第54話 砦の攻防
キシュル砦を襲った魔族軍の規模は前回と変わらずそれほど多くなかったが、今回は砦側の迎撃態勢が整っていなかった。常駐している兵の数こそ変わらなかったが、砦にはどこか弛緩した空気が漂っている。前回の戦いで消費された素体は十分な数が補充されておらず、補給も十分とはいえなかった。
「て、敵襲だ!」
虫の音しか聞こえない夜の静寂を切り裂くように見張りの叫び声が響いた。夜の闇に浮かび上がるのは赤く光る魔獣たちの目だ。それが城壁の下に野火のように広がっている。
砦に近付くまで押し殺していた気配を魔族軍は一気に解放した。砂煙を上げて1000体の魔獣が砦に殺到する。魔獣たちがあげる咆哮は辺りの空気を震わせ、砦の奥まで響き渡るほどだ。
「何故、近付かれるまで気付かなかった!」
砦の守備を任されたゴバード大尉は不機嫌さを隠そうともせずに副官に当たり散らした。
「哨戒任務では何の報告もなかったもので」
「前回の進軍ルートは押さえていたのだろうな」
「そ、それはもちろん」
副官は額から流れ落ちる汗をハンカチで拭いつつ、弁明を続けた。
「とにかく本部に援軍を求めるんだ。城壁を守備兵で固めろ」
「すでに手配済みですが、素体の数は100体に満たなく……」
「なんだと!? 何故、補充していない」
ゴバードは怒りに任せて拳を机に叩きつけた。
――あんたが自分の休暇を優先して書類の処理を後回しにしたんじゃないか。
「申し訳ありません。手配が間に合わず」
副官は顔色も変えずに深く頭を下げた。
「とにかくこのままではマズイ。ここを落とされると私の経歴に傷がつく」
「それは大きな問題ですね。では、砦を死守しなければ」
明日の天気でも話すように副官は上官の心配を軽くいなした。副官は守備兵に指示を与えると自分も城壁に赴いた。
魔族軍の主体は機動力を活かすためにグレイウルフが担っている。砦を攻めるには向かないタイプの魔獣だ。高い城壁を越えるためには梯子などの道具が必要になる。もしくはドラゴンなどの飛行能力を持つ魔獣がいなければ、内部への侵入は不可能なはずだった。
グレイウルフたちが城壁を越えて砦の内部に飛び込んで来ている。頭上を越える魔獣たちを見て守備兵は何が起こっているのかわからずに混乱した。グレイウルフは空中から地面に降り立つと、城壁の守備兵の背後を襲い始めた。
「一体、どこからグレイウルフが!?」
「城壁には近づいていないはずだ」
「あ、あれを見ろ!」
城壁に掲げられたかがり火に照らし出されたのはトロールの部隊がグレイウルフを投擲する姿だった。城壁を崩す投石の代わりに魔獣を内部に侵入させる。これまでの魔族にはなかった戦術だ。飛行能力を持つ魔獣は高ランクになるため、その数は少ない。数を補うために魔族は低ランクの魔獣を組み合わせた戦術を生み出したのだ。
次々に城壁を越えるグレイウルフと前方から城壁を登って襲い来るゴブリンたちに挟まれて守備兵たちは不利な戦いを強いられていた。背後の敵を気にしつつ、全力を出して戦うことは難しい。実力の半分も出せれば御の字だ。
「守備兵は城壁を守ることのみを考えてください。内部に入り込んだ魔獣はそれほど多くない。我々の小隊で片付けますよ」
副官の指示に落ち着きを取り戻した守備兵は自分たちの持ち場に戻った。焦らずに戦えば、魔獣たちとの力の差はない。守備の利を活かして戦うだけだった。兵士たちが応える声が闇の中に轟く。
「さあ、そう上手くいくと思いますか」
空中から回転して副官の後ろに降り立ったのは、闇よりなお暗い長髪をなびかせた男だった。黒い服に身を包みたたずむ姿は、赤く光る目だけが闇の中に浮かんでいるようだ。魔族の男が砦の中に侵入した。その事実は戦況を覆せると思っていた微かな希望を握りつぶす。
「簡単にはさせてくれませんか」
副官は長剣を構えて、包囲するように部下に手で指示を送る。
「そうだな、こちらもそれが仕事だ」
長髪の男も腰から抜いた二本の剣を両手に構えた。
長髪の男は構えた剣が地面を擦るほど低い姿勢で突っ込んできた。剣先が石畳に当たる度に火花が散る。暗闇を一瞬明るく照らす火花が男の流れるような動きを切り取った。
副官が前に出て長髪の男の剣を防いだ。だが、長髪の男は防がれた剣を支点にして回転すると、もう一方の剣を横薙ぎに振るった。大きく後ろに飛びのいた副官は、浅く切られた左腕を庇うように後ろに回した。
「私が押さえている間に、遠隔で削りなさい」
叫ぶような副官の指示を聞いて兵士たちは我に返った。ガンナーやソーサラーたちが狙撃の準備に入る。
「私ばかりに構っていて大丈夫ですか?」
剣を掲げた長髪の男が短い口笛を吹くと、兵士たちの背後からグレイウルフが牙をむいた。虚を突かれた形となって崩れ始めた戦線を副官は必死に立て直そうと奮闘するが、長髪の男と戦いながらそれをなすことは困難を伴う。繰り出される攻撃をかわしながら周囲に目を配り、部下に指示を与えることは、綱渡りをしながら芸を見せるようなものだった。ひとつでも判断を間違えば全てを失う。副官の精神状態はすでに限界を超えていた。
「本当に貧乏くじばかり引かされますね」
「ふっ、苦労人のようだな」
意外に優しい口調で答える長髪の男に副官は思わず苦笑いをした。どこにいようとも器用に生きられない者もいる。だが、魔族との間のそんな共感など、この後に起こることに比べれば些細なことだった。
剣を後ろに引いた副官は長髪の男に向かって連続で突きを放った。長髪の男は上半身を振るだけで攻撃を避ける。かがり火だけの闇の中でも魔族の赤い目は全ての動きを捉えていた。
「まったく厄介な目だ」
「そちらも、失うには惜しい腕をしている」
長髪の男はふっと殺気を散らして副官の顔を眺めた。
副官は額から流れ落ちる汗を血に濡れた左袖で拭った。最早、時間稼ぎも限界だった。目の前の男を倒さねば砦を守り切ることはできないだろう。副官は剣を上段に構えて前に足を踏み出した。
長髪の男は振り下ろされた剣を両手の剣で交差して防ぐ。同時に力で押し返すと両手の剣を斬り開いた。副官の胸に二筋の傷がつけられ、大量のマナが噴き出した。
「くっ、ここで倒れるわけには」
倒れそうになる身体を副官は歯を食いしばって踏み止まらせる。
「その覚悟は称賛しますよ」
長髪の男が繰り出した必殺の一撃を受けて副官の身体は塩へと還った。
砦が燃えている。
魂送陣は破壊され、素体は炎の中で溶けていた。
兵士たちは塩に還り、風の中に舞っている。
魔族たちの進軍を止めるものは最早なにもなかった。
魔族たちの進む先には王国の民が暮らす村々が点在している。
これから何が起こるか、ナヴィドはその身で知っていた。
しかし、それを止める術は今のナヴィドにはなかった。




