第96話 2つの神話
市を離れたナヴィドとリーンリアはぶらぶらと街中を歩いていた。朝の清々しい空気は去り、むっとするような熱気が辺りを覆う。陽光は容赦なく地面を焼いて体力を搾り取った。
「リーン、ちょっと、待ってくれ。少し、休まないか」
両腕に荷物を抱えたナヴィドは肩で息をしながら切れ切れに言葉を紡いだ。
「だから言っただろう。私にも荷物を持たせてくれ」
「いや、大丈夫だ。大丈夫、なんだが、少し休みたい」
疲れ果てたナヴィドは荷物を地面に投げだし、広場をぐるりと囲む階段にへたり込んだ。
「まったくナヴィドは強情だな」
男の子のつまらない意地を見せられてリーンリアは目を細める。
パスラーガダイ神殿前の円形広場は演劇なども行われる多目的な施設として利用されていた。王都の住人にとってはちょっとした憩いの場だ。多くの人々がここに集まり、階段に腰かけて思い思いに過ごしている。愛を囁き合う恋人同士の姿を目にしたリーンリアは真っ赤になった顔を隠すように慌ててナヴィドの隣に座り込んだ。
広場の奥には神殿の立派なアーチが見える。壁面をモザイクタイルが複雑な模様を作り出していた。陽光がタイル片で反射してキラキラと輝き、まるで波間にいるようだ。リーンリアは帝国とは異なる建築様式で建てられた神殿に興味を惹かれた。
「パスラーガダイ神殿は名もなき善神とその従神である7柱の神を祭っているんだ。王国では特に大地を司るアルマーティが人気だな。王国の民はほとんどが農民だから、豊穣を約束してくれる神には頭が上がらないのさ」
神殿を興味深そうに見ているリーンリアにナヴィドが蘊蓄を披露する。
「なるほど王国にも帝国と似たような神が祀られているのだな」
「魔族も神に祈るのか。正直、もっと殺伐としているのかと思っていた」
ナヴィドが想像する魔族は戦いの中で強い者が生き残る弱肉強食の世界の住人だ。何せ魔族との接点はリーンリアを除けば戦場で戦った記憶しかない。いくらリーンリアが人族と変わらない価値観を持っているとはいえ、魔族全体がそうであるとのイメージは持てなかった。
「そうだな、確かに貴族には戦を司る神、オルディシェントを信奉しているものは多い。力がなければ正義も成せないというのがお題目だしな。だが、領民は植物を司る神、モルダッドの信者が圧倒的だ。なにせ痩せた土地で生きるためには切っても切れない神だからだろう」
リーンリアは遠い記憶を紐解くように空を見上げる。ユースポス家の城から見下ろす村には小さな教会があり、年に一度の収穫祭では大きな賑わいを見せていた。存在を公にはできない幼い頃のリーンリアはその光景を遠くから眺めるしかなかったが、領民たちの楽しげな様子に心が弾むような思いを抱いたことを覚えている。
「魔族の神も人族とそう大差ないんだな。王国にも戦神アドルセントに植物神アムルダッドがいるぞ。それじゃ、善神と悪神が争ってこの世界が作られたというのも同じなのか?」
魔族にも人族と変わらない神が信奉されていると聞いてナヴィドは目を丸くする。これまで持っていた魔族のイメージが音を立てて崩れていくようだ。人族をさらっていく魔族は悪神を崇拝していると言われてもおかしくないと思い込んでいた。
「うむ、魔族にも似たような神話が伝わっている。もう少し具体的だがな」
「その手の話は孤児院では嫌と言うほど聞かされたんだが、魔族の神話となると興味が湧いてくるな」
リーンリアの言葉を呼び水にしていつもは鈍いナヴィドの知識欲も活動を始めた。
いいだろうと答えて頷いたリーンリアは魔族に伝わる神話を静かに語り始めた。
「はるか昔、人々はマナの力を使って様々な奇跡を起こし、美しく豊かな国を作り上げていた。そこは飢えもなく、病もなく、誰もが自由に生きられる夢のような国だ。しかし、その繁栄が永遠に続くことはなかった。この世界で善神と悪神が激しく争った結果、大地は灼熱の溶鉱で焼き尽くされ、人々は故郷の地を追われることとなった。そして長い旅の果てにたどり着いたのが帝都カラクラックだと言われている」
「それじゃ、魔族はその夢のような国の後継者っていうことなのか?」
「そうだ。いつの日か約束の地、かつての故郷へ帰れると信じている者は多い」
ナヴィドの問いにリーンリアは軽く頷いた。魔族はかつて世界を席巻した国の後継者を自負しているからこそ、王国で好き勝手に暴れることの免罪符にしているのかもしれない。
「なるほど、それなら人族はどこから来たんだ?」
「む、魔族の神話に人族は出てこないな。人族の神話ではどうなんだ?」
改めて言われてみれば、これほど身近な存在にも拘らず魔族の神話に人族のことが書かれている件はなかった。
「人族の神話はその辺りは曖昧だな。善神と悪神が争って世界が形作られた後、人族が現れたことになっている。もちろん魔族の存在はどこにも書かれていない」
露わになった事実にナヴィドは首を傾げた。互いの神話を突き合わせてみると魔族の神話の起源が古いように思われる。一方で人族は魔族が去った後に突然この地に生まれたような印象だ。それが何を意味するのかナヴィドにはわからなかった。
「惜しいな。神学者であれば、もっと面白いことがわかりそうなんだが」
リーンリアの目は好奇心で輝いている。
「これまで交わることのなかった2つの種族の神話だ。人族と魔族の融和が実現すれば、いろいろな事実が明らかになるかもしれないぞ」
リーンリアと顔を合わせたナヴィドは湧き立つ心を抑えるように未来予想図を語ってみせた。2つの種族が互いの図書館を行き来すれば、世界はより多くの事実を見せてくれるのかもしれない。
「さて、ナヴィドも元気になったようだし、そろそろ寮に戻ろう」
リーンリアは立ち上がると、ワンピースの裾を叩いて土埃を落とした。
「リーン、もう少し休んでいってもいいんじゃないか?」
ナヴィドは背伸びをして階段に身体を横たえた。陽光に焼かれた石畳は容赦なく肌を焼く。あまりの熱さに思わず飛び上がったナヴィドを見てリーンリアはおかしそうにくすくすと笑い声を上げた。
「どうやら帰る気になったようだな」
「……部屋で昼寝する方が健康的だと思い直したんだよ」
きまり悪そうに頭をかいたナヴィドは荷物を両腕に抱えて歩き始めた。
道すがらナヴィドとリーンリアはそれぞれの生活のことを語り合った。
休暇中のナヴィドが孤児院に顔を出して幼い子供たちに勉強を教えていること。軍学校では座学の成績が低空飛行な様子を目にしているリーンリアにとっては青天の霹靂だ。子供たちのためにも手伝おうかと恐る恐る申し出たリーンリアにナヴィドは今日の借りを返してもらおうと尊大な態度で頷いた。
リーンリアは本格的にオルテギハの実家で働き出した。接客はまだまだ覚えることが多いが、戦闘で培った身軽さは酔っぱらいたちの攻撃をあしらうのに役に立っているようだ。目まぐるしく変化する毎日が新鮮で楽しい。給金はコツコツ貯めているが使い道はまだ考えていないとのことだった。
リーンリアが王国に居場所を作りつつあることを聞いてナヴィドは少し胸のつかえがおりた。彼女とは戦いの中だけでなく、共に歩んでいきたいとの淡い思いが心の中で形を成しつつある。彼女が歩みを進めるための手助けが少しでもできただけで今は十分満足だ。これからは彼女の隣で行く末を見守っていればいい。そんなことをナヴィドは考えていた。
「ナヴィドじゃないか、奇遇だな」
学生寮の入り口で偶然に出会った男はカランタリだった。
「カランタリか。二日酔いにはならなかったか?」
「君のように女性に勧められてがぶ飲みしていないからね」
「えっ、ああ、そうだったかな」
ナヴィドの背中に冷たい汗が流れた。
「まったく酔っぱらった君をここまで運んだのは誰だと思っているんだ?」
「そ、それはありがとう。やはり持つべきは友だな」
「良く言う。相手の女性に部屋まで送ってくれと絡んでいたのは誰だったか」
カランタリの言葉が胸に突き刺さる。
後ろに立つ少女から察しの悪いナヴィドにもわかり易い気が発せられていた。
ナヴィドは後ろを振り返らずに自分の部屋に駆け込んだ。




