第2話 生まれた理由
ナヴィドが意識を取り戻したのは、倒れてからしばらく時間が経った後だった。横になっていたナヴィドは頭の下に柔らかな抵抗を感じた。芯の部分にしなやかな硬さを持ち、その周りに包み込むような柔らかさが覆っている。いつも使っている木の皮を編んだ枕とは、まったく異なる感覚だった。あまりの気持ち良さに頭を擦りつけてみる。
「んんっ」
悩まし気な声を耳にしてナヴィドの意識は急速に覚醒し、うっすらと目を開けた。心配するようにのぞき込むリーンリアの顔が見えた。慎ましやかな胸は視線を遮らなかった。
「気が付いたようだな、ナヴィド」
リーンリアの顔は薄っすらと上気して赤みを帯びていた。チュニックの下のショートパンツからなまめかしい太ももを惜しげもなく出している。膝枕をされていたナヴィドは慌てて頭を上げて、胡坐をかいて地面に座り込んだ。
「ああ、大丈夫だ。ってなんで俺は殴られたんだ?」
リーンリアはバツが悪そうに頬を指でかいた。
「あれは……、おじ様が握手をして殴り合うのが、挨拶だと教えてくれたのだ」
――どこの蛮族だよ。そのおじ様は……。
「この国にそんな蛮習はないから、次からは気を付けてくれ」
「ふむ、私もおかしいと常々思っていたのだ」
リーンリアは憤慨やるかたなしといった表情で腰に手を当てた。
「とりあえず仕切り直しだ。よろしく、リーンリア」
「こちらこそ、よろしく頼む、ナヴィド」
二人は普通に握手を交わした。ナヴィドは少し身構えていたが、無駄に終わった。
「ところでリーンリアはどうしてここにいるんだ?」
リーンリアの服装はどうみても軍人のそれではない。民間人がこんな戦場にいるのも妙な話だ。助けられたとはいえ、ナヴィドが疑問に思うのも不思議なことではなかった。
「ああ、私はフェレイドン将軍に会うためにここまで来たのだ。ナヴィドのことは、まあ行きがけの駄賃だな」
フェレイドン将軍、今回の防衛戦の指揮官だ。学生のナヴィドでもその名は耳にしたことがある。奪還作戦を成功に導いた英雄。数々の輝かしい功績をあげ、歴代最年少で将軍まで上り詰めた男。リーンリアと将軍がどんな関係かわからないが、もし知り合いなのだとしたら少しぐらい便宜を図っておいて損はないだろう。
「なるほど、偶然とはいえ助けてもらったんだ。感謝するよ」
ナヴィドは改めて頭を下げた。
「止してくれ、私こそ助けに入ったくせに、逆に助けられたのだ。私にとってナヴィドは命の恩人だよ」
リーンリアは満面の笑みを浮かべた。黒く大きな瞳は魂が吸い込まれそうなほど深く澄んでいる。とても何かを企んでいるような悪人には見えなかった。命を助けられた恩を感じているからかもしれないが、彼女のことを信じてみたいとナヴィドは強く思った。
「リーンリア、さん? ちょっと聞いてもいいかな?」
「なんだ、他人行儀だな。互いに命を助け合った仲だろう。少し傷ついたぞ」
頬を膨らませたリーンリアの顔は年相応に可愛げがあった。
「ああ、スマン。聞いていいのかわからないが、リーンリアと将軍はどういう関係なんだ?」
ナヴィドは恐る恐るといった態で問いを投げかけた。将軍の隠し子だとでも告白されたなら秘密を胸にしまい込んだまま軍での生活を送らなければならない。何も聞かずに別れることも考えたが、好奇心が先に立った。
「将軍には若干ツテがあってだな。私は故郷を追われてこの国に逃げて来たのだが、新天地で新たな人生を始めるにあたって、少しばかり助けを借りようと思っている」
リーンリアは他人の好意にすがらなければならない自分の境遇に対して苦笑した。
「将軍にツテがあるのか?」
「そうだ、幼い頃に一緒に遊んだこともある。とはいえあんな挨拶を教えた男だ。頼りにしていいのかか、にわかに怪しくなってきたがな」
リーンリアが『おじ様』と呼んでいた人物は将軍のことだったようだ。心配するような関係ではなくてナヴィドは幾分ほっと胸をなでおろした。それほど親しい間柄なら将軍と会わせることについて何も心配することはないのかもしれない。
「リーンリア、俺が将軍のところまで案内してもいいが、どうする?」
「当然、ナヴィドについていくぞ」
右も左もわからない地で手を差し伸べてくれたのだ。リーンリアにとって藁をも掴む気持ちだった。
「本当にいいのか? その、将軍には秘密裏に会った方がいいとか」
「この機を逃せば、どこで会えるか私にはわからない。こんなときでもなければ、連絡を取ることさえ難しいだろう」
「そうか、うーん……」
将軍は一兵卒のナヴィドにとって、今まで顔さえ見たことがなかった雲の上の人物だ。直接会うためにはかなり高い壁が立ちはだかる。ましてや軍属でもないリーンリアを連れてとなると、下手をすれば二人して牢屋行きだ。
ナヴィドの煮え切らない態度を自分への疑いだと誤解したリーンリアは、信じてもらおうとすがりつくような思いで必死だった。
「この認識票は将軍からもらったものだ。いつか自分に会いに来るときはこれを使えとな」
チュニックの胸元を開いて見せるとリーンリアは首に下げた認識票を取り出した。
「なるほど、これがあれば門前払いってことにはならないか。だけど戦争の最中に将軍に会うなんて許されるのか……」
ナヴィドとしては命の恩人を辛い目に遭わせたくはない。認識票を頼りに将軍に会いに行くか、王都に戻ってから出直すか、どちらがより良い結果を生むかナヴィドは考え込んでいた。
「ふふっ、ナヴィドは律儀な奴だな。会ったばかりの私のことなど、放っておいても構わないのに」
リーンリアは片手を口に当てて、おかしそうにくすくすと笑った。
「くそっ、俺としてはこれでも結構真剣に悩んでいるつもりなんだけどな。いいさ、当たって砕けろだ。一緒に将軍に会いに行こう。危なそうなら逃げてくれよ」
「ああ、私だって生きるためにこの国へ来たのだ。旗色が悪そうなら辺境でひっそりと暮らすよ」
不敵な笑みを浮かべるリーンリアはどこか眩しくて、とても故郷を追われてきた逃亡者には見えなかった。彼女には何か根底に確固たる信念が存在するように感じる。リーンリアがこれからどんな人生を送るのか、ナヴィドは少し見て見たくなった。
「第47小隊のナヴィドです」
本部は蜂の巣をつついたような騒ぎだった。戦況がどうなっているかわからないが、劣勢であることは間違いないだろう。伝令兵がひっきりなしに出入りしている。
「第47小隊! 戦果報告がまだだぞ、どうなっている?」
幕僚の一人らしい青年将校が問いかけてきた。
「はい、小隊はグレイウルフの攻撃を受けて全滅です。戦果はグレイウルフ6体」
リーンリアが倒した分を戦果として報告するのはどうかと迷ったが、魔石は回収している。報告しておいた方が後で問題にならないだろう。
「キミたちは初陣か? グレイウルフが相手では全滅も止む無しだが、戦果は素晴らしいな」
「はい、初陣でした。戦果は……、運が良かったのでしょう」
ナヴィドはポーチから魔石を取り出して、青年将校に手渡した。
「ところで彼女はどうして軍装を着ていない」
青年将校はリーンリアの服装を見とがめた。歳こそナヴィドと同じに見えるが、外見はどう見ても少し裕福な村娘といったところだ。戦場では不釣り合いな見た目には違いない。戦場のど真ん中で少女が何をしているか、不審に思われても返す言葉もない。
「彼女はこの近辺の避難民です。将軍に急ぎ伝えたいことがあると言っています。取り次いでいただけませんか」
「避難民だと、国境付近に村などない。どこから来たんだ?」
ナヴィドは預かった認識票をポケットから取り出すと青年将校に手渡した。
「将軍にこれを渡していただければ事情はわかるはずです」
青年将校は認識票を様々な角度に傾けながら舐めるように調べ始めた。
認識票は確かに王国軍のものだ。一見した限りでは複製された偽物には見えない。刻まれている名前はフェレイドン・ファラハーン。将軍の名で間違いない。その事実から導き出される答えは、将軍が何らかの便宜を図るために渡したか、将軍の手から盗み出したと考えるのが、もっとも筋が通り易い。どちらにせよ本人に確認すれば、すぐにわかることだった。
「少しそこで待ってくれ、将軍に伝えてくる」
ナヴィドたちを入り口で待たせたまま、青年将校は本部の奥へと入っていった。
果たして一兵卒の話を将軍が直接聞いてくれるものなのか、依然として細い糸の上を綱渡りしている。おまけに軍属ではない少女が一緒だ。ここまで誰にも止められなかった幸運を喜ぶべきか、王国軍の警備の甘さを糾弾すべきか、ナヴィドは判断に迷った。
ナヴィドが愚にもつかないことを考えている間に青年将校が戻ってきた。
「将軍が会うそうだ。ついて来い」
幕僚の青年が先導して、10人は余裕で入れそうな天幕にたどり着いた。ナヴィドとリーンリアが中に入ると、そこはもう一つの戦場だった。中央の大きなテーブルに置かれているのはこの地域の詳細な地図だ。展開している部隊の兵科と数が駒で表現されている。各部隊からの報告をリアルタイムで反映しているのだろう。地図を見ながら話し合っているグループが至るところで見られた。
「おお、キミが新しい英雄か! 初陣でグレイウルフを6体も倒す猛者を見てみたかったのだが、意外に華奢な体つきだな。肉は食っているのか、肉は」
口の周りに髭をたたえ、筋肉質でがっしりした体格の男が豪快に笑いながら、ナヴィドの背中を何度も強く叩いた。ナヴィドは呆気に取られて曖昧に頷くしかない。
「フェレイドン将軍、彼がその認識票を」
「そうだったな、スマン、スマン。では、場所を変えるか、奥に行こう」
フェレイドンは振り返ることもなく、天幕の奥に消えてしまった。ナヴィドはリーンリアと共に慌てて、その背中を追う。作戦会議室の奥は将軍の私室のようだった。簡素な作りだが、一通り必要な物は揃っている。将軍の実直な性格がうかがえた。
「で、これを持っているということは、そちらのお嬢さんがリーンリアで間違いないんだな?」
フェレイドンの目つきが鋭さを増した。軍での地位は家柄だけで決まるものではない。功績を上げてこの地位にいるのだとしたら、兵士として結果を出したということだ。ナヴィドの背中に冷たい汗が流れた。
「はい、おじ様、お久しぶりです」
リーンリアはフェレイドンの目をしっかりと見つめて答えた。
「やはりリーンリアなのか! あのやんちゃな女の子がこんなに可愛らしい少女になるなんてな、俺も歳を取ったもんだ」
周囲の空気が一気に温かくなった。そこにいるのは厳めしい顔をした将軍ではなく、子供の成長を喜ぶただの中年の親父だ。あまりの落差にナヴィドは呆気に取られていた。
「おじ様は変わっていませんよ。私の記憶通りです」
リーンリアの鈴を転がしたような笑い声が天幕の中に響いた。
「ははは、嬉しいことを言ってくれるじゃないか。まあ、積もる話は後回しにしよう。それでどうしてこんなときに会いに来たんだ?」
「私、リーンリアはルクスオール王国に亡命を希望します」
「なんだと、ユースポス卿はどうされた?!」
フェレイドンは思わず椅子から立ち上がり、机に脚をしたたかに打ちつけた。
「父は亡くなりました。私は故郷には留まれず、ここまで逃げて来ました」
「そうか、亡くなられたか。惜しい人を……。リーンリア、キミだけでもよくぞ無事で」
がっくりと肩を落とし、椅子に身を投げ出したフェレイドンは感情の波の変化に翻弄されてひどく疲れていた。
「おじ様……」
目の前で一気に年老いたようなフェレイドンを目にしてリーンリアは言葉に詰まった。
「いや、大丈夫だ、なんでもない。それでリーンリア、キミはどうするつもりだ」
安心させるために手を振ってみせたフェレイドンは、逆にリーンリアの行く末を心配した。
「私は王国で新たな人生を歩みたいと思います。といってもできることなど限られていますが」
リーンリアは腰のベルトに下げたダガーを叩いてみせた。
「なるほど、キミの腕は昔通りか?」
少女の頼もしい態度を見て、憔悴していたフェレイドンの顔に生気が戻ってきた。
「もっと強くなりましたよ。なんでしたら証明してみせましょうか?」
リーンリアの自信に満ちた笑顔は切れ味の良いナイフのように鋭利でいて、ぞっとするほど美しかった。




