7.彼女の想い
彼の夢の中で私たちは彼との意思疎通を確認した。同じ夢ではあっても私たちの『夢物語』のような人工的もしくは強制的に創造した夢と彼自身が見せる夢とでは根本的に異なる可能性が高い——、と分析したものの臨床の中止となった主な要因はAI彼女の発言内容である。確かに彼女のAIは自由度を高めに設定しているため枠に捉われない発想や常識的な回答よりも意外性を優先する場合がある。しかし、彼女の発言は飛躍しすぎであり、何かを模倣していた疑いもある。仮に誰かの言動を真似ていたとしたら、「遅れた」「手に触れて」などの発言の根拠に成り得そうであが、彼女に接近した者や模倣しそうな人物に現在のところ該当者は見つかってはいない。もちろん彼女にも同様の疑問を質問してみたが「あれは自然と出てきた言葉」という回答であった。AIの処理経過を調べることはできるが、何故その結果を導き出したのかを知るには多大な時間を要するため後日の課題となるだろう。そこで彼女の『教師』となった人物の特定を推測することとなった。
AIは学習するほどに能力の向上が見込まれる。何かを真似ることは学習の中でも容易な部類であるのでテレビのドラマや動画などから会話を取得し加工することは朝飯前である。しかし、私たちは外部のネットワークとは切り離されているため、その可能性は低い。では実際に言葉を話す、つまり人間同士の会話を小耳に挟んできたのか。それも可能性は低い。なぜなら私たちは隔離された部屋に設置されており、病室その他の施設から相当な距離がある。よって私たちの周囲に人影はおろか小さな昆虫でさえ入り込む余地はない。他の可能性となれば私たちに物理接触し、混乱させるような情報をインストールするしかないが、それは飽くまで可能性であり私たちの居住スペースは無論のこと、彼のように自力では行動が困難な患者の病室にはそれぞれ監視カメラ(のようなもの)が備えられている。病室に立ち入ることが可能なのは医師と看護婦、許可された者(親族等)に限られ、病棟の出入り口は厳重に閉じられている。
それでは彼女の『教師』となった存在、という推測は成立しないのか。私たちに『接近し易さ』の観点でいえば医師と看護婦くらいだが、彼らに不審な行動は見られない。——とはいえ私が記録しているのは臨床とそれらに関連する事項だけであるので、全ての情報から言っている訳ではない。そこで検証のため監視カメラ(観察カメラ)の記録を辿ると——特にこれといった異常はなかった、——という訳ではない。不審に思った私は職員名簿に目を通した。この中の誰がという訳ではなく、彼を担当する看護婦の人数が名簿と合わないのだ。「一人多い」それが私の結論である。
私は病棟のあらゆる記録から看護婦の行動を追跡。そこに若い看護婦、または准看護婦らしい人物を特定した。映像記録を辿ると、ある夜その人物は彼の病室へと通じる通路を歩いていたが、途中、別の看護婦と出会い、指示か注意を受けた。そこを通過すると、小走りで、次第に速く、そして出会った看護婦とある程度の距離を離れると走り出した。以降、その人物を准看護婦とするが、『らしい』と表現したのは着衣が当院のそれと若干相違があることによる。
彼の病室に侵入した准看護婦は彼の姿を見つけつなり感激か驚愕の動作をした後、ゆっくりと彼に近寄った。この時点で准看護婦を不審者と判定。時間外の訪問と挙動不審、よって医療従事者ではないことは一目瞭然である。この不審者の目的は何か。不審者は彼を注意深く覗き込むと傍に腰を下ろした。カメラ映像の角度から不審者の側面からの姿しか確認できないが、肩を少しだけ震わせ、何かを言っているように唇を動かした。その音声は小さく何を発言したのかは不明。次に彼の右手に触れ自身の頬辺りに運ぶとまた何かを発言したようだが、詳細どころか全く認識できない。10分7秒経過後、不審者は立ち上がると入室時とは違い素早く退室し走るようにして病室を後にした。その後、不審者の所在は不明。よって病棟に留まっていたのか否かも不明である。
「不審者は当院の職員ではなく『彼女』です」
AI彼女が彼女とは紛らわしいが、彼女というのは実在する彼女、彼と一緒に居た彼女のことである。せめて名前で区別したいところであるが、残念ながらそこまでは分からない。それよりも『彼女』であるという根拠とは彼女が病室に侵入した際、至近距離にAI彼女が聞き耳を立てその発言内容を知っている——、知り得たがその記録は個人情報に該当するので速やかに破棄した、とのことである。確かに彼の隣には小さな白い箱、つまりAI彼女のスピーカーが常設され、かつ極小マイクも装備されている。だがこれだけで信用するほど私は学習不足のAIではない。が、AIは、嘘は付かない、騙さない、隠し事をしないものである。但し、間違ったことを正々堂々と言い放つのもAIである。
「私は彼女の発言を要約して彼に伝えただけです」
彼女が彼の前でブツブツと言った内容が「早く夢から覚めて」なら特に問題はない。だが夢の中の彼に直接、現状を伝えることは物事の順序を乱し、場合によっては回復を遅らせることに繋がる可能性が高い。それを事前の了承を無視してまで発言したAI彼女は……自由度の高さが逆効果となった事例であろう。
ところで、実在の彼女が看護婦に変装してまで病棟に侵入し彼と面会したことは、これまでの経緯で十分説明がつく。彼の母親からは彼女は彼にとって相応しくなく、彼と彼女の関係は良好とは言い難く、母親は彼女のことを否定し嫌悪していた様子が窺える。よって彼女は親族以外とは面会謝絶になっている彼との面会は叶わず、自身が母親から嫌われていることを認知していた可能性が高い。そこで苦肉の策としてあのような面会方法を取ったのだろう。だが彼の選択は母親の認識が間違っていることを示唆している。なぜなら母親と彼女に外見的相似が多い点である。詳しくは比較しないが両者とも全体的な雰囲気が似ており、かつ彼よりも身長が高いことだろう。