第4話 故郷の思い出
ナヴィドとリーンリアの二人は将軍私室でフェレイドンの前に立っていた。
すでに戦闘は終息に向かっている。大規模な攻勢を受けて混乱の渦中にあったルクスオール王国軍も立て直しに成功し、当初より押し込まれはしたが、防衛線を引いて踏み止まっていた。
「二人でトロールを10体か、素晴らしい戦果だな!」
「いえ、ほとんどリーンリアが倒しています」
「若者の謙遜は美徳でないぞ、こういうときは何も言わずに頷いておけばいい」
フェレイドンは顎の髭を撫でながらにやりと笑いかけた。
「は、はい」
ナヴィドは赤面して声を詰まらせながら返事した。
「リーンリア、キミの父上は私の、いやルクスオール王国の恩人だと言って過言はない。彼に返しきれないほどの借りが王国にはあると思っている。これで少しでも負債を減らせるのなら、もちろんキミの亡命は認めさせよう。だが、本当にそれでいいんだな?」
「私はこの通り戦うことしか知りません。亡命を認めていただいた恩を王国に返すなら、軍に所属するのが一番の近道だと考えています」
「ふむ、なるほど、それはこちらが願った通りの答えだな。過酷で凄惨な戦場に身を置くことに、ためらいはないか?」
「ここにたどり着くまで、多くの傷害を乗り越えてきました。今更、愚問です」
リーンリアはそううそぶきながらも、何かに耐えるように顔を伏せた。
「それならば俺から言うことは何もないな。亡命の準備はこちらで整えておこう。何、中央のうるさい奴らに文句は言わせん」
「ありがとうございます」
これからの人生に確かな光明が見いだせたリーンリアは表情をほころばせた。
「ナヴィド、キミは軍学校から送られてきたのだったな」
「ハ、ハイ、そうですが」
突然、フェレイドンから話を振られたナヴィドは緊張のあまり声が上ずった。
「ふむ、キミは魔族のことをどう思っている?」
問いかけられた言葉はナヴィドを戸惑わせるのに十分な内容だった。王国軍は魔族と戦っている。まごうことなき敵でしかない。だが、フェレイドンはそんな通り一遍の答えを聞きたいわけではないだろう。自分の中の思いが上手く言葉になるまで目を閉じて考えていた。
「自分の故郷の村は魔族の侵攻によって壊滅しました。家族もその時に……。魔族は俺の仇敵であることは確かです。だけど、それ以上に何もできなかった自分を許せなかった。ただ見ているだけしかできなかった自分を。だから軍学校に入ったのです。自分で考えて選択した道を自分自身で歩んでいける力をつけるために」
フェレイドンは緊張してほとんど何もしゃべれないような小心者の少年の中に、こんなにも強い思いが潜んでいたことにほくそ笑んだ。魔族に対してというより、自分の無力さに対して憤っているところも好都合だった。魔族に対して強い偏見がないのであれば、彼をこちら側に引き込めるかもしれない。これはフェレイドンにとっても一つの賭けだった。
「ふふ、いい答えだ。ナヴィド、キミに特命を与えよう」
「ハッ、なんでしょうか」
フェレイドンの言葉にナヴィドは改めて背筋を伸ばした。
「彼女を、リーンリアを守ってやってくれ」
「俺が、リーンリアを、守る……。俺より強い彼女をですか?」
思いもよらない命令を聞いて、伸びていた背筋が途端に前のめりになった。
「彼女を守らねばならない理由があるのだ。リーンリア、頭に巻いている布を取ってくれ」
フェレイドンはリーンリアに向かって手を差し伸べた。
「えっ、しかし……、いいんですか?」
投げかけられた言葉にリーンリアは少し戸惑いを見せた。
「問題ない、ここでお互いに信頼関係を築かねば、この話に先はない」
一度だけ目を閉じたリーンリアは頷くと、意を決したように頭に巻いていた布をひと思いに引いて解き放った。束ねていた空色の髪が零れ落ちた。室内のランプの灯りに照らされて輝く髪は幾筋にも分かれた滝のようだ。
しかし、ナヴィドの目を奪ったのは少女の美しさではない。少女の整った顔には血のように赤く禍々しい瞳が輝き、その耳の先端は細く尖っていた。
――魔族、なのか……。だが、魔族がどうして俺を助けてくれた?!
「リーンリア、キミは魔族だったのか?」
ナヴィドは恐る恐るといった態で問いを投げかけた。
「……私はハーフなのだ、魔族と人族の」
人族と魔族の間には深く広い溝がある。子を成すことができると考える者もいなかったし、試してみる者など皆無だった。故に人族と魔族のハーフなど聞いたことがなかったのだ。
遥か昔から魔族は人族をさらっていた。その理由は人族の持つ特性にある。
この世界のマナはすべて根源の力から引き出される。空気や水のように世界のどこにも存在しているが、それを知覚することはできない。そして根源の力に干渉する能力は、人族だけが持つ特権であり、魔族には備わっていないのだ。
そうした理由から魔族は、さらってきた人族をエネルギー源として利用している。魔族には人族を生きたまま器に閉じ込めて、マナを引き出す技術があると言われている。魔石もマナを蓄積する器の一種だ。
しかし、それだけなら人族は圧倒的な力で魔族を駆逐するはずだ。そうならない訳は魔族の持つ特性にある。魔族は体内に宿るマナを使って身体能力を大きく増幅させることができる。マナさえ尽きなければ、魔族は人族を圧倒する力を持っているのだ。
こうして人族と魔族は拮抗した力で長い間、争い合っていた。
「魔族とのハーフ、聞いたことがないな……」
「それはそうだ。魔族にとって人族は言わば薪のような存在だ。ナヴィドは薪に懸想するか?」
「……薪にか? いや、そういう特殊な性癖は持ってない」
「ふむ、それならば私の父は変態だったということだ。人族である母に恋をし、愛して、私を生み出したのだからな」
父親のことを話すリーンリアはこき下ろすような言葉の割にどこか誇らしげだった。
「リーンリアは魔族に国を追われて王国に亡命したのだ。彼女はその出自のせいで、どちらの陣営からも疎まれる存在になるだろう。守ってやる必要があると思わんか?」
フェレイドンは大人げない論調でナヴィドを説得しようとした。国を追われて身寄りもない美しい少女が困っている。男として助けてやるべきじゃないか暗にそう言っているのだ。英雄願望を持つ男の子の気持ちを揺さぶるには、心地の良い言葉だろう。ナヴィドは心の奥に棘が刺さったような痛みを感じた。だが、結局のところリーンリアを助けたいかどうかは、周りの思惑など関係なく、ナヴィド自身が決めることだった。
ナヴィドはリーンリアの顔を盗み見た。自分を助けた命の恩人であり、家族の命を奪った仇である魔族の血を半分だけ引く少女。過酷な人生に翻弄されながらも生きるために自らの心のままに選択して自らの足で歩んできた。彼女が異なる種族だったとしても、その事実に憧れを抱くことを止められなかった。
「わかりました。俺ができることであれば、彼女を守ります」
「ナヴィド、ありがとう」
感極まったリーンリアはナヴィドに抱き着いた。人族も魔族も超越する強さを秘めた少女の肩が微かに震えている。ナヴィドは自分の選択に間違いがなかったことを確信した。
フェレイドンがわざとらしく咳き込んで二人に自制を求めた。
「亡命が認められるまで身柄は確かなところにあった方がいい。リーンリアには軍学校の寄宿舎に入ってもらおう」
「はい、おじ様も何から何まで、ありがとうございます」
「ナヴィド、当面はお前が世話をしろ。何せ彼女はこっちの常識には疎いからな」
「俺が、ですか?」
「……お前、こんな美少女とお近づきになれるチャンスだぞ。感謝のしるしとして10年物のウイスキーを私に送ってくれてもいいぐらいだ」
「おじ様!?」
リーンリアは顔を真っ赤にして俯いた。こうしてみると年相応の女の子に見える。戦場での活躍を目にしていなければだ。
今まで見たこともないような大金を渡されてナヴィドとリーンリアは天幕からさっさと追い払われた。戦闘は完全に終わっていない。将軍は後始末も含めてまだまだ休めそうになかった。
「リーンリア、魂送を解除しに行こう」
「魂送とはなんだ?」
「魂を素体に転移させることだ。自分の身体を置いていくわけにはいかないだろ」
「ナヴィドの身体はどこにある?」
「俺は王都の魂送陣から魂だけここに送られてきたんだ。身体は向こうに置いてあるよ」
素体への魂の転移は戦場での死の形を変えただけではない。素体さえ戦場へ運んでいれば、魂を転移させて兵士をすぐに送ることができる。その上、素体に転送された兵士は食事をする必要がなくなるため、戦場では補給の負担がかなり軽減されていた。
魂送陣の置かれた天幕にリーンリアを連れて行くと、ナヴィドは外で時間をつぶした。空は青くどこまでも澄み渡っている。あれだけ激しい戦闘を行っていたにも拘らず、時間はまだ、昼を少し過ぎところだ。補給部隊の馬車に乗せてもらえば、暗くなるまでに最寄りの村ぐらいには着けるだろう。そこから王都まではそのまま馬車を使えれば、5日程度の旅だ。軍学校で教練の日々を送っていたナヴィドにとって久々の休暇のようなものだった。
――故郷の村から逃げ出したときに比べれば、天と地の差だな。
「ナヴィド、何をしている?」
魂送を解除したリーンリアは軍装に着替えていてナヴィドは幾分がっかりした。王都までの旅も軍装のままでは行軍訓練をしているような気分になる。
「ん、王都までの道のりを考えていた」
「そうか、王都に行くのだな。思えば遠くまで来たものだ」
「リーンリアの故郷はどんなところだ?」
「辺境だよ。父は山に囲まれた小さな領地を治める領主だった」
「なんだお嬢様だったのか。とてもそんな風には見えないが」
「ふふふ、私もドレスを着て舞踏会に行くよりは、野山で狩りをする方を好んだからな」
遠い目をしてため息をつくリーンリアの横顔は、愁いを帯びてとても美しく見えた。今なら深窓の令嬢といっても詐欺で捕まらないだろう。
「ナヴィドは軍に入る前は何をしていたんだ?」
「俺は……」
ナヴィドは軍学校に入るまでの苦難に満ちた道のりを思い出していた。
ナヴィドが育った村はありふれた山間の辺鄙な村だ。山に囲まれた猫の額ほどの耕作地しかなかったが、豊富な地下水が湧き出る豊かな土地は、山から採れる収穫物もあり、暮らすには不自由しなかった。温暖な気候が一年中続くため、四季を通して様々な草花が目を楽しませるとても美しい場所だった。
魔族の国からそう遠くない場所にあることが唯一の心配事だったが、国境までの間にはいくつもの村があり、村人たちは自分たちの村が襲われることはないと楽観視していた。村が壊滅したその日まで……。
ナヴィドには二つ違いの妹がいた。忙しい両親に替わって、赤ん坊の頃から面倒を見ていたせいで、すっかり懐いてしまって片時も側から離れない有様だった。ナヴィドも自分の後ろを一生懸命付いてくる小さな妹をとてもかわいがっていた。
その夜もナヴィドは妹と一緒に子供部屋のベッドで眠っていた。
「ねえ、兄さん。雑貨屋のお姉さんが結婚するって知ってた?」
「えっ、誰とだよ?」
「ほら、羊飼いの人だよ」
「おっさんじゃないか。うわあ、かなりショックだなあ……」
「兄さん、お姉さんのことが好きだったの?」
「いい人だとは思っていたよ。ほら、俺たちにも優しかったじゃないか」
「あの人、誰にでも優しいんだよ」
ナヴィドは妹の様子に驚いた。まだまだ小さいと思っていたが、嫉妬しているように見える。
「なんだよ、やきもちか?」
「そんなんじゃないよ。兄さんが騙されないように、私が目を光らせてるの」
いつも面倒を見ていると思っていた妹から被保護者扱いをされて、ナヴィドは心の中が少し暖かくなった。知らない間に子供は成長しているものだと父親のようなことを考えていた。
村に警鐘が鳴り響いた。しんと静まり返った夜を切り裂くナイフのように耳障りな音だ。
慌てた様子の父親が子供部屋に飛び込んで来て、ナヴィドと妹をゆすって起こした。寝ぼけ眼のナヴィドと妹は父親の剣幕に驚きながらも、慌てて身支度をして部屋を出た。月明かりが照らす居間には荷物を抱えた母親が待っていた。
「ナヴィド、母さんたちと一緒に山へ逃げるんだ」
父親は埃をかぶっていた倉庫から槍を持ち出してきた。年末に猪を狩ったとき以来だ。素人目に見ても父親の槍捌きは優れたものではなかったが、武器を手にしていることの安心感は、素手のときとはまったく異なる。父親の目には決意の証が現れていた。
「わかったよ、父さん。アティフェ、行こう」
何が起こっているのかわからずに震えている妹の手を握りしめ、先導する母親の後をついて家を出た。村はすでに惨憺たる有様だった。夜の暗闇の中を燃え上る家々が辺りを照らし出す。暗闇の中を闊歩するのは赤い目を爛々と光らせた魔獣たちだ。子供のように小さく群れている影はゴブリンたちだろう。その側にはジャイアントスパイダーの姿も見えた。牛より大きな影が複数の足を器用に動かし、音もなく移動している。
「……兄さん、私たちどうなるの?」
「山の中に隠れるだけだ。いつも遊びに行っているだろう、大丈夫だ」
瞳に涙を浮かべて震える妹をナヴィドは強く抱きしめた。
母親が急ぐように手招きしたのを横目で見て、ナヴィドはまだ不安げな妹の手を掴んで走り出した。騒ぎは近くまで聞こえている。もはや一刻猶予もないのだろう。父親は家の前で槍を掲げて三人を見送った。
暗い森の中、月明かりを頼りに母親の後を追いかけた。張り出した木の根に足を引っかけて何度も転びそうになる。遠くから響いてくる悲鳴や怒号が耳に届く度に、心が恐怖に染まっていった。それでも右手から伝わる体温はナヴィドの心を強くした。
――俺がアティフェを守らないと。
希望を打ち砕いたのは、獣道を抜けて広場に出たときだった。奴らが広場で待っていたのだ。ゴブリンにジャイアントスパイダー、そして赤い目の男。なんのことはない、村はすでに包囲されていて、ナヴィドたちは狩り出されただけだった。
「ふむ、子供が二人か。悪くない」
赤い目をした男はそうひとりごちると、右手を掲げて魔獣たちに命令を与えた。じりじりと包囲の輪が狭まっていく。
母親は持っていたズタ袋を振り回して魔獣たちをけん制した。
「ナヴィド、逃げなさい!」
ナヴィドは恐ろしさのあまり妹の手を強く引いて来た道を引き返した。どちらの方向に逃げようとも魔獣たちが待っていることには変わらない。死神が魂に手を触れるまでの時間を少しでも引き延ばすかのようにがむしゃらに走った。
「麗しい兄妹愛だ。母親の命を犠牲にしたのはいただけないがな」
赤い目の男が目の前で囁いた。驚異的な身体能力を駆使してナヴィドたちを追い抜いたのだ。慌てて後ずさったナヴィドの背中から粘着質の糸が吹き付けられた。振り払おうとした腕にも絡みつき、次第に身体の自由を奪っていった。
木の上から音もなく降りてきたジャイアントスパイダーが、動けなくなった二人に牙を突き立てた。牙から麻痺毒を注ぎ込まれると、頭では逃げ出そうともがいていても、身体は少しも動かなくなった。
――ごめん、アティフェ。お前を守れなかったよ。
妹は瞳から涙をぽろぽろとこぼしてナヴィドをじっと見つめていた。ナヴィドは自責の念を感じて、そっと妹から視線を外した。
その時、うなりを上げて一直線に飛んできた槍が、赤い目の男の身体を貫いた。槍が開けた傷跡から大量のマナが漏れ出す。槍が飛んできた方向を見て、男は断末魔の叫びをあげた。
「貴様あぁぁ、人族風情が!!」
赤い目をした男は槍を掴んだまま塵に還った。
父親が木陰から姿を現して、こちらに向かって走ってくる。ナヴィドは助かったと喜んで、すぐに絶望感でいっぱいになった。父親は血まみれの姿で、すでに満身創痍の状態だったのだ。父親はナヴィドを右手で抱えると、道を外れて森の中へ走り出した。
「父さん、アティフェが!?」
「黙ってろ!」
ナヴィドは思わずアティフェの方を見た。ジャイアントスパイダーの足元で糸にくるまれた妹はナヴィドに透き通るような笑顔を返した。そこには絶望も悲嘆も怨恨なく、兄が助かったことを喜ぶ、ただ純粋な想いだけが感じられた。
――アティフェ、俺は……。
父親はナヴィドを抱えたまま森を抜けて、崖から川に身を躍らせた。黒くうねる水の流れは、二人を飲み込んですぐに下流へと押し流していった。