さないまま、抗う術もない私はそのまま意識を手放した。




○○○○




 それがどうだ。


 死にたてほやほやの私が目を開けると、そこは真っ白な世界で、しかも目の前には超絶美人な女神様がいて、私の最期の善行により、ある程度の希望を叶え、別の世界にはなるけど、記憶付きで転生させてあげると言われたのだ。

 マジで異世界転生させてくれるなんて。私が一番驚いた。


 で、折角転生できるんだから何でも言いなさいって女神様には言われたけど、正直これといった希望はなかった。


「何か一つくらいはあるだろう!? 例えばカッコいい男の子たちに囲まれハーレムを築きたいなど」

「いやいや、ないですよ。むしろそんなキラキラした顔が周りにいつも三つも四つもあったら、落ち着かないですから」

「なら、そうか……イケメンと必ず結婚できる! っていうのはどうだ?」

「え、あ、好きな人と結ばれて、幸せな結婚生活を送るっていうのはずっと夢でしたけど」

「ならやっぱりイケメンに限るな! 綺麗な顔は見ているだけで生きる活力が湧いてくるものだからな!」


 そもそもまともな相手すら前の人生では見つけられなかったんだけど。あと、相手に対して顔の美醜は特に問わない。


「というか、女神様、えらくイケメン推してきますけど」


 なんでだろうと不思議に思って何気に女神様の後方に目をやると、あまりゲームとかしない私でも聞いたことのある某有名乙女ゲームのタイトル画面が、大きなテレビにドンっと映し出されていた。

 ……っていうかもっとよく見たら、テレビの前にはそういう系のゲームソフトが何本も積み重なっていたし、その隣にはイケメンがたくさん出てくるっぽい漫画や小説が、これまた高い山になっていた。


 女神様曰く、ここに送られてくる人の魂はそんなに多くないし、暇なので、試しに他の女神仲間に勧められたゲームを始めたら見事に沼ったんだと。


 まあ、女神様の事情はこの際いいとして。


「とにかく、あんまり私には希望ってないんですよね。それでも……そうですね、ならせめて、家族が欲しいです。不貞を繰り返さない、暴力も振るわない、金の無心をしてこない、そして私のことを愛してくれる家族が」


 愛される努力はするから。だからせめて普通に笑い合って暮らせる家族の元に私を生まれさせてくださいと。

 その程度でいいのかって聞かれたけど、前の私はそれすらもまともに享受できなかったのだ。


「結婚相手とかそういった人は自分で探しますし、私自身の幸せも自分で探します。だから、このお願いだけ聞いてもらえれば、それで十分です」

 

 そう言ったら女神様は、ちゃんと望みを叶えると約束してくれた。


「で。本当に他には何かないのか?」


 その上更に追加で願いを聞いてくれるなんて、女神様って太っ腹すぎじゃあるまいか。

 

 ここで私は再度、うーんと考える。


「あ」

「何か思い付いたか」


 声を上げた私に女神様が反応する。

 

「それならちょっと教えてほしいことがあるんですけど」


 そして私が女神様に伝えた第二のお願いは、私が死んだ後の、あの少年の動向を教えてほしいというものだった。


「自分のこれからではなく、助けた子供の行く末の方が気になるとはな」

「そりゃあ気になりますよ! 悪いのはどう考えたってあの運転手ですけど、もしも私があの子の立場だったら、絶対責任感じちゃいますから」


 彼が私のことは気にせず、日々健やかに、前を向いて生きているのかどうか知りたかった。

 それにあの時の私は結構血塗れだったし、形相もえらいことになっていただろうから、夢に出てきたらスプラッタホラーだ。精神やられてるかもしれない。


「ならば見せてやろう」


 女神様がそう答えた瞬間、後ろにあったテレビ画面がタイトル画面から切り替わり、どこかの墓石が映し出される。

 彫られた名前から、ここは私の父方の親族たちが眠る墓石だとすぐに分かった。


 しかし私が女神様に見せてほしいとお願いしたのは、墓ではなくあの少年である。


「なんでお墓……」


 けれどそこの前で手を合わせる一人の男の子の姿を目にして、すぐに合点がいった。


「ここはお前が眠る墓だ。……あちらの世界ではお前が亡くなって既に三年が経っているが、そこにな、助けた少年は月命日には必ず足を運んでいる」


 女神様がいうには、こことあちらでは時間の流れが違うらしい。道理であの時の少年にしては背も高いし顔つきも立派になっている。整った顔立ちは相変わらずだけど。


 にしても、あのお墓に私の骨を入れてくれたのは、絶対に父ではないだろう。そもそもあの金の亡者は私が死んだって分かっても、費用がもったいないからって葬式も挙げないだろうし、骨だって墓に入れるのは面倒だからゴミ箱に捨てていそうなものだ。


 とすると、おそらく父の姉、つまり私の伯母がそういった手続きをしたような気がする。私と伯母は最低限の付き合いしかなかったけど、伯母自身は常識は持ち合わせていたから。


 しかし、少年が毎月墓参りしに来てるとは意外だったし、逆に言うとそれだけ罪悪感を抱いているんだろう。

 ましてあの墓は、彼の通っていた小学校からは片道一時間はかかるはず。あの子がどこに住んでるかは知らないけど、お墓まで近くはないことは確かだ。


 私のことは気にしなくていいのにと、少年の心遣いが嬉しい反面申し訳なく思う。

 前を向くどころか、これじゃあ過去に捕らわれ縛られ、動けなくなっているんじゃないかと思ったその時、目を瞑り手を合わせているままの少年の心の声が私の意識の中に流れてきた。


『茜さん。あなたに助けてもらってもう三年と二カ月が経ちました。この間僕は中学二年生になりました。勉強も大変になってきたし、たまに辛い時もありますけど、僕は元気にやっています。……今でもあなたが死んだ時のことは夢に見ます。それでも、あなたがあの時、泣くなって言ったから、泣きません。あなたが助けてくれたこの命を無駄にしないように、僕は精いっぱい生きていきます。だから茜さんもどうか、次の世界では毎日たくさん笑って、幸せな人生を送れていますように』


 名前も知らない、ただ朝によく見かけていただけの少年。彼を助けたのは、本当にたまたまで、それを後悔はしていない。


 そして、私のその判断は正しかったのだ。

 彼の顔には悲壮感は浮かんでいない。前を向いて歩いて行こうっていう強い意志が感じられた。


「……女神様、彼の名前を教えてもらってもいいですか?」

「少年のか。柴上拓真だ」


 私は、届かないとは分かっていても、そっと心の中で語りかけた。


『拓真君、あなたが助かってくれて本当に良かった。私のことは心配しないで。本当に新しい世界に転生できそうだから。あと、お墓参りを欠かさずしてくれてありがとう。でも、あんまり無理しちゃだめだからね。最後に……あなたのこれからの人生に、幸がありますように』


 その瞬間、拓真君がはっと顔を上げて、驚いたように周囲を見渡すと、小さな声で呟く。


「今、声が聞こえた気が……」


 思わず女神様を見ると、彼女はこちらを見て少しだけ悪戯っ子のように微笑んでいた。


「なに、このくらいはサービスする」

「……私の想いを届けてくれて、ありがとうございます」


 その後拓真君は私の眠るお墓を見つめ、少しだけ瞳を潤ませながら立ち上がって、ぺこりと頭を下げると、最後には満面の笑みを浮かべてそこから立ち去って行った。


 それを見届けた私が、これ以上は何の未練も望みもないと女神様に告げ、私の茜としての人生は本当の本当に終焉を迎えた。




 ────そうして私は、前からの記憶を引き継いだ状態で新しい世界で生を受け、二度目の人生を歩むことになった。




○○○○




 転生したのは日本ではなく、中世と近世の間のようなヨーロッパ的な世界だった。そこにあるナチカ国で公爵位を賜る、シュトレン家の二番目の娘、アリッサとして生を受けた。

 

 ある程度の望みは叶えてあげるという非常に太っ腹な女神様のお言葉通り、私は家族に恵まれ、優しい両親と兄の元ですくすくと成長し、大満足な第二の人生を満喫している────はずだったんだけど。







「アリッサ! 今度という今度は許せん! お前のような性悪女との婚約は今この場をもって破棄させてもらう! 理由は分かっているな。お前が、俺が懇意にしているここにいるフローラに対し、卑劣な嫌がらせをおこなったからだ! まったく、まさにお前は物語に出てくる典型的な悪役令嬢そのものだな!」


 私の婚約者であり、この国の第一王子でもあるロバート殿下に突然そう言われ、私は思わず頭を抱える。


 色々物申したいことはあるが、まず、今殿下の腕にくっついている彼女──子爵家のご令嬢であるフローラ・メルヘンと確かに面識はあるけど、嫌がらせなんてしていない。


 あと、今は学園の講堂で月一行われる集会が終わった直後とはいえ、教師も生徒も全員まだ残っている。そんな中ステージにメルヘンさんを伴って現れ、私の名前を叫んでここに呼び出し、真っ先に飛び出したのがこの断罪の言葉である。


 転生してからというもの、女神様のおかげか毎日幸せに暮らせていたけど、婚約者に関しての運には恵まれなかったみたいだ。まあ、昔から男運はあまり良くなかったけど。

 

 それでも出会ったばかりのロバート殿下はもう少しマシだった。

 ちょっと純粋すぎるきらいがあったり、勉強も苦手なようでちょっぴりお馬鹿なとこもあるけど、そういう部分もなんとなく可愛いなと思っていたわけで。

 そしてお馬鹿だからこそ、そんな彼の補佐役として私は彼の婚約者に任命されたんだけど。

 ……まさかこれほどまでにお馬鹿ちゃんだったとは。


 ちなみに私とロバート殿下の仲は、当初はそこまで悪いものではなかった。


 彼よりも勉強ができたためか、家庭教師に私が褒められたのを聞いた涙目のロバート殿下がいきなり、


「お前は俺よりも色々できて可愛げがない!」


 と怒鳴りこんできたり、


「なぜお前は俺よりもダンスが上手いんだ! 馬鹿にしているのか!?」


 と、何度もステップを間違える彼が、軽快なステップで踊る私に対して悔しそうな顔でそう嘆いてくることも日常茶飯事だったけど、私はそういうところも含めてなんだか可愛いと思ってしまっていた。


 それに、そんな風に私に言いつつ、裏では深夜まで勉強したり、こっそりと自主練をしていることも知っていたので、嫌いにはなれなかった。そして最後には必ず私に謝罪してくれていた。

 

 ……冷静に考えると、彼のそういった努力している面やその他諸々を差し引いたって私の男運が悪いっていうか、純粋に私の趣味が悪いって気もしてきたけど、ともかく、なんやかんやありながらも私とロバート殿下はそれなりに順調だったのだ。


 風向きが変わったのは、この学園に私たちの一つ下の学年のメルヘンさんが入ってから。

 今殿下にべったりねっとりガムみたいにひっついて離れない彼女とロバート殿下が出会ってから、ちょっとずつおかしくなっていった。


 出会いのきっかけは何だったかな。

 確か、風に飛ばされた殿下のマントを、偶然近くを通りかかったメルヘンさんが拾ってあげたことだったか。


 ああ、ちなみに今着用している制服は学園指定の物だけど、あの時殿下が飛ばされた、そして今も肩に引っかけている真っ白のマントは、ロバート殿下の完全なる私物である。

 何故そんなものをつけているのかと以前尋ねたら、


「カッコいいからに決まってるだろう!」


 というお答えが返ってきた。


 そんなところすらも、やだっまるでヒーローに憧れるちっちゃい子みたい……! なんて、きゅんとした私は、やっぱり冷静に考えたらおかしいかもしれない。だって殿下は五歳の子どもではなく、その時点でもう十七だったのだ。


 とにかく、そこからロバート殿下とメルヘンさんは互いに気が合ったのか──ロバート殿下的には可愛い容貌が好みだったからで、メルヘンさんの方は相手が第一王子で容姿だけは物語の王道王子さながらに極上だったからだろう──どんどん距離を詰め、私の注意もなんのその、最終的には公衆の面前だろうが気にせずに二人だけのイチャイチャワールドを繰り広げていた。


 それだけでなく、月一のロバート殿下とのお茶会も勝手にキャンセルされ、顔を合わせたとしても殿下は私とメルヘンさんの違いを延々と語り、メルヘンさんがいかに愛らしいかを話してくるのだ。

 そして、ありのままの殿下がいいの! とメルヘンさんに言われたせいで、彼は一切の努力をやめてしまった。

 どれだけお馬鹿でも、私は必死で足掻いて努力するロバート殿下のことが好きだったし若干尊敬もしていたんだけど、それすらもしなくなった殿下はただの顔がいいだけの王子に成り下がってしまった。しかも他の女の子とイチャイチャするっていう。


 その瞬間、私の彼への恋心は砕けたといってもいい。


 だから、ならいっそロバート殿下から身を引こうかと思っていた矢先に、今のコレである。

 

 一向に婚約が解消されない状況に痺れを切らしたメルヘンさんが、私を排除すべく、私が権力を笠に着て彼女に対して酷い嫌がらせをしてくると、ロバート殿下をはじめとした周囲に涙ながらに訴えていたのは知っていた。

 さすがはメルヘン家のご令嬢なだけある。頭の中までメルヘンなお花畑らしい。

 ついでに言うと彼女以外の家族もそれなりにメルヘンだったはずだ。むしろお前の美貌で王子を骨抜きにしろと言われていたみたいだから。


 状況を正しく判断できるまともな生徒達は一切その訴えを相手にしなかったけど、ちょろさ満点のロバート殿下は当然彼女の訴えを信じ、それ以外だと、彼女の見た目にまんまと釣られた同じくちょろ男子も若干名いた。


 で、ロバート殿下が今回、意気揚々とこんな場所にメルヘンさんと一緒に現れて、私を断罪しようとしているのは、彼の堪忍袋の緒が切れたのと、彼なりに私を断罪できる確信が得られたからだろう。


 どうしようかなぁ、この状況。

 先生たちは、相手が王族なので、止めるに止められずはらはらした様子になりながらも、私に助けを求めるような視線を送ってきてるし。

 

 それ以外だと、突然始まった断罪劇に、講堂を去りかけていた生徒達が即座にステージ前へと集まって、これからどうなるのだろうと固唾をのんで見守っている。

 なんならちょっとワクワクした視線を送る生徒もちらほら。万が一にも私があっさり断罪されるとは思っていないからだろう。

 だって相手はあのロバート殿下だ。つまり皆にそう思われるほどに、ロバート殿下はお馬鹿なのだ。


 ちなみに私の容姿だけど、それなりに……どころかえげつないほど整っている。

 ダイヤでも散りばめられているかのような美しいストレートの銀髪に、静かな湖面を思い起こさせる深い青の瞳。笑っていないとちょっと冷たさすら感じさせるが、自画自賛とかじゃなくて本当に美人で、見た目で言えば小柄で可愛いメルヘンさんみたいなヒロイン系ではなく、ロバート殿下の言う通り悪役令嬢っぽい。

 女神様が転生させてくれる時に、特典ボーナス的な感じで容姿もいい感じにしておくとか言っていたからそのせいなんだろうけど、にしたって女神様は張り切りすぎじゃないんだろうか。

 ……さすがに周囲から『夜空から舞い降りた月の女神』なんてこっぱずかしい二つ名で呼ばれるのは未だに慣れない。

 

 それはともかく。

 仕方がないのでこの茶番劇に付き合うかと私は腹を括ると、メルヘンさんにそんなことはしていないと伝える。

 が、当然彼が聞くはずもなく。


「ふん、ならば思い出させてやろうではないか!」


 ロバート殿下は懐からいそいそとメモ帳らしきものを取り出し、自身が一番自信があると言っていた決め顔をこちらに見せつけると同時に、背中のマントをバサッとはためかせた。

 これも多分、マントを風になびかせる俺カッコいいってことだろうけど、ここは講堂内で当然風なんて吹いてくるはずもなく、無理やり自分の体を大きく動かしてマントをひらりとさせていたので、その様が既にカッコ悪い気がする。

 あと、マントが動いた影響で目に埃が飛んできてちょっと痛くなり、思わず目を伏せる。


 そんな、僅かな痛みに耐える私なんて無視して、ロバート殿下は声高らかに言葉を紡ぐ。


「まずは六月二十七日! 放課後中庭のベンチで、お前はフローラに詰め寄り、暴言を吐いたのみならず、彼女の首を絞めようとしただろう!」


 なるほど、あのメモ帳は私の悪行を記録している物のようだ。


 まだ目はごろごろするけど、マシになったので正面を向いた私は首を傾げる。


「そうですね……。細かい日付までは覚えておりませんが、確かに六月の末頃に、彼女と中庭でお話をした覚えはあります」

「何がお話だ! そんな軽いものではなかっただろう! フローラが言っていたぞ、険しい目つきと口調で咎められ、最後は首に手を伸ばしてきたとな。しかもその場面を見た者もいる」

「本当に怖かったですわ……!」


 瞬時に涙を出して瞳をウルウルさせる彼女は、前世は大女優だったのかもしれない。

 そんな呑気な感想を抱きながらあの日のことを頑張って思い出す。


 私が彼女に近付いたのは、ロバート殿下の婚約者としてメルヘンさんに注意をするためだった。これは当たり前のことなんじゃないだろうか。

 勿論暴言なんて吐いていない。常識的な物言いで、むしろ彼女に優しく諭すように言った覚えがある。

 折角可愛い顔をしているのに、婚約者持ちの殿下以外にも目を向けたらどうかとか、仮にあなたが殿下を射止めても、王妃にはなれないし、なれたとしても愛妾が限界だし、苦労するのは他ならぬあなただからやっぱり他の殿方はどうかとか。


 それに対してメルヘンさんは怒り狂い、ロバート様の婚約者だからって生意気なのよとかなんとかキャンキャン噛み付いてきて、残念ながら私の言葉は一切聞く耳を持ってくれなかった。


 首に手を伸ばした件に関しては事実だけど、メルヘンさんの元から離れる間際、彼女の大きく曲がったリボンを直してあげたからだ。


 それらを曲解すれば確かに、私はメルヘンさんに暴言──彼女にとって耳の痛い言葉──を吐き、首を絞めようと──リボンを直すという行為──してきたと言えなくもない。

 証言したのはきっと、チョロメンズの誰かだろう。


 その後も似たような証言が続く。


「七月一日には、フローラの教科書を刃物で引き裂いただろう! お前がズタズタになった教科書とナイフを手にしていたうえ、それをフローラの前にわざわざ持って行って見せつけたと、こちらもとある生徒から証言があったぞ!」

「それだけじゃなくて、感謝しなさいって言わんばかりに上から目線で、私に手垢のついた使い古しの教科書を厭味ったらしく渡してきたんですっ!」


 廊下にボロボロの教科書とナイフが落ちていたら、そこにたとえ恋敵?であるメルヘンさんの名前が書かれていたとしても、誰だって気になって拾うんじゃないんだろうか。

 そしてそれを彼女の元に届けるついでに、去年私が使ってた教科書をメルヘンさんに一緒に渡した。使い古しっていえばそうだけど、綺麗に使っていたからそこまで汚くはないし、厭味ったらしくも渡していない。

 この行為は、メルヘンさんの自作自演だってことは分かっていたけど、実際教科書がないのって不便だと思ったから。

 彼女には教科書を貸してくれそうな友人はほぼいないし。あと、先生が授業の際に困るだろうっていうのもある。


 他にも、噴水に突き飛ばしてきたとか。

 ────自分で飛び込んだ噴水の中心で私が通りかかるのをずっと耐えて待っていたみたいで、体はブルブルして唇も青かったため、不憫に思って手を差し出した場面を、見ようによっては突き飛ばしたように見える……のかな?


 あとは階段から突き落とされて怪我をしたとか。

 ────いきなり私の目の前で、メルヘンさんが自分の意志で階段の一番上から飛び降りたのだ。

 慌てた私が駆け寄って手を伸ばすけどギリギリ間に合わなくて、彼女は怪我をしてしまった。幸いにも軽傷で済んでよかった。とてもうまく受け身を取ってたから、落ちた時に大怪我しないよう予め練習していたんだと思う。

 私が先生を呼んだりと色々したんだけど、それも、自分の犯した罪を隠すためにわざといい人ぶったんだということにされていた。


「どうだ! これでも罪を認めないつもりかっ!」


 他にも細かいことまで全て言い終えたロバート殿下が、嬉しそうに叫ぶ。多分今、彼はものすごくどや顔でこっちを見ているんだろう。

 だけど私はそれどころじゃなかった。


 なぜって、ロバート殿下が一つ一つ私の罪状を読み上げる度にマントをバサバサとするものだから、その度に毎回マントから出た埃が私の目に直撃しており、既に目を開けていられないほどになったので、途中からずっと下を向いていたのだ。


 あのマント、ちゃんと洗濯とかしてるのかな。埃の量が異常なんだけど。

 あぁ、目薬的な何かが欲しい。もしくは今すぐ目を洗いたい。それはもうごしごしと。

 だけどここでそんなことはできないので耐えていると、異物を洗い流そうと自然と目が潤む。

 

 が、このままいつまでも黙っているわけにはいかないので、何とか顔を上げて、私は再度ロバート殿下の言葉を否定する。


「何度も申し上げております通り、私はメルヘンさんを傷付ける行為は一切しておりません」


 けれど上を向いたせいで、目からぽろりと雫が零れる。その瞬間、ロバート殿下や観客たちが同時にはっと息を呑んだ。


 ……うん、あれだよね、絶対これ、泣いているように思われてるよね。実情はそうじゃないけど、目にゴミが入ったんですなんて、なんとなく言えない空気なのでそのまま黙ってロバート殿下達を見つめる。

 けれどまだ目の中に異物が残っているようで、頬を伝う生理的な涙は止まらない。


 すると私の涙なんて初めて目にしたロバート殿下が、明らかに狼狽したように声を震わせる。


「おお、お前! こんな時に泣き落とししようなどとは、恥ずかしくはないのかっ!? い、今更かわい子ぶったってそうはいかないからな!!」


 全然そんなつもりはないんだけど。

 しかし涙はぽろりとまだ止まらない。とりあえずハンカチでも出して拭いとくかと思い立ったところで、舞台上に急に第四の人物が現れた。


 その人物は私もよく知っている人で、ロバート殿下にも似てるけど、麗しさでは貴婦人の中でも群を抜いている王妃様似の彼よりも、どちらかというと国王陛下の面影の方が強い。

 日本人だった頃を思い出させるようなしっとりとした漆黒色の髪をした、ロバート殿下よりも派手さはないが間違いなくイケメンの部類に入る、殿下の一つ下の弟のライアン殿下である。


 彼は私の方へまっすぐにやってくると、綺麗に折り畳まれたハンカチを差し出してくれた。


「大丈夫ですか」

「ええ、ありがとうございます……」

 

 お礼を言ってハンカチを受け取り、目に当てて涙をしみこませているとようやくゴミが取れたのか、涙が止まった。

 その様子を伺い見ていたらしいライアン殿下は、ハンカチから顔を上げた私を見て少しだけ表情を和らげたけど、すぐに険しい顔になって、私を背に庇って二人と対峙する。


「兄上。あなたは今、一体何をやっているのか分かっておられるのですか!」

「なっ、ライアン、どうしてここに!? お前は今日は体調が芳しくないからと学園を休んでいたはずだろう!? せっかく口うるさいお前がいない間に事を済ませようとしていたのに!」

「嫌な予感がしたからですよ。そして残念ながらその勘は当たっていたみたいですね。まさかここまで兄上が愚かだったとは。何の非もない彼女をこんな場で、しかも稚拙な証言のみで追い詰めようとしているのですから」

「しかしフローラがそう言っているのだ! それにこちらには証言だってある……」


 そう言いかけたロバート殿下に対し、ライアン殿下は呆れたようにため息をつきながら、兄が愚かな理由を述べる。


「なぜ本人の言葉をそのまま鵜呑みにするのか、理解に苦しみます。それに、証言ということで言えば、そこの女狐に簡単に篭絡された生徒達ではなく、もっと信頼性の高い者たちが彼女にはついていることを兄上はお忘れですか」


 その言葉に、本当に忘れていたようで、ロバート殿下は明らかに顔色を変えると間抜けな声を上げる。


「あ……」

「僕も彼らに確認しましたが、彼女はその女に危害を加えたことは一度もないそうです。噴水や階段の上から腕を伸ばしたのは、そこの女を突き飛ばすためではなく助けるためだったと。それ以外も全て、その女が自分のいいように解釈を捻じ曲げて兄上に報告したに過ぎません」


 途端にロバート殿下の興奮で赤くなっていた顔が真っ青になる。


「ねえ、ロバート様!? いきなり黙っちゃってどうしたの? 私、あの女にたくさん攻撃されたのよ? ちゃんと反論してよ!」


 自信満々でこちらを責め立てていたロバート殿下が急におとなしくなり、異変を感じたメルヘンさんが彼の体を揺さぶるが、ロバート殿下の口は閉ざされたままだ。


 ライアン殿下の言う信頼性の高い者たちというのは、王族やその婚約者の監視と護衛役を担っている『王家の影』と呼ばれる存在のことだ。

 勿論私の行動も常に彼らに見られており、密かに監視されてるのはちょっと恥ずかしいなと常々思っていたものの、身の潔白を証明するのに彼らの証言ほど信憑性の高いものはないのだ。


 それを本気で忘れていたのだから、本当にロバート殿下はお馬鹿さんである。せめてメルヘンさん達以外にも彼らに確認しておけば、こんな事態にはならずに済んだのに。


「僕は常々兄上には、婚約者である彼女にもっと誠実に接するよう伝えてきました。ですが何度言ってもそれが改まることはなく、この学園に入ってからは浮気相手を隣に侍らせる毎日でしたよね。とどめにこのような場に彼女を呼び出し、何の非もないのに公衆の面前で貶め、これまで気丈に兄上を支えてきた彼女に涙を流させるなんて……」


 言葉通り、ライアン殿下はいつもロバート殿下を弟として強く諫めたり、私をもっと大事にするようにとも言ってくれていた。そして彼は何も悪くないのに、不甲斐ない兄で申し訳ないと事あるごとに謝ってくれた。

 ただ、今泣いていたのはそういう理由じゃないんだけどという言葉は、やっぱりこの場では言えなかった。


 それよりも私が気になったのは別のことだ。


 だから、まずは一刻も早くこの舞台から降りようと、私は未だに彫刻のようにピクリとも動かないロバート殿下に告げる。


「ロバート殿下の意向はよく分かりました。ですが私と婚約破棄、もしくは解消してそちらのメルヘンさんと一緒になるにしても、この婚約はそもそも我が公爵家と王家との間で取り決められたことであり、今この場で、私たちの一存では決められませんので、それについてのお答えは保留とさせていただきます」


 元々前評判のあまりよろしくなかったロバート殿下のことを両親はあまり良く思っていなかった。

 だから二人とも王家からこの話が持ち込まれた時に、婚約の話を受けるか悩んでいたけど、私自身がロバート殿下に対してそれなりに好意を持っていたので、成立したものだった。

 その後ロバート殿下の駄目駄目な部分を目の当たりにする度に、両親は本当に彼でいいのかと何度も確認してきたほどだ。けれど私はロバート殿下のそんな部分が嫌いにはなれなくて、大丈夫だよといつも言っていた。

 一方の兄は、お前は男の趣味が悪いと遠回しに言われるついでに、嫌になったらどんな手を使ってでもこの婚約を潰してやるからと言ってくれていた。


 で、メルヘンさんとの関係性が両親の耳に入るようになり、同時に私のロバート殿下への気持ちも離れつつあると悟ったあたりから、いつでも婚約を破棄できるようにと家族は根回しを始めていたところだ。

 むしろ、ロバート殿下が今回このようなことを起こさなかったとしても、ロバート殿下との縁を準備ができ次第断つつもりだった。

 なので、この場ではこう言ったけど、おそらく私とロバート殿下の婚約はあちら有責で破棄されるだろう。


 私は婚約者を失い新たな相手を探さなければいけないのでそれはそれで大変だけど、ロバート殿下の方がもっと大事になることは容易に予想がつく。


 誰の目から見ても色々と足りていないロバート殿下が第一位の王位継承権を持っているのは、彼が長男だからという理由と、自身に似ている息子を溺愛する王妃殿下の強い後押しがあるから。そして彼をしっかり支えられるようにと私が婚約者になり──つまり貴族の中でも比較的強い力を持つ我が公爵家が後ろ盾になっているからである。


 それが無くなるとなると、ロバート殿下の今の立ち位置というのは非常に危ういものになる。

 そして彼には、有能なこの、ライアン殿下という弟がいる。


 国王陛下は元々ライアン殿下に後を継いでほしがってたみたいだけど、情けない話、奥方に超絶尻に敷かれていたがために、何も言えなかったようだ。

 けれどこれだけ大事を起こしたのだ。ならば、この件の責任を取らせるともっともらしい理由をつけて、ロバート殿下には適当な爵位を与えてメルヘンさんと共に表舞台から退場させ、ライアン殿下を次の王として指名する可能性がとても高い……どころか、絶対にそうなる。


 ────と、いうことをロバート殿下に懇切丁寧に説明したところで理解できなさそうなので、私はそれ以上は何も言わず、次期王妃教育で散々叩き込まれた美しいカーテシーを披露する。

 そして私を庇ってくれたライアン殿下にも一緒について来てほしいと小声でお願いし、私たち二人は颯爽と舞台から立ち去ることに成功した。


 ちょうどいいタイミングで始業を告げるベルが鳴ったこともあり、私たちが講堂の扉から出た直後、残っていた生徒達もざわめきを取り戻し、一斉に動き出す気配を感じた。

 舞台上の二人がどうするかは知らないが、そのうちに影から報告を受けて、誰かが回収しに来るだろう。


 そんなことを考えながら、私はライアン殿下を引き連れて早足でとある場所へと向かいながら、彼にお礼の言葉を述べる。


「ライアン殿下、先ほどは助けに入っていただき、ありがとうございました」

「いえ、僕は大したことはできませんでした。それより……謝罪など何の意味もないことは重々承知しています。それでも、あなたに涙を流させるほどに傷付けてしまった愚かな兄の犯した罪を、あの人に代わって謝らせてください」


 歩みを止めないまま隣のライアン殿下の顔に視線を向けると、彼は軽く唇を噛みしめ、悲痛な面持ちを浮かべてこちらを見ていた。


 そこで気付く。ああ、そうだった。誤解を解いておかないと。


「あの、ライアン殿下。実はですね、さっきの涙なんですけど、悲しくて泣いていたわけではないんです。ロバート殿下が執拗にマントをはためかせていたので、そのせいでそのマントから出たごみがたくさん目に入ってしまったために勝手に涙が出たといいますか」


 そう言ったら、一瞬ライアン殿下がぽかんとした表情になった。


「マントの、ごみ……?」

「ええ。いつもあの方が嬉しそうにつけて事あるごとにバサバサさせている、あの白いマントです」

「所かまわず、鳥のようにバサバサしている、あれですか」

「そう、あれです。長すぎてあの方が自分でうっかり踏んでしまうことも多い、あのマントです」


 そうこう言っている間にようやく目的地に到着する。

 扉の上のプレートには、保健室、と書かれてある。

 扉に手をかけると鍵はかかっていなかったものの、中には誰もいなかった。まだ養護教諭は講堂から戻ってきていないのだろう。


 しかし今は緊急事態である。気にせず私は室内に入ると、すぐにぽかん顔から済まなさそうな表情に戻ったライアン殿下を無理やりベッドの上に座らせ、勝手に戸棚から体温計を取り出して彼に手渡した。

 勝手知った室内である。なぜなら私は保健委員なので。


「それよりライアン殿下、かなり無理をして今日はここまで来ていただいたのではありませんか? 顔色が少し芳しくありません」


 これこそが、私が一刻も早くあの場から去りたかった理由である。

 ロバート殿下がさっき、ライアン殿下の体調があまり良くないと言っていたが、近くでよく見れば確かに顔は少し赤いし、かすかに息も上がっている。

 それなのに、体調をおしてまで彼は兄の愚かな行動を諫めに、そして私を助けようと来てくれたのだ、


 けれど心配する私に対し、ライアン殿下は眉根をひそめる。


「僕は大丈夫です。それよりも、あなたの方がもっとずっと苦しいはずです。あなたが兄に好意を抱いていたのは知っていましたし、あんな場でやってもいない罪を認めろと怒鳴られ、傷付いているでしょう。それなのに、どうしてこんな時に僕の心配なんてするんですか」

「それは、私よりもライアン殿下の方が心配だからです。私は、もしかしたらこうなるかもしれないと、心のどこかでは覚悟していましたし。それに、延々とメルヘンさんとの仲睦まじいシーンを見せつけられ続ければ、保っていた好感度も自然と下がっていくものです。今はロバート殿下に対して、昔感じていたほどの感情はもうありません」


 それでも、少しだけ、爪の先ほどは悲しいとか、そんなネガティブ感情には襲われたけど、ただそれだけだ。今胸を刺すちくりとした痛みも、時間とともに無くなるだろう。


 けれどそれを伝えるとライアン殿下に心配をかけてしまうのでその気持ちは伏せると、私は早く体温を測るようにお願いしたら、ライアン殿下はようやくそれを服の下に突っ込む。


「……やっぱり」


 時間が経ち、のろのろとした動作で体温計を取り出したライアン殿下から無理やり奪って体温を確認した私は、すぐさま布団を引っぺがすと、そこに横になるようにお願いする。


「もうすぐ先生も戻ってくるかと思います。そうしたら薬ももらえるでしょうし、とにかく今は休んでいてください」

「っ、このくらいなんともありませんから」

「何言ってるんですか! 無理は禁物です。いいから大人しくしててください!」


 正直、よく起き上がれたなってレベルの熱だった。普通なら立ってるだけでやっとだろう。


「ですが、僕はまだあなたに兄の非礼をきちんと詫びられていません。たとえあの涙が僕の思っていた理由からではないとしても、あなたに許してもらうまでは僕はまだ……」

「許すも何も、ライアン殿下が謝ることなんて何一つありません。殿下はむしろこれまで、ずっと私のことを気遣ってくれていたではありませんか。それに私は、私を助けに来てくれたばかりに体調が悪化してしまう方が責任を感じますし、嫌です。なのでライアン殿下、私に申し訳ないと思うのであれば、今はとにかく寝て体調を万全にしてください。お願いします」


 そこまで言ったら、ようやくライアン殿下は観念したのか、ため息を吐きながら大人しくベッドに横になってくれたので、私は水で濡らしてきたタオルを額に当てる。

 けれど彼の表情には、申し訳なさが滲んだままだ。


「情けない話ですね。あなたを助けにきたつもりが、こうして助けられる羽目になるとは。……兄弟揃って不甲斐なくて、すみません」


 ライアン殿下とはロバート殿下の婚約者になってからの付き合いだけど、なぜか兄のやらかしは全て自分の咎だとばかりに、毎回謝ってくる。そして兄に甘い母親ともども説教をかまし、婚約者である私を大切にしてほしいとずっとずっと言ってくれていた。

 私の家族や私以上に、私のことを心配してくれていたライアン殿下は、とても優しい人である。


 そしてそんな人だから、今回のロバート殿下の暴走も、止められなかった自分が悪かったと自身を強く責めているのだろう。

 けれど本当に、ライアン殿下には何の非もないことだ。


「ライアン殿下はまったく不甲斐なくなんてありません。それに何度もお伝えしていますが、あなたは全く悪くありません。だから……そんなに泣きそうな顔をしないでください」

 

 そう言って、私は何ともないからということを証明すべく力強く笑ったら、ライアン殿下は消え入りそうな声で、半ば独り言のように呟いた。


「あなたは、どうしてそうお人好しなんですか。あの女にだって、助けようと手を差し伸べたり。本当に変わらない。あなたは昔も、僕にそうやって……」

「ライアン殿下?」


 昔も? 何を言いかけたのかと尋ねようと声を上げた私だったけど、やはり限界が来ていたのか、気付けばライアン殿下はそのまま目を瞑り眠ってしまったので、台詞の続きを聞くことはできなかった。




○○○○




 ライアン殿下が寝入ってからしばらくすると養護教諭が戻ってきたので、状況を説明した後、私はその日は授業には出ずに帰ることにした。


 そして自宅に着くと、既に学園での状況を聞かされていたらしい両親が待っており、少し落ち込んだ私を見て何も言わずに優しく抱き締めてくれた。

 と同時に、娘である私への仕打ちに大層お怒りでもあった。


 それでも一応私の意志を確認すべく、この婚約を続行したいかと聞かれたので、さすがにそれはないかなと答えると、即刻王城に乗り込み、婚約時に結んだ契約書にのっとって即日私とロバート殿下の婚約は破棄された。


 で、予想通りロバート殿下は今回の一件の責任を取らされ、王位継承権は剥奪されてしまった。そして学園も辞めさせられ、一代限りの伯爵位を与えられて国の端にある領地へと、メルヘンさんと一緒に速攻で強制連行されてしまったのだ。


 王妃殿下は必死になって止めたそうだけど、今回の件は、学生が大半だったとはいえ衆人環視の元大々的に行われた結果国中に広まっており、そんなお粗末な男がこの国を担うとなると国民からもひんしゅくを買うのが見えていたので、そうせざるを得なかったと陛下が説明したら、渋々頷いたという。

 あとは私の父が、処分をごねる王妃殿下に対し、本気を出せば彼女の実家である侯爵家なんて簡単に捻り潰せると直接脅したのも効いたんだと思う。

 以来王妃殿下はすっかりおとなしくなったらしい。


 そうなると必然的にライアン殿下が繰り上がり、めでたく彼が第一位の王位継承権を持つことになった。  

 まあ、能力的にも人柄的にも適任なので、当然誰からも文句は出ず、むしろ歓迎されている。


 そして私の新しい婚約者探しについてだけど、予想はしていたが再度王家から打診があった。

 曰く、弟であるライアン殿下と婚約を結んでもらえないかと。ちょうどいい具合にライアン殿下には決まった婚約者がいなかったのだ。


 この知らせを受けた時、


「愚王め、己の息子の愚行を止められなかったくせに、よくぬけぬけともう一度、うちの娘を王家に差し出せと言えたものだな。……あの男ごと消すか?」


 と、父は陛下に対して冷たい微笑を浮かべていた。

 けれどこの申し出はうちにとっても悪い話ではないのも事実だ。


 現在私と年の近い、且つ高位の貴族の子息たちはほぼ婚約者がいる状態であり、私の非ではないとはいえ新しく婚約者を探すのは苦戦することは目に見えていた。ましてうちには兄がいるので、私は絶対にどこかに嫁にいかなければいけない。

 そんな中、現在婚約者のまだ定まっていない、しかも振る舞いも何もかも問題のないライアン殿下が相手になってくれるのは、ある意味我が家にとっても渡りに船だ。

 あと、ロバート殿下のやらかしを水に流したうえで王家に入るのだ。あちらへ貸しを作るという意味でも、その提案はとても魅力的だ。


 王家にしてみても、王族になるための教育も私はあらかた済んでいるし、一から教育し直す必要がないのは利点の一つだろう。


「……アリッサ、お前はどうしたい」


 個人の感情はさておいて、シュトレン家的には受けてもいいけれどと思いつつ、両親は私の気持ちを一番に考えてくれているようで、そう聞いてくれた。

 私が嫌だと言えば、二人はきっとこの話を断る気でいるのだろう。


 公爵令嬢の観点で見るなら、やっぱり条件としては申し分ない。

 そして私個人としても、そこまで踏み込んだ話はしたことがないけど、ライアン殿下の人となりもなんとなく分かる。

 それに彼となら、前婚約者とは叶わなかった幸せな生活というのも一緒に送れる気がする。

 

 が、私は自分の異性を見る目に自信がないので、念のため両親に確認をし、前のアレよりはマシどころか比べるのも失礼だとの言葉を受け、それならとその申し出を受けることになった。




○○○○




 それから数日後。

 私は婚約者となったライアン殿下と改めて会うことになった。


 彼とはあの日以来一度も会っていない。

 あの後更に熱が上がったみたいで、三日間は寝込んだらしい。その後体力を回復するのに大事をとって更に三日休養し、更に諸々の引継ぎ等々のためか、この一カ月は一度も学園に来ていないのだ。


 会場となったのは王城の温室で、さっさと飛ばされてしまった例の彼と婚約者時代会う時も、ここでこうしてお茶をしていたなっていうことをふと思い出す。


 王族を待たせるわけにはいかないからと少し早めに来たんだけど、既にライアン殿下は中におり、椅子には座らず直立不動で私を待っていた。

 彼の性格からすれば、まず初めに、改めて兄のしたことに関して謝罪をするつもりなんじゃないだろうか。


 そして開口一番、やっぱり私への謝罪の言葉を口にしながらきっちり九十度に腰を曲げた。


「前回は兄の愚かな行動のみならず、僕の看病までさせてしまい、本当に申し訳ありませんでした」

「あ、あの、本当の本当にライアン殿下は気にしなくていいので、謝らないでください」


 一王子殿下に頭を下げられるとか、あまり気分がいいものではないので慌ててそう言えば、ゆっくりと彼の頭が上がっていく。

 申し訳なさの表情は前回と同じくべったりと貼りついてはいるけれど、顔色は完全に健康な色合いになっていたので、その点についてはほっと安堵する。

 それでも確認のために体調について尋ねたら、全快したので心配はいりませんとの力強い答えが返ってきた。


 その後使用人が運んできた紅茶を前に、私はもう何度目か分からない、「あなたは悪くありません」発言を辛抱強く繰り返していたら、やっとライアン殿下は納得してくれたようだった。


 それにしても、どうしてライアン殿下はここまで私のことを気遣ってくれるのだろう。

 ロバート殿下……じゃなくて、継承権をはく奪されたので今はただのロバート様だったっけ。そんな彼の弟だから、というのが勿論大きな理由なんだろうけど、それ以外にも何かあるんじゃないかと思っていた。


 なのでこの際だからと、ずっと感じていたその疑問をライアン殿下にぶつけてみることにした。


 するとライアン殿下は手にしていたカップを置くと、遠い過去を懐かしむように視線を宙に向けた。


「……昔、僕はあなたに助けてもらったことがあるんです。その恩を、今返したくて。それで、あなたが好意を抱いていたあの兄と、なんとか良好な仲になるようにと色々と兄には注意していたのですが」

「昔って……」


 そういえば、この間熱で最後の方、意識が朦朧としていたっぽかったライアン殿下が、昔がどうとかって言っていたのを思い出す。


「すみません。私には、殿下を助けた覚えが全くないのですが。むしろ私はあなたに助られてばかりです」


 この間のことだってそうだし、それ以前だってそうだ。

 けれどライアン殿下は、首をゆっくりと横に振る。


「分からなくても無理はありません。思い出す必要もありません。ただ、僕はあなたに助けられた。それだけは事実です」

「はぁ」


 そう言ってライアン殿下は、再びカップを持ち上げると紅茶を飲み始める。彼のこの反応から察するに、これ以上聞いても何も教えてはくれないだろう。

 結局よく分からなかったけど、私が自分でも気づかないうちに何かしらのことをライアン殿下にしたらしい。


 考えても分からないのでこれ以上それについて思案することはやめて、別の話をすることにした。


 ロバート様の話題が一切出てこないただのお喋りというものをライアン殿下とこうしてするのは実は初めてだったけど、結構話が弾んだ。

 それこそ、時間を忘れてしまうほどには。


 考えてみればロバート様の時は、基本的には彼の話をひたすら聞くばかりで、それが別に嫌ではなかったけど、ライアン殿下は彼とは全く違っていて、自分のことも話してくれるけど私のことも同じくらい聞いてくれる。


 例えば、私はロバート様の好きな食べ物や嫌いな食べ物、趣味や苦手なことまでよく知っていたけど、逆に彼は私の好きな物なんて知らなかったんじゃないだろうか。

 聞かれたこともないし、言った覚えもない。

 誕生日にもらうプレゼントだって、ごてごてと宝石が取り付けられた、非常に派手な髪飾りやブレスレットなどだったけど、それも、


「俺の隣に立つのならこれくらい派手な物でないと劣るだろう! そして俺のセンスはなんといいことか。自分でもセンスの良さに惚れ惚れしてしまう」


 と、毎回言っていた。

 それでも、もらえたことが嬉しかったから何も言わなかったけど、私の好みはもっとシンプルなものだった。

 

 そんな話を私的には笑い話のつもりでしたんだけど、ライアン殿下は額に青筋を立てながらため息を吐きつつ、


「あの馬鹿兄が……」


 と小さく呟いた後、


「もうすぐあなたの誕生日ですよね。僕はアレとは違います。あなたに喜んでもらえるものを贈りますので、楽しみにしててください」


 そう約束してくれた。


 ロバート様には一度も言われたことのない言葉に、胸の奥が何だか温かくなった。

 だから私も彼の誕生日にはちゃんと好きな物を贈りたいと提案したら、顔を緩めて嬉しそうに笑ってくれた。


 いつも謝罪している時の申し訳なさそうな顔か、ロバート様に対して怒っている時の顔か、私を気遣うような顔かのどれかしか基本的に見たことがなかった私は、実はライアン殿下の屈託のない笑顔を目にするのは初めてだった。


 妙なことに、見たことがなかったはずのその笑顔に既視感を覚えたけど、高すぎる身長や顔の造りから、普段は実年齢よりも年上に見えるライアン殿下が年相応に見えて、私はそれがなんだか可愛いなと思ってしまった。

 そして、ライアン殿下のことはちゃんと好きになれそうだなと、そんな予感がした。


 が、私は自分の見る目のなさは嫌というほど痛感しているので、自宅へ戻ってからもう一度両親に、そしてついでに兄にも確認して、ようやく好きになっても大丈夫だって納得することができた。


 そのあともライアン殿下とは交流を重ね、時々は喧嘩をすることもあったけど、お互いにお互いのことを知っていく過程で、私にとってライアン殿下は何物にも代えがたい唯一無二の存在になっていった。

 それはロバート様に対して感じていた想いよりももっと強くて深いもので、もしもライアン殿下にあの時のロバート様のように婚約破棄を宣言されたら、私はあんなに冷静にいられないし、激しく取り乱して泣き喚くかもしれない。

 そんなことを言ったら、大真面目にライアン殿下に怒られてしまった。


「僕はそんなことはしません! お願いですから、冗談でもそんなことは言わないでください」

「ご、ごめんなさい」

「でもあなたがそう言うってことは、あの人よりも僕のことが好きだってことですよね。それは純粋に、その、嬉しいです。僕もアリッサことが好き……なので」


 その後にはにかんだ笑顔を向けられれば、私のライアン殿下への好感度は更に跳ね上がり、幸せな気持ちで心が満たされていった。


 そうして時が過ぎ、ライアン殿下が学園を卒業してしばらくしてから、私は彼と結婚した。

 

 結婚式の時は感極まってしまい、マントからのごみが原因ではなく正真正銘幸せすぎることが嬉しくて、頬が緩み、瞳が潤んで涙がこぼれるそうになる。

 けれどそれよりも先に、ライアン殿下が泣いていた。


「すみません、男のくせに情けないですよね。もう、泣かないって決めていたのに……。でもやっとあなたが幸せそうに笑う姿を見ることができたんだと思ったら、嬉しくて」

「ライアン殿下……」


 私は嬉しかった。こうして私のことを思って泣いてくれるし、喜んでくれる。


「アリッサ。今度こそ、幸せな人生を歩みましょう。僕と一緒に」


 私は未だに瞳が濡れているライアン殿下から差し出された手を取ると、深く頷く。


 ロバート様とは、いや、それよりも前、前世の私だって決して幸せな人生だったとはいえないけど、今度こそ私はライアン殿下と家族になって幸せな人生を歩んでいきたいと、心からそう思った。


 そして、式を挙げた翌朝。

 カーテンの隙間から漏れ出た朝の光に眩しさを覚えて寝ぼけ眼の状態でゆっくり瞼を開けると、そこは見慣れた自室ではなかった。

 同時に私を後ろから抱き締める腕があることに気付き、ここでようやく私は昨日自分がライアン殿下と結婚して、王城の夫婦の寝室に今いるんだということを思い出した。


 ……それ以外にも色々と記憶が蘇ってしまって、特に昨晩のことは考えるだけで勝手に赤面してしまうほどだ。

 

 と、私がごそごそしたせいなのか、ライアン殿下が悩ましげな声を上げながら身じろぎする。


「ごめんなさい、起こしてしまいましたか?」


 慌てて彼の方に体を向けて謝罪すると、ゆっくりと目が開き、黒灰色の光彩が露になる。

 ライアン殿下は私を視界に入れた後、私を抱き締める腕に力を込めた。


「わっぷ、あの、ちょっと苦しいんですけど……!」


 彼の鍛え上げられた胸板に顔を押し付けられる形になり、肌の温もりをより一層強く感じられて幸せだと思いつつも息が苦しくて抗議の声を上げたら、まだ夢心地なのか、ふわふわした声でライアン殿下が耳元で囁く。


「ごめんなさい。でも、もう少しだけこうしててもいいですか」


 本当に結構息しづらいんだけどなと思ったものの、甘さを纏った彼の声に、愛おしさと幸福感が押し寄せた私はあっけなく完敗し、小さく頷く。

 そのままライアン殿下の体温に身を委ねていたら、せっかく覚醒したはずの頭がぼんやりしてきて、眠りの世界に誘われる。


 差し込む光の具合から察するに、いつも起きている時間はとっくに過ぎていそうで、だらしないと周囲から思われてしまうかもしれない。それでも与えられる温もりはあまりにも甘美なもので、その思考ごとぐずぐずに溶かされていく。

 今にも眠ってしまいそうで、けれど頑張って抗っている私を見て、ライアン殿下は少しだけ腕を緩めて私の顔を覗き込むと、優しく微笑みかけてきた。


「今日くらいは朝寝坊しても誰も何も言いませんよ。だから安心して眠ってください」


 結ばれた愛しい人と、こうして温もりを分け合いながら二度寝をするのはなんて幸せなんだろうと、そんなことを考えながら、勝手に瞼がゆっくりと閉じていく。


 そして完全に眠りの世界へと落ちる直前、


「おやすみなさい、茜さん。いい夢を」


 慈しむような声で耳元に落とされたライアン殿下の言葉にどこか違和感を覚えたけど、既に意識を手放しかけていた私がそれに気付くことはなかった。




●●●●




 登校途中、週に二日ほどのペースで、歩行者用の信号がなかなか青に切り替わらないことで地元でも有名な横断歩道で、ある時から一緒になるようになった女性。


 名前も知らないその人は、拓真よりも一回りほど年上に見えたが、朝からいつも疲れた顔をしていた。

 寝不足なのだろうか、目の下には遠目からでも分かるほどに濃いクマがあって、目の奥はどんよりと沈んでいる。生気というものがまるで感じられず、息をすることすらいっぱいいっぱいな、そんな状態に見えた。


 きっとろくな会社に雇われておらず、これから先もろくな人生を送れないんだろうなと、小学生ながらもそんなことを思いながら、心の中で社畜女と酷いあだ名をつけ、最初の数回こそその女性に意識をほんの少し向けていたが、自分とはどう考えても交わらない人間だ。

 そのうちに同じ場所にいても視界に入れることすらなくなった。


 それが変わったのは、その女性が起こした、ある一つの行動を目にした時からだ。


「あの、重そうですね。良かったら駅まで持っていきますよ。私もちょうどそっちに行く途中なので」


 いつものように信号待ちをしていると、不意にそんな声が聞こえてきた。


 思わず声に釣られて視線を動かしたら、重そうな荷物を抱えた老人に、例の社畜女が話しかけているところだった。

 腰の曲がったその老婆は、社畜女のその申し出にひたすら感謝の言葉を述べていた。


 それを見ながら拓真は、彼女の行動をくだらないと内心鼻で笑う。

 あの社畜女だって見るからに体力がなさそうなのに、あんなことを言って、見ず知らずの人間に善意を振りまいている。他人を構う余裕なんてないくせに、そんなに他者から自分をよく見てもらいたいのかと、彼女がとても愚かで哀れな人に思えた。


 けれど彼女の見せかけの善意は、その日だけに留まらなかった。


「はぁっ、はぁっ、よかった、なんとか追いつきました!」


 突然の風で飛んで行ってしまった見ず知らずの人の帽子を、息が絶え絶えになるほどに追いかけて取りに行ったり。


「飛び出したら危ないよっ!」


 長すぎる信号にぐずった幼い子どもが母親の手を振り切って横断歩道に飛び出そうとした瞬間、その親子よりも少し離れたところにいたはずの社畜女が、その動きを察知して慌てて子供の動きを止めに走ったり。


「あの、血が出てますけど、良かったらこれ使ってください」


 どこかで膝を擦りむいたらしい中学生の女の子に、持っていたペットボトルの水で濡らしたハンカチと絆創膏を手渡したり。


 他にも泣き喚く赤ちゃんに困っているお母さんに優しく声をかけた後、赤ちゃんに変顔をたくさん披露して泣き止ませたりと、そんなことがよくあった。


 それらを目にする度に、どうして彼女は自分ではなく、そこまで他人を気にかけることができるんだろうと不思議に思った。


 だって相変わらず彼女は社畜のままのようだし、この間は誰かに殴られでもしたのか、頬が大きく腫れていた。そんな状況でも彼女は他人に対して変わらず親切を施す。


 少なくとも自分のことを何よりも優先する拓真にとって、無報酬で他者を助ける社畜女はまったく理解のできない人種であり、同時に妙に惹きつけられた。


 そんな時だったのだ。あの事故が起こったのは。

 

 あっという間の出来事だった。

 青信号になったのを確認して足を踏み出し数歩進んだその時、突然トラックが拓真の方にまっすぐ突っ込んできた。

 猛スピードを出しているはずのトラックなのに、その時はなぜか彼の目にはゆっくりに見え、赤ら顔で目を瞑っている運転手の姿もしっかりと確認できた。おそらく飲酒運転だろうと思ったが、体はまるで鉛がまとわりついているかのように動かず、拓真は自分はあれに轢かれて死ぬんだと理解する。


 けれど恐怖を感じる前に、なぜか彼の体は前方へと強く押し出され、体は地面をごろごろと転がる。

 そして、体を起こした拓真は、目の前に広がった光景に一瞬言葉を失った。


 横転するトラック、そして、自分がいたはずの場所に血を大量に流して倒れていたのは、あの社畜女だった。


「きゃぁ────っ!」

「おい! 誰か救急車を呼んでくれ!」

「子どもを庇って女性が轢かれたぞ!!」


 事故の様子を見ていた人たちのつんざめくような悲鳴と、焦った様子で電話をかける人たちを見て、拓真は自分があの女性に庇われたことを知った。


 目の前が真っ白に染まっていく。

 なんで、どうして……。

 そんなことをすれば自分が死ぬかもしれないって分かってたはずだ。それなのにどこまであの女はおせっかいなんだと、そんな気持ちが体中を駆け巡り、突き飛ばされた時に背中を地面で強打したものの、そんな痛みなどまったく意にも返さず社畜女の元へ駆け寄る。


「ねえ、しっかりして!」


 彼女に声をかけながらも、この時彼の頭にあったのは、どこまでも自分本位な考えだった。


 ────冗談じゃない。自分を庇ったせいで彼女が死ぬなんて。

 それはつまり、一生良心の呵責を引きずりながら生きていくということだ。そんな惨めな人生は耐えられなかった。


 けれども彼女の目はいつも以上に虚ろで、頭からもそれ以外の部分からも流れ出る血は止まらない。


「お願いだから死なないで!」


 どんどん生気が失われていくのが目に見えて分かった。

 人が死ぬところを見るのは初めてだった拓真は、恐怖を感じた。

 そして彼女の命を間接的に奪うのは拓真なのだ。その事実に自然と涙が零れる。


 それなのに。

 拓真がこんなにも自分のことしか心配していないというのに、彼女はこんな時でもいつもの彼女だった。


「心配、しなくていい。私、は、いったんはこっちでは、いなくなるけど、死ぬ前に君を、助けたから。きっと、神様が、ボーナスくれて、今より、いい人生に、転生させてくれる、はず。だから君が、気に病むことはないよ」


 こんな時に、既に息もできないような状況なのに何を言っているのかと、思わず拓真の口からは言葉が零れる。


「あんたは馬鹿なの!? 神様? 転生? ボーナス? そんなのあるわけないでしょう!」


 けれど拓真の声が聞こえないのか、彼女は尚も続ける。


「少年は、悪くない。これは私が、私の新しい、人生のために、やったことだから。ほら、よくあるでしょう? 最期に、人助けして、異世界転生して、第二の幸せな人生を、送るって話。今回も、きっと、そのパターン。君が悲しむ必要は、ない。だから。泣かないで」


 死の縁に立って尚、彼女は生き残った拓真を心配している。そして彼が良心の呵責に苛まれないようにと、あえてそんな馬鹿げたことを言っているのだと気付いた。

 

 しかも最後には、これまで見てきたものの中でもどれよりも美しく、そして拓真を励ますような力強い笑顔を浮かべ、その顔のまま彼の目の前で彼女は息を引き取った。




●●●●




 その女性が竜崎茜だという名前だと知ったのは、彼女の死後だった。

 そこから拓真は、彼女の人生について知ることになる。


 思っていた通り、拓真とはまるで似ても似つかない環境で生まれ育ち、他人を憎み蔑んでもおかしくない状況で、それでも彼女は最期まで、愚かしいほどにお人好しだった。


 本当は泣き喚きたかった。

 自身のせいで一人の人間の命を散らさせたことに対する後悔、けれどそれだけでなく、純粋に彼女の死を悼んでいた。

 けれど、彼は最期に茜の残した言葉を思い出す。


 彼女は、泣かないでと言った。死ぬのは彼のせいじゃないからと。

 茜が命を犠牲にしてまで助けてくれたのだ。

 それなら受けた心の傷は一生治らなくとも、せめて前を向いて、茜に恥じないように生きていくことが彼女への償いであり、生き残った拓真のできることなんじゃないかと、そう思った。




 その後、茜の年齢よりも長く、けれど人としてはあまりにも短すぎる人生を終えた拓真が死の直後目を覚ますと、そこは白で塗りつぶされた世界だった。

 そして彼の目の前には、世の中の美をこれでもかと集約させたような、美しい一人の女性が立っていた。


 曰く、彼女は女神と呼ばれる存在で、拓真が死の間際に行った善行により、女神が直々に願いを叶えてくれて、記憶も持ったまま異世界に転生させてくれるという。


 死ぬつもりはなかった。

 ただ、突然道で奇声を上げながらナイフを親子連れに振り下ろした通り魔目的の男から、その二人を庇った。武芸の心得もあったのでそのまま倒すつもりが、相手はそれ以上に腕が立ち、返り討ちに遭ってしまったのだ。

 それでも犠牲者を増やすわけにはいかないと血を流しながらも必死に応戦し、警察官が犯人を取り押さえに駆け付けたのを目にした直後、そのまま意識を失った。そこであちらでの命が尽きたようだった。


 昔の自分なら絶対にしなかった行いだ。

 親よりも先に死んでしまったことは親不孝なことをしたと申し訳なく思ったが、総じてあちらでの拓真としての人生に悔いはなかった。


「それで、お前の望みは何だ。何なりと叶えよう」

「僕の望みですか……」


 こうなりたいとかああなりたいとか、そういう自身に対する望みは特になかったが、それ以外だと一つだけあった。


 自分がここに来たのだ。

 なら絶対に茜も死んだあと、この女神の前に姿を現したはず。


 そういえば一度だけ、彼女の墓参りの際に声が聞こえてきた。

 幻聴にしては妙にはっきりした声で、あの時の言葉通りもしも彼女が本当に転生できているのなら、新しい世界で幸せに笑っている姿を一目見たいと思った。


 もしくは、また辛い目に遭っているのなら、今度は自分がそこから茜を救い出して彼女が幸せになる手助けをしたいと。

 前の時に彼女に助けてもらった恩返しができなかったことが、唯一の心残りだったともいえる。


 そう女神に伝えたら、茜の『幸せな家族に恵まれたい』という願いにピッタリの人物を見つけ、つい今しがた転生させたばかりなので、拓真の願いを叶えるべく、すぐに彼女に近しい人物に転生させてやろうとニンマリ顔で言われた。


 拓真が断るはずがなく、彼は日本とは全く別世界にある、ナチカ国の二番目の王子として生を受けた。


 茜の転生した姿はすぐに分かった。

 名前も姿形も違っていても、中身は茜のままだった。彼は、茜改めアリッサが、拓真の中身を持ったライアンの兄であるロバートに恋心を抱いていることに気付き、全力でアリッサが幸せになれるようにとサポートした。


 茜時代から異性の趣味があまり良くないことは、彼女の事情を知るとともに察していたが、だからこそあのロバートを選んだのかと納得もできた。

 兄を悪く言うのもアレだが、正直本当にロバートでいいのかと首を捻ったほどだ。


 それでも今世ではアリッサに幸せになってほしいから、事細かく兄を叱咤し、おかげでロバートもアリッサに対して少しずつ優しさのようなものを見せるようになった。


 同時に、うまくいきつつある二人を見ていると胸がチクリと痛み、そこでライアンはアリッサに抱いているのは純粋な恩返しの感情だけではないと気付く。 

 が、自身の気持ちは押し殺し、アリッサと兄との行く末を見守った。


 しかしあの頭に花が咲いているメルヘン家の娘が出てくると、状況は一変し、そこから紆余曲折を経て今に至る。




「アリッサ、あなたは今幸せですか?」


 結婚して、子どもができて、何年家族として過ごそうとも、ライアンは毎年結婚式を挙げた日には必ずアリッサにそう尋ねる。


 すると彼女もまた、毎年変わらない笑顔でライアンに答えてくれる。


「ええ。私は今も、これからもきっと、あなたが隣にいてくれるなら、シワシワのおばあちゃんになったとしてもずっと幸せですよ。それで……あなたも幸せですか?」

「勿論です。僕がヨボヨボになったとしても、あなたが隣にいてくれるなら、僕もきっと一生幸せです」


 その答えを聞きながら、ライアンは彼女と一緒に生きていける幸せをそっと噛み締める。

 そして自分の命が尽きるまで、彼女のその曇りのない笑顔を隣で見守っていきたいと、そう思った。




「ねえ、それゲームじゃないわよね? 何見てるのよ」


 乙女ゲームを布教してきた仲間が、テレビをニヤニヤと見つめていた女神の元にやってくると、首を傾げながら画面を見つめる。 

 そこには、互いに視線を交わしながら微笑んでいる、銀髪の美しい女性と黒髪の壮年の男性が映し出されていた。


「あぁこれか。この女性の方の願いが成就して本当に良かったと思いながら見てたんだ」

「どんな願いだったのよ」

「『幸せな家族が欲しい』というものだったんだが、なにせ本人の異性の趣味がこう、アレなものだから心配していたんだ。いくら願い通り良い両親の元に生まれることができたとしても、そのあとに新しく家庭を築く段階で、ハズレを自分から引く可能性が高かったからな。しかし、なんとか良い相手を見つけられたようだ。……もっとも、こうなるかもしれないと、あの男がここにやってきた時から予感はしていたがな」

「ふーん。……ねえ、それより、また新しいゲーム持ってきたんだけどどう? あんたの好きなイケメンもたくさんいるわよ」

「おお、これはまさしく作画が神がかっている……! 早速やってみなければ!」

「また感想聞かせてねー」


 こうして女神のゲーム沼は更に深くなっていくのであった。

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― 新着の感想 ―
誰かを庇って死ぬ。 庇われた者は、たまんないな。「誰が死んでまで助けてくれって頼んだ!」って、悔やみはしても喜ぶひとはいないな。っておもってたから(家族は別枠)、なんかすごく納得。 なんか泣いてしまい…
女神様GJ!いい仕事をなされましたね! 前世でヒロインに救われて、彼女の生き様に影響を受けていたからこそヒーローも転生の切符を手に出来たんだなぁ。
2人の人生がクロスしてそして幸せを感じられる日々を共に過ごせるようになって本当に本当に良かった。
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