第83話 月を覆う影
晴れ渡った夜空には星が瞬いている。昼間に激しい戦闘が行われたというのが信じられないような静けさだ。ナヴィドはリーンリアと夜間の巡回任務に就いていた。とはいえ担当区域は前線からかなり離れており警戒は通り一遍のものでしかない。前線に敷かれた警戒網を越えてここまで達することは可能性としてかなり低い。だが、魔族にはワイバーンによる空輸がある。後方でも警戒を怠ることはできなかった。
「左翼部隊はかなり被害を受けたようだな」
リーンリアは夜空を眺めながら呟いた。
「昼間の戦闘か? 確かにかなりやられて士気は下がっているだろうな」
ナヴィドの返事は他人事のように淡泊だった。
「ナヴィドはこの戦いの趨勢が心配ではないのか?」
あまり深刻そうでないナヴィドの態度を気にしてリーンリアが問いかけた。
「いや、負けられないと思っている。だけど今日やられた部隊もすでに王都で再編成が済んで、こちらへ向かっている。この戦いでは兵力の補充が容易な王国軍が負けることは、ほぼないと思うよ」
王国軍も魔族軍も兵力は全て素体で賄っている。素体があれば兵員の補充は容易だ。戦闘で失われた装備を新たに用意する程度のダメージでしかない。兵士の死が訪れない限りは。
「それでは何故、魔族軍はここに居座っている?」
リーンリアの疑問はもっともだった。魔族軍も王国軍が王都に素体をため込んでいることは百も承知だろう。王都を落とすだけの戦力を連れてきているわけではない。これまでと同様に人族をさらうことが目的だ。それならば奴らの狙いははっきりしている。
「カディシュ平原の王国軍を壊滅させて、次の部隊が編制される前に防衛線の内側にある街や村を襲うつもりだろう」
ナヴィドは飲み込んだ唾が喉を通り過ぎる音が聞こえる気がした。
――これだけの兵力差があるにも拘らず、それを壊滅させる術が魔族軍にはあるのか?
「では、奴らの思惑を打ち砕いてやらねばならないな」
涼やかな風を運ぶようなリーンリアの決意を聞いてナヴィドはふっと微笑を浮かべた。
「もちろんだ。頼りにしているぞ、相棒」
「任せておけ。私はナヴィドの剣になると約束しただろう?」
リーンリアが突き出した拳にナヴィドは軽く拳を当てた。
「誰に教えてもらったんだよ」
「シアバッシュが教えてくれた。互いの健闘を称え合う挨拶だと聞いたぞ」
リーンリアは仲間の輪に入れたことが嬉しそうだ。
「拳は軽く当てるだけだぞ。そのまま殴るんじゃないからな」
ナヴィドはにやにやと笑いながら過去のリーンリアの行いをあげつらった。
「ナヴィドのそういうところが私は嫌いだ!」
眉をひそめたリーンリアは心底嫌そうに吐き捨てた。
足元をふっと影が横切った。慌てて夜空を見上げた二人は月を横切るように飛行する物体を目に捉える。ワイバーンの群れだ。ざっと見ただけでも20体近い影が夜空に浮かんでいる。魔族軍の空挺部隊が夜の闇に紛れて侵攻してきたのだ。
「リーン、分隊メンバーを起こしてくれ。俺は少佐に報告する!」
「わかった。天幕の近くで待機しておく」
ナヴィドの指示を聞いて、すぐさまリーンリアが駈け出す。ナヴィドは夜空を指差しながら大声で敵襲を伝えた。にわかに周囲が慌ただしくなる。天幕から這い出た兵士たちは夜空を見上げて口々に呪いの言葉を呟いた。
ナヴィドはパルヴィッツ少佐の天幕へ向かい、入り口の警護の兵士に敵襲を伝えた。寝入りばなを起こされたのであろうパルヴィッツは、それでもいつもと変わらぬ様子で対応した。
「敵はどの程度の戦力ですか?」
「ワイバーンの部隊です。数はおおよそ20といったところでしょうか」
ナヴィドは手短に敵の情報を報告する。
「ふむ、着陸地点は抑えたつもりでしたが、無理矢理にでも降下するつもりですかね」
「敵の意図は不明ですが、我々の頭上を越えて後方に移動しようとしています」
「とにかく迎撃しましょう。カンビズ少尉はいますか?」
「はっ、ソーサラー部隊は準備ができていますぞ」
カンビズ少尉はパルヴィッツの呼び掛けに間髪を入れずに応えた。今夜あたりに敵の襲撃があることを読んでいたのかもしれない。セレーキア防衛戦でも活躍したソーサラーは分隊から分離して集められており、迎撃の準備は整っていた。
「ライトを打ち上げて敵影を捕捉した後、迎撃を開始してください。ナヴィドくんも新兵器を試すチャンスですよ」
パルヴィッツは意味ありげにナヴィドに向けて片目をつぶってみせた。
「了解しました!」
敬礼もそこそこにナヴィドは踵を返して分隊の天幕へ戻った。
夜空に偽りの太陽が打ち上がり、辺りを夜明け前の薄明へと時間を進める。夜の闇に隠れて侵攻していたワイバーンたちはその姿をさらけ出していた。地上からいくつもの火球の呪文が放たれるが、彼らの飛行する高度までは届いていないようだった。
「リーン、準備はできているか?」
ナヴィドは分隊に合流するなり問いかけた。
「ああ、いつでも大丈夫だ」
ナヴィドは手押し車の荷台に身体を横たえて、照準をのぞき込む。肩に置かれたヴィーダの手からマナが注ぎ込まれるのを感じた。
「少し左に回してくれ。そう、そこで止めて」
照準が1体のワイバーンを捉えた。ナヴィドが断続的に引き金を引く。乾いた発射音が連続して鳴り響き、撃ち出された光弾が夜空を切り裂いた。昼の試射とは異なり、闇の中で光弾は明確な軌跡を描き出す。光弾はワイバーンの後を追うように夜空に消えた。ナヴィドが標的を追い越すように移動した先に照準を合わせると、光弾の軌跡とワイバーンの影が交差した。
ワイバーンの身体に光弾が命中して瞬くような光を放った。体勢を崩したワイバーンはそのまま重力に引かれて錐もみして落ちていく。ナヴィドは止めていた息をふうっと吐き出した。
次の標的を探し始めたナヴィドはワイバーンの影から小さな影が飛び出していくのを見た。ほとんど判別がつかなかった影も地面まで落ちてきて、それが何であるかを知らしめた。影の正体はジャイアントスパイダーだ。高高度から投下してもジャイアントスパイダーなら着地に支障はない。魔族軍は着陸して部隊を展開する替わりに空からジャイアントスパイダーの雨を降らせてきたのだ。
――くそっ、面倒なことをしやがって!
ジャイアントスパイダーは的が小さくて迎撃の対象にならない。ナヴィドは舌打ちをすると、八つ当たりのようにワイバーンを次々に落としていった。
この夜、ナヴィドは4体のワイバーンを撃ち落としたが、魔族軍の攻撃を水際で押し止めたわけではない。ジャイアントスパイダーは目論見通り王国軍の各所で混乱を巻き起こしていた。王国軍は空挺部隊への対応力を見せつけるも、新しい戦術には有効な手段が打てず、この日の戦いは双方の痛み分けで幕を閉じた。




