第146話 長い旅路の果て
光が通った地面は溶けて赤い道を作った。熱気が肌を焼く。焦げたような臭気を風が運んできた。止めていた息。肺が空気を欲していた。それが喉を焼くとわかっていても。息をせずにいられない。肺に空気を吸い込んでむせた。目を潤ませながらも視線は外せない。赤く焼けた大地の中にそれは立っていた。
皇帝ヴィルヘルムは変わらずそこに立っていた。
フェレイドン将軍はひとつの賭けに出た。国王アーザード・バフティヤールを本隊に残して自らは後方の砲撃部隊に指揮所を移したのだ。それは国王を囮にしてでも皇帝と刺し違えるという不退転の決意の表れだった。国王との間に強い信頼関係がなければ実現できない作戦だ。
パルヴィッツ少将からの報告を受けたフェレイドンはすぐに準備を整えた。皇帝の下に送り出したナヴィドたちを監視して標的の位置を特定し、新型銃による水平方向への射撃で標的を葬り去る。それがフェレイドンの立てた作戦だった。
多くの兵士からマナを収束し、新型銃で撃ち出された光弾はドラゴンの硬い鱗さえも貫く。その威力はこれまでの戦果が証明している。人の身でそれに耐えるなどあり得ない。そうあり得ないはずだ。だが、目の前にいる男はそれを成した。
――身体どころか服までマナで強化されているのかよ。
マナを纏うことで身体が硬化することは理解していた。だが、地面を蒸発させるような熱を浴びて身体に傷を負うどころか、服に綻びひとつないことにナヴィドは場違いな感想を抱く。手に持つ盾や剣が強化されているのだ。別段おかしな話ではないのだろうが、焼け野原の中で埃ひとつついていない姿に強烈な違和感を覚えた。
「化け物か……」
「一国の皇帝を捕まえて化け物呼ばわりは酷いな」
敵の切り札をしのぎ切ったヴィルヘルムは煙を手で払いながら余裕のある態度で答えた。
くるぶしまで溶けた土に足を取られながらヴィルヘルムは一歩一歩、歩を進める。ナヴィドたちから近寄ることができないのだ。彼の方から近付いてくれるのは願ったり叶ったりの状況だ。
――本当にそうか?
――俺たちは標的の位置を特定することが任務だったはずだ。
――切り札を防がれたというのに一体何ができる。
――人の身で神に挑むようなものだというのに。
――抗うことは無意味でしかない。
視線を落とすと、恐怖で手が微かに震えている。死ぬことが怖いわけではなかった。多くの人々の想いを背負ってここまで送り出されたにも拘らず、何の成果も残せないことで、彼らを失望させてしまうことを恐れていた。
震える足を踏み出せば膝から崩れ落ちてしまうだろう。それでもまだナヴィドの心の中には燻るような火種が残っていた。かつて自分自身に誓った決意の炎の残滓だ。それは誰にも消せないものだ。自分が手放してしまわない限り。
長い旅の果てにここまでたどり着いた。故郷の村を焼かれ、両親を失い、妹をさらわれた時、弱くて何もできなかった自分を責めさいなんで散々悔いたはずだ。そんな自分と決別し、自分自身の足で歩き始めた。その歩みまでを嘘にしてしまうことはできない。
――ナヴィド、これまでの旅路を全て無駄にするのか!?
自然と手の震えが止まった。深く深く息を吸い、肺に新鮮な酸素を行き渡させる。頭の中がいつになくすっきりした。視界が明瞭になり、今まで見えていなかったことも教えてくれる。シアバッシュが歯を食いしばり耐えていることを。ヴィーダが杖に掴まりながらも自分の足で立っていることを。オルテギハが両頬を手で叩いて折れそうな心をつないでいることを
そしてリーンリアが今にも飛び出しそうに構えていることを。
――なんだ、俺たちの分隊はまだ戦えるじゃないか。ひとりで絶望して本当に、馬鹿みたいだ。
「こうなったら俺たちで皇帝を倒すしかない。みんなの命を預けてくれ」
ナヴィドは仲間たちに静かに語りかけた。
「元からそのつもり、アタシの命は、ナヴィドに預けている」
オルテギハの答えはいつも耳に心地いい。
「四の五の言わず、早くいい案を出しください。わたしたちがやられない内に」
ヴィーダは甘えを許してくれなかった。
「ったくだぜ。お前えにはそれぐらいしか取り柄がねえだろうが」
シアバッシュの罵倒も今は心強い。
「私という剣を使えるのはナヴィドだけだ。そう信じている」
リーンリアの信頼はいつでも実力以上の力を引き出してくれた。
「シアバッシュ、オルテギハ、やることは同じだ。奴の足を止める。リーンリア、奴のことは熊だと思え」
きょとんとした顔をしてこちらを見るリーンリア。だが、すぐにナヴィドの意図を察した。
「なるほど、了解だ」
赤い池越えてきたヴィルヘルムは戦意を失わないナヴィドたちを見て少し驚いた。力の差を見せつけられて心が折れるだろうと思っていたからだ。同時に彼らが何をしてくるのか興味を持った。ヴィルヘルムに通じる攻撃はない。その余裕のある態度は自信の表れでもあった。
リーンリアの肩に手を置くナヴィド。軍装越しに伝わる体温が心を落ち着けてくれた。振り返れば、ナヴィドの肩に仲間たちが手を置いている。それはマナを分け合うための術ではない。勇気を分け合うための儀式だった。
「行くぞ!!」
ナヴィドの号令に応との声が続いた。
シアバッシュが盾で視界を遮りながら剣を突き出して牽制を始める。眼前の蠅を追うようにヴィルヘルムは手で払い除けた。お返しとばかり突き出された剣をシアバッシュは剣で弾く。いくらヴィルヘルムの剣が全てを貫くほど鋭利な刃であっても剣の腹でも同じというわけにはいかなかった。
二人の間に割って入るように、オルテギハのハルバードが振り下ろされる。勢いに押されてヴィルヘルムは一歩退いた。いつの間にか足元に張られた障壁のスロープを上らされ、段差に足を取られた。わずかな高さの段差。だが、そこに地面があるとの思い込みでヴィルヘルムは思わずたたらを踏んだ。
ヴィルヘルムの視界が真っ白に染まった。何が起こったかわからず、反射的に目を閉じる。瞼の裏側でも光の残像が残っていた。光弾を撃たれたのかと、ようやく理解が追いつく。その瞬間、蛇のような何かが首筋に絡みついた。
それは背後から近づいたリーンリアの細くしなやかな腕だ。その腕がヴィルヘルムの首筋に巻きついて絞め上げる。次いで地面に引き倒され、両手の関節をシアバッシュとオルテギハが極めた。
「な、なんだ。これは!?」
ヴィルヘルムはかすれるような声を絞り出す。
自分に起こったことを理解できずにヴィルヘルムは狼狽した。力任せに拘束を解こうとする。だが、身体の構造に従って動きを制限されている状態ではそれを跳ね除けるほどの膂力の差がなかった。
ぎりぎりと喉が圧迫されていることが感じられる。頭の中に警告が鳴り響いた。呼吸は可能だが、何かが失われているような喪失感を覚える。早急にこの状態から脱しなければいけない。ヴィルヘルムは脱出の糸口を探し始めた。
ヴィルヘルムの絶対的な防御には瑕疵があった。膨大なマナを纏うことで全ての攻撃を弾く硬さを持つ。だが、硬さとは何か。金剛石や鋼鉄のような硬さであればヴィルヘルムは一歩も動けなくなるはずだ。身体や服は元の柔軟性を保ったまま攻撃だけを弾く。そんな都合のいい鎧がヴィルヘルムの持つ能力だった。
その能力の正体は全身を覆う薄い膜のような障壁だ。ヴィルヘルムは無意識に身体の動きに合わせて障壁の形状を変えていた。そしてそれには振れ幅がある。そうでなければ触覚さえも感じられない。だから――
――絞め技なら通じるだろう、皇帝よ。
ナヴィドは地面に倒れてもがくヴィルヘルムを見下ろしていた。彼の死を見届けるためではない。彼に止めを刺すためだ。脱出の糸口を求め続けるなら必ずそこにいたるはずとの確信があった。
ヴィルヘルムはかすれる声を振り絞って詠唱を始めた。ナヴィドが予想した通りだ。全員を巻き込む範囲攻撃呪文で状況を一変させる。彼に残された手はそれしかない。ナヴィドは駆け寄ると左手の抜き手をヴィルヘルムの口に突っ込んだ。
「悪いがそれを見逃すことはできない。俺たちは信じている、この戦いが未来へつながると」
ナヴィドは銃剣で左手を斬り落とした。マナを失った左手は塩となって喉の奥へ流れ込み、気道を埋める。ついに詠唱は完成されなかった。ヴィルヘルムの意識が闇の中に落ちていく。どこまでも深い闇の中へ。
全員が動きを止めたヴィルヘルムをしばらく眺めていた。今にも動き出しそうで緊張が解けないままだ。誰も声を発しなかった。息を忘れるほどの静寂が辺りを包む。
「リーン、止めを」
ナヴィドの声にはっとしたように顔を上げてリーンリアは腕の拘束を解いた。
「さようなら、皇帝ヴィルヘルム」
リーンリアはベルトからダガーを引き抜くと、ヴィルヘルムの延髄に突き立てる。
眩いばかりの光を放つ魂が空へ撃ち上がると、彼の身体は塵へと還った。




