第56話 色のない記憶
ハルバードをシャベルに持ち替えたオルテギハは一心不乱に墓穴を掘り続けていた。一言も発さないまま、もう丸一日が過ぎようとしている。オルテギハの目に光はなかった。今、彼女の心は闇の中にいる。出口のない闇だ。それは過去から逃れられない心の枷がオルテギハ自身を縛っているからでもある。
オルテギハの幼少期の記憶には色がない。楽しい思い出も悲しい思い出も、等しく色褪せている。どこか自分ではない見知らぬ誰かの人生を演目とした、劇を鑑賞しているように感じていた。だが、記憶の中で唯一、鮮烈な色彩を放っているのが傷から噴き出す血の色だ。それはオルテギハの母親が燃やした最後の命の灯だった。
オルテギハはナヴィドと同じく国境に近い辺鄙な村で育った。父親は今でこそ酒場の主人をやっているが、当時は腕の良い狩人として生計を立てていたことを覚えている。森から獲れる獲物で食材には事欠くことはない。料理好きの母親が作る美味しい料理がいつも食卓を彩っていた。
「オルテギハ、今日はお父さんが獲ってきたホマー鳥の煮込みよ」
「やったあ、あの鳥ってすっごく美味しいんだよね。なんでかな?」
食卓の上をのぞき込んだオルテギハは、喜びのあまり母親に駆け寄って抱き着いた。
「木の実を食べて飛べないくらい丸々と太っているからね。きっと神様の贈り物だよ」
「いい子にしていたから?」
「いい子は手を洗って来るものよ」
服に付けられた小さな手の形をした土汚れを見つけたオルテギハの母親は、腰に手を当てて真面目な顔をしてみせた。
「はーい」
オルテギハの返事は母親の小言を止めるための軽い調子だった。
オルテギハの一家では当たり前の光景だ。オルテギハはこの先も変わらない毎日が続くものだとばかり思っていた。
森の様子がおかしいことに気が付いたのはオルテギハの父親だった。いつも森の様子を見ているせいか、小さな変化も見逃さない。今日は森の奥に巣があるはずの鳥たちが、いつまでも村の近くに止まり続けていることに不審を抱いていた。
「森がざわついているな」
「嵐が近づいているようでもないけれど、何かあったのかしら」
父親の呟きに不安そうな声でオルテギハの母親は問い返した。
「森を少し見てくる。お前は村長にこのことを知らせてくれ」
愛用の弓を手にした父親は森へ向かおうとした。
「そんなに大事なの? 嘘つき呼ばわりされるのは嫌よ」
「大丈夫だ。何もなければ、それはそれで幸運なのだからな」
父親の答えはまったく不安を取り除いてくれなかったが、母親はしぶしぶ頷いた。
オルテギハの母親は娘を連れて村長の家へと向かった。オルテギハは料理を食べ損ねて少しご機嫌斜めだ。村長の家までの道のりを歩くのをぐずって、母親に不満の意志を伝えた。
「もう、早く帰れば食べられるんだから。そんなに怒らないで」
「帰ったら冷めちゃってるよ。楽しみにしてたのに」
手が強く握られたのを感じてオルテギハは、母親の顔を見上げた。
母親の顔は蒼白になっていた。手で口を押さえて漏れ出そうになる悲鳴を押し止めている。オルテギハは母親の視線の先を追った。
牛よりも大きな体で八本の足を器用に動かす魔獣がいる。オルテギハは見たことがなかったが、その存在が何であるかは赤い目を見ただけでわかった。怖さのあまり母親に抱きついたが、身体の震えは止まらない。母親もオルテギハをしっかりと抱くだけで一切の動きを止めていた。
村長の家からゴブリンによって連れ出された人々をジャイアントスパイダーは糸で絡め取り、次々に拘束していった。家の側には抵抗したであろう村長が倒れている。少しも動かないのは彼がもう死んでいるからだろう。
「逃げましょう。絶対にしゃべっちゃだめよ」
母親はオルテギハの耳元で囁くと、彼女の小さな身体を抱き上げて後ずさった。魔獣たちに気付かれないように少しずつ距離を取る。隣家の陰まで移動して、やっと押し殺していた息を吐いた。
「ここは危ないわ。父さんのところまで逃げるわよ」
頷き返したオルテギハを背負って母親は駈け出した。家々から煙が上がり始める。かまどの炎ではない。家が燃えているのだ。本格的に始まった魔族の侵攻に母親は折れそうになる心を叱咤した。背中の温もりが自分を励ましてくれている。そう感じていた。
森の中に逃げ込むまで村人たちが魔獣に拘束されている場面に何度も出会った。背中に顔を埋めるようオルテギハに命じた母親は、捕らえられた子供たちが助けを求める声を黙殺した。心の中で謝り続けながら。
母親の足が止まったのは村から少し離れた森の中だった。そこで出会ったのは父親ではなく、赤い目をした魔族の男だった。両手に持った手斧には血がべっとりとついている。もう逃げ場は残されていなかった。
「ざんねーん、頑張って逃げて来たのに、無駄だったね」
少し小柄な魔族の男は嘲るような調子で話しかけてきた。
「そ、そんな……」
「さあ、子供を降ろして跪くんだ」
圧倒的な力の差を背景にした高圧的な態度だ。魔族の男は手斧を向けて母親を脅した。
「オルテギハ、後ろに下がって」
母親はオルテギハを地面に降ろすと、オルテギハに命じた。
「早く跪けって言ってんだよ、子供も一緒にだ」
感情を抑制できない子供のように魔族の男は手斧を左右に振る。
母親は諦めたように手を後ろに回して膝をついた。
「そうそう、素直に従えば死ぬことはないさ。死んだ方がマシかもしれないけどね、ははは」
魔族の男は気を良くして不用意に近づいてきた。母親は手に隠し持ったナイフを突き出した。ナイフはわずかに身を捻った魔族の男の右腕に突き刺さった。だが、致命傷ではない。右腕の傷からはマナが漏れ出していた。
「こ、この僕に、よくも傷をつけてくれたな!」
魔族の男は瞬時に母親の前に距離を詰めると、交差させた腕を広げた。
母親の首が斬り飛ばされ、オルテギハの足元に転がった。母親の目は驚愕で見開いたまま、閉じることがない。次いで首から噴き上がった血が雨のように降り注いだ。
「あ、ああ、あああ……」
あまりに現実離れした光景はオルテギハに精神的に大きな負荷を与え、焼き切れるように全ての感情を失った。オルテギハの目は光を失い。表情は溶けることのない氷のように固く閉ざされた。
「ちぇっ、獲物が減っちゃったじゃないか」
魔族の男は母親の身体を蹴り倒した。オルテギハの方へ目を移すと、手斧を肩に担いだ。
「まっ、子供だけでもいいか。長く働き続ける蓄魔管になるかな」
オルテギハの顔をのぞき込もうとした時、魔族の男の口に矢が刺さった。
「なんりゃこえ?」
魔族の両目に心臓に続けて矢が刺さった。森の奥から姿を現したオルテギハの父親は流れる涙を拭おうともせずに弓を構えていた。魔族の男の傷から大量のマナが漏れ出し、身体が塵となって地面に崩れ落ちた。
「許してくれ、俺が側についていれば……」
そこに残されたのは人形のような娘と首のない母親の遺体、そして跪いて滂沱の涙を流す父親の一家だった。




