第145話 最強の盾を貫くもの
ハルバードを握るオルテギハの手が力み過ぎて白くなっている。シアバッシュの盾が微かに震えていた。背後に立つヴィーダの手がナヴィドの軍装の裾を掴む。仲間たちは皆、目の前の青年に怯えていた。
皇帝ヴィルヘルム――。
その存在は魔族の中で特別な意味を持つ。真祖と呼ばれる魔族の中で最も膨大なマナをその身に宿す血筋。その系譜から生み出された最高傑作だ。全ての魔族を束ねる最強の力を持つと言われていた。そしてその力の片鱗は経験済みだ。
それほどまでに大きな存在を前にして固くなるなという方が無理だろう。どんな攻撃をしてくるかもわからない。これまでに出会った敵とはまったくタイプが異なるのだから。そうだとしてもナヴィドたちが全力を出せなければ勝てる相手でないことは確かだ。
「リーン、一発かましてやれ!」
ひきつるようなナヴィドの笑顔が自然に見えたかは疑わしい。
「ああ、元より私もそのつもりだ」
強敵に挑むことを心底楽しんでいるようなリーンリアは不敵な笑みを浮かべる。それは自ら弱気になっていた仲間たちの怯えを吹き飛ばすものだった。
ダガーを構えてリーンリアが走り出した。飛ぶような勢いで間合いが詰まる。一筋の閃光が走った。踏み込みの勢いを殺さない速度で斬り込んだ悪くない攻撃だ。だが、ヴィルヘルムはその刃を左手で受け止めた。
ナヴィドたち全員が息を飲んだ。ヴィルヘルムは手甲をつけているわけではない。素手だ。ただ手を出してリーンリアの刃を受け止めたのだ。普通なら指は斬り落とされている。リーンリアのダガーがなまくらなはずがない。彼女はこれまで多くの敵を斬ってきたのだから。
――マナの力、なのか……。
人族も魔族も身体から引き出したマナを武器に纏わせて硬度を増している。元の素材である物質が土台となっていることは変わらないが、切れ味も耐久度も全ての性能にマナの量が影響していた。
武器だけではない。防具にもその法則は当てはまる。盾に込められたマナは攻撃を通さないだけの硬さを持つ。魔獣であるドラゴンの鱗とてそうだ。理論上、全ての物質に膨大なマナをつぎ込めば硬度は増していくはずだ。人の生身でも刃を受け止めるぐらいに。
だが、それは単なる思考実験でしかない。人の身でそれを成すことはできないと思われた。ヴィルヘルムが実践してみせるまでは。
呆れるほど膨大なマナだ。ひとりの魔族の身体に一体どれだけのマナが貯め込まれているというのか。底知れない力を目の当たりにしてナヴィドは足元が一段と重くなったように感じた。
攻撃を防いだヴィルヘルムが剣を横薙ぎに振るう。リーンリアは地に這うようにしてかわすと、前転しながら側面をすり抜けて左足を斬りつけた。当然のことながらヴィルヘルムも身体には傷ひとつついていない。彼の身を包む絶対的な防御力はリーンリアの攻撃であっても貫けなかった。
「みんな、見たか?」
ナヴィドの呼び掛けにリーンリアを除く全員が頷いた。
「ああ、縮こまっている場合じゃねえな」
「リーン、ひとりに、背負わせられない」
「すみません、頭が真っ白になってしまって。強化呪文も忘れていました」
ヴィーダが慌てて詠唱を口ずさむと、光のベールが全身を包んだ。
ナヴィドたちが急に気力を取り戻したのにはわけがある。ヴィルヘルムの放った攻撃が原因だった。彼の防御力は驚異的だ。正直、ナヴィドには攻略の糸口さえ見つかっていない。本来なら絶望する状況だろう。そうはならなかった。何故なら――。
ヴィルヘルムの攻撃が凡庸だったからだ。
いや、凡百の魔族と比べれば確かに速い。攻撃を受けたわけではないが膂力もあるのだろう。マナによって身体能力が底上げされているのは確かだった。だが、絶対的ともいえる防御力に比べれば、攻撃はナヴィドたちが見切れる程度の速さだ。ディミトリエの方が速さも力強さも圧倒的に上だった。
これはヴィルヘルムの怠慢が引き起こした事態だ。彼は圧倒的なマナを持つが故に呪文だけでも十分に軍と渡り合える。これまで対人戦のための技術を磨く必要がなかったのだ。加えてあの絶対防御があれば、どんな状況からも生還可能となる。そのために通り一遍の座敷剣術を身に着けているに過ぎなかった。
「オルテギハ、奴の足を止めろ。シアバッシュは壁役だ。攻撃を受けるときは気をつけろよ」
ナヴィドは矢継ぎ早に指示を出す。
「やってみる、上手くいったら、ご褒美」
「マジかよ。オレももらえるのか? そのご褒美とやらを」
軽口を叩く二人をナヴィドはさっさと前線に送り出した。
肩に担ぐようにしてハルバードを振りかぶったオルテギハは全身のバネを使って斧頭を叩きつけた。狙いは違わずヴィルヘルムの肩口に刃が当たる。大岩を叩いたような鈍い音が鳴り、手に痺れるような振動が伝わった。
ヴィルヘルムは煩わしそうにハルバードの柄を掴んだまま剣を突き出す。オルテギハは手を離して跳び退いた。それを守るようにシアバッシュが前に立ち塞がる。ナヴィドからの指示に従って試しに剣先を盾で受けた。バターの塊にナイフを突き刺すようにするりと剣が盾を貫く。慌ててシアバッシュは後退し、間合いを開けて追撃をかわした。
やはり技量で劣っていても膨大なマナの力で武器の鋭さは段違いだ。攻撃を受けてしまえば、盾であろうが刃であろうが容易く斬れる。ましてや人の身体など何の抵抗もないだろう。気が抜けない相手であることには変わらない。
その隙にリーンリアが背後から忍び寄って延髄にダガーを突き立てる。だが、身体の急所であるはずの場所も刃から伝わった感触は鉄の塊のようだった。ヴィルヘルムの身体には弱点がないように思えた。
――身体には鍛えられない場所もあるはずだ。これならどうだ?
「マナを送ってくれ、ヴィーダ」
ナヴィドは二人分のマナを銃に込めて立射のまま撃った。狙いはヴィルヘルムの赤い瞳だ。いくらマナで皮膚を硬化させようが、瞳の中までは鍛えられないだろう。光弾が顔に命中した時、ナヴィドはほくそ笑んだ。それは一瞬で落胆に変わった。
光弾が命中しても何の効果もなかった。ヴィルヘルムが硬化させたのは皮膚だけではない。身体のあらゆる部分を硬化したのだ。そこに瞳が含まれていないわけではなかった。眩しさで一瞬視界を塞がれたが、彼の反応はそれだけだった。
「くそっ、全身をマナで覆っていやがる。どこにも弱点はないのか?!」
吐き捨てるようなナヴィドの言葉に答えを返せる者はいなかった。
身体中を覆うマナに隙間はない。葉が張りついている場所などどこにもないのだ。これではヴィルヘルムに攻撃が通じるはずもない。
――ならば防御力以上の攻撃を叩きつけるまでだ。
その時、戦場のはるか後方で光弾が空に向かって撃たれた。それはあらかじめ決めてあった準備完了の合図だ。ナヴィドは了承の意味を込めて空に向けて光弾を撃つ。時間稼ぎも十分に行った。後は結果を確認するだけだ。
「みんな、離れろ!」
ナヴィドたち全員がその場から大きく飛び退いた。その穴を埋めるように戦場を貫く光線が撃たれる。それは射線上の敵味方を一瞬で塩と塵に変えて消し去った。光線は地面を削り取りながらヴィルヘルムへと迫る。
そして何もかもを消し去る光の奔流がヴィルヘルムを包んだ。




