6
あれはリリアが五つになった年のことだ。
夏も終わりかけだというのに、ひどく蒸し暑い日だった。
あの当時、ティルダは気の病から体調を崩すことが多くなっていた。
平素、領地で暮らす分には問題なく過ごしていたが、シーズンが始まり、王都で開かれる夜会や舞踏会に呼ばれたりすると、途端に身体を壊した。
会場が近づくにつれ胸に鋭い痛みが走り、お腹が重苦しくなる。
足がすくんで膝が震え、立つことも難しく、馬車から降りることすら出来ないこともあった。
社交場でひそひそと囁き交わされる噂は根強く、リリアが生まれてから五年も経つというのに、ありもしないティルダの不貞を疑う声は静まる気配をみせなかった。気にしないようにしていても、出席すればどうしても耳に触れてしまう。パーティーに出席し、挨拶に行くたびに向けられるつめたい視線がティルダの身を苛んだ。
ティルダ自身、情けなく思うものの、いくら自分を叱咤しても身体は思うように動いてくれない。
そんなものだから、ティルダは夜会に招待されてもできるだけ断るようにしていた。
出席するのはどうしても断れないもののみで、それも夫のヴァレリーと出席するものに限られた。
その年のシーズンも終わり、領地に戻って休んでいたところへ、王都の社交場から足の遠退いたティルダを心配し、ティルダの姉夫婦が二人の息子のディノを連れ、訪ねてきてくれていた。
「ティルダ、大丈夫なの?」
「ええ、平気よ。お姉さまにはきっと、私のことでご迷惑をおかけしてしまっているわね」
屋敷の広間にあるソファで、ティルダの隣に座った姉のヒルドが、そんなことないわ、と労わるようにティルダの手を取った。
ティルダは正面に座った姉の夫であるイクセルにも頭を下げた。
自分たちの噂が原因で、なにか不便をかけていないか尋ねると、あなたが気にするようなことは何もない、といってくれた。
「ヴァレリーも、もう少ししたら顔を出すと思うわ」
「あなたの顔を見に寄っただけだから、そんなに気にしなくていいのよ」
「でも……」
ヒルドの言葉に顔を曇らせると、ティルダはイクセルの顔を見た。イクセルも安心させるようにうなずく。
ティルダはいくらかほっとした面持ちになると、ふたりに尋ねた。
「ディナーは食べていかれるのでしょう? お部屋も用意してあるの。お二人のご都合がよろしければ、ぜひ泊っていらして――」
ティルダがいいきるか、いいきらないかのうちに、姉夫婦と共に来た侍女が駆け込んできた。
「――奥様!」
その切迫した様子に、ティルダの隣に座ったヒルドが腰を上げる。どうしたのかとその場にいた全員が揃って侍女を見れば、侍女の手に引かれて扉の陰からヒルドの息子が姿を見せた。
「母上!」
目に涙を溜めたディノが、立ち上がったヒルドに駆け寄り縋りつく。ヒルドのスカートに顔を埋めたディノからは、なにかが焦げたときのような臭いがした。
驚いたヒルドは腰を屈め、落ち着かせようとディノの背中を撫でた。見れば、髪が少し焦げている。なにがあったのか訊くと、ディノは取り乱したように顔を上げた。
「まじょが――!」
「魔女?」
ディノが指差した先を見て、ティルダは息を呑んだ。
そこには子供部屋にいるはずのリリアがレージュに抱き上げられ、放心したようにこちらを見ていた。
「今でも、リリアがディノの髪を燃やしたなんて信じられないわ」
ティルダの口から洩れた吐息が暗闇の中でも白く宙を漂う。
「私もです」
騒ぎを聞きつけ、レージュが庭にいたディノとリリアの元へ駆けつけたときには、すでに何人かが二人のそばにいた。
庭にいるリリアの姿を見たとき、レージュは驚いた。
ティルダの姉夫婦が訪ねてきているあいだ、子供部屋から出ないよう見ておくように、レージュではない別の侍女が言い含められていたはずである。
レージュは庭にいたその侍女を見つけると、近くへ寄って事情を聴いた。侍女の話では、飲み物を用意しようと部屋を出ているあいだに、リリアが外に出たらしいということだった。
侍女が目を離した隙に、庭を歩くディノの姿を見かけ、リリアが外に出てしまったのだろうか。
レージュは庭でなにがあったのか更に尋ねた。しかし、侍女は困ったように首を傾げるばかりで、詳しくはわからないという。
リリアがヒルドの息子であるディノの髪を焼いたことは間違いないようだったが、その場を目撃した人は誰もいなかった。
レージュはヒルドの連れてきた侍女がディノの手を引いて広間に行くのを目にし、自分の手を見つめたまま呆然として動かないリリアを抱えて後を追った。
広間についたあと、取り乱したディノをヒルドがなんとか落ち着かせ、皆の前で聞き出した内容をティルダとレージュは思い返した。
ディノが紡いだ単語を繋ぎ合わせると、リリアが円系魔術を使ってディノの髪を燃やしたとのことだった。
それを聞いたティルダは耳を疑った。その場にいたティルダの姉夫婦も顔を強張らせていた。
円系魔術はここサン・ヴァルファレナから見れば西方、絶海に浮かぶ浮遊島群マグスタリアに伝わる魔術で、ティルダとヴァレリーのあいだに生まれた子であるならば、発現することはないはずだった。
ティルダはレージュに抱き上げられたリリアに目を向けた。
「リリア、本当なの?」
リリアがディノの髪を燃やしたことも信じられなかったし、もし燃やしたのだとしても、それが円系魔術によるものではなく、魔楽によるものだと言って欲しかった。
ティルダと目が合ったリリアはびくりとし、レージュに縋りついた。ティルダだけでなく、広間にいた者たち全員の目がリリアに向かった。
説明を求めたティルダだったが、リリアはごめんなさいとだけ口にして、それからは固く口を閉ざした。
あのあと、姉夫婦は屋敷には泊まらず、ディノを連れて領地へ帰っていった。
見送る際、イクセルが見せた険しい表情が忘れられない。思えば、温厚で知られる姉の夫イクセルのあのような顔を見たのは、あれが初めてだった。
姉夫婦が領地へ戻ったあと――
リリアについての噂は間を置かず、一気に広まった。
「――あれからすぐだったわね。リリアが王都へ行くといい出したのは」
「……はい」
レージュは幼き日のリリアのことを思い浮かべた。
ティルダともヴァレリーとも違う、小さなリリアの赤い瞳がこちらを見据えていた。
「……さすがにもういいでしょう。奥様にはいわないようリリアお嬢様に申し付かっていたのですが……お嬢様はあの一件のあと、屋敷の者に訊いて回っていたのです」
「え?」
レージュの突然の告白に、ティルダはわずかに目を瞠った。ティルダが持っていた香袋から顔を上げたレージュと目が合う。
「当時、奥様と旦那様はリリアお嬢様のお耳に、お二人とお嬢様の噂が入らないよう苦心なさっておられましたね」
レージュは悪い噂がリリアの耳に入らないよう、また、リリアのことを気味悪がったりしないようにと、ティルダとヴァレリーが屋敷で働く者たちを厳選し、よくよく言い含めていたのを思い出した。
リリアはあの事件が起きるまで、屋敷から外に出されたことがなかった。
ティルダとヴァレリーが王都にあるタウンハウスへ行く度に、リリアの面倒を見る乳母や侍女たちに、屋敷に残されるのは寂しいとよく零していたのを覚えている。
ティルダとヴァレリーの努力の甲斐あってか、それまで、リリアは外に出してもらえないのは自分が小さいからだと純粋に信じて疑わなかった。しかし、あの一件以来、リリアの中で疑問が芽生えたらしい。
皆口が堅かった。
しかし、本当のことを教えて、と懇願して回るリリアに、とうとう執事のデュプティが折れた。
「わたくしどもの口からは何もいうことは出来ません。どうしてもお知りになりたいのでしたら、旦那様か奥様にお尋ねになるのがよろしいかと――」
そこでリリアが選んだのは、ティルダではなくヴァレリーだった。
「奥様は自身が受けた痛みをお嬢様に味わわせたくはないと、頑なに、リリアお嬢様をお屋敷の外へ出すのを拒んでおられました。しかし、旦那様は違います。あの頃にはすでに、いつまでも閉じ込めてはおけないと考えておられるようでした」
リリアは小さいながらに、ティルダとヴァレリーの考えの違いを察していたようだった。
「リリアお嬢様は旦那様の書斎を訪ね、あのとき何があったのか全てお伝えし、また、旦那様もリリアお嬢様に世間で自分たちがどのようにいわれているかを包み隠さず話されたようです。リリアお嬢様は旦那様のお話を聞き、たいへんショックを受けられたようですが、おそらく、それで王都に行くことを決心なされたのだと思います」
レージュが告げると、ティルダが息を吐いた。
「……リリアがヴァレリーに話を聞きに行ったのも無理ないわね」
リリアとていつまでも子供のままではいられない。分かってはいたが、当時の自分であれば本当のことは告げず、ひたすらに隠していただろう。ティルダはそう思うと同時、娘に相談してもらえなかったことに、いくばくか寂しいものを感じた。
すると、隣でくすりとレージュが笑った。そのままおかしそうに肩を震わせる。
ティルダがなあに? と聞くと、レージュが目の端に浮いた雫を指で拭き取った。
「いえ……リリアお嬢様は奥様がそうおっしゃるだろうと思って、私どもに“いわないで”と頼まれていたようですよ」
「何から何までお見通しだったというわけね」
「それだけ、奥様のことを見ていらしたんでしょう」
目を丸くするティルダの背にレージュが触れ、さと促した。
あまり遅くなると明日に障る。ティルダを家の中へと促すレージュの耳に、リリアが王都に立つ日、馬車に乗り込む前にいった言葉が甦った。
――お父さまとお母さまは、いままでずっと私が傷つくことのないように、守ってくださっていたのね。