青春になりたかった
センター試験まであとわずか、勉強は疲れたもう嫌だそうだ現実逃避しよう。
一枚の卵の絵。その絵に描かれた卵が割れて、中身が出てくる動画を見た。
動画投稿サイト。
日々無数にアップされる動画を鑑賞したりできる所だ。私がまだ小学校に上がったばかりの時、まだパソコンやスマートフォンといったような万能ツールを持ち合わせていなかった私は、よく私の両親が留守の間父親のパソコンを借りてみていた。
そこで見つけたのがその動画だった。
一枚の卵の絵に、筆が入り、ひび割れて中身が出てくる様をだんだんと描いた十分程度の動画だった。が、その十分の動画ほどに私の心を動かしたものはなかった。
その動画を見つけたのは小学生低学年の夏。
私が小学生低学年のころ、目玉焼きや卵焼きを自分一人で作れるようになったのが何よりの自慢だった。「火はまだ危ないから使っちゃだめよ」と同級生は未だ言われ続けている中で、出来た自分は何かそういう才能が有り特別なものを持っているんじゃないかと、その当時は毎日思っていた。ショートヘアが昔からのトレードマークだった私は、どちらかと言えば男の子たちとよく遊んだ記憶がある。小学低学年では男女の力の違いはあまり顕著ではない。だからそんな力のことなんか気にすることなく公園を駆け巡っていた。それに加えて私は生き物が好きだった。学校にいた数少ないメダカを私は誰よりも早く見ようと学校に通っていた。ウサギのエサやりをしたいがために飼育委員に自ら立候補したほどだった。男勝りともいわれながら、それでもちょっとした料理もお手伝いもできる、いわゆる何でもできる子だった。
そんな私の転機も同じく動画だった。
その日も両親の留守を狙ってパソコンに飛びついた。以前に見た卵が出てくる絵、あるいはそれ以上の感動を味わいたくて私は検索キーワードに、「卵」「凄い」そう打ち込んでエンターキーを押した。
目の前に現れる無数の動画。そのすべてが私を素晴らしい興奮のただなかに導いてくれるものだと信じて疑わず、まるで初めて小学校の屋上の鍵のかかった扉にくすねてきた鍵を差し込むかのように、私はその動画を見つけ出したのだ。
卵の殻にストロー大の大きさの穴をあけそこに棒を差し入れミキサーのようにかき混ぜるという外国産の料理器具の動画のようだった。外国語で解説が行われていたので内容はよくわからないが、それでも映像とわずかな日本語の字幕だけで十分だと思って何が起こるのかワクワクしながら見ていた。卵に小さな穴をあけ、中の黄身と白身を崩して取り出して殻を別のことに使うという動画も以前見たことがあったのでその類のものだとどこか頭の片隅でその先を予想しながら。動画では卵に穴をあけ、棒を差し込み、卵の中をかき混ぜようとする。しばらくかき混ぜ棒が回ったところで、唐突に卵に大きなひびが入ったと思うと卵の殻は、いともあっけなく砕け散った。
卵の中には、まだ孵化していないヒヨコが入っていたのだ。動画の中では黒い何かが辺りに飛び散っていた。何が起こったか一瞬で理解できなかった。それどころか何か面白いことが起きたんじゃないかとその後の成り行きを目を凝らしてみていた。その後に画面の下を流れる字幕を見てようやく私は自分が今見ているものが何なのかを知った。「卵の中にヒヨコが入っていたwww」私はその時大きな悲鳴を上げて、乱暴にパソコンを閉じ、ベットに飛び込んで毛布をかぶって泣いた。
私はその日、夢を見た。
ピキッ。卵に小さなひびが入った。私はそのひびが見える場所に顔を運んでその卵を割る。その卵はかつて見た動画と同じように透明な白身に包まれた黄身が勢いよくフライパンの上に落ちた。ジュワっと白身が沸き立つ音が心地よく耳に響いた。それに興奮し、ピョンピョンと飛び跳ねながら調理をしていた。
私の前には大きな鏡があった。その鏡にそれは映りこんでいた。私が、卵を割り、焼いて、それを食べている姿。無邪気に笑顔でそれを行う私に、私は悪魔を見ているような気分になった。
その夢は私のトラウマとなったのだ。
最も顕著な症状は料理が全然できなくなったことだ。お味噌汁の作り方を教えてもらおうと包丁を握る。それまでは良い。野菜を細かく刻む。それも問題はなかった。ただ、鶏肉がさばけない。魚がさばけない。
卵を見た日にはトイレにこもって嘔吐さえした。
そして私は生き物すらもあまり触れたくはなくなった。遠くから眺めている分には何の問題もない。ただ、それを捕まえようとしたり、エサをあげることさえ恐怖を感じた。
いわゆる何でもできる子は、ほころびを見せ始めた。何もかもがことごとく変わってしまった。私が友達だと思っていた人たちの目には、空高くから舞い落ちる雪のように、儚く見えていたのかもしれない。空ばかり見上げる少年少女たちの目に、何時からか私は映ってはいなかったのだ。
そんな私ですが今日、地元の高校に入学します。小学生の時に背負ったトラウマによっていろいろ苦労させられましたが、今日からはそんなトラウマなんか関係なく、今日高校デビューを果たします。青く晴れ渡る空の下、桜舞い散る桜並木の通学路の途中、多くの高校生たちが行きかう中、私は心の中で何度もそう宣言する。
高鳴る胸を背中が反り返るほどに張って、硬直した頬を隠すことも忘れ、私は桜並木を歩いた。私はその途中何度もせわしなく辺りを見回していた。誰かに声をかけよう。おはようと一声かけるだけでいい。そうしたらそこから話を続けよう。そう思ってはいるものの、誰に話しかけようか迷ってしまう。自然と、探しているのは自分と同じ歩幅で歩いている人になっていた。そして、桜並木を通る一人の青年に狙いを定める。さりげなく、その青年のすぐ後ろまで駆け寄り、青年と同じ速さでしばらく歩いた。小学校高学年から、全然伸びなくなった身長のせいだろうか、青年の背中がものすごく大きく感じた。彼の顔を覗き見る。イケメンとは言えないけれどそれなりに整った顔立ち。運動部のような熱烈な雰囲気を漂わせているわけでもなく、いたずら心が満載そうな少年のような人というわけでもなく、人が良さそうな人だった。そして何より、歩いていて息苦しくなかった。
「あ、あのっ!」
声を出してみれば以外にも大きな声をすんなり出すことができた。その大きさに少しだけびくつきながら、「おはようございます」と付け加えた。
しかし青年は、私のあいさつなどまるで聞こえていないように何の反応も示すことはなかった。頬の硬直が予期せぬ形で解かれ、私の視界は忙しく動く彼一色になった。私は慌てて彼に手を伸ばそうとすると足が地面に張り付いているような違和感があった。「いたっ!?」とその小さな悲鳴と同時に彼の背中が一瞬だけ真っ赤に染まる。そして目を開けると桜並木が続いていた。整備不良か何のためか桜の木の値が歩道に張っていたのだ。それにつまずき転んでしまった。慌てて彼の方に目を向ければ、その背中は意外にもまだ近くにあった。少し走れば間に合うだろうと、私は立ち上がろうとして体に鞭を打った。昔味わったような、傷口が風に撫でられるような鮮明で鋭い痛みとは違い、鈍い痛みが波打つように迫ってきた。足首をひねったのかもしれない。慣れない痛みに私の膝は折れた。彼の背中が、桜並木の向こうに消えたとき、私の頬はまた硬直した。
「クスクス」と、ささやきが私の耳をくすぐる。振り返ってみると、三人の女の子が私を見ながら笑っていた。そして私の視線に気づき目をそらすが、また三人で笑いあって私のすぐ横を通り過ぎた。
羞恥に身を焼かれ苦し紛れに立ち上がろうとするが、うまく立ち上がれない。左足が、動かなかった。
「クスクス」と、ささやきが私の周りで生まれる。それは周りの人に伝播するよりも前に私の中に侵食してきた。
耳を塞ぎたくなった。その「クスクス」というささやきから少しでも逃れたくなって、必死に耳を塞ぎ目を固く閉じて―――。
どのくらいそうしていたのだろうか、目覚ましが鳴った。脂汗で濡れた手で頭を掻き毟る。せっかく整えたショートヘアも寝起きのように乱れ、あくびでもかみ殺したかのように目元は赤かった。
私の目覚ましは、入学式の開始を告げる鐘の音だった。
さっきまで私を満たしていたものは、いったいどこに行ってしまったのだろうか。私は抜け殻になったような気分でずっと地面を見ながら、歩いて登校した。
足を引きずり、桜並木をようやく抜け、校門を潜る。新な生徒たちの門出を祝う式典はもうすでに始まってしまったらしい。私は校門のすぐ近くで立ち尽くしていた。太陽は無情にも羞恥心と劣等感で心を焦がす私をくっきりと地面に縛り付けた。
「幸先、悪すぎですね」
その言葉はため息と一緒に、地面に縛り付けられた私に吸い込まれていった。でも、地面に縛り付けられているというのに、私自身はここではなくもっと別の場所にいるのではないかとさえ感じていた。私の靴の中で小石が遊んでいた。転んだ時にでも入り込んだのかもしれない。それは校門に入ってから気付いた。それはまるで夢かどうかを確かめる時、頬をつねるような痛みの類で、私はその小石をもっと強く踏みしめた。鈍い痛みがよく知る鋭利な痛みへと上書きされていく。いっそのこと裸足で歩きたい、とさえ思った。
幸先の悪い一日がまるで私を地に縛り付けているかのように続いた。幸先悪く友達作りに失敗した。幸先悪く自己紹介も失敗した。
私の高校デビューは完全に失敗したのだ。
「生物環境係、誰かいないか?」
クラス委員長が必死に役員を振り分けていく。ただ、どうも生物環境委員は人気がないらしい。朝早くに来て毎日動物の世話をするのは気が引けるのだろうか。
「西村さん、そういえば昔動物の世話をするの好きだったよね?」
小学生からの同期もまた、偶然この教室にいた。中学生の時もこんなやり取りがあった気がする。その声を聴いて委員長の顔が少しほころぶ。まるで聞きなれたレコードを無理やり聞かされているような気分になった。
「じゃあ、やってもらえないかな?」
そして私は、生物環境係になった。
誰とも馴染めないまま、初めの数週間は本当にあっという間に過ぎた。ある日偶然生物の先生と廊下をすれ違った。
「ああ、西村、生物係だったよな?次の生物の講義は教室でやると言っておいてくれ」
その先生の言伝に私は頷いた。
「なあ、次の時間って生物だよな?さっさと行こうぜ」
授業が終わるなり、そう男子生徒が話す声が聞こえる。
「あの……。次の時間の生物は教室でいいそうですよ」
「あれ?そうなの?」
そんじゃ購買にいってくるかなと、そう頭を掻きながら男子が何人か出ていく。今の会話はクラス全員に聞こえたはずだ。その考えを確信させるようにみんなこの教室で各々の準備を始めた。
「あはは」
私はいったい何なのだろう?
天から降ってわいた疑問を私は自分に投げかけ、私一人しかいない空っぽの教室で、自虐的に笑う。
「ねえ、そういえば前の授業で先生が実験するから実験室に集まれっていってなかった?」
たった一人が、そう告げただけであった。それだけで、私の言葉は、先生の言葉は覆された。先生の言いつけをしっかりと伝えて、それでも教室には誰もいない。
どうやら彼らにとって私は無でも透明でもないらしい。彼らにとって私は汚れたフィルターのようだ。
先生の言葉も私を通してみんなに伝わるとそれはただの不確かな記憶にすら劣る発言力へと変わるらしい。
ああ汚れたフィルターだ。もう笑うしかない。
「あは、アハハ、あははは…………」
青春とは何て美しい言葉だろうか。
学生が行うことはすべて青春。若き日の一ページだ。その青春という言葉は、学校生活の大半を占める勉強、その退屈極まりない教科書さえ美しきバラ色の青春の一ページへと変えるのだ。青春に憧れるのもいい。そうだこれは青春なんだ。これも青春なんだ。こんな経験だって貴重な青春の一ページじゃないか。ただ、今までの人生に、今までと変わらない日常に、変えることのできない世界に、青春という言葉をかけて精いっぱい美しく見せようとしてるに過ぎない。
「…………」
ああ、ああそうか。
私は初めて青春という言葉が心の底から美しく、羨ましく感じた。
青春というものにではなくその性質に憧れたのだ。
「………私も、青春になりたかったな」
新しい環境になれば今までの自分を一新できるなどという考えに身を任せたのが間違いだった。私が変えなくては駄目だった。もっとみんなと話す機会はいくらでもあったのに。さっきだってみんなをしっかりと引き留めることだってできたはずだ。だというのに、何でこんなにも駄目な人間になっているのだろう?卵の中でヒヨコがぐちゃぐちゃになる動画を過去に見た。たったそれだけのことが、いったい私の何をどう変えてしまったのだろうか。
「…………ひっく……」
自虐的な笑みが嗚咽に変わるまでそう時間はかからなかった。勇気が出なかった。喉の奥には数百の言葉の種が詰まってるのに、それは一向に言葉には出てこなかった。
時計の針の音がうるさいくらいに耳を叩く。いつの間にか嗚咽は止まっていた。でも、前を見る気にもなれない。膝の上に乗った、爪の痕が残った手のひらを呆然と見つめていた。ガラガラというドアが開く音に時計の音がかき消された。私はぎょっとして顔を上げ、そして驚く。背の高いあの青年が戻ってきたのだ。青年は周りに誰もいないことを気にした様子もなく、自分の席についた。そしてそのまま授業の準備だけをして呆ける。もしかして彼はみんなが実験室に行っていることを知らないのだろうかとそんな疑問が浮かんだ。手のひらの爪の痕がさらに深まる。何とも言えないもやもやとした感情を抱えながら、「あの」と気づけば私は彼にもう一度話しかけていた。
驚いたことに、初めて出会った時とは違う反応が返ってきた。彼の横に立つ私の顔を、彼は見上げた。ただ、私にはそれよりも驚くことがあった。だからきっとひるむことなく対応できたのだと思う。
「先生は前回の授業で実験をやると言っていましたのです。だからみんな実験室に行ってますよ。行かなくていいのですか?」
爪の痕が明確に痛いと思えるほどに、さらに深まり、手のひらが湿る。それがはたして血なのか汗なのか私にはわからない。
「あれ?でも今日って教室なんだよね?」
「…………そうですよ」
私はその時初めて自分の手を湿らせていたものが汗だということに気付いた。そういえばまともに彼の言葉を聞いたのは初めてのように思う。そう意識した時、私の彼に対する心が初めて明瞭になった。
そしてまた朝が来た。目覚めはあまり良くない。寝癖を直す余裕もなく、あくびを噛み殺し、目をこすりながら登校していると、背の高い青年の背中があった。昨日のこともあってか少し心をくすぐられ、頬がほころぶ。新しい生活を望んでいたときのあの光景を彷彿とさせる光景だ。
どうせ、応えてはくれないだろうと、そう思って、しかし昨日の爪の痛みをありありと思い出しながら、私は彼の背中に「あの」と声を掛けた。彼は急ぐ足を止めて振り返った。眠そうな顔をして、寝癖の付いた髪をさすりながら、それでもピンと背筋を伸ばして彼は私を見た。驚いて、言葉が詰まる。ただ昔の自分に馬鹿と言いたい。その感情だけを抱いて、それだけを抱くと決めると種はすぐに吐き出せた。「おはようございます」と。
時は過ぎて、四月の終わり。初めての生物環境委員の会合だ。私のクラスからは私とあと一人。「あなたも生物環境委員だったのですね」というような視線を隣に向けた。
「役員を決める日に学校欠席したらこの役員になってたんだよ」
「きっとめんどくさい仕事は休んでる人に任せちゃおう心理が働いたのですね」
「どんな心理だよ」
未だに学校で話せる人は少ないが、彼とは軽い冗談が話せる程度には関係を持てた。ただ、今日の冗談は、少しだけ心に刺さった。
「それでは自己紹介をお願いします」と、凛とした声で委員長が発言した。委員長が取り仕切る会合はまだ始まったばかりだ。三年生から順々に自己紹介を済ませていく。やはり一番面倒くさいという烙印を押される委員会だけあって、運動部系の人はいない。そんなことを思っているうちにすぐさま自分たちの番がやってきた。
「西村咲です。よろしくお願いします」
型に倣ってそう挨拶を済ます。
「西村咲という名前なのか。初めて知った」
「四月終わりにクラスメイトの名前を初めて知ったと言っている人のコミュニケーション能力が心配なのですよ。あなたの番なのですよ?」
私がそう促すと彼も立ち上がって名を告げた。
「坂上由宇です。よろしくお願いします」
「坂上由宇という名前ですか。初めて知りました」
「お前も知らなかったんじゃないか」
「お互い様なのです」
「さすが鶏なのです。卵がそこらにあるですよ」
鶏のエサ台にエサを入れながら、そうぼやく。
「生き物を飼ってる高校って珍しいよな?」
鶏小屋の掃除をしながら、坂上君はそう声を上げた。
「そうですね。確かに農林高校以外であるとは思いませんでした」
会合の末、私たちは鶏の世話を任されることになった。朝と放課後の二度、掃除とエサ。休日は当番制という少々厄介で大変な仕事だ。でも、私は面倒とは言わない。もう罪悪感に刺されたくないからだ。
ある日の家庭科の時間。
「今日は卵焼きを作りましょう」優しそうな家庭科の先生は手を叩きながらそう言った。クラス四十人を六つの班に分けそれぞれの卓に食材を並べていく。偶然坂上君と同じ班になった。
「高校生にもなって卵焼きとか意味わかんないのです」
冷たい卵を一つ手の上で転がしながらそうぼやく。
「まあ料理のスキルテストみたいなものなんじゃないか」
成程とどこか合点がいくがそれでもあまり、全員が一人分の卵焼きを作るという課題に、意味があるとは思えない。そうこうしている間に他の人たちは順番に卵焼きを作っていく。
「…………」
卵を見つめる私の心境は複雑だった。
「おい、僕たちの番だぞ」
坂上君のその声で邪念をどうにか頭から振り払う。目の前には一つの卵と茶碗。卵の殻の割方もちゃんとわかっている。もう小学生の頃とは違う。高校生にもなった。あれからほんの少しくらいなら料理も元通りできるようになった。
卵を割ろう。
「…………坂上君」
そう意気込み、固く閉ざしたはずの口は、いとも簡単に開いてしまった。
「卵、割ってもらってもいいですか?」
私のそう言われた坂上君は面食らったように呆けていた。
「……殻の割方、知らないのか?」
「そんなようなものなのです」
坂上君はそうかといって、私の卵を手に取った。冷たい卵を握っていた私の手は、汗で濡れていた。目を閉じて深呼吸をする。スーと背中を玉のような汗が滑った。目を開けると、ほんの少し手が震えていた。私はその手を胸に当ててもう一度深呼吸をした。怖かった。でも、それではいけない。卵を割る瞬間だけでも、目に収めようと視線を向けた。
彼が割った卵、その割れた隙間から、黄色い汁が垂れた。
私は反射的に目をそらす。針で体を刺したような鋭い痛みが走ったような気がした。してはならない大罪を犯してしまったような気がしたのだ。
「わるい。黄身も割っちまった」
そんな坂上君の声を聴いてようやく我に返った。彼が茶碗を差し出してくる。その中では割れた黄身が不思議な模様を描いていた。黄色い汁が割れた黄身だとようやく理解して、息を大きく吐き出す。体中が冷たくなったような気がした。
お礼を言って茶碗を受け取り中身をかき混ぜて軽く調味料を振る。久しぶりの卵料理だが、記憶には鮮明に残っていた。軽く熱したフライパンにほんの少しだけ油をひいて溶き卵を流し込む。あまり火が強くならないことだけを気をつけながらフライパンを振った。その時に私のことを坂上君が不思議そうな顔で見ていることに気が付いた。
「どうかしましたですか?」
「いや、なんというか。お前って卵焼き作れるんだなって思って」
「は?馬鹿にしてるのですか?卵焼きが作れない人間がこの世にいるわけないです」
目の前で卵をものの見事に焦がした男子が何人かうめき声を漏らした。
「だったら何で卵自分で割らないんだよ?」
私は短く息を吸った。ただ、今の一瞬、息を吸ったことを隠したくなった。
「いろいろあるのですよ」
「まさか帰り道まで同じとは」
でも考えてみれば通学路でよく合うのだから当たり前かもしれない。
桜はもう散ってしまっている。背の高く青々と茂っている桜の木々の間を通っていく。暮れなずむ街並みと相まって何かの絵画を見ているようだった。
ばちゃりと、遠くで何かが砕ける音が私を現実に引き戻す。
「何の音なのです?」
不意に耳に飛び込んできた音が気になるが、どこから聞こえてきたかはよくわからない。すると坂上君が指し示してくれた。
「あれの音だろ?ただの子供のいたずらだ」
坂上君は指さす方に興味のなさげな視線を添えた。ただ興味のない瞳と不釣り合いに眉間に少しばかりしわを寄せていた。
「くらえ!必殺卵爆弾!」
突然彼がさす方から年端も行かない子供の、そんな叫び声が聞こえてきた。
息が詰まった。
数人の小学生くらいの子供が、小さな公園で戯れて遊んでいるのだろう。その中の一人が卵をぶつけて遊んでいたのだ。
「うわっ、やめろよ!きったねーな!」
頭の中で何かの回線が切れたような感覚の後、私は何かに突き動かされるようにその子供たちのところに走っていた。そしていまだに卵を投げつけようとしている少年の腕を掴む。
「何をしてるのですか!?」
いきなりの介入者に少年たちは等しく驚いた顔をしていた。それが全くの見ず知らずの人がいきなり怒ってきたのならなおさらだろう。ただ、そんなことはどうでもいい。
「いったい、何をしてるのですか!?」
私はその子供の肩を掴み乱暴に揺する。いったい何が起こったのかわからないという顔を浮かべる少年に、余計にはらわたが煮えくり返るような思いになる。
「あ、あの、姉ちゃん?何か勘違いしているかもしれないけど、俺たちはみんな了承してやってることだから。別にいじめなんかじゃ」
「そんなことを言っているんじゃないのです!」
どうやら私がいじめをやめさせるために介入してきたのだと勘違いをしたらしい。べちゃべちゃと卵で服を汚した少年が仲介に入ろうとしたが、私はぴしゃりと言い放つ。
「何でそんなことができるのですか!?どうしてそんなことをして楽しいなどと思えるのですか!?」
子供の顔に浮かぶ表情が疑問からだんだんと恐怖に変わっていく。
「その卵の中に、いったい何が入ってると思っているのですか!?あなたの握った卵の中に!あなたの投げた卵の中に、いったい何が入っていると思ってるのですか!?」
子供の目に涙が浮かび始める。煮えくり返った感情が私の手を上げさせた。
「お、おい。どうしたんだよ」
坂上君が後ろから私の肩を掴む。肩を掴まれて、ようやく私は息を吹き返した。
「どうしたんだよ、お前らしくもない」
さすがに見過ごせないと思って止めてくれたのだろうか。そのおかげでようやく私は少しだけ冷静になれた。
「急に怒ったりして、ごめんなさいなのです。でも、卵をそんなおもちゃにするようなことは、してはいけないことなのですよ」
私は居心地の悪い感情を抱えながら子供たちに頭を下げる。子供の肩をはなすと、子供たちは一目散に逃げていった。
居心地の悪い静寂が公園で遊びだす。きぃきぃと、ブランコが揺れるたびになる音だけが唯一の音。一瞬だけ大きな春風が吹く。公園で遊んでいた静寂もどこかに飛んで行ったのだろうか。公園のブランコに座る私と、そのすぐ傍で佇む彼を包んでいるのは、ただの止まった時間だけだった。
「卵から出てくるものは、なんだと思いますか?」
止まった時間は私の口とともにようやく動き出す。
「卵黄、じゃないのか?」
その言葉を彼から聞いたことで、私はまた複雑な気分になる。彼の顔を見ていなかったら、きっとそこには私の過去がいたのだろう。
「解ってるのですよ」
ただ彼の返答は予想通りだった。この国が十人に十の自由を保障しているとしてもこの場面で求められる答えはたった一つだけなのだから。
「あの子供たちは何も悪くなんてないのです。確かに食べ物を粗末にするのはいけないことですけど、あんなに怒られる必要なんてないのです。そんなことわかってるのですよ。あなたがそう答えることもわかっているのですよ」
きぃきぃという音とともに私の影が不規則に揺れる。
「卵って、おいしいですよね?私も昔は毎日そればかり食べてました。あのくらいの年頃なら、卵がおいしいものでそれが鶏が産んだものだとわかるならそれで十分なのです」
そう、それで十分。あとは、その卵が製品になって、出回るまでにどれだけの人の苦労があるのかを実感することができればなおいいけれど、でもそれはもう少し成長してからでも遅くはない。
「ほんと、何やってるんでしょうね私って」
卵をおもちゃに使ったことに腹を立てた。でも、それだけじゃない。もし彼が止めなかったら私はきっと手を上げていた。少し大ごとになっていただろう。
「おかしいのは明らかに私なのです」
だから、彼らは驚いた。自分たちが怒られ、あまつさえ手を上げられかけたことに。
「……間違ってるのは、明らかに私なのです」
だから、彼は止めた。正常な人間の思考ではなかったから。
「……いつも、治そうとしてるのです。そうして生きてきたのです。でも、治そうとしているのに全然治ってくれないのです。いつもかっとなると、わけがわからないことになるですよ」
私は大空を見上げる。暁色の空に浮かぶ雲で、卵の形をした雲に手を伸ばす。手に取れるわけがない。元からそうなのだから。私に大空に浮かぶ卵を手に取れるわけがない。それをもう一度確かめてから私は彼に向き直る。
「卵から、何が出てくると思いますですか?」
私と目が合った彼は、それが彼に対しての言葉ではないとわかっていたらしく、ただじっと私の目を見ていた。その行動がやはり私の心を動かした。
「卵からは、雛が出てくるですよ」
言わなくては伝わらないことがあると、しかし言って必ず伝わるものなのだろうか。
「他の人は、こんなこといちいち考えませんし、こういう考えが社会に求められるものだとも思いません」
だって、こんな考え方は邪魔でしかなく、矛盾していて破たんしているのだから。こんな感情は、生きていくうえで何のプラスにも働かない。
それでも
「それでも、あなたの言っていることが一般的であったとしても」
いったいどれだけの思いを言葉に乗せることができるのだろう。たとえどれだけの思いを、感情を詰め込んでいたとしても、
「卵から出てくるのは、……雛でなければおかしいのですよ」
私の言葉はすべてこの言葉に集結する。
言葉は足りない。でも、すべての思いを吐き出したこの口はとてつもなく重かった。肺いっぱいに空気をため込んでそして吐き出す。
その日私は彼とその公園で別れた。
彼と別れたその帰り道、私は身を縮めて細々と道を通る。
ただ帰り道ではない。
私が通った道を、
たまたま通りかかった道を、
私は通った。
夕焼けに焼かれた空の卵の殻が、砕かれ、踏みつぶされ、ただの白い汚れとして残っていた。
ただ遊んでいただけなのだ。
クリーニングされた深緑の黒板に白い粉が付着した黒板消しを叩いて。浮かび上がる模様を見て楽しむ、小学生の男子がよくやっていた遊び。
ただ、私の人生はそんな遊びを汚れたフィルターの向こうからしか、どうしても見れないのだ。
試し書きで書いてみました。評判が良かったら短編ではなく短いながらも長編小説として書いてみたいです。