01
頑張る素朴な少年クロルが可愛いだけのお話です。
ぼくはいったいどうしたらいいんだろう?
小さな町のとあるお店の前に立ち尽くす小さな獣人。
彼のつぶやきは誰の耳にも届かない。
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小さな、たぶん犬の獣人が詰め所前をうろうろしている。迷子だろうか?
「何かご用ですか?」
そう声をかけるとビクッと身を硬くして振り返り、慌てながら喋り出した。
「あの、ぼくっ!お世話になるはずの人が…来たらいなくて!!それでっ、あの、そのっ!!」
まずは落ち着かせるべきだろう。お話は中で伺います、と言って応接室に案内した。簡素なソファを薦めると驚いたように耳が忙しなく動く。やましいところがあるようにも見えないのだが。
薄茶色の長い髪にこげ茶色の瞳。くるんと巻いたしっぽは不安げに下ろされている。見た事がない服を来ているので遠くから来た事が察せられる。
迷子か誰かの悪事を目撃したか、お使いで預かったお金を落したか。そんな想像を巡らしながら隊長を呼びに行くが、ランクス隊長は入れ違いに外出していた。
代理でコルヌ副隊長に来てもらって話を聞くと、働きに来たのに働く予定だった店がなくなっていて店主もどこへ行ったか分からないと言う。騙されて借金を背負わされて夜逃げした食堂のお人好しなおやじの事だと分かった。副隊長の後ろから紹介状をのぞき見たら住居と食事があれば賃金は少なくて良い、未成年なので見習いから頼む、と言う様な事が書かれていた。
あの食堂のおやじだったらひどい扱いを受ける事は無かっただろうが、こんな条件で他の仕事を紹介して大丈夫なのか?異様に緊張している理由は何なのか?
コルヌ副隊長が俺を振り返って
「この子が緊張してるのはルーを怖がってるんじゃないか?」
俺は銀髪で瞳はアイスブルーの狼の獣人。確かに人から怖い、無愛想、何を考えているのか分からないと言われる。だからと言って何もしていないのにそんなことを言われるのは心外だ。野牛の獣人であるあんたの方が怖いだろ。
「ぼくっ、柔らかい腰掛けなんて座った事がなくて!」
俺が反論する前に、弾かれたように立ち上がって説明する。こんな簡素なソファが緊張する程柔らかい?
聞けばこの小さな犬の獣人クロルは辺境の貧しい小さな村の出身で、元々貧しかったのに最近の天候不順で1日1食の食事も侭ならなくなり、薬草を買い付けに来る人に働き口を紹介してもらい、この町に来たそうだ。それなのに辿り着いた店は潰れ、店主は行方不明で途方に暮れていたらしい。買い付け人とは隣の宿場町で別れたので連絡がつかないと。
貧しい暮らしでは腰掛けに長く座っていられる時間的な余裕はなく、せいぜい機織り用の腰掛けに草で編んだマットを敷くぐらい。普通に座るだけなのに座面を柔らかくするなんて考えた事も無いらしい。
「クロルです! 田舎者で読み書きはできないけど健康で働き者です!」
買い付け人に教えられたであろう口上を述べ、深々と頭を下げる。この純朴すぎる少年の行く末を思うと俺まで不安になった。
「働きたいのならちょうど良い、この詰め所の雑用係を捜していたんだ。仕事の内容は掃除、洗濯、届け物、料理の手伝い。部屋はここで一番下っ端のルーと相部屋になるが、どうだ?」
確かに目の届く所に置いた方が良さそうな危なっかしい少年だ。しかも雑用は1番の下っ端隊員がやる事になっていて1ヶ月前に入隊した若者は思ってたのと違う!と2週間で辞めてしまった。だから現在、ルーが雑用をやっている。それを専属でやってもらえるし、1人分の雇用の空きもあるので予算も問題ないのだろう。
クロルを見るとキラキラと目を輝かせ、しっぽを千切れそうな程振って副隊長を拝んでいる。
「あっ、ありがとうございます! 一生懸命働きます!」
クロルがそう言葉にしたのでルーが世話をする事が決まった。
荷物もなく着の身着のままのクロルを部屋に案内する。
部屋の左右にベッドとチェストがあり、真ん中に洗面台が1つ。洗面台は桶に水を汲んで来て使う。クロルのベッドとチェストは右。シーツは倉庫の棚にあるから後で教える。
「ベッドが2つもあります! 1人で1つのチェスト使って良いんですか? ベッドのお布団が柔らかいです!!」
ベッドが1つでは相部屋にならないだろう、と言うと村では家族全員が1つのベッドで眠ると言う。風習の違いだろうか。
トイレは廊下の突き当たりだと教えれば
「建物の中にトイレ!?」
食事が毎日2食と聞けばまた驚き、調理場で使う薪の量に驚き、鍋の材質に驚く。
「鍋って動物の皮でできてるんじゃないの?」
と言われたが動物の皮でできた鍋なんて聞いた事が無い。
事務仕事をする部屋、応接間、医務室、倉庫、調理場に食堂、職員の居室。隊長、副隊長、医師は1人部屋でそれ以外の隊員は2人部屋。全部で12部屋だが両手の指を超える数が数えられないらしい。
風呂も知らず、お湯で体を洗う場所と教えたら村でお湯を洗うのは生まれたての赤ん坊と新郎新婦だけだと言う。
「タライにいっぱいお湯を入れて使えるんだよね?」
森の近くの村らしいのに使う薪の調達にも難儀しているようだ。
ひとつひとつ律儀に驚くクロルが黙り込み、うぅっ、と小さなうめき声を上げてしゃがみ込む。何か悪い物でも食べたのかと医務室へ運ぶと栄養失調で普通の食べ物が消化できないとの診断だった。働くはずだった店が閉まっていて途方に暮れてたら隣のお店の人がパンをくれたのでそれを食べたそうだ。その前は野草や虫をとって食べながら歩いて来た…と。
昆虫を食べる文化はあるが、生食…? 虫の生食は平気でパンで腹を壊す…?と、想像してげんなりしてしまうのは仕方がないだろう。
胃薬を飲んで、夕飯も少しは食べないといけないと言われ、料理長への指示書をもらった。
クロルには部屋で休むように言って料理長に指示書を届ける。
スープは2倍に薄めて具は良く煮込んだ野菜だけ。毎日少しずつ量を増やし、肉も少しずつ食べさせる。油はなるべく使わない。料理長は黙って頷くとクロルの食事を用意した。
部屋に呼びに行き、食堂で集まった面々に挨拶をさせる。
「犬の獣人のクロルです!12歳で成人前ですがしっかり働きますのでよろしくお願いします!!」
1人ずつ簡単な自己紹介をした後、みんなで揃って食事をとる。ここで働く職員は10人しかいないので料理長以外は全員揃って食べる。料理長は奥さんと子供がいるので、ここで作って持って帰って家で食べている。副隊長も既婚者だが単身赴任中だ。
パンとスープとサラダとステーキ。メインは大抵ステーキだ。肉の種類と味付けが変わるが、隊員達が肉のかたまりを好むので必然的にそれが多くなる。その中でクロルの前には肉も入っていないスープだけ。狐の獣人のルナール先生が隊員達に食事療法の説明をし、勝手に食べさせないよう釘を刺した。
皆ががつがつ食べる横でゆっくりよく噛んで飲み込むクロル。一口ごとにうっとりと味わう姿に目を奪われ、和む。食べ終わったクロルが
「こんなに美味しい物が、毎日食べられるんですか?」
なんて言うから…
この子が美味しい物を好きなだけ食べられるようにしてあげたい!とみんなの心が1つになった。
入浴時間は食後。遅くなると湯が冷めるので早めに入った方が良い。
「備品のタオルは脱衣所に置いてあるのを自由に使って、使い終わったらそっちのかごに入れる。明日クロルが洗濯するんだ。」
「1度使っただけで洗うの!?」
「汚れが少ないうちに洗った方が楽だろ?」
服も洗える物は毎日洗え、と言ったらこれしかありません!って…そう言えば荷物も無かったな。また着るならここに置いて、と棚を指差す。
…簡素な服を脱いだクロルは下着を履いていなかったが、質問は憚られた…。
風呂場に入ると
「お湯がこんなにたくさん!体にかけただけで流すの!?1人何杯使っていいんですか!?」
驚き続けるクロルに風呂の使い方を教える。
洗い場で体を洗って湯船の前で掛け湯をしてから入る、と。世話焼きのシェーブルが長い髪を洗ってやるが、1度ではまるで泡が立たず、3回目にやっと泡が立った。
体を洗っている隙にタオルを持って来てクロルの長い髪をクルクルまとめてタオルで器用に包み込む。湯船に髪を入れないのがマナーだと教えた。
いざ湯船に入ろうとすると熱い湯に体を付けた事が無いからなかなか入れない。
足首まで入れては怯み、反対の足を入れては怯む。隊長が桶でザバッとお湯をかけると飛び上がって驚く。いい大人が何やってんだか。
結局湯船に入れないままのぼせそうになったので、明日はもう少し湯が冷めた頃に入る事にした。シェーブルが丁寧に髪を梳りオイルまで塗込んでくれた。ルナール先生から水分補給をするよう言い含められ、部屋に戻って水を飲んだ。
部屋に戻ってもベッドに入りたがらない。そう言えば着がえも無いので昼間着ていた服をまた着ているが、かなり汚れている。洗い立てのシーツを掛けた布団で汚れた服を寝間着にするのは確かに気が引けるだろう。
俺の寝間着のシャツを貸す。肩幅が狭く長袖では無理だろうと半そでを引っ張り出して着せる。ボタンを一番上まで留めてようやく肩が落ちない感じだ。シャツなのに膝下のワンピースに見える。そして半袖は七分袖になった。
ここでさっき気になった下着を履かない理由も聞いてみた。
「下着は成人したら履く物です。成人前はこのズボンだけで、しゃがむとここが開いて用が足せるんです!」
脱いだズボンを持ち上げて股が割れている作りを見せる。
「膝上までのシャツを着るのでここは見えません!」
小さい子供なら良いが、成人ギリギリまでこれを履くのか?と思ったのが顔に出たのか、機能性の高さを説明する。
この町でこの服はダメだ。
明日、隊長に相談しよう。
とにかく寝ろとベッドに押し込み、灯りを消してしばらく経ってももぞもぞしていて寝息が聞こえて来ない。
「眠れないのか?」
「今までずっと家族全員、1つのベッドで寝てたんです…。ひとりは…ぐすっ…寂しいです…」
耳をへにょりと伏せて涙を堪えるクロル。
俺はため息をついてベッドに招き入れた。俺は末っ子だから自分より小さな誰かと一緒に寝た事は無いんだが、寝返りで押し潰してしまわないだろうか?
クロルはニコニコしながら
「ありがとうございます!
ルーさんはお父さんより大きくてかっこよくて優しいです!」
俺はただ、そうか、と言った。