第124話 寄せては返す波のように
広大な荒れ地を埋めるように両軍が対峙した。黒山の人だかりはひとつひとつが兵士や魔獣だと思えないほどの数だ。陣形を整えるだけで砂塵が撒き上がり、大地は振動を繰り返した。人の力を結集すれば、これほどまでに大きな影響を与えられるのかと兵士たちを驚嘆させた。
「魔族の強者たちよ。不遜にも我らの領土を侵そうとする不届き者たちに身の程というものを教えてやるのだ。そして良からぬ野心を二度と抱かぬよう、奴らの魂の奥底に恐怖の二文字を刻み込んでやるがよい!」
魔族軍の本陣では皇帝ヴィルヘルムが全軍に対して檄を飛ばす。皇帝の姿を見た者は歓喜に打ち震え、その声を聞いた者は湧き立つ血潮に身を任せた。魔族の真祖たる皇帝が自ら戦場に赴く。その事実は魔族にとって己の誇りを強く抱かせるのに十分な効果となった。
総数20万もの軍勢では皇帝の言葉が直接聞こえている者は極僅かでしかない。だが、次に起こった出来事は即座に全軍に伝わった。それはどこからともなく巻き起こったときの声だ。魔族の雄叫びと魔獣の咆哮がひとつの音となって大気を震わせる。形を持たない巨大な魔獣が誕生した瞬間だった。
先陣を切ったのはいつものようにグレイウルフの部隊だった。俊足を活かして一気に距離を詰めて王国軍へ肉薄する。だが、これまでと異なるのはその背にゴブリンを乗せていることだ。ゴブリンたちは鞍を掴んで小さな体躯を固定させると、スリングを片手に攻撃を始めた。
これまでのグレイウルフの攻撃は素早いだけで経験を積んだ兵士にとってはいい鴨だった。焦りさえしなければ獲物の方から近づいてくれるのだから。だが、今回はひたすら逃げ回って兵士たちに的を絞らせず、遠距離からの攻撃に徹していた。投石によるダメージは大きくないが、飛び回る蠅を追うように厄介な存在だった。
「錘を乗せているんだ。いつもより速度は落ちている。壁を作って追い込め!」
王国軍の士官は部下たちにそう命じた。
グレイウルフへの対処としては問題ない。問題があるとすれば、彼らの目的が撹乱だったということだろう。次に現れた部隊は王国軍の分隊を模したものだった。巨大な棍棒を振り回すトロールを先頭にその周囲をゴブリンが守り、ジャイアントスパイダーが敵の動きを妨害し、マンティコアが後方で攻撃呪文を唱える。それぞれのタイプが互いの弱点を長所で補い合っていた。
これまでの単一種で構成された部隊運用とは一線を画している。魔族軍は勢いに増すように攻撃の圧を強めた。そして彼らが前進した分だけじりじりと王国軍は押されている。このままでは戦況を覆せないほどの距離を後退し、陣形は大きく崩れるだろう。魔族軍から見れば何もかもが上手くいっているかのように思えた。
魔族側に傾いたはずの天秤が元に戻りつつあることに気付いたのは、前線で指揮を執る魔族たちだった。これまで止まることのなかった部隊の足が鈍りつつある。それは彼らが想像していた以上に王国軍が粘り強かったことの証明でもあった。
部隊運用においては王国軍に一日の長がある。たとえ不利な状況に陥ったとしても、分隊のリーダーが個々の判断で臨機応変に対処できるだけの訓練を積んでいた。王国軍は分隊同士が連携し、小隊規模で効率的に敵を撃退するよう動きを変化させた。
ヒーラーたちが障壁を張って投石を無力化する一方でソーサラーたちは面の制圧力を高めるために広域攻撃呪文を放った。マンティコアは攻撃呪文を相殺するのに手一杯となり、前衛に対する圧は弱まった。
この機を逃すほどアタッカーたちはのろまではなかった。敵からの攻撃を受け続け、我慢に我慢を重ねていた彼らは解き放たれた猟犬のように一気に間合いを詰めた。護衛のゴブリンを蹴散らすと、トロールに肉薄してその足を狙う。命中すれば一撃で塩の塊にしてしまうような巨大な棍棒による攻撃も、単体であれば動きの鈍重さだけが目についた。
前衛の支援を行うはずのジャイアントスパイダーはガンナーの狙撃によって次々に屠られている。攻守は完全に逆転していた。今や王国軍は後退した分の距離を取り戻し、更に前進する勢いは止まらない。鷹揚に構えていた魔族たちの間にも戦慄が走った。
「行け、行け、行け! 今こそ好機だ! 足を止めるな、前へ進め!」
王国軍の下士官たちはこれまでの鬱憤を晴らすかのように部下たちを叱咤した。
分隊から発した小さなうねりはやがて小隊へと伝わり、大隊から旅団へ、そして王国軍全体へと広がった。そうしてできあがった大きな波が魔族軍を飲み込もうとする。
その王国軍の勢いを止めたのも、また従来から魔族軍の力の象徴だった存在だった。そう、魔族たちが姿を現したのだ。一騎当千の力を持つ彼らは個の力を遺憾なく発揮し、あっという間に前線を食い破った。
やはり魔族たちの力は身体能力からマナの保有量までどこを切り取ってみても魔獣どもとは桁違いといっていい。彼らは単体で戦況を覆すだけの強い力を持っているのだ。真祖と呼ばれ、最も強き者として敬われている皇帝の血筋を色濃く受け継いでいるだけのことはあった。
王国軍は楔を打ち込まれたように大きく割れ、陣の奥深くまで侵入を許してしまっている。だが、無論これは想定内の出来事だ。王国軍はこれまでも数え切れないほど魔族と戦ってきた。彼らに対する戦術も確立されている。
魔族たちは強いが、決して無敵ではない。膨大なマナを保有しているが、無尽蔵というわけでもなかった。こぶに脂肪をため込んだラクダのようなものだ。身体の中のマナが尽きれば、力を出せなくなる。一対一では決して勝てなくとも、何重にも重ねた紙が水を吸い取るように少しずつ力を削いでいけば良かった。
ひとりまたひとりと大軍に囲まれて魔族が塵に還った。この期に及んでも昔ながらの戦術に固執する彼らにディミトリエ将軍はうんざりとした表情を見せた。それでも彼らが楔となって穿った穴をつなげれば、大岩とて割れるだろう。
「ミハイ、シモナ、部隊を率いて穴を広げなさい。奴らに立ち直る機会を与えてはダメよ!」
副官である銀髪の双子に目配せをすると、ディミトリエ自ら前線に立った。魔族たちの旧態依然とした考え方をどう罵ろうが、己もその一員であることを思い出して眉間に皺を寄せる。多くの魔族たちの魂と引き換えにつかみ取った好機だ。存分に利用させてもらおうと、考えを切り替えた。
まだ昇り切っていない朝日に照らされて、天を衝くような赤い髪がゆらゆらと揺らめいた。それはこれから起こる惨劇の予兆を感じさせる。ディミトリエは燎原の火のように一気呵成に攻め上がった。
ディミトリエの進攻は苛烈の一言に尽きる。立ちはだかる敵はどんなに強大であろうとその拳で打ち砕いた。彼の拳が唸る度に塩が舞い散る。それはまるで演武を見ているかのようだ。
王国軍とてディミトリエの進攻を黙って見ていたわけではない。これまでと同じように何重にも包囲して力を削ごうとするが、脇を固める双子の副官がそれを許さなかった。結果としてディミトリエがこじ開けた穴は後に続いた魔獣たちによって広げられ、手痛い出血を余儀なくされた。
ディミトリエを止められないことに業を煮やした王国軍はついに形振り構わず反撃に出た。それはなんの工夫もない数を頼りにした飽和攻撃だ。だが、単純であるが故に防ぐ方法もまた少ない。攻撃呪文や光弾が雨霰と降り注ぎ、辺りは巻き上がった土煙で何も見えなくなった。
視界が晴れたとき、そこに立っていたのは傷ひとつ負っていないディミトリエだった。魔獣たちは巻き添えになって塵へと還ったのだろう。残っていたのはディミトリエと銀髪の双子の三人だけだった。だが、本命である魔族が生き残っていては攻撃が失敗と断じざるを得ない。
王国軍に怯えにもにた空気がまとわりついた。粘り気のある嫌な感触だ。その中では動きが不自然なほど遅くなった。このまま彼らの好きにさせていては、早晩王国軍が潰走することは想像に難くない。誰かが彼らを止めなくてはならなかった。
いつの時代も魔族軍では英雄が道を切り開いた。そしてその前に立ちはだかるのもまた英雄だった。ディミトリエの前に出てきたのは雛にもなっていない卵ではあったが。
「よう、ディミトリエ。今度は俺たちが勝たせてもらうぞ!」




