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あれから三時間ほど休まずに走り続け、少し開けた場所に出たところで休憩となった。
寝衣のままだったティルダが着替えをしたいというと、レージュとエディが馬車の後ろから大きな布を一枚取り出し、木の枝を利用して目隠しを張った。
その陰でレージュの手を借り着替えを済ませる。
目隠しに布を張っているとはいえ、布一枚隔てた向こうにブレニンとエディの気配を感じ、ティルダは着替えている間、誰も見ていないとは思うものの、屋外で素肌をさらしていることに心許ない気持ちになった。
そんな気持ちも相俟って、ティルダはレージュが用意してくれた衣服に素早く袖を通した。予定通り山道を行くので、身に着けた服は動きやすさを重視してある。
布はそこそこいいものを使っていて、長袖の襟付き上衣にズボンという格好だ。後ろでひとつに束ねた長い髪がなければ、細身の男性といっても通用するかもしれない。
着替えを済ませたティルダは、張った布をばさりとめくると、ブレニンとエディの前に進み出た。
二人は食事の用意をしていた。
その辺から拾ってきたのか、乾いた大きめの石の上に子供たちから受け取った包みを広げ、その中に入っていた具がたくさん挟んであるサンドを切り分けているところだった。
ナイフを手にしたブレニンが動きを止め、ティルダを見る。
レージュとエディは茶園に行く際、ティルダのこの姿を何度も見ているので、特に気にした風もなく、それぞれティルダの脱いだ寝衣を片付けたり、食事の準備を続けたりしていたが、初めて目にしたブレニンは、束の間ティルダのことを凝視した。
訝しんだティルダが首を傾げると、ブレニンははっと我に返り、挙動不審に目を逸らした。サンドを切り分ける作業へ戻る。
それがあまりに不自然な態度だったから、ティルダはそんなにおかしな格好だったかしら、と自身の姿を確認した。
まあ、確かに、伯爵家の夫人がする格好ではないかもしれない。
ティルダは気にしないよう努めると、ブレニンの横へ座った。
「ブレニン、ちょっといいかしら」
ブレニンはティルダのほうを見ずにナイフを持った手を動かし、声だけ寄越した。
「なんですか?」
「今朝のことなんだけど……」
そういうと、ブレニンが切り分けたサンドを手渡してきた。
ティルダはお礼をいって受け取ると、口はつけずに言葉を継いだ。
「レージュとも話していたのだけど、あんな風に出てくる必要はなかったのではなくて?」
ブレニンはティルダの言葉を聞きながら、切り分けたサンドを口に運んだ。
ひと口かじり、なにか思案する風に咀嚼すると、考えがまとまったのか、飲み込んでから口を開いた。
「伯母上は、フィオリオ伯爵夫人が今回の品評会にも出品することはご存知ですか?」
「え? ええ……」
ブレニンが切り出した話と今朝の話との繫がりが見当たらず、ティルダは面食らった。
ノリス領の南西に位置するフィオリオ領でも茶葉の栽培が行われており、ノリス産の茶葉が評価を落としている間に評価を得て、いまでは王家御用達の認定を受けている。
ティルダたちにまつわる噂が元で、ノリス領にある茶園の経営が悪化した際、見切りを付けて領地を離れた農民が、結構な数フィオリオ領で雇われたことも知っていた。
おそらく、ノウハウを盗もうとしたのだろうけど……。
ティルダは領地に佇む霧深い山を思い浮かべた。
上品ですっきりとした味わいの中に、ほのかに甘みが残るノリス産の茶葉は、完全に自然の恩恵によるものだ。
フォグモントの山に立ち込める濃い霧が茶葉に甘みを与えてくれる。
水ひとつ、土ひとつとっても質が違えば味はがらりと変わってしまう。
例え手法を真似たとしても、うちの領地で採れる茶葉の味は再現できるはずがない。
そう思ったティルダの予想は当たっていた。
九年経った今も、フィオリオ領で採れる茶葉の味はノリス領で育つ茶葉に今一歩及ばない。
それでもフィオリオ領の茶葉がノリス領のものより高い評価を得ているのは、ひとえに例の噂が原因だろう。
ティルダはそっと息を吐いた。
戸惑うティルダをよそにブレニンが続ける。
「伯母上は王都で囁かれる噂がどうなっているのか、ご存知ないのでしょう」
話が変わったように思えたティルダの隣に、レージュが座った。
レージュはティルダの正面に座ったエディと共に、ブレニンの話に耳を傾けながら切り分けられたサンドに手を伸ばす。ブレニンは手に持った食べかけのサンドにもう一度口をつけてから言葉を継いだ。
「リリアが王都に行ってから九年になりますか……。彼女が学院で学んでいるあいだ、誰もリリアが円系魔術を使ったところを見たことがありません」
「…………」
それは母であるティルダにしてもそうだった。
屋敷の庭でディノの髪を燃やした、と騒ぎになって以降、リリアが円系魔術を使っているところを見たことはなかった。
思えば、この九年、離れて過ごしているとはいえ、リリアが円系魔術を使った、という話を耳にしたこともなかった。
「王都では、リリアが円系魔術を使ったというのは、実は嘘だったのではないか、とまことしやかに囁かれているそうですよ」
「え?」
ティルダは目を瞠った。
ブレニンは一度ティルダを見ると、小さくうなずく。
「人の気持ち、というものは不思議なものですね。ひとつが嘘だと思えると、他の噂についても嘘だと感じるようになる。リリアが王都にいたのも幸いしました。最初は見慣れなかったようですが、彼女が九年もあちらにいたお陰で、赤い髪に赤い瞳というのは珍しいには珍しいが、そうおかしくもない、と感じるようになったみたいです」
ブレニンは残りのサンドを平らげると、ティルダに向き直った。
「だいたい、リリアは色を除けばお二人によく似ているのだし、魔術も使えないとあっては、伯母上が不貞を働いたという噂自体、眉唾物だったのではないかという声もあるくらいで……。実際、伯母上たちの噂が下火になってきているのを薄々感じておられるのではないですか?」
「……それは……」
いわれてみて、ティルダは初めて気がついた。
そうでなければ今頃は、とっくに領地の運営は破綻していたはずである。
リリアが従兄であるディノの髪を燃やした、と噂が広まった時期が一番辛かった。
風評被害からノリス産の茶葉の評判は地に落ち、その翌年に開催された品評会ではついに審査から洩れ、とうとう王室御用達の認定からも外された。それに呼応するかのように茶葉の売り上げがどんと落ち込み、領地で雇っていた農民たちもごっそり離れていった。
それでも領地に留まってくれた農民たちと協力してなんとか持ちこたえ、この数年で、また売り上げは伸びてきている。
足の離れていた貴族たちがまた買い求めてくれるようになったのが大きかった。
「……私たちについての噂が鳴りを潜めることはないと思っていたのだけど……」
ブレニンの話と照らし合わせてみても、どうやらそれはティルダの思い違いだったようだ。
ティルダが目を伏せると、隣に座ったレージュが手を重ねてきた。
その暖かさにティルダの涙腺が緩みそうになる。
それで、といったブレニンの言葉に、ティルダは慌てて意識を戻した。
「どうも今回の品評会で評価を落としそうだと危惧したフィオリオ伯爵夫妻と、俺の父が結託したみたいで」
ノリス産の茶葉の売り上げは確実に伸びてきている。噂も下火になってきているのなら、ノリス産の茶葉がまともな評価を受けない理由は他になかった。
理屈はなんとなくわかるものの、ティルダは信じられず、ブレニンを見た。
「まさか……」
「利害は完全に一致していますから。伯母上がどのルートを辿るにしても、父なら知っているでしょうし……妨害はあってしかるべき、と思っておいたほうがいいでしょう」
「……ブレニンは、今朝訪ねてきた者たちが怪しいと思うのね?」
「マール商会はフィオリオ領を拠点にしています。フィオリオ領で便宜を図ってもらうのに、あそこの領主たちと懇意にしているという噂もありますし、第一タイミングがよすぎる。もし、あそこで騒ぎ立てられていれば、いらぬ足止めを食ったのは間違いありません」
ティルダは嘆息した。
確かに、もし今朝訪ねてきた者たちに、ティルダたちが積んできた荷を“盗まれた荷だ”とでもいわれていたら、近くにあるフリジアン騎士団の支部まで出向かなくてはならないところだった。疑いが晴れるまでどのくらい時間がかかるかわからないが、もしそんなことになれば、箱の中身を検めるのに、きちんと封をした荷はすべて開けられていただろう。
どのくらいの間、茶葉が空気にさらされるかわからないが、詰め直したところで、間違いなく風味や香りは飛んでしまっている。
解放された後、もう一度屋敷へ戻って新しい茶葉を用意する時間があるかもわからない。
ティルダはブレニンから受け取ったサンドを口にせず、手に持ったままだったことに気がついた。思い出したようにかじりながら、再び隣に座るブレニンを見る。
確かにブレニンがいうように、伯爵家当主の座に自分の息子を据えようとしているビジリア子爵と、品評会の審査で邪魔になりそうなノリス産の茶葉を排除したいフィオリオ伯爵夫妻の思惑は重なっているように思える。
しかし、過去三度、ノリス産の茶葉が審査を通らず、王室御用達の認定から洩れているのも事実だった。
今回だって評価を得られるかはわからない。
それなのに、今回に限ってフィオリオ伯爵夫妻がわざわざ妨害などしてくるだろうか。
それに……と、ティルダは思った。
身内を疑うようなことはしたくはないが、ブレニンとてビジリア子爵の息子だ。
ティルダたちの味方であると、完全には言い切れない。
(……ああして逃げてきて、本当によかったのかしら)
もし、今朝訪ねてきた者たちがブレニンのいっていることとは関係なく、単に盗人を捜しに来ただけなのだとすれば、ティルダたちがこうして逃げるようにヘイズの家を出てきてしまったのは間違いであったようにも思える。
(あれでは、私たちにやましいことがある、と言っているようなものよね)
こんなとき、ヴァレリーがいてくれたら、とティルダは思った。
ヴァレリーは伯爵家を継ぐまでは王都で騎士団に所属していたし、こういったことにはティルダよりも鼻が利く。万が一、荒事に巻き込まれたとしても、切り抜けられるのではないかと思えた。
「……奥様」
隣に座ったレージュの声にはっとする。
知らず、息を詰めていたようで、ティルダはひとつ息を吐くと、肩の力を抜いた。
今、この場にヴァレリーはおらず、何を信じて行動するかはティルダの判断に委ねられている。自分が過てば、一緒についてきてくれているレージュやエディも危険にさらすことになるかもしれない。
「大丈夫よ」
そういったティルダの声は、少し震えていた。