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ちょうどその頃――
サン・ヴァルファレナの王都、その王城の敷地内にある居館の広間はばたばたしていた。
サン・ヴァルファレナ女王であるソフィアの指揮の元、女官や侍女たちが忙しく立ち働く。
ばたばたしている割に、どこか優雅に見えるのは、その場にいる人たちの所作のせいかもしれなかった。
その中に、サン・ヴァルファレナ女王の娘であるウルリカの姿も見える。
腰まである長いストレートの金の髪はよく手入れされており、耳の上には薔薇を飾っていた。いつもより動きやすいドレスに身を包んでいるのは、数日後にマルヴィルト宮殿で行われる品評会の準備に追われているからだ。
昨年まで一応手伝いはしていたものの、ほとんど蚊帳の外であったウルリカも、今年十五を迎え、本格的に携わらせてもらえるようになった。
「審査員たちが泊まる部屋の手配は万全かしら?」
そばに立ったソフィアに訊かれ、ウルリカは手元の資料に目を落とした。
「はい、お母さま。皆様が滞在中のメニューも決まり、食材の手配も済んでおります」
「そう。おそらく皆さま、馬車でいらっしゃるでしょうから馬房の準備も万全か確認しておいて」
「わかったわ。あ、ねえ!」
ウルリカは、そばにいた女官を引き留め指示を出した。ソフィアは荷物を纏める侍女たちの様子を眺めながら、ウルリカに尋ねた。
「明日には私たちもマルヴィルト宮殿に向かうことになるわ。ウルリカ、ちゃんと支度はできているのよね?」
「……お母さま、もしかして私の気のせいかしら。そのお言葉、もう十回以上聞いたように思うのですけど……」
ウルリカは肩にかかった金の髪を手で払うと、うんざりしたように答えた。
「いわれたくないなら、着いた先で“あれ忘れた!”とかいうのをやめてちょうだい。あなたがそういう度に、こちらは肝を冷やすのよ」
普段、ゆったりとした口調を崩さないソフィアが声を高くするのを聞き、ウルリカは素直にうなずいた。変に口答えして更なる小言を戴くのはまっぴらだった。
ウルリカはあらためて、荷物の散乱する室内に目を向けた。
三年毎に開かれる茶葉の品評会は、国王ではなく女王が取り仕切ることになっている。
男性も紅茶を嗜むが、昔から紅茶は女性のもの、という印象が強いからかもしれない。
そのためか、審査員から茶葉の出品者まで、参加するのはほぼ全員が女性だ。
出品者に妻や娘がいない場合、男性が代わりに出るケースもあるが、極めてまれなことだった。
茶葉の品評会は女性のための行事ともいえた。
ソフィアは今回の品評会が近づくにつれ、どこか緊張した空気を漂わせていた。
普段なら、こうしたときにも鷹揚にかまえているはずの母がピリピリしているのにはわけがある。
その原因が、扉のところから顔を出した。
上等な生地に身を包んだその男の顔を見て、ウルリカは内心げっ、と唸った。
ソフィアの傍までやってきた男が恭しい態度で挨拶をする。ソフィアは無視するわけにもいかず、作業を女官たちに任せ、男に向き直った。
「これは宰相閣下、ご用繁多の折にいらしていただけるなんて……恐れ入りますわ」
今の状況だけ見れば、忙しくしているのはむしろソフィアたちのほうだったが、そうとは感じさせない口調でソフィアはいった。
「滅相もございません。なにか男手が必要ではないかと、僭越ながら馳せ参じた次第にございます」
「あなたのご厚意にはいつも感謝しております。お手を煩わせるのも心苦しいのですけど、その際には是非とも、頼りにさせていただきますわ」
「いつなりと。お呼びとあらばすぐに参ります」
ほほほ、ふふふ、と笑い合うソフィアと宰相の横で、ウルリカは軽く戦慄を覚えた。
「……お母さま、わたくし、やはり不安が残りますので、もう一度、身の回り品を確かめて参ります」
ウルリカはそういうと、早々に広間から退散した。
(……まったく、にこにこしながら火花バチバチさせるの、やめてもらいたいものだわ)
見ているだけで鳥肌が立ちそうになる。
寒気を覚えたウルリカが肩をさすりながら廊下を歩いていると、正面から声をかけられた。
「ウルリカ」
顔を上げると三人いる兄のうち、真ん中の兄がこちらにやってくるところだった。
「エリクお兄さま」
近くまで来たエリクにごきげんようと挨拶すると、エリクの視線がウルリカを通り越し、ウルリカが先ほど出てきた広間の入り口を気にするように見つめていた。
「少し手が空いたから、手伝いに寄ったんだけど……まだ準備終わってないんだろう? 広間でなにかあったのか?」
「宰相閣下がいらしてるのよ。空気が悪くなったから、早々に退散してきたの」
ウルリカが身震いするように肩を抱くのを見て、エリクは納得したようにうなずいた。
「ああ、なるほど……じゃあいまは、あちらに顔を出さないほうが無難だな」
そういうと、ウルリカと肩を並べて歩き出す。
ウルリカはちらりと隣を歩くエリクの顔をうかがった。
金髪碧眼のこの兄は、身内のウルリカから見ても整った顔立ちをしている。文官のイメージが強いが、この兄が任されているのは騎士団関係だ。
(男手が必要なら、わざわざ宰相に頼まなくても、他にいくらでもいるのよね)
この時期、ウルリカの父や三人いる兄たちは暇を持て余している。
シーズンが終わってタウンハウスにいる貴族たちはそれぞれ領地に戻っているから、会議なんかも開かれることはないし、なにかあったとしても、せいぜいが王家で管理する領内のことに気を配ることくらいだ。
すぐ上の腹違いの兄は、現在所用で出ていて城にはいないが、それでも手を借りようと思ったら、父と二人の兄がいる。居館で務める近衛師団もいるのだし、その人たちに頼めば済むことだった。
「ノリス伯爵がビジリア子爵と余計な約束をするものだから、お母さまがピリピリして困るわ」
ウルリカがそう零すと、エリクが意外そうな顔をした。
「政には興味なかったんじゃなかったっけ?」
「ええ、そうよ。でもこれは政治のことなんかじゃないわ。ビビアンお母さまのためだもの」
そういうと、ウルリカは両手を胸に当てた。
ウルリカの二人目の母は優しい人だった。
国王である父と結婚する前は王都屈指の歌姫だったこともあり、歌の上手な人だった。ウルリカがまだ小さい頃、この母に歌ってもらいたくて、よくおねだりしていた。ビビアンはそんなウルリカに、仕方ないわね、今回だけよ、といいながら、いろんな歌を聞かせてくれた。ウルリカはこの母が歌う歌の中でも、特に男女の恋を歌った歌が好きだった。
昔のことを思い返していたウルリカの脳裏に、まだ幼かった日のできごとが鮮烈に浮かび上がった。
忘れもしない九年前、この母が亡くなる年に行われた品評会に、病を押してビビアン王妃も出席していた。あの年、執り行われた品評会で、ノリス産の茶葉が初めて審査から洩れた。ビビアンはノリス産の茶葉を高く評価していた。それは実母であるソフィアも変わらない。それなのに――
ウルリカは、周りの人が血の繋がらない母のことを、どういっていたか知っていた。
――出自が悪いから、味覚のほうも確かではないんだろう。
ウルリカは自分でもノリス産の紅茶を飲んでみて、それが根も葉もない言いがかりだということを認識していた。それはこの九年、何度も確かめてきたことだ。
ノリス領で採れる茶葉は品質も味もよく、経営が危ぶまれた中、味を損なうことなくよく持ちこたえたものだと素直に称賛できた。
「私、ビビアンお母さまが味音痴だといわれたの、いまでも許せないわ」
それは今でも言われている。本当にそうならまだ許せるものの、噂に左右されて自身の舌に嘘をついた卑怯者たちのことは心底腹に据えかねた。心のうちで納めておくならまだしも、聞こえよがしに言いふらした人たちのことをウルリカは覚えていたし、許せそうにもない。
「ノリス産の茶葉には、なんとしても審査を通ってもらって、名誉を回復してもらわなくちゃ。そのポテンシャルはあるのだし」
ウルリカがぐっと拳を握るのを見て、エリクは苦笑した。
どうやらこの妹は、ノリス家の噂が発端で宮中で起こっている政争には興味がないらしい。
エリクはここ何年も解決をみない派閥争いにため息を零した。
十五年前に広まり始めた噂は突発的なものだった。
しかし、それを利用して、いまの宰相が自分にも政に口を出させろとうるさくなったのは間違いない。
これまでの宰相は、よく王家につかえてくれていた。
しかし、ちょうど噂の広まる前に家督をついだ今代の宰相は野心家だった。
表向き、王家の負担を減らすためといってはいるが、要は自分たちに実権を握らせろ、といってきているのと変わらない。
それに追従したいくつかの貴族家が改革派として、陰でこそこそ会合なんかを開いたりもしているようだった。
「お前を見てるとあっちの派閥がどうだとかこうだとか、どうでもよくなってくるな」
「男の人は政治のアレコレばっかりよね」
エリクは違いない、といってウルリカを見た。そこでふと、ウルリカを見つめる。
なにごとか思いついた風なエリクの顔を見て、ウルリカは首を傾げた。
「ウルリカ、ひとつ頼まれごとをしてくれるかな」
「……そういうときのお兄さまの頼みごとって、碌なものじゃないわよね」
ウルリカが眉をしかめると、エリクが窺うような顔つきになった。
「でも、断らないんだろう?」
「親愛なるエリクお兄さまの頼みですもの。断るなんてこと、できるはずがありませんわ」
ウルリカはそう嘯くと、華やかな笑みを浮かべた。