第19話 弛緩した時間
フェレイドンはリーンリアの話し相手となることに、ようやく吹っ切れた様子だった。普段の落ち着いた態度に戻っている。ナーデレフは魔族の本と格闘しながらフェレイドンとリーンリアの会話を横目で見ていた。
「えーっ、じゃあ、人族は魔族と戦いながら、人族同士でも戦っているの?」
「そうだ、人族はいくつもの国に分かれて暮らしている。魔族との戦争のときは一致団結するが、普段はいたる所で小競り合いをしているな。まあ、外交は握手をしながら殴り合うようなものだから仕方ない」
「握手って友好を表す挨拶だよね? 人族って変なの」
リーンリアは両手を口に当てて目を見開いた。
「魔族の国は違うのか?」
「魔族の国は帝国だけだよ。皇帝の力がものすごーく強いから、貴族たちは飼いならされた犬のように大人しくしているの」
「おいおい、辛辣だな。ユースポス卿だって貴族の端くれだろうに」
「お父様だって皇帝に忠誠を誓っているわ。魔族は皇帝の力で一つにまとまっているもの」
――皇帝に忠誠を誓う男が人族と内通するのか……。
「リーンリア、ここの文字は何と読むのだ?」
魔族の本との格闘に疲れたナーデレフは、リーンリアに救援を求めた。本を広げて、意味が解らなかったところを指差す。
「うーんとね、『真祖』だよ。皇帝の直系を表すの」
魔族の言葉は人族のそれとあまり変わらない。少し古い言い回しがあるぐらいで、地方の方言を聞くようなものだった。だが、文字はまったく異なっていたので、一つ一つリーンリアに教わらねばならなかった。
「それにしてもユースポス卿は一体、いつになったら帰って来るのだ?」
「うーん、おじ様たちが頼んだ用事を片付けているんじゃないの?」
「いや、まあ確かに頼み事をしているが……」
フェレイドンは頭を掻いて苦笑した。
――さらわれた人族の救出を本気で手伝うつもりなのか?!
「ああ、もう疲れた。ずっと部屋の中じゃ、身体がなまるな」
ナーデレフは本を閉じると、両手を上げて背伸びをした。
「う、うん……。でも、お父様との約束で、一人で外に出ちゃいけないの」
リーンリアは視線を落として、スカートの裾を固く握りしめた。
「ふふん、それなら私と一緒に外に出るか。ユースポス卿から外出を禁止されているわけでもないしな」
ナーデレフの表情には好奇心がありありと現れている。大方、リーンリアの話で聞いていた熊でも仕留めて晩飯の一品に加えたいのだろう。
「おい、ナーデレフ。任務中に勝手なことをするな」
「ユースポス卿が帰るまで、リーンリアと遊ぶのが小官の任務デアリマス」
ナーデレフは右手の拳を心臓の前に当てて敬礼した。
「くそっ、都合のいいときだけ部下みたいに振る舞いやがって」
「子供の前で汚い言葉遣いは感心しないな、フェレイドン」
「あー、リーンリア。お許しいただけますか?」
フェレイドンは頭を下げたあと、リーンリアににやりと笑ってみせた。
「あっ、うん。大丈夫だよ」
リーンリアは目の前で交わされる言葉の応酬についていけず、問われるがままに了承してしまった。
「それじゃ、行こうか!」
ナーデレフが一人だけ胸を躍らせるような様子で部屋を出て行った。
深い森の中を歩くのは、動きやすい服装に着替えたリーンリアを先頭にナーデレフとフェレイドンの三人だ。リーンリアが熊の残した足跡や糞などの痕跡を頼りに追いかけていた。水場から足跡を追いかけて、すでに二時間近く歩いているが熊の姿さえ捉えていない。
「リーンリアは誰からこんなことを学んだんだ?」
リーンリアの後を追いかけながら、フェレイドンは小声で話しかけた。
「お父様からだよ。狩りは貴族の嗜みだと言ってたの」
「どうも俺の想像する貴族の狩りと違うんだが……」
「獲物を狩って食べる楽しみは同じじゃないか?」
ナーデレフが気にするなと言わんばかりに片手を振った。
リーンリアは追っていた足跡の僅かなずれを見つけて、周囲の痕跡を探し始めた。坂の下の方に新しい足跡がある。熊が追跡者をまくために、高低差を利用して跳んだのだろう。
「意外と頭がいいんだな」
「そうだな、油断をすると私たちが狩られる側だ」
ナーデレフは人の悪そうな笑みを浮かべた。
先頭を歩いていたリーンリアが片手を横に突き出した。後ろを向いて唇に人差し指をあてる。そのまま指差した方向には二頭の熊が対峙していた。後ろ足で立ち上がり、両手を上げている。もう一方はひと回り小さな体つきをしていた。
「縄張り争いか。どうする、二頭とも狩るか?」
「ふむ、いや、少し様子を見よう」
ナーデレフは何かに気になることがあるようだった。
大きい方の熊はなおも威嚇を続けているようだったが、小柄な熊はその場を一歩も引かないでいた。大きい方は前足を地面に降ろすと、堂々とした足取りで小柄な熊に近づいた。やがて鼻先が触れ合うほどの距離までくると、相手の臭いを嗅ぎだした。ぐるりと周囲を回るように足を進めると、尻尾の辺りを何度も嗅いでいる。そして、おもむろに立ち上がると小柄な熊の背中におぶさった。
「おい、ナーデレフ、これはマズイ」
フェレイドンは目の前の光景に焦りを隠せなくなった。
「何を言っている。貴重な研究材料ではないか」
「リーンリアに見せるのはマズイって言っているんだよ」
「いずれ知ることだ。今から教えておいても問題はないだろう」
「他人の家庭の情操教育に口を出すのは良くないだろうが」
「情操教育?! ハッキリ言ったらどうだ」
ナーデレフは慌てふためくフェレイドンをニヤニヤと笑いながら眺めている。
「ねえ、どうしたの?」
「リーンリアもそろそろ知っておくべきだろう。子供の作り方だ」
「子供って、私みたいな?」
「そう、リーンリアもこうして生まれたてきたんだ。そうだな、ここはオーソドックスに花の受粉から教えるか」
ナーデレフは楽しそうに、リーンリアの耳元に口を当てて説明をし始めた。フェレイドンは最早、蚊帳の外だ。いや、フェレイドンの気持ちを察するなら、自ら蚊帳の外に出て行った。
最初は興味深く聞いていたリーンリアもナーデレフの話が進むにつれ、段々と顔が真っ赤になって目線を合わせなくなった。
「そういうわけだからユースポス卿とナスリーンさんもこうやって……」
リーンリアの羞恥心の限界もそこまでだった。
「あーあーあー、聞こえない! 私、何も知らないから!」
リーンリアの大声が森に響き渡る。
二頭の熊と三人の目が合った。
その様子を見てフェレイドンは、すでに頭を抱えていた。
「みんな、逃げるぞ!」
脱兎のごとく逃げ出した三人の後を、怒り狂った二頭の熊が追いかけてきた。




