第57話 狂戦士の戸惑い
オルテギハは父親と共に王都へ移住し、心安らぐ生活の中で次第に心を取り戻していった。だが、傷を負うことに対するトラウマは消すことができないままだ。厨房で料理を手伝った際に指を切っただけでも我を忘れて暴れ出してしまう。人と触れ合うことが苦手なオルテギハだが、給仕を手伝うくらいしか父親を助けることはできなかった。
――赤い、赤い血、降り注ぐ、命の炎が消え去る雨。
オルテギハの目の前で母親の首が斬り落とされ、血が噴き出す。色が無くなった世界で血の色だけが鮮やかに世界を彩る。そして、母親の身体が崩れ落ちた先に見えたのは、魔族の赤い目。血のようにルビーのように赤い目がオルテギハを見ている。
「……テギハ、オルテギハ!」
肩を揺さぶられてオルテギハは我に返った。。
傍らにはナヴィドが心配そうにオルテギハの顔をのぞき込んでいた。
「ナヴィド、ごめん、ぼーっとしてた」
心ここにあらずといった態のオルテギハは平坦な口調で答える。
「大丈夫か、いつから休んでないんだ?」
オルテギハの様子がおかしいことに気付いたナヴィドは、強い調子で問いかけた。
「朝から……」
「なんだって?!」
「ごめん」
オルテギハは誰に何を謝っているのかもわからないまま、反射的に謝罪を口にした。
「謝ることじゃないだろ。オルテギハの身体が心配なんだ」
素体といっても魂は人のままだ。器は中身によって定まっている。素体であっても肉体的、精神的疲労は蓄積するのだ。一日中働き続けることが、どれだけの負担になるか。常に戦える状態を維持することが求められる兵士にとって、それは死活問題だ。
「わかってる、ちゃんと休むから」
「本当にわかっているのか?」
「大丈夫だから、放っておいて」
オルテギハは絡んでくるナヴィドにイラついて、ぞんざいな返事を返した。
オルテギハの態度に戸惑ったナヴィドは、通り一遍の助言を与えるしかなかった。
「しっかり休んでおけよ。敵がいないって決まったわけじゃないんだ」
「そう、だね。でも、魔族がいるなら、この手で倒すことができる」
復讐に囚われたオルテギハの目が怪しく光る。この身を焦がす炎を消すことができるのは、魔族の流すマナだけだ。オルテギハは薄い笑みを浮かべた。
――オルテギハの過去に何があったのかは容易に想像できる。復讐心を抑えられないのも、そのせいに違いない。では、彼女がリーンの出自を知ったとき、どういう反応をするだろうか。恨みを押し殺して共に未来へと足を進めるのか、復讐に我を忘れてリーンを殺そうとするのか。
「なあ、オルテギハ。魔族たちと共存する日は来ると思うか?」
ナヴィドは胸の内に秘めていた問いをぶつけてみた。
「ナヴィドは、なんでそんな酷いことを言うの。この惨状を見て、何も感じないの?」
月の光に照らされた丘の麓は、見渡す限り墓で埋め尽くされている。生き残った僅かな村人たちは王都へ疎開するだろう。この村はもう死んだのだ。
「俺も両親を魔族に殺された。そのことを忘れたわけじゃない。けど、こんなことは終わりにしたいんだ」
「だからアタシたちは戦っている。ナヴィドもそうじゃないの?」
オルテギハは真っ向からナヴィドの目を射抜いた。少し潤んだ瞳がお互いをわかり合えないもどかしさを伝えている。
「俺は妹を取り戻したいだけだった……。今は誰もが幸せになって欲しいと思っている」
「手の届く人でさえ、助けられないのに、一体誰を幸せにするっていうの?!」
オルテギハの主張はもっともだった。何の力も持たない新兵が人族と魔族の融和を語るなどおこがましい。ナヴィドには目の前にある惨劇さえ止められないのだ。今は何を言ったところでオルテギハの心を動かすことはできないだろう。
「俺に力がないのはわかっている。だけど、理想を抱くことは止められないだろ」
「理想、どんな理想なの。そんな未来、来るわけない。だってこの怒りは消せないもの」
自分の身体をきつく抱きしめてオルテギハは心の底に溜まった鬱屈とした思いを吐き出した。
「消したいんだ。お前の怒りも、これから俺たちと同じ道をたどるだろう子供たちも」
ナヴィドはオルテギハの手を掴んで引き寄せた。
「わからない、わからないよ。想像できない、共感できない、一緒に理想を抱けない」
ナヴィドの言葉に混乱したオルテギハは髪を振り乱し、手を振りほどこうとした。
オルテギハがナヴィドの手を振り払ったとき、手がささくれたシャベルの柄に触れて指先が切れた。小さな傷からマナが細い帯となって漏れ出していく。
「あ、ああ……」
自身から漏れ出るマナの光を見てオルテギハは呆然としたまま、言葉にならない声を発した。
――マズイな、早くマナを止めないと、オルテギハが暴走する。
ナヴィドは咄嗟にオルテギハの手を取って指を口にくわえた。泥だらけの指は土の味がして、奥歯がじゃりっと砂を噛んだ。口の中でナヴィドは傷口から漏れ出るマナを丹念に舐めとった。
「舐めておけば治るだろ、こんな傷ぐらい」
オルテギハの指をくわえながらナヴィドは話しかけた。
「な、な、な……」
――駄目だったか、傷を治さないと元に戻らないのか。
「な、何してるの?!」
顔を真っ赤にしたオルテギハは俯きながら声を上げた。
「何って、傷を治してやったんだろうが」
オルテギハの抗議をナヴィドは受け流した。
「指を、指を舐めてる」
「俺は回復呪文が使えないしな、少しは我慢しろ」
オルテギハが慌てて手を引くと、ナヴィドの口から指が抜けて唾液が糸を引いた。
「マナが止まってる」
オルテギハは不思議そうに傷を負った指先を眺め回した。怒りに我を忘れていたはずなのに、一瞬で正気を取り戻させた男の顔を横目でちらりと盗み見る。
「感謝しろよ、暴走しそうだったんだからな」
得意げな顔をしたナヴィドを見てオルテギハは、心の奥で棘がちくりと刺さるのを感じた。
「ナヴィドの変態、助平、色情魔」
「はあ?! 助けたのに何で文句言われるんだよ」
涙目になって罵詈雑言を浴びせるオルテギハを、ナヴィドはどう扱っていいのか逡巡した。
「はあ、疲れた……、もういい、寝る」
オルテギハはナヴィドの態度に呆れたような顔をして宿舎の方に足を向けた。
「お、おい、話の途中だろうが」
慌てて呼び止めようとするナヴィドを無視して、オルテギハは歩を進めた。少し意趣返しができたようで心が弾む。今日は悪夢を見ずに眠れそうだと、オルテギハの足取りは自然と軽くなった。




