第16話 記憶の扉
リーンリアはナーデレフに呼び出されて学長室を訪れていた。目の前には学長自らが入れた紅茶が置かれている。リーンリアはカップを持ち上げて、紅茶の香りを楽しんだ。立ち上がる香りは透き通るようにすうっと消えた後、ほんのりとした甘さを感じさせる。ささくれた心を落ち着かせる香りだ。
「この紅茶、美味しいですね」
リーンリアは紅茶に口を付けて目を閉じた。
「ふふん、セレーキア産の最高級の茶葉だ。特別な時しか出さないさ」
ナーデレフは紅茶には一家言あったのだろう。自慢気に茶葉の由来を説明してみせた。
「こんな時に使っても、いいのですか?」
「私はお前のことを妹のように思っている。長い時を経て家族が再会したんだ。これぐらいの贅沢は許されるだろう」
ナーデレフは目を細めてリーンリアに笑いかけた。
リーンリアは瞳から涙が溢れそうになるのを必死にこらえた。
「軍学校にはもう慣れたか?」
「そうですね。訓練は問題ありませんが、座学は勝手が違っていて追いつくので精一杯です」
「これで座学まで成績が良かったら、他の者の立つ瀬がないぞ」
「そんなことはありません。人族にも強い者はたくさんいます」
リーンリアはこれまで戦った者たちを頭に思い浮かべて、真剣な表情で訴えた。
「リーンリアの眼鏡にかなうものがいるとは驚きだ。誰だ? まさかあのナイトくんか?」
「いえ、ナヴィドは強いのか弱いのか、よくわかりません」
途端に自信を失ったように、リーンリアは顔を伏せた。
「まあ、成績では中の中という、平均的な男だからな」
「でも、ナヴィドは私の物差しでは測れない強さを秘めているように感じます」
「ほお、そこまで言わせるとは、少し興味が湧いて来たな」
ナーデレフの表情には好奇心がありありと現れている。リーンリアは自分の失言を悔いた。こんな表情をするナーデレフは興味が赴くままに、きっとナヴィドに対して何かをしでかすに違いない。遠い記憶を掘り返してリーンリアはそう思っていた。
今から5年前、フェレイドンたちの分隊は第2次奪還作戦に参加していた。魔族領に潜入し、魔族の情報を集めると共に、さらわれた人々を連れ戻す任務だった。潜入して情報を集めるにしても、そもそも魔族と人族にはまったく接点がなかった。これまで魔族の情報は捕虜を尋問して聞き出すのが唯一の方法だったのだ。
現に第1次奪還作戦は、何の成果も得られずに失敗していた。魔族領の街に潜入したまでは良かったが、情報を聞き出そうとして人族であることを知られ、這う這うの体で逃げ出したのだった。
それでも再度、奪還作戦が奏上されたのには訳があった。王国は何度も魔族によって攻撃を受けている。防備を固めるには戦力が必要だった。多くの若者が兵士に志願してくれなければ、王国軍は成り立たない。そこで王国軍の活躍をアピールし、国民たちの人気取りをすることが急務となったのだ。
奪還作戦はこうして計画された――。
無謀な作戦で成果も覚束ないが、王国軍が計画し、実行したという事実が重要だった。それでも貴重な戦力を割くからには、少しでも成功率を上げたいと模索するのは人の性だ。そこにもたらされたのが、リーンリアの父親であるユースポス卿からの手紙だった。
手紙の内容は人族と魔族の友好の懸け橋となるために、交流を始めないかとの提案だった。王国にとっては渡りに船だが、罠の可能性も疑われた。これまでまったく没交渉だった魔族が何のためにこんな手の込んだことをするのか、その真意がまったく読めなかった。
結局、無視してしまうには惜しいぐらいの美味い話であり、交渉が決裂しても王国側に失うものがなかったため、ユースポス卿の提案に乗ることとなった。魔族領への潜入は少数精鋭の部隊が派遣された。当時、序列が最も高かったフェレイドンの部隊だ。
フェレイドンたちの分隊は険しい山に囲まれた国境から魔族領へと潜入した。ユースポス卿から道案内としてグレイウルフが送られてきていた。
グレイウルフはついて来いとでも言うようにフェレイドンたちを先導した。魔獣にとっては何でもない道なのだろうが、人にとっては獣道とも言えないような鬱蒼とした森の中を一週間以上も歩き続けて、ようやくユースポス卿の領地にたどり着いた。
山から見下ろす魔族の村は、人族の営みとそう変わるところはなかった。小さな山城の麓に寄り添うように石造りの家が立ち並んでいた。周辺の平地はほとんどが農地だ。初夏を迎えたばかりの農地は、一面が黄金色の麦で埋め尽くされている。時折、通り過ぎる風になびく様は黄金の海のようだった。
「もっと殺伐としているのかと思っていたが、案外のどかなものだな」
フェレイドンは目の前の風景を眺めて、魔族の印象が少し変わったのを感じた。
「女子供をさらうような奴らだからな。どんな化け物が住んでいるかと思えば、いささか拍子抜けしたのは確かだ」
ナーデレフは警戒しながらも、興味深そうに村の様子をつぶさに調べていた。
「我々も人の生き血をすすって生きているわけではないからな」
突然、聞こえてきた声にフェレイドンの分隊は警戒して武器を構えた。
「いや、すまん。驚かせてしまったな。私が君たちを呼び出したヴァトラ・ユースポスだ」
空色の髪を短く切り揃えた精悍な男が立っていた。目の色は血のように赤い。魔族の男だ。いつの間に近寄っていたのか、精鋭揃いのフェレイドンたちでさえ気付かなかったということは、相当腕が立つと見ていいだろう。
「あなたがユースポス卿ですか?」
フェレイドンが武器を収め、分隊を代表して話しかけた。
「そうだ。態々、遠くまで足を運んでもらっておいて、何の歓待もできないが、許して欲しい」
「事情は承知しています。我々はこの後、どこに潜伏すればよろしいでしょうか?」
「我が城へ案内しよう。年老いた侍従と女中がいるが、口の堅い者たちだ。気にせずゆっくりくつろいでくれ」
ユースポス卿はフェレイドンたちを警戒することもなく、背中を見せて山道を下って行った。
フェレイドンたちは顔を見合わせると、肩をすくめた。ある程度の警戒は必要だが、ここは相手の懐の中だ。ユースポス卿の言葉を信じて付いていくしかない。自決用の指輪を弄りつつ、ユースポス卿の後を追った。
城は必要最低限の機能を有しているといった程度の構造だった。こんな山奥の領地を狙う者などほとんどいないのだろう。建てられてから随分時が経っているようで、何もかも古めかしかった。
応対に出てきた侍従の案内で客間に腰を落ち着けたフェレイドンたちは、ここまでの長い旅からようやく一息ついた。
「しかし、ユースポス卿は俺たちを呼び出して何がしたいんだ?」
フェレイドンはすでに椅子に背を預けてくつろいでいる。
「友好の懸け橋と言っているのだ。何かしら提案はあるだろう。手紙には書けない内容が」
ナーデレフは相手の真意がわからない内は、まだ落ち着かないといった様子だ。
扉をノックする音が部屋に響いた。フェレイドンは皆を一瞥すると、返事を返した。
「どうぞ」
扉を開けて飛び込んできたのは空色の髪を肩まで伸ばした少女だった。フェレイドンたちは驚きのあまり声もでない。こんな小さな女の子が何故ここにいるのかとの疑問もあるが、彼女の目が黒かったことに目を奪われてしまったのだ。
「き、君は人族なのか?!」
フェレイドンが言葉を絞り出すように少女に問いかけた。
「ううん、違うよ。リーンリアは魔族と人族のハーフなの!」
リーンリアは髪の毛を手でかき上げ、尖った耳をフェレイドンたちに見せた。
「ハーフだと……、魔族と人族の間の」
フェレイドンは自分が信じていた常識が、崩れ落ちていくのを感じていた。




