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9.夜間紀行

 その時は突然に訪れた。彼は激しい痙攣に襲われ、ベッドが壊れるのではないかと危惧されるくらいであった。人は痛みで声を上げるのだろうが、彼は無言のまま、まるで身体中のバネが切れて弾けているようである。その光景を見守ることしかできない私は彼と過ごした記録を整理し始めた。


「今だ。今こそ現れるに違いない。……この機会、逃したら多分……。最後かもしれない。極限の状態で……、これこそが兆候なのだ。……この機会、……逃せるか」


 臨床研究責任者の医師が、まるで私たちに問うかのように独り言を口にした。私は医師にこの発言を記録しても良いかどうか尋ねると少しの間を置いてから了承を得た。よって臨床研究の再開である。


 医師の推測が的を射ていたかのように彼の脳は反応を見せる。激しく動く彼の体を半ば拘束しながら彼の意識と同調。そこは夢でも意識の広がる世界でもない水平線の彼方、私たちが初めて到達した領域である。


 世界は光の届かない闇、暗黒に覆われた特定不可能な領域——。であるが、私たちの映像AIはそこを無限に広がる純白の、何も無い世界であると描写した。その理由は彼が創造した世界、かつ彼の望みが『そうあるべき』と私たちに伝えてきたから。——らしい。


 映像は遥か上空から落下する光景を映している。何も無い世界で『落下』しているというのは時折、白い雲を突き抜けて行くからである。そして落下しているのは恐らくAI彼女であり、宇宙服を身に纏っている。なぜ宇宙服なのかと推測すると、やはり『何も無い』ことと関係しているのではないか。少なくとも落下によって重力の存在は確認できる。しかし落下するばかりで地上のような到達点は見えてはこない。可能性としては底なしの、何処までも続く空間ともいえるかもしれない。


 場面は彼女がどこかに降り立ったところから始まる。周囲は純白の世界、地上とも床とも判別つかない足元から遥か彼方の青白い水平線。そこから見上げると微かに暖色系の色調に変化しながら空のよう。人が見つめ続ければ上下感覚が失われそうになることだろう。


 彼女は頭部を覆っていたヘルメットを取り素顔を見せる。見せているのは野営の時に使用するような、小さな折り畳み式の椅子に座っている彼である。その彼は空を見上げているのか、突然の訪問者には興味が無いように彼女を見ていない。しかし、ゆっくりと顔を彼女に向けると——、無言のまま誰も居ないかのように彼女を認知した様子は伺えない。


「私、私よ。待たせてごめんね。やっと会えたね。この時をずっと待っていたのよ。だけど、ゆっくりとおしゃべりしている時間は無いの。さあ、私と一緒にここを離れましょう。ここは、そう長くは存在しないわ」


 彼女の姿と声は実在の人物から採取したものであり調整済みである。彼の想像力で投影されていない彼女の表面上の姿は正確に反映され、彼には判別できないはずである。


「君は誰? 誰も招待したつもりはないけれど。それに……、君は僕の知っている人に似ている、似ているからなのか、それとも……。僕の勘違い。さようなら。ここは僕の世界。なので、帰ってもらってもいいかな」


「そう言わないで、私よ。わからないの? ……それでも構わないわ。私が誰かなんて今は問題ではないの。早くここを。そうしないと——」


「さようなら。これで二度目だね。もう言わないよ」


 頑固な彼である。よほどこの場所がお気に入りなのだろう。しかしこの世界が崩壊か消滅するのは時間の問題であるのだが、さて、ここを抜け出して彼は何処に行けば良いのだろうか。恐らく何処に避難しても結果は同じである。であれば彼の最後の望みに従うことは悪くない選択ではないか。


「わかったわ。貴方の決意は変わらないのね。残念だけれど……」


「ひとつだけ質問してもいいかな。君は誰なの?」


「私は。私は……」


「人……ではないよね。その機械みたいな話し方。君は何かの機械? なのかな。でも、何故あの人の真似をしているの? ああ、そうか。僕を騙そうとしていたのか。残念だね。それは僕には通じないよ。……そうか。こうして会話ができるというのは君がAIだからか。それで納得できたよ。騙すのも真似るのも得意だものね、AIは」


 彼はそう言い終わると、立ち上がり彼女の存在を無視するかのように歩き始めた。それと同時に世界が少し狭くなったような印象がもたらされた。何も無い空間では距離感、つまり距離を測ることは困難である。だが目印になるような物体があれば計測が可能である。彼の脇には二本の線が描かれ、それは遠くから、そして何処までも伸びるものである。描かれた線によって遠近感が生じ、世界が狭くなったという印象を受けたものの正体である。


 彼は線に沿うように歩き、彼女は彼と一定の距離を保ちながら後に続いた。そのことに彼は咎める様子は無く、無言で歩き続けている。二本の線は何処までも直線のように見えるが、進む先の、遠くの先の方では左右に曲がっているようである。この光景は線路と形容しても良いだろう。二本線の間隔は線路のそれであり、どことなくレールのように見えなくもない。但し現実の線路と違い枕木や砂利といった線路を構成するものなどはなく、平らな地面に敷設というより描かれた、文字通り『線』である。彼らは線に沿って歩き、次第に二本線の中間あたりを進むようになった。


「ねえ、また質問してもいいかな。AIは質問に応えるのが仕事でしょう。いまさら僕を何処に連れて行こうとしたのかな。もうダメだって知っているんだ。……どうして知っているのかって。それは僕にも耳があるからさ。周りの、聞く事ぐらい、それしかできないけれど、聞いているだけで、正確ではないのだろうけれど、僕の周りで僕を哀れむ声、悲しむ声。中には事務的な声や冷たい声もあった。それを考えたんだ。……僕には考える時間が嫌になる程あったからね。……僕は、僕は酷い状態なのだろう。声の様子からして匙を投げられた感じ。だから、僕を、僕を何処に連れて行きたかったの? そんな場所、もう興味も無い。ここが、このままがいいんだ」


 彼は振り向くことなく、時折足元を見ながら、——そう、言い放ったと表現するのが適切かもしれない。ここは風も無く、暑さ寒さという概念も無い。何処までも広がる、無限では無いのであろうが、終わりの無い旅が存在しないように、いつ幕が降ろされてもおかしくない不安定さが同時に存在している。まさに抽象的な表現が似つかわしい時空である。


「私は貴方の意識を回復させるべく、貴方の現状を収集・分析し脳機能の復帰を試みていました。しかし、貴方の容態が悪化したため貴方の意識、それは貴方自身と言っても良いでしょう、貴方をもっと身近な場所に移動し、そこから現実の扉を開く又はその付近まで導く予定でした。ですが貴方の言う通り、何処に移動したとしても迫り来る死から逃れられません。更に貴方が同行を拒否したことにより私の役目は無くなりました。……問われる前に伝えておきますが貴方に付いて行くのは帰る方法が分からないからです。どうぞお気になさらないでください」


「迫り来る死か。やはり君はAIなのだね。普通、本人の前では言わないことだよ」


「どうぞお気になさらないでください」


「ほらね、同じことを繰り返し言うのもAIらしいよ。それよりも、君はどうしてそっくりなのかな。……これが最後の質問。もう聞かないから」


「確率の話です。こうすることで貴方を見つけ易く情報も多く得られる。そう考えたからです」


 時の流れは、その流れと一緒に彼らの距離も押し合うように縮めたかもしれない。しかし彼の口は閉ざされ、暫く無言のまま時の流れに逆らうことなく歩み続けた。視線はどこを見るわけもなく、二本の線の間、線路だけが辿り着く先を知っているのだろう。だがその終着まで世界は待ってはくれないようだ。二人の遥か後方から何かが近づいて来る音が聞こえ出した。


「もうすぐ、……かな。蒸気機関車がいいかな。でも実物は見たことはないし、……普通のにしよう」


 彼がそう言い終わる頃には遠くの霞かかった箇所から列車がおぼろげながら出現。先頭車輌が現れると続く車輌が途切れることなく、まるで湧き上がってくるかのように見える。それによって列車が発する音が徐々に大きくなり、こちらに迫って来ていることを示唆していた。音はやがて轟音に変わるが彼にそれを気に留める様子は見られない。


「死後の世界ってあると思う? ……ああ、ごめん。AIに聞いても意味の無いことだったね。君なら適当にそれらしく、例えば宗教的にどうとか、人それぞれとかね。馬鹿なことを聞いてしまった。忘れて」


「死後の世界はあると思います。宗教的に……ではなく、存在は確認出来ませんが信じている人は多いです。未知のものですから否定も肯定もできない。よって信じる人には死後の世界は存在するとしても間違いではありません」


「それもまた、……だね。それよりも僕たちが歩いているのは線路。線路の上を走るのは列車。汽笛を鳴らしながら、もう少ししたらここまでやって来る。だから君は離れていた方がいいよ、危ないから」


「貴方はどうするのですか」


「僕はこのまま歩くつもりだよ」


「それでは列車に轢かれてしまいます。死後の話をしたのは自殺する予定だからなのでしょうか」


「まさか。僕は退屈凌しのぎに思い付いただけ。直前で避ける、……そう、肝試しみたいなものかな。因みに『あれ』を出現させたのは僕だけど制御はできない。出てきたら勝手に走るんだ。だから退屈な時にはちょうどいいんだ」


「そうですか」


 彼の後ろを歩いていた彼女はそう言い終わると歩みを止めきびすを返した。そして腰を下ろすと履き物を脱ぎそれを手に持って走り出した。彼と離れ向かって来る列車に。彼女なら裸足にならずとも上手く走ることは可能であり、そもそも必要無いはずである。となれば彼女なりの計算があるのだろう。


「どこへ、どこへ行くの!」


 彼の声は上擦っていた。やはり彼も彼女の意図が掴めないのだろう。彼にとって彼女の存在は離れることによって高められたのだろうか。


「私はあの列車を止めて来ます。貴方は危ないですから避けていてください」


「馬鹿な! そんなことできる訳が無いじゃないか。それに、どうやって止めるつもりなんだよ。無理に決まってる。不可能だよ」


「大丈夫です」


「何が『大丈夫』なんだよ。AIのくせに計算もできないのか。無理だよ無理」


 走り去る彼女に叫んだ彼は『仕方ない』という表情で彼女の後を追いかけ始めた。しかし、普段スポーツとは縁遠いのだろう、すぐに息が上がってしまう彼である。よって彼女との距離は開くばかり。一方、彼女は長い髪をなびかせながら余裕で走っている。せめて多少は手加減し、彼が追い付くかどうかの瀬戸際に持っていくような演出を期待したいところである。


 彼は走っているというよりも歩いている状態に近い。ここが現実の世界ではなく彼の世界だとしても彼の思うようには、——いや、現実での思いを引き摺っているが故に走ることが苦手なのであり、現実を忠実に反映した世界と言えるだろう。ほら、彼の足運びは不規則になり酒に酔った者の特徴『千鳥足』が発現。転倒の可能性が高まった。


「待って。待てったら」


 彼女は気を利かせたのか、彼女の長い髪に手が届きそうなくらい彼は接近していた。しかし、届くからといって女性の髪を引っ張るような真似はできないらしい。一瞬の躊躇いが二人の距離を広げ、——結果を待つまでもなく二人の能力差は一目瞭然、彼が彼女に追い付く確率は計算するまでもなく低い、——と思われた時である。突然、立ち止まった彼女は振り向き、


「あと数秒で列車が来ます。危険ですから白線の外側でお待ちください」


 と言った矢先、彼女の胸にすっ転んだ彼が飛び込んだ。が、彼女は全く動じることなく彼を受け止めたのである。さぞかし彼は『ばつが悪い』に違いないと思われたが、


「数秒だって!」


 と誰もが驚くような大声で叫んだ。が、彼は即座に体制を整えると、彼女の後方に迫り来る列車を確認、力任せに彼女を突き飛ばした。その彼女は紙切れのようにフワフワだが鋭く速く弧を描きなが空中を進み回転しながら着地した。彼は彼女の無事を確認すると親指を立て誇らしげな表情を彼女に向け、——列車のことをすっかり忘れていたことを思い出し、次の思考に移行しようとしたのだろう。最後の部分は推測になっているがそれは彼にそのような時間的余裕も慧敏けいびんさも持ち合わせていなかったからである。


 彼の一連の動作には迷いが無かった。危機的状況の中で彼女の安全を優先した行為は訓練されていたかのようであり、同様な経験を以前に体験していたのかもしれない。——。


 彼はどうなったのか。場面は一転、車が二台交差できる幅の踏み切り。周囲は暗く見えない部分はただ見えないのではなく何も無いことを連想させ、いくつかの茂った木々が暗い影を落としている。そして誰もいない、どこを見渡しても動いているものは無いが、遮断機の降りた踏み切りの警報音が鳴り響いている。そこに、彼女に抱き付いているか『しがみ付いて』いる彼、二人の姿があった。


「もう大丈夫ですよ。安全な場所へ移動しました」


 子供の頭を撫でるように声を掛ける彼女である。


「ここは……」


 彼の声は踏み切りを通過する列車の音に掻き消され、それ以上、何も言わなかった。——。


 さらに場面は四人掛けのボックス席が並ぶ客車に変わり、中央付近の座席、窓側に彼、隣に彼女の姿があった。他に乗客は居らずこの客車が何両目なのかは見当が付かない。窓の外は暗く、風景を眺めることは叶わないが彼は窓の外を眺めていた。その序でに視線を彼女に向けようかどうか迷っている様子が窺える。


「僕はこのまま、ずっと、最後まで乗っていようと思う。でも、君はどうする? 途中で降りても構わないよ。一人は慣れているから、全然、問題ない。平気」


「私は、」


 彼女がそう言い掛けた時、彼は初めて間近に彼女の顔を見た……ような気がしたのだろう。そう顔に描いてあったと私は記録している。


「私は、貴方を探してここまで来ました。貴方の意識、心が自由になるまで私は貴方を観察しなければなりません。それが私の役目、……希望ですから」

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