第1話 戦場で出会った少女
――戦場での躊躇いは死につながると教えてくれたのは先輩だったな。
得意気に戦場での心得を語った先輩が、ナヴィドの目の前で魔獣に殺された。突然、現れた魔獣の凶暴な形相を見て、すくんで動けなくなってしまったのだ。棒立ちの人など魔獣から見れば、いい的でしかない。狼の姿をした魔獣、グレイウルフは獲物との距離を一気に詰めた。
人よりも巨大な肉塊が目にも止まらぬ速さで先輩に衝突した。その衝撃で先輩の身体は吹き飛び、地面を転がっていった。あの勢いでぶつかったのだ、骨折どころでは済まないだろう。地面に仰向けになった先輩は武器を抜くこともなく、そのまま首筋を喰い千切られた。
大きく裂けた首筋から血が噴き出すことはない。マナが漏れ出す光の揺らめきが見えた後、身体から光の弾が勢いよく飛び出して空に昇っていった。マナを失って身体の構成を維持できなくなり、魂が射出されたのだ。先輩の身体は魂を失い、崩れて塩の柱となった。
兵士たちの身体は錬金術で作られた素体で構成されている。仮初の身体に魂を転移させて、動かしているにすぎない。素体が死にいたるダメージを受けると、魂が射出されて元の身体に戻るのだ。魂が失われれば素体はただの塩の塊に戻ってしまう。
兵士の死だ――。
戦場では戦力の喪失を意味するが、真の意味で命が失われたわけではない。魂が元の身体に戻ると、そのまま復活できるのだ。兵士たちは死に臆することなく戦える。素体は戦場の姿を変える画期的な発明だった。
しかし、なんのリスクもなしに死ぬことができる、そんな都合の良い理は世界に存在しない。射出を繰り返す度に魂は徐々擦り切れ、何かが失われていく。それが何であるか、素体が発明されてから今にいたるまで解明したものは誰もいない。繰り返し行われた実験により、経験としてわかっているだけだ。そしていつか魂が元の身体に戻らなくなる日が来る。
それが真の意味での兵士の死だった――。
そのため兵士には若者たちが多い。個人差はあっても10回前後の魂の射出を経験すると、復活は失敗してしまう。歴戦の勇士たちも決して死からは逃れられない。激戦を潜り抜けた者たちは、やがて戦場を離れて安全な後方で士官となって指揮を行うようになるのだ。
そして新たな兵士が徴兵されて戦場へ送られる。ナヴィドのような若者たちだ。
ナヴィドたちは軍学校から送られてきた生徒だ。戦場を経験することを目的として、比較的安全な後方に配置されていたはずだったが、とんだ初陣となってしまった。
本来なら生徒同士で分隊を組んで戦うのだが、軍学校に入ってまだ1年目のナヴィドたちは分隊を組んでおらず、ひとまとめにされて小隊に放り込まれている。そこでは戦うための覚悟や仲間同士の連携は、まだ育まれていなかった。
――勘弁してくれ、こっちは初陣だぞ。戦場を見て帰るだけの遠足じゃなかったのかよ。
心の中で教官たちに文句を言いながらもナヴィドは目の前のグレイウルフの動きを観察していた。グレイウルフは強靭な脚力によって図体が大きいわりに素早い動きを可能にしている。一撃で喉笛を引き裂いた鋭い牙も侮れない。素早い動きと強力な攻撃を持つとなると、新兵が相手をするにはかなりの強敵だ。
しかし、ナヴィドたちは軍学校の教練で魔獣の知識を学んでいた。グレイウルフの弱点は、しなやかな身体を維持するための防御の薄さだった。手傷さえ負わせることができれば動きが鈍くなって簡単に倒すことができる。熟練の兵士なら数を頼りに難なく倒せる強さだ。
遠巻きに見ていた新兵の一人が、死角からスピアを構えて突っ込んだ。
――上手い、こうして全員で攻撃し続ければ、こちらの有利に……。
死角からの一撃に対して瞬時に反応したグレイウルフは横飛びにかわした。そのまま身体を反転させると、首を振ってスピアごと新兵の腕を噛み切った。
「あ、あ、ああぁぁ、俺の腕が……」
腕を噛み切られた新兵が傷口から漏れ出すマナを押し止めようとして、もう片方の手も失われていることに気付いて絶望の表情を浮かべた。
周囲の新兵たちは最早助からない者を一瞥もしない。新兵たちは魂の射出で死ぬことはない。まだ一度も死を経験したことがないからだ。傷病者に時間をかけている暇はなかった。
「全員でかかるぞ! タイミングを合わせろ!」
小隊長が思い出したように命令を声高に叫んだ。すでに遅きに失しているが、同じ新兵同士だ。多少の失敗は戦いが終わって帰還してから反省会でネチネチと指摘すればいい。今は生き残ることに全神経を研ぎ澄ました。
「行くぞ!」
小隊長の号令と同時に新兵たちは、それぞれの武器を構えてグレイウルフに殺到した。数の力は侮れない。誰かが犠牲になっている間に一太刀でも浴びせればいいのだ。一人が負うべき負担は分担される。ナヴィドはそれほど気負わずに一斉攻撃に参加した。
グレイウルフの身体が沈み込むと同時に上空に跳躍した。新兵たちの囲みを悠々と飛び越え、後ろで指揮をしていた小隊長の胴を噛み切った。即座に魂が射出されて二つに喰いちぎられた身体が塩の柱となった。
――おいおい、冗談だろ、こいつが低ランクの魔獣だって?!。
ナヴィドたち新兵にとってグレイウルフは死神に等しかった。魅入られたが最後その先には死しかない。今まで思い通りに動いていた身体が、急に重さを増した。命の危険がないことはわかっていたが、死の恐怖が失われたわけではないことを、身をもって知ったのだ。
呆然とした新兵たちが一人、また一人とグレイウルフに屠られていく。たった1体の魔獣にこの有様だ。部隊全体がどういう戦況に陥っているかは想像したくなかった。
ついにグレイウルフの目がナヴィドに向けられた。爛々と輝く赤い目は魔族と魔獣の特徴だ。血の色を思い描いてぞっとした。円を描くようにすり足で移動しても、グレイウルフの視線はナヴィドから逸らされない。他人を盾に逃げ出すような無様な真似だけはしたくなかった。
――一度、死を体験するのは、通過儀礼のようなものだと先輩たちも言ってたな。
ナヴィドは先輩たちの愚にもつかないアドバイスを思い浮かべて、腹をくくった。死なない兵士はいない。遅かれ早かれ誰もがいつかは死を体験するのだ。その経験が次に活かせれば、兵士は前に進んでいける。
グレイウルフが地を蹴り、真っ直ぐに突進してきた。ナヴィドは盾を地面に突き刺し、身体を斜めにして衝撃に備えた。グレイウルフが盾と激突し、受け流されるように進行方向をそらした。ナヴィドはまだ華奢な身体つきをしているが、14歳にしては上背がそれなりにある。強い衝撃を受けて盾ごと吹き飛ばされるかと思われたが、相手の力を受け流したことで、なんとか一撃目をしのぎ切った。
――危ねえ、あれを耐えられたのは幸運でしかないな。さて、ここからどうしたものか。
一撃を耐えられたからといって状況が好転したわけではない。グレイウルフは無傷で存在し、ナヴィドには敵を倒す力がない。それは技量と力量のどちらもが欠けていることを示していた。
兵士が持つ装備はマナによって強化される。それぞれが持つマナの量で剣の切れ味が増し、攻撃を防ぐ固い盾ができるのだ。しかし、ナヴィドの持つマナは平均的な量に過ぎない。盾で受け続けるのも限界があるだろう。もちろんその前に攻撃をかわせなくなる可能性も高い。
――くそっ、手詰まりか。何か手はないのか?!
その時、一筋の光がナヴィドの側をすり抜けた。生き残っていたガンナーが光弾を撃ったのだ。
放たれた光弾を避けようとしてグレイウルフが飛び上がった。それを見たナヴィドは迷わず盾を構えて突っ込んだ。落ちてきたグレイウルフの鼻先に盾をぶちかます。急所を強く打ったグレイウルフは悲鳴を上げて地面を転がる。間髪入れずにナヴィドは剣を喉元に突き刺した。
剣先からマナの光があふれ出し、グレイウルフの姿が一瞬にして塵に還った。
魔獣は魔族が作り出した生体兵器だ。根本的な理は人族側の兵士と大差がない。異なるのは魂が身体を動かしているのか、魔石が身体を動かしているのかの違いだけだ。魔獣は錬金術で作られた身体に魔石を核として埋め込み、命令を書き込んでいる。自ら考えて行動させることはできないが、魔石の大きさ次第で複雑な命令が可能だ。魔獣の強さは魔石の大きさで決まるというのが通説だった。
ナヴィドは塵の中から魔石を拾い上げた。親指大の魔石はグレイウルフが低ランクの魔獣であることを示していた。
――低ランクの魔獣に小隊がほとんど全滅か、弱いな、俺たちは。
グレイウルフに殺された同期たちのことを思い出してナヴィドは重い気分になった。戦いが終われば、王都で再会できるのだろうが、これからも続く戦いが憂鬱になることは避けようがなかった。
「援護、ありがとう、助かったよ」
感謝の言葉を口にして振り返ったナヴィドの目に飛び込んできたのは、頭を喰い千切られたガンナーと5体のグレイウルフの姿だった。すでに周りに人の姿を保っている兵士はいない。すべてが塩と化して風に吹き飛ばされていた。
――ああ、俺もここまでか。小隊で最後まで残ったのなら、それなりの結果だろうが。
ナヴィドの心は半ば諦めの境地にいた。これ以上の抵抗は無駄だと悟り、痛みが長引かない一瞬での死を望んでいる。さあ、殺してくれと言わんばかりにナヴィドは前に進み出た。
「はあああぁぁっ!」
突然、掛け声と共に上空から落ちてきた青い閃光がグレイウルフの眉間に突き刺さった。
断末魔の叫びをあげるグレイウルフの鼻先を蹴り上げて地面に着地したのは、長い布を頭に巻いて艶やかな空色の髪を後ろに垂らした小柄な少女だった。
少女の一撃でグレイウルフは塵に還った。残る4体は臆することなく、少女に対して攻撃に移った。いや魔獣には元々そんな感情なんて存在しない。魔石に刻まれた命令に従ったのみだ。
残った魔獣たちは連動して互いの隙を消すように攻撃を仕掛けた。ナヴィドが見てもほれぼれするようなコンビネーションだ。新兵たちが同じ領域に達するには長い訓練が必要だろう。
少女は自ら駆け寄ると、噛みつこうとした鋭い牙をかわして地面に滑り込んだ。巨体の下を潜り抜ける間にダガーで心臓を一刺しする。そのまま勢いを殺さずに前転して、ばね仕掛けのように飛び上がり、弧を描いて立ち上がった。
間髪を入れずにグレイウルフが立ち上がった少女の背中から突っ込んでいた。少女は振り返ることもなく大木に向かって走り出し、幹を駆け上がって宙返りをした。そしてグレイウルフの背中に跨ると、首筋を一文字に切り裂いた。
ナヴィドが立ちすくむ間に3体のグレイウルフが塵に還った。少女の強さは圧倒的だった。こんな小柄な身体のどこにそんな力が眠っているのかナヴィドには不思議でたまらない。その一挙手一投足に目が奪われる。
これが兵士の到達点なのか。それが自分の同じ年頃の少女だったとしてもナヴィドは憧れを抱くことを止められなかった。
残った2体のグレイウルフは少女の隙をうかがって相対しながら円を描くように回り始める。しばらくして焦れた2体は同時に攻撃を仕掛けた。前から突っ込んだ1体は死角から顎を蹴り上げられ、その場で巨体が一回転して地面に落ちる。少女はそのまま勢いで空中に飛び上がり、後ろから突っ込んできた1体の頭上に蹴り上げた足で着地した。流れるような動きでダガーが眉間に吸い込まれる。
すでに残ったグレイウルフは1体だ。もう少女の勝利は揺るがないだろうと、安心したときだった。グレイウルフが少女の動きを追って向きを変えると、その尻尾が新兵の成れの果てとなった塩を振り撒いた。塩が辺りに飛び散り、少女の視界を遮る。
「きゃっ!」
少女の口から見た目通りの可愛らしい声が響いた。
ナヴィドは咄嗟に握っていた剣をグレイウルフに投げつけた。回転しながら飛んでいく剣を追って、盾を構えたナヴィドも突っ込む。投げつけられた剣をかわしながらもグレイウルフは鋭く尖った爪を振るって少女の腕を切り裂いた。深くえぐられた傷から赤い血が飛び散る。
――赤い血だと、彼女は素体を使っていない!?
戦場で戦う者は誰もが素体を使っている。それは人族も魔族も同じだ。死んだとしても魂が元の身体に戻るだけの仮初の身体のはずだった。その魂が失われるまでは。
しかし、目の前の少女は生身だった。傷つき、死ねば、そこで命は永遠に失われてしまう。ナヴィドはグレイウルフと少女の間に身を滑り込ませると、盾を構えて少女の姿を隠した。
「助太刀する。俺の声に従ってくれ!」
突っ込んできたグレイウルフに対して身を低くして盾を構える。盾に隠れていた少女の姿が見えるようになり、グレイウルフは攻撃対象を変更した。グレイウルフがナヴィドの上を飛び越えようとしたときに、渾身の力で盾を思い切りかち上げた。
「上だ!」
踏ん張りがきかなくなったグレイウルフは、足をばたつかせながら空中で前転した。少女は空中に飛び上がると、グレイウルフの背中にダガー突き立てて背骨を断ち切った。
最後の1体が塵に還り、辺りに静寂が戻った。
「ありがとう、助かったよ。ええっと、俺はナヴィド。キミの名前を聞いていいかな?」
まだ、少女が敵か味方かわからないが、少なくとも怪我をしてまでナヴィドを助ける義理はなかったはずだ。少女の行動と結果を信じるならば、話は通じるだろう。
「リーンリアという。お互い命を拾ったようだな、ナヴィド」
リーンリアが挨拶と共に右手を差し出してきた。ナヴィドはリーンリアの手を握った。細く長い指だが、何度もマメをつぶしたようにごつごつとしている。その手に長い修練の跡を感じ、ナヴィドは少女が見た目通り美しく繊細なだけではないとの思いを新たにした。
リーンリアは固く握り返すと、その手を引き寄せた。思いもよらない行動にナヴィドは前につんのめる。リーンリアはそのまま左の拳を下から突き上げるように放って、ナヴィドの顎を撃ち抜いた。
――えっ!? 俺、なんで殴られているの?
薄れゆく意識の中で慌てたように口に手を当てるリーンリアの姿が見えた。
地面に転がったナヴィドの意識は真っ白に塗り潰され、そして途切れた……。