第18話 呪いの儀式
フェレイドンは頭を抱えていた。軍学校で学んだことはここでは一つも役に立たない。一体、何から手をつければいいか途方に暮れている。それでも敵は待ってくれなかった。
「ねえ、フェレイドン。もっとお話ししようよ!」
「あー、俺のことを呼び捨てにするな! 俺のことはお兄さんって呼びなさい」
「うわあ、フェレイドンって、そんな趣味があったの?」
ナーデレフは眉間にしわを寄せて、フェレイドンから若干身体を引き離した。
「待て、何か誤解がある。汚れた心でなければ普通の呼び方のはずだ」
「でも、リーンリアには本当のお兄ちゃんがいるから、フェレイドンのことはお兄ちゃんって呼べない」
残念そうに首を傾げるリーンリアを見ると、フェレイドンは何も文句が言えなくなった。
「大体、お兄ちゃんって歳じゃないだろう。おじさんと呼びなさい、おじさんと」
ナーデレフは容赦なく、フェレイドンを切って捨てた。
「うーん、それじゃ、おじ様って呼ぶね?」
「ああ、もう何でも構わん」
フェレイドンは片手で顔を覆って、ため息をついた。
「ナーデレフはお姉様でいい?」
「聞いたか、フェレイドン!? この子はなんて可愛らしいんだ」
ナーデレフは普段、眠たそうだった目を見開いて、リーンリアを抱きしめた。
「待て待てリーンリア、ナーデレフは俺と同期の……、ぐほっ!?」
ナーデレフのひじ打ちを鳩尾に食らったフェレイドンは、息ができずに身体を折り曲げた。
リーンリアは不思議そうな顔で二人のやり取りを眺めている。
「ったく、女心をわからん奴だ。そんなことだから結婚できない」
フェレイドンは女心がわからないが、抜群の危険察知能力で反論の言葉を飲み込んだ。
「で、リーンリアは何が聞きたいんだ?」
「うーん、人族ってどんなものを食べているの?」
リーンリアの質問は人族の暮らしに関するものが多かった。魔族との違いを知ることが興味深いのだろう。子供を使って機密でも引き出すつもりなのかと身構えていたフェレイドンは、肩透かしを食らっていた。
「魔族と同じようなもんだがな。小麦に野菜、肉、魚。変わったものなんてないぞ」
ユースポス卿の城で出される食事も、人族の口に合わないといったことはなかった。多少、味付けが薄い程度だ。北の地に広がる魔族領では海は凍土の先にあるため、塩の入手は山から掘り出される岩塩に頼らざるを得なかった。戦争に参加した魔族の中には、人族を倒して塩の柱を持ち帰った者も多かったと聞いている。
「魚って、あの川で泳いでいる小さい生き物?」
リーンリアは川にいる掌の大きさにも満たない小魚を想像して首を傾げた。
「あー、こっちの川では小さいかもしれないが、人族の住む地には海や広い河があって、そこには大きな魚がいるんだ。リーンリアだって一飲みにされるぞ」
フェレイドンが人の悪そうな顔で驚かすと、リーンリアは目を丸くした。
ユースポス卿は最初にフェレイドンたちに伝えた通り、リーンリアを任せっきりで様子さえ見に来ない。まだ幼い自分の子供をかつての敵の手に委ねるなど、何を考えているのかわからないが、任務を遂行するためにはユースポス卿の要望を叶えるしかなかった。
「人族の住む場所っておっかないんだね。こっちで見るのは熊ぐらいかなあ」
「熊だって十分おっかないだろうが」
フェレイドンは苦笑しながらリーンリアの頭に手を置いた。
「そうかなあ、お肉が美味しいからよく獲って来るよ。こーんな、大きいの」
リーンリアは両手をいっぱいに広げて大きさを表現して見せた。
「ユースポス卿が狩りをするのか?」
「ううん、私が獲って来るの」
フェレイドンは噛み合わない話に首を傾げた。
「えーっと、リーンリアが熊を倒しているのか?」
馬鹿々々しいと思いながらも、フェレイドンは言葉から導き出された結論を確認してみた。
「さっきからそう言ってるよ。私が熊を獲って来るの」
リーンリアは不満げに頬を膨らませながら、フェレイドンを見上げた。
「おいおい、こっちの熊はそんなに弱いのか?」
フェレイドンが両手を広げて肩をすくめた。その一瞬の隙にリーンリアは、フェレイドンの身体を蛇のようにするりと駆け上り、首を跨いで腰かけると、首筋を親指でなぞってみせた。
「ほら、おじ様はこれで倒されちゃったよ」
フェレイドンの背筋に悪寒が走った。確かに油断はしていたが、子供とは思えない動きだ。
――大した心配もせずに子供を預けたのは、そういうことかよ……。
魔族が高い身体能力を持っているのは戦場で嫌と言うほど知っていたはずだが、その範疇を遥かに超えている。この子が魔族として戦場に出てくることを想像して、フェレイドンは嫌な汗が流れ落ちるのを止められなかった。
「おお、リーンリアは凄いな!」
ナーデレフは拍手をしてリーンリアを称えた。
「えへへ、お父さんといっぱい練習したんだよ」
はにかむように笑うリーンリアは年相応の無邪気さを見せる。
「しかし、スカートで大立ち回りは感心しないぞ」
リーンリアはかあっと顔を赤くして慌ててスカートの後ろを両手で押さえた。
「み、見えた?」
「ああ、もうバッチリだ。さっきから可愛らしいパン……」
「あーあーあー、聞こえない!!」
リーンリアは両手で耳を押さえて目をつぶって大声を上げた。
フェレイドンは頭の上で繰り広げられるバカ騒ぎに頭を押さえたくなった。
「ナーデレフ、あの子のことをどう思う?」
「リーンリアか? とても真っ直ぐに育っていると思うぞ」
ナーデレフの答えを聞いて、フェレイドンは顔をしかめた。
「ったく、お前は能天気だな。俺はあの子が敵になることが恐ろしい」
「心配し過ぎだフェレイドン、少なくとも今は敵対関係じゃない」
ナーデレフはナーバスになっているフェレイドンを落ち着かせるように笑いかけた。
「今はそうでも、5年後、10年後はわからない。今なら俺たちで倒せるはずだ」
「バカを言うな。何もかも台無しにするつもりか?」
フェレイドンがいつもの精彩さを欠いていることに、ナーデレフは気が付いた。
「そうすることで任務よりも大きな結果を残すかもしれない」
ナーデレフはため息をついて、フェレイドンに優しく語りかけた。
「そんなに怖いのなら、あの子に呪いをかければいい」
「呪いだと?!」
フェレイドンはナーデレフの意図を理解できず、訝し気な目で睨んだ。
「これから私たちはあの子と真正面から付き合い。楽しい思い出を残すんだ」
「……それが一体何になる?」
フェレイドンは唖然として尋ねた。
「彼女の心の中に楽しい思い出がある限り、人族と戦うことを躊躇するだろう。それが私たちのできる呪いだ」
ナーデレフの言葉を聞いて、フェレイドンは自分のことを笑いたくなった。
――子供一人を恐れて右往左往した挙句、殺そうなどと考えるとは何たる矮小さだ。そう、とっておきの呪いをあの子にかけてやろう。終生忘れがたき楽しい思い出だ。それが俺たちの任務でもある。




