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「お待ちください! いま、旦那様は不在で……!」
屋敷の広間で、農場主をはじめ茶園で働く人たちと共に、品評会に出す茶葉の最終チェックをしていたら、廊下から執事の声が響いた。
この屋敷の女主人であるティルダ・ノリスは顔を上げた。
歳は三十を少し超えているが、その美貌に陰りはなく、しわひとつない額に力を込めて、わずかに眉をひそめた。
どうやら招かれざる客が来たらしい。
茶葉を持って来てくれた農場主に断りを入れ、廊下に出る。
ほどなくして、醜く肥えた体を揺さぶりながらドスンドスンと歩いてくる男と、その後ろを追う我が家の執事の姿が見えた。
執事がティルダの姿を認め、声を上げる。
「……奥様……!」
「いいわ、デュプティ、さがって」
ティルダは肩にかかった絹糸のような金の髪を手で払うと、両腕を組んで男がそばに来るのを待った。
(あれで本当に、ヴァレリーと血が繋がっているのかしら)
思わず鼻をつまみそうになるのを堪え、歩いてくる男に目を向ける。
ヴァレリーと結婚した頃、なにかの折に見かけた際には、もっと細面だった気がする。この十数年でよくもまあ、ぶくぶくぶくぶく肥えたもんだ。
男は歩いているだけで汗が垂れるらしい。胸ポケットから取り出したハンカチでしきりに汗を拭いている。拭いきれない汗がぽたぽたと廊下に落ちた。
あとで侍女にいって、掃除してもらわねば。ティルダは廊下にできた露だまりから目を逸らし、そばまで来た男にあでやかな笑みを向けた。
「ごきげんよう、ビジリア子爵。私の覚え違いかしら。今日、お会いする約束はしていなかったはずよね?」
ビジリア子爵と呼ばれた男はティルダの前までくると、いったん呼吸を整えてから口を開いた。
「ああ。そうですそうです。とつぜんお伺いしたものですから、さぞ驚きになられたことでしょう。少しのあいだ失礼しますよ。なに、そんなに時間は取らせませんので」
失礼だと思うなら来なければいいのに、ティルダはそう心の中で切り返し、顔には出さずに頬に手を当てた。
「……あいにくと、主人は留守にしておりますの」
言外に出直して来いといったら、ビジリア子爵が目を細めた。
「用があるのは兄上ではなく、貴女にですよ、ノリス伯爵夫人」
「私に?」
「さよう。もうすぐ品評会が開かれますからな。念のため確認にきたまでのことで」
爬虫類が舌なめずりをしたと錯覚させる顔でビジリア子爵がいうのを聞き、ティルダのこめかみがピクリと動いた。
この白豚じじい。
思わず口を衝いて出そうになるのをなんとか堪える。
ビジリア子爵はその口の端を歪めると、ことさらゆっくり言葉を継いだ。
「まったく嘆かわしいことでございますな。歴史あるノリス産の茶葉がこの数年評価を得られず、王室御用達の認定から洩れるなど、まこと、あってはならぬことです」
嘆くどころか今にも笑い出しそうな様子でそういうと、ビジリア子爵が身を乗り出してきた。
ティルダは思わず半歩下がった。
それ以上近づくな、と怒鳴りつけてやりたい気分だった。すでに我慢できる物理的な距離の限界を越えている。
しかし、ビジリア子爵はそんなティルダの態度も意に介さず、言葉を続けた。
「極東のほうでは仏の顔も三度まで、と申すそうですぞ」
「……なにをおっしゃりたいのかしら」
「失礼ながら、すでに過去三度、品評会に出品されるも審査を通らず、落ちておられます。次で四度目……機会を設けただけ感謝していただきたいものですなあ。前から申し上げております通り、今回も認定が受けられないようでしたら……よもやお忘れではないでしょうな?」
「……そのお話なら、これまでに何度もしているはずです」
ティルダは態度を変えず、冷静に答えた。ビジリア子爵が嵩高にうなずく。
「わかっておられるならけっこう。いや、時間を取らせてしまったようですな。品評会、楽しみにしておりますぞ」
そういうと、踵を返し、当て擦りでもするかのように嫌な笑いを響かせながら、やってきた廊下を引き返していく。
どうやら本当に、それだけをいいに来たらしい。
ティルダが廊下を睨みつけていると、いつの間にか後ろに控えていた侍女のレージュが控えめに声をかけてきた。
「……奥様」
ティルダは髪をかきあげた。広間に戻るため、扉の取っ手に手をかける。重厚な扉を引き開けるとともにレージュに指示を出した。
「廊下が汚れてしまったわ。手間でしょうけど、綺麗にしておいてちょうだい」
「かしこまりました」
屋敷はがらんとしていた。
広い食堂で倹約のため、燭台ひとつだけを灯し、味気ない食事を済ませる。
数年前までならいざ知らず、いまはそこまで切り詰める必要もないのだけど、ティルダ一人であることから、身についた習慣に任せてなんとなく今でもそうしている。
食堂を出たあと、ティルダはレージュの介添えで入浴をすませ、入念に肌と髪の手入れをし、一人で寝るには広すぎるベッドに身を沈めた。
ティルダは使う者のいないもうひとつの枕を指でなぞった。
夫であるヴァレリーとは、この一年、顔を合わせていない。
“やることがある”
そう告げたあと、ヴァレリーはこの屋敷から出ていった。
それまでにも度々屋敷を空けていたが、こんなに長く帰ってこないのは初めてのことだった。
ヴァレリーが屋敷から旅立ったあの日、ティルダは夫が身の回りの物をトランクひとつに詰めて自家用馬車に乗り込むのを見送った。
いつもより霧の濃い日で、白い闇へと消えていく馬車の後ろ姿を見送ったのがつい先日のことのように思い出される。
夫がなにをする気でいるのか聞かされてはいなかったが、ティルダにもやるべきことがあった。
いよいよ明日からだわ。
ティルダはベッドのヘッドボードにある小さな棚を開けると、その中の一番上に乗せてある手紙をひとつ取り出した。すでに封は切られており、何度も目を通してある。
(あの子は元気にしているかしら)
ティルダは細い指の先で、手紙に綴られた文字をなぞった。最後に会ったのは九年ほど前だ。ティルダたちとは似ても似つかない赤い瞳に、小さな決意を滲ませていた。
ティルダとヴァレリーの娘であるリリアは、六歳になる年に単身王都へ向かった。
王都に行ったリリアが字を覚えた当初、寄越した手紙は拙かったし、文章もひどく短いものだった。それでも、懸命に書いた姿が思い起こされ、ヴァレリーと共に何度も見返した。
あれから九年が過ぎ、いま見ているこの手紙はずいぶんと筆跡も変わり、上達している。小さな頃の姿しか見ていないが、手紙には自ずと人となりが見え隠れするものだ。この手紙を見る限り、親の欲目もあるにしろ、素敵なレディになっているに違いないと想像する。
ティルダは封筒を裏返し、消印を確かめた。
娘から最後に届いたこの手紙の消印は、ちょうど一年前だ。
手紙には、国家試験を受ける、とだけしたためてあった。
それ以降、娘からの手紙はぱたりと途絶えている。
この手紙が届いたあと、何度か結果を訊こうとペンを執ったこともあった。
しかし、どう聞いたものか悩んでしまった。もし、試験に落ちて気落ちしてしまっていたらと思うと、思うようにペンが進まなかった。そうしてずるずる過ごすうち、今日にまでいたってしまった。
九年という長い歳月がティルダと娘のあいだに横たわり、家族であるのにどことなく遠慮のようなものができてしまっている。
ティルダはベッドに仰向けになり、娘の手紙をかき抱いた。この九年を思い出し、胸中に複雑なものが湧き起こった。同時に眦を刺激され、熱いものが零れそうになる。ティルダは慌てて目を閉じた。
産後初めて王都で出席した夜会でのことがティルダの脳裏に甦った。十七だった当時のことを思い出し、心に受けた傷が鈍く疼いた。
――よくもまあ、恥も外聞もなく、出てこられたものね。
誰がいったかもわからないその言葉を、ティルダははっきりと覚えていた。
ティルダは短く息を吐くと、そっと目を開けた。
あれから長い時間が経つというのに、いまだに立ち直れていないらしい。
サイドテーブルに乗せられたランプの灯りが細く天井を照らしている。ちらちらと揺れる心許ないその明かりを見ていると、余計に気持ちが沈んでしまいそうだった。
ティルダは無理矢理思考を引き剥がした。
感傷に浸るのは過去散々やった。自分がいますべきことは、領民たちと共に育てた茶葉を持って、品評会に臨むことだけだ。
ティルダは手紙を綺麗に畳んで封筒にしまうと、ヘッドボードの棚へ戻した。
その際、棚に閉まってある香袋が手に触れた。
王都に行った娘とのつながりが欲しくて、この九年、折に触れ作ってはリリアに送り、自分の身の回りにも置いた物だ。
赤みの強い金色の髪に赤い瞳のあの子には、リンゴにも似たカモミールの香りが似合うと思った。
ティルダは香袋を手に取ると、鼻先に近づけた。
リンゴのような爽やかな匂いがふわりと香った。