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石の火の復活戦士(リボーン)  作者: きばとり 紅
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荒れ野の戦馬 『賢き者』(ドワーフ)

前話から直接続く短編を書いたので投稿させていただきます。

今回は短めになってしまった上に構成上キアラの「独り言」が多くなってしまって少々歯がゆい仕上がり。

ですが前々から書きたかったお馬さんとのふれあいシーンがいっぱいかけてそこはそれなりに満足していたり。

あとバトルシーンはやっぱり、書いてて楽しいなぁ。とは言ってもどうも、モンスターとの戦いは対人戦と違って、静止した緊張感みたいなものを盛り込めない。

次回以降の課題ですね。

 灌木の下に出来たわずかな影の下に、ぼろ布で出来た庇が飛び出しているのが揺らぐ大気の中からでも遠目に見えることだろう。適当な枝をもぎ取り、槍の柄を加えて作られた簡便な庇の下に蹲るようにして一人の影がじっと息を潜めていた。

 紐で縛った脚絆に皮草履、上着は体の線に沿うように帯で縛り上げられた黒い衣で覆われていて、頭は深い頭巾を被って視線は定かにならない。頭巾の端からは赤い髪が僅かにはみ出ている。

 頭巾の下に隠れた顔は女のものだし、体格もそれに続く。細紐を幾重にも縒り合されたような引き締まった四肢を折り曲げて器用に庇の下に身を隠し、炯炯と光る眼差しはじっと遠くにそびえ立つ岩棚に照り映える陽光を睨みつけていた。

 一歩でも庇から出れば、焼けつくような陽気の中で干物になるだろう。丘陵地帯のただ中にこのような環境があることを、女は知らなかった。なぜなら、彼女の故郷はここから数千里は彼方にある塩の国アグノーであり、ここに至る前には西部に広がる湿原から進んできたからである。湿原の原住民から頂戴した食料と水を満載した痩せ馬ひとつに載り、整備途中の街道に乗って進んでいたはずだった。だが道不案内であることの災難は、乗り入れた丘陵の地勢を知らなかったことにある。

 オルグ族の領域である西部湿地と、文明国ムタールメンの間を横臥する丘陵は、標高を増すごとに木々や緑が減っていき、やがて岩と砂ばかりの場所に出る。そこは細く狭い丘の連なりの隙間に出来た不毛の空間である。嘗てはそこより北にある樹林帯に連なっていく尾根が、雨季に降る多量の雨水を南へ流し、丘と丘の隙間を流れる間欠河川があった。だがちょうど、北部樹林にアールブ人が入植した頃から、尾根に雨が降らなくなった。雨季が短くなり、間欠河川は枯れ川になった。そして丘の間を通る乾いた風が嘗ての川底からわずかな水分さえ奪っていった。

 このような『間隙の砂漠』に、互いを往復するオルグ族もムタールメン人も入ろうとは思わない。歩き回るに広く、入り組んだ迷路の壁のように立ち現れる丘の斜面を前にしては、いかなる探検も無用だった。だから通常、この丘陵を抜けようと思う者は、連なる丘の間に出来た無数の坂道に悪戦苦闘しながらも、古人の開いた僅かな道に沿って歩く。街道遍歴商人が馬匹を牽きながら、遠征から帰ってきたオルグ族が細い列を作りながら往く道だ。そこから一歩でも逸れれば、後は生き物にとって苦しいばかりの場所に迷い込むことになる。

 アグノーの戦士だった女、キアラ・グィズノーが間隙の砂漠に入り込んだのは今から5日前の事だった。はじめは昇った丘の上から見下ろす河川の化石の如き光景に心打たれ、ここを渡っていくことをひそかな楽しみとしていたのだが、知るものならば見間違えようのない街道の徴を知らなかったがために、本来の道を逸れて別の丘へ登っていってしまったのだ。それに気づいた時には元の道へ戻ることも出来ないほど深く入り込んでしまっていた。ままよと強行軍をして、一晩に3つの丘を登り下ったが、人の往来の痕跡には出くわさなかった。

 遡ること2日前に遍歴商人の一隊にぶつかった時である。一隊と言っても、一人の商人が2頭の馬と3頭の羊に荷を積み上げてよろよろと這い進む、侘しい集団だった。

 その商人の前にキアラが躍り出て、どの道からここに入ってきたのか聞いたとき、相手は血走った眼を大きく見開いた恐怖の表情を見せた。なるほど、陽炎の果てから痩せた馬に乗り、黒いぼろ布を身に纏わせた細い影が近寄ってくれば、死神か何かに見えもしよう。

 頭巾の下に覗く肌身を見ていれば絶叫をあげたかもしれない。

侘しい姿に相応しい吝嗇な商人はキアラがただの遭難者と知ると、巻き添えは御免とばかりに釣れない対応を示したが代金として痩せ馬を渡すと、それまで自分の進んできた行程を教えてくれた。

釣り銭替わりにわずかな水を分けてもらって以降、彼女は己の足一つでここまで進んできた。遍歴商人は埃まみれの服から渋みの滲む水袋を取り出してのどを潤しながら聞かせてくれるに、間隙の砂漠は湿地と中原を結ぶ絶好の近道であり、鼻の利いた商人ならば同業者を出し抜くべく街道を逸れて入り込むという。その一方、不運な同業者の中には、砂漠で道を失い、砂嵐に出くわして命を落とす者もいる。

「旅のお方よ。このような辺鄙な場所で人に会ったのも儂の運の巡りがあったからよ。あんさんも無事に砂漠を抜けられるとよいがね」

 砂で焼けたがら声で商人はそう粘っこく言うと、キアラの来た道を商品と痩せ馬を連れて進んでいった。

 商人に聞いた道を忠実に沿ったつもりで丘と砂漠を渡ってきたキアラだったが、またぞろ、道が逸れてきていたのではないかという漠たる不安が脳裏に襲って来ていた。腰に下げた水袋も、かなり軽くなっている。固く干し固めたオルグ族の兵糧を口の中にねじ込み、ほとんど出ない唾液で飲み下しながら、日の落ちるのを待ち続けていた。

(熱学術があるからと言って、飯が増えるわけで無し、水が溢れるわけで無し。人は火だけでは生きていけぬし、火が無ければ生きていけぬのだ。とは言え、流石にこの日照りには飽きた。あのこすっからい商人の言では、精々あと二、三の丘を越えた先が街道へ合流できる道になっていたはずだが。それらしい痕跡も見当たらない。熱気を避けて夜に移動したのは失敗だったかな)

 庇の下で黙考しながら、うとうとと睡魔に襲われるキアラの耳に、丘を抜けていく暑く乾いた風の音が響いていく。

(さぁて。この身体がどれほどの飢えと渇きに耐えられるものか。オルグの神ならば知っているのかもしれないがな……)

 頭巾の下で目を閉じてゆっくりと眠りの中へ落ちていく顔には、褐色の肌の上に走る漆黒の刻印が散りばめられている。その刻印が一瞬、赤色の煌めきを見せた。

 

 

 薄暗がりの砂礫砂漠をとぼとぼと歩いている。あの干乾しになるような熱風はないにしても、空気の揺らぎすらないとはどういうわけだろう。いや、そもそもここは間隙の砂漠ではない。地を砂と岩礫で覆ってはいたが、砂丘はなかった。今ここには見上げるような砂丘のうねりが見えている。それより遠くに丘の連なりに遮られない地平線が広がっているのが見える。

 思えば自分はいつ起きて歩き出したのか全く記憶がないではないか。ささやかな旅荷さえ持っていない。周囲に果て無く広がる灰色の砂漠はしかし、キアラに見覚えがあった。

「ここは……戦士の夢見る死の砂漠。私はまだ生きている、はずだ」

 数日前、オルグの女術者が謀略の片棒を担がせるべくキアラの身体に刻み込んだ血の呪術によって生死の境を彷徨った時、キアラはこの戦士が死に際に見る砂漠を垣間見た。ここで首なし馬に乗って追いかける死と対決し、悪夢を打ち殺して、体を蝕むオルグの荒れ狂う血潮を飼い慣らし、自分の力とすることで生還した。今またこの場所に自分の魂がやってくるとは露にも思えなかった。飢えも渇きもあったがまだ手足が萎える程ではなかったし、生気を失うほど絶望もしていない。

「節約の余り、満杯の水袋を抱えて渇き死んだ愚かな商人の話なら知っているが、まさかなぁ……」

 生死を彷徨うのも二度目ともなればな慣れたもので、どうやってここから脱出できるのか冷静に考える余裕がキアラにはあった。そもそも、以前ならこうして呑気に構えていると、地平線の彼方から冷気を湛えた死が形となって襲い掛かってきたものだ。今はそれがない。

 ふと、伸びる手足を掲げて見ると、あの忌々しいオルグの刻印がない。久しぶりに見る疵なき自分の身体に稚児のようにぺたぺたと触って楽しんでから、こんなことしてる場合じゃないと気が付く。あまりにも呑気すぎるだろう。

 ぼんやりと突っ立っているのも間抜けな気がして、キアラは砂丘の影まで歩いて腰を下ろそうと一歩を踏み出した。だが、その時。

 体の隙間から冷たく湿った風が抜けた。血肉から熱を奪っていくような空気の流れに慄いた。その風には、悪意があった。あるいは憎悪が。軽蔑が。

 吹き上げられた砂塵を被って目が潰れそうになり、顔を一瞬覆って払った時、手で触れられそうな近い場所に人影がぽつりと立っていた。

 それを一目見たキアラの身体に悪寒が走った。身構えるも武器はなく、両拳を固く握って相手の動きに備えるべく神経を研ぎ澄ませた。その動きは柔軟な黒豹のように素早いが、一方の影は赤黒い波動に明滅しながら、喉奥で押し殺すような含み笑いを地平に響かせて喋った。

 聞き覚えのある声だった。

『そう身構えることもなかろう。知らぬ仲でもあるまい』

「お前など知らぬ。このような場所で会う者のことなど知れたものではないわ。一歩でも動いてみろ、その喉輪を締め砕いてやるぞ」

『ほう』

 その瞬間、影はキアラの懐内まで音もなく踏み込んでいた。まったくの不意打ちにキアラは反射的に影が纏う頭巾の中へ腕を突っ込み、手の係った首筋を万力のように締め上げた。指先が首の肉に食い込み、骨が軋みを上げているというのに、影はまたくつくつと笑っていた。

『やめておけキアラ・グィズノー。その手で私を殺そうなど考えるな。安心しろ、私は死ではない。ただ、お前と話をしたいだけだ……』

 深くかぶった頭巾の下で笑いかけている影に触れていると、手に不気味な感触が這い登ってくる。まるで死体に触れているように冷たいのだ。その冷気が腕を伝って来るような不快さに、キアラは影を突き放した。揺らめきながら影は再び、キアラから2,3歩の距離を置いて静止して、だらりと垂らしたままだった両腕を持ち上げて頭巾に手を掛けた。

『それほどに私が何か気になるのか?仕方ない。お前に分かるように見せてやろう』

 下ろされた頭巾の下にあった顔貌が、明らかな光差さぬ死の砂漠の下に晒された時、それを見たキアラの喉から、呻きが一瞬毀れ、そして叫んだ。

「貴様は確かに殺したはずだ!スレイア!」

『その通り、お前は確かに私を殺した』

 スレイアと呼ばれた影は黒檀から削り出したような艶やかな黒い肌に、緑に燃える瞳を輝かせた柔和な笑みでキアラを見返す。顔を晒すと同時に影は少し大きくなったようで、同じほどの背格好だったのが、今これとみると影の方が頭二つは高い。

『正確には、私はスレイアではない。お前の体に流し込まれ、オルグとイグのまじりあった血で施された呪の刻印の中に残留している、施術時のスレイアその人の破片のようなものだ』

 冷たい汗が額から一筋流れるのを覚えながら、キアラは影が本当に害意がないことを……少なくとも、今すぐにどうこうしようという気がないことを認めた。

「正真正銘、今は亡きスレイアの影ということか。実体がなくなれば影は消えるのが道理。大人しく闇に帰れ。私にかまうな」

『言われなくても私は消えていく定めだ。いずれな……だが今日ではない。それに言っただろう。話をしたいと……』

「私は貴様と話をするつもりなどない!たとえ影でも、貴様は私の身体と魂を汚した!私はこの体を引きずって生きねばならないのだ。誰にも償いを求めることも出来ずにな。ふん。さしずめ今の私にとって、貴様は千切れた鎖よ。じゃらじゃらと手足にまとわりついて鬱陶しい限りだ」

『だが、その千切れた鎖のお蔭で今日まで生きてこられたのだとしたら、どうだ?私の中のスレイアの知識によれば、間隙の砂漠に迷い込んだ者は吹き付ける乾いた風と無数の勾配を彷徨い、備えなくば三日と生きてはいられない。お前が今も生きていられるのは正味、私のお蔭なのさ』

「そうだとしても、私が貴様に礼を言わねばならない理由はないな」

 スレイアの影を見据えたキアラは瞠目すると、体の感覚を探った。柔らかな寝床に枕するように心を緩めるのだ。それは簡単なことではなかったが、そうすればこの不毛な空間から出ていく糸口が見える、という予感……あえて言えば戦士の勘が働いたのだ。

 呼吸を緩やかにして、五感を研ぎ澄ませる。この臨死に夢見る空間が自分の肉体の内側に広がっているものに過ぎないのであれば……でなければ刻印からスレイアの影が出てくる理由もない……空間認識の一枚外側には自分の本来の五体があり、それらが尋常の空間に坐しているはずだ。果たして、感覚はあった。それは言わば金縛りに遭って、寝床で目覚めながら体が起き上がらない感覚に、よく似て

いる。意識と肉体が繋がらず、檻に閉じ込められているような気分にさせられる。

 だが、種が分かれば仕掛けを解く方法もある。キアラは念を広げた。熱学術で教えられる、熱を拾い集める念の操作だ。これは肉体ではなく魂の感覚で行うものだから、現実の肉体を指一本動かせなくても出来る。

 歪な揺れ、捻じれが空間に走った。無風の地平を微風が駆け抜けはじめていた。

「お前がスレイアの影であり、イグの汚れた野望の残滓であることは認める。そのお毀れで今の私が生存していることも分かった。だが、なんだ?だからと言って貴様の言い分を聞かねばならない理由になるというのか?」

『別に、ないな。だが忘れるなよ。お前は常に囚われていることに。お前はオルグとイグの血を体内に交じり合わせた人間なのだということが、貴様の進む先々に何をもたらすか、よくよく考えてみるのも一興だろう。イグは見ている。取り戻せなんだ欠片の一片まで、くまなく見つめているのだ……』

 吹き抜ける風がスレイアの影を揺らがせ、その姿が徐々に朧げになり、霞のようになった。霞が風に切り裂かれると、風を吸寄せるキアラの身体の中へと入ってくる。どす黒い汚わいが魂にこびりついていく極めて不快な感応に呻く声を飲み込み、切り裂くような激しい殺意を燃え上がらせる。循環する汚れが表皮を走る感覚があった。

 その感覚の後に、全身が炎の熱に包み込まれ、そして去った。幻想の空間に立つキアラの肢体に、現実の身体と同じ、黒い刻印が浮き上がっていた。忌々しいが、これが今の正しい己の姿、というわけだ。

 再び念の枝を外部の熱を拾い集めるように広げて行く。その度に空間に軋みが走り、歪み、崩れていく。夢見る死の砂漠の空間は見た目より狭い。あくまでもキアラの目に広大無辺に見えているだけに過ぎないのだ。キアラの念が檻を内側から圧するにつれて軋みと歪みが激しくなり、無色の空に一条の太い亀裂が走った。

 亀裂の先は漆黒の闇が広がっている。その闇が割れた檻の中へと降り注ぎ、覆い尽くしていく中で、キアラはつぶやいた。

「次に呼ぶときはもう少しマシな場所を用意することだな。その時は、そうだな……同居人として遇してやる」

 身体の上に闇が降ってくる。手足を包み、腰から胸まで埋め尽くし、視界を覆い尽くす。

 キアラの意識は途切れ別の地平へと飛んだ。

 体内世界のさらなる内に、あるいは、外へ向かって。

 

 

 夢の中でも砂漠、覚めて見るのも砂漠では一時憂鬱な気分に浸るのも許されるだろう。たとえ夢の中では茫漠たる砂塵の砂漠、目の前にあるのが隘路に横たわる砂礫の砂漠という、些細な違いがあるにしてもである。

 中点を過ぎるかどうか、という頃に微睡みはじめ、気が付けば遠くに見える稜線に陽が沈み、空が濃い青紫に変わりつつあった。焼き付けるような熱波が足早に立ち去り、岩丘の合間には冷ややかな風が吹き付ける。岩の表面を舐める寒風は荒っぽく突き抜けて、キアラの潜む灌木の枝ごとき、容易くもぎ取ってしまえるのだというように揺さぶった。

(どうせ陽が落ちれば動き出すつもりでいたんだ)

 庇を作っていた槍とぼろ布を取り除け、膝下に押し込めていた荷袋を担ぐ。ぼろ布としか言いようのないマントを羽織り、槍を杖に立ち上がった。肌に夜の風が冷たい。やはり日中のうちに熱を集めておくべきだったかと思ったが、今更言っても仕方ない。

 灌木の外へ出ると風が小刻みに針で刺すように痛い。それほどに冷たく、細かな砂を巻き上げて吹き付けてくるのだ。顔を手でかばい、星を見た。昨日の記憶と照らし合わせて方角を定めて歩く。砂漠に迷い込んだと知るまでに小さな丘を二つ、それより大きな丘を四つ超えてきた。今までいたのは六つ目の丘の麓で、前方には手足で這い登ることが出来そうにないほど切り立った壁面を晒す丘がある。流石にそこには向かえないから、北か南に逸れて、別の道を探すことになる。

 キアラは南に足を向けた。風は北から吹いていて、風に向かって歩くのを嫌ったからにすぎない。かつての川床を北上して尾根を上り、東に回れば北部樹林のアールブ集落群にたどり着けるかもしれない。しかし、その路線はまだキアラには未知の領域、空白の地図も同じだ。それなら、少しでも知った土地に近づいた方が見通しがつくし、安心できる。

(南に回ろう。登れそうな丘があれば東に行く。ムタールメンへの街道に出れればよし、そうでなくても南下し続ければアッタロスの近くまでたどり着けるかもしれない。どちらにしろこの砂漠から脱出できる)

 腹は決まれば、あとは歩くだけだ。皮草履が冷たい砂をかきまぜながら一歩一歩踏みしめる。急ぐと喉が渇く。不安が駆け足にならないように、キアラは焦りにかられそうになるたびに足を止め、周囲を見回し、落ち着きを取り戻す努力をした。足を止めると体から熱が逃げ、代わりに冷たい風が手足を凍えさせる。それに堪らず、また歩き出すのだ。そうやってしばらく砂の中を歩き、東側の壁面に登攀に向いていそうな部分を発見した。そこは風の侵食とかつての水浸作用の痕跡が残る斜面で、線状の層が丘の上まで続く階段の役割を果たしていた。砂ばかりの場所からキアラは斜面の登攀に取り掛かった。斜面の段に沿って登ると、やがて視界が開け、丘の連なりの下に広がる砂漠の姿が目に映り、遠景には青白く輝く月光に照り映える、エスラロースの高い高い山頂が認められた。

 エスラロースの麓にムタールメンはある。だからエスラロース山こそ最大の目標であるが、キアラの立つ丘からはそこへつながりそうな道の痕跡は見つからなかった。丘は岩石で出来たちょっとした館の敷地ほどはあり、いじけたように小さな草が疎らに生えているばかりのつまらない場所だった。足下の砂漠と違い、風を遮ったり弱めたりするものがないためにより強い風が吹き付け、いるものの体力を奪っていく。

 エスラロースを目標に、さらにキアラは東に向かうために、丘の降りられる場所を探した。登った場所と反対側に降りるのが理想だが、見下ろした斜面は手がかりになりそうな凹凸さえ、風と水が削り取った壁面だった。月が昇って夕闇が濃くなりつつあり、荷袋から松明を出して火を点けた。生木の枝に布を巻いて油を塗っただけの簡素な代物だがないよりはマシだ。その灯りの下で斜面を見分け、どうにか上った場所と逆方向に降りられる場所を見つけ、足先で探りながら砂漠へとまた徐々に降りて行った。

 砂漠に降りれば四方のうち二つは絶壁、そして前後に広がる砂ばかりの風景に舞い戻ったわけである。少しずつ前には進んでいる。だがそれは亀が這うような速さだ。スレイアの影が囁くのもうなずける。常人に砂漠を突破するのは備えがなければ無理だ。

(備えが無くても生きられる私は、幸運なのか不幸なのか)とはいえそれも長続きはするまい。腹も減るし喉も乾くのだから。

 再びキアラは南に向かって歩き出した。斜面を観察しながら、足元にも注意を払う。風はいよいよ速度を増し、巻き上がる砂粒が目を傷め、視界を遮りはじめるほどだった。風は切り立つ斜面で反射して、唸るような反響音をたてた。風に追いまくられ、耳元に聞こえる怪物の叫びにも似た音に背中から追いかけられながら歩く。視界は失われ、見上げても砂が入るばかりになり、壁面も空も見えなくなった。

(これでは、砂嵐のただ中と変わらん)

 毒吐きたくても口を開ければ砂が入るだけで益もない。キアラはとりあえず身を守る場所を得るために壁面に近寄っていった。足元の砂が吹き寄せられて深くなっていき、足首が沈むほどになったところを肩を喘がせながら進む。一歩、一歩と。ほんの2,3歩前の足跡が強風で吹き消される中で、キアラは体にマントを巻き付け、時折槍を地に突き立てて風に耐えながら這うような速さで壁面に向かって歩いた。

 どれだけ歩いただろうか。視界があるうちに目で測って四半刻ほどの距離でしかなかった壁面までの道のりが随分長くなったと感じた時、キアラの背筋に恐慌と不安が襲い掛かり、視線を背後に走らせた。既に足跡は無く、その先も巻き起こる砂煙で確認できない。方角を見失ったのだ、と悟った。おそらく蛇行しながら北か南に方角が逸れているのだろう。

 松明の火が風にあおられて小さくなっていく中で、キアラは遮二無二足を進ませた。壁面でも、灌木でも、岩陰でもいい。とにかくこの砂交じりの暴風から身を守れるところを見出さなきゃいけない。風向きが変化し、前後左右から殴られるような風を受けながら歩く。キアラは歩いた。既にオルグ族の刻印から受けた肉体の力も底が見え始めていることに気付いていたが、それでも猛然と夜の砂嵐の中を進んだ。風を受けないように姿勢を低くしていると、今度は巻き上がる砂粒を頭から被り、その中で進むうちに手足が深く砂の中を掻き、殆ど泳ぐような恰好になっていた。

(無様だ、こんなところで……畜生)

 砂に溺れている自分の愚かな姿に我慢ならない。自分の影が一瞬、嵐の中で鮮明に脳裏に映り込んだ。稲光が空に走って、丘のどこかで炸裂した。耳の奥を突く痛みに頭が揺れて、縋っていた槍から滑り落ちるように地面に倒れた。

 砂が音もなくキアラの身体に降りかかり続けていた。吹きすさぶ風がなにやら心地よいが、脳裏に刺さる痛みに思考が纏まらない。手足との繋がりを断たれた人形のようだった。

目に映る闇が砂に覆われていきながら、時折落ちる閃光で遠景の稜線を映し出し、瞼の裏に焼き付けていく。その様子も意識が落ち沈むにつれ曖昧になっていくなかで、砂漠の果てから巨大な影が、ゆっくりとキアラに向かって近づいてくるのが分かった。濃密な砂の幕に紛れた何か、キアラよりも巨大な生物が足跡さえ即座に消してしまう嵐の中を歩いてくるのだ。だがそれを注視して身の守りを固めるほど、今のキアラに神経の集中を行える力が残されていなかったのだ。

 キアラの視界が砂粒に埋もれ、覆い隠される間際に捉えた像は、黒い輪郭に縁どられた四足の、悪魔にも似た獣が、その巨大な首をもたげて自分を見下ろし、そして……。

 

 

 発条人形よろしく跳ね起き、自分に掛けられた毛布の着馴れ具合と、寝かされた寝台、そして四方を囲む赤褐色の土壁を即座に認識したキアラに起こった感情、それは望郷の念だった。そこはかつてアグノーの領主館の片翼で割り当てられた、自分の部屋を強く思い出させた。狭いながらも塵一つなく清掃され、片隅には滅多に着ないものの、主君一族の葬祭に合わせた礼服が仕舞われた行李が置かれ、その隣には毎日身に着けていた朱染めの皮鎧と、柳刃に拵えた槍が掛けられた鎧立てがある。その下に着こむ膝下までのチュニックと下履き、短袴が折り畳まれて積み上げられ、館付きの下女下男が毎日用意していってくれた。

 まさに立ち返れぬ過去の風景、思い出の中にしか既に存在しない自分の部屋に今自分はいる。いや、もしかすれば、この半月ばかりに遭ったありとあらゆる事象が寝苦しい夢の見せた幻だったのかも、とキアラは思いつつあったが、そんな甘い空想を否定するものがこの部屋にはあった。

 明かり取りも照明も見当たらないのに隅々まで明るいこの部屋に眠る、自分の手足にはあの忌まわしい血の刻印がくっきりと浮かび上がっている。寝間着をまくり上げてみるまでもなく、褐色の肌に現れたそれらが、甘い夢から苦い現実へとキアラを逆照射する。すでにアグノーはなく、領主は戦死し奴隷となり、自分は穢され、砂漠を彷徨い、そしてここは。

『もう少しマシな場所を、と所望するから、お前にとって過ごしやすい場所を用意してみたんだがな』

 いつの間にか現れた戸口から黒ずくめの衣を纏った影が音もなく入り込み、そしてその背後で戸口が溶けるように消えた。嫌悪で背筋を震わせながら、キアラは影を睨みつけ、一方骨身に刻まれた戦士の本能からさりげない所作で寝台から離れ、鎧立てに掛けてある槍へ、一足飛びに飛び移れる距離まで動いた。

「私の身体に潜むイグの使いが、一日に二度もお呼び建てとはな。貴様にとっては残念だろうが、どうやら私は長くはないらしい。この上はこの幻覚の中であってもお前を刺し違えて」

『そう猛りたてるなキアラ・グィズノー。今回は私が呼び寄せたわけではない』

 室内には毛織りの丸絨毯が敷かれていた。その上にスレイアの影は静かに座るとどこから取り出したのか、酒壺を持ち出して陶器の杯に注ぎ、キアラの手に届く場所へ置いた。

『今のお前は正真正銘、死地に居る。宵闇の中荒れ狂う砂嵐のただ中に立ち、吹き付ける風と砂粒に塗れ、まともな休息も食事もなく、出口も見つからない。そんな中でお前は今、疲労から意識を自ら手放しているのだ。このままでは遠からず何事かがあっても砂の下で乾いて死ぬだろう』

「だとすれば、それが私の最後だった。というだけじゃないか。意気地のない私の心身の至らぬばかりの、いじけた死だ」

 悠然と酒を注いで飲むスレイアの影を注視しながら、じわじわと体をにじらせて槍まで手を伸ばしながら、キアラは目の前の幻覚の意図を探った。

『本当にそれでよいのか?生きたスレイアの支配を脱し、生きていると思しきアグノー領主の妹メルセデスをもう一度目に掛けるために、ムタールメンを目指していたのではないのか』

 幻覚の人影が幻覚の酒を楽し気に呷り、その目は生きていたスレイアと同じ野心めいた緑の炎で揺らめいていく。

『単刀直入に言おう。お主をこの苦境から救い出す手立てがある。キアラの中にいる私という影、すなわちスレイアの血に残っていた蛇神イグとスレイア、そして獣神オルコスから、お前に生命を分け与える。さすればお前はまだほんの少しだけ生き永らえる。血潮に熱が戻り、砂と風の乱打に耐え抜き、次の朝日を拝むだろう。そうするのが、イグの血肉たちの望みなのさ』

「何故それが望みなのだ?お前たちにとって……いや、そもそも私はイグにとって、一体どんな意味を持っているというんだ。スレイアを操って族長を殺すための暗殺者に仕立て上げ、使い捨てにするだけの存在だったのではないのか」

『お前はイグの血肉の深淵を知らぬ』

 まくし立てたキアラへ答えたスレイアの影の一声に込められた深く暗い衝動が、キアラの背筋を水に浸したように冷たくさせた。この幻覚の小部屋の明かりがひと吹きに消された蝋燭めいてゆらりと絶えた。その中で見えるのは、緑色の蛍火を抱くように浮き上がって映るスレイアの影と、彼女が差し出す酒杯だけだった。

『イグの本体に回帰できず永劫の時を閲する血肉たちにとって、スレイアを用いた策謀などほんの戯れにすぎぬ。スレイアと交じり合い、そして砕け散ったことさえも、他愛無い些事である。キアラ、貴様が生き続ける限り、その中のイグの血も生き続ける。それが望みよ』

「スレイアと共に砕けた肉片より、私の身体に混じった僅かな血を優先しているのか」

 目の前に浮かぶ影から放たれる緑光以外、全てが闇に沈んだ幻影の中に立ち、体を強張らせる不安と恐怖の衝動にキアラは抗った。身体の内から沸き立つものは、この怪しげなる神の使者からの誘惑にうち萎れ、安らかな死の眠りに向かって枕しようとしている。だがキアラは生きたかった。恐怖と不安を飲み込み、結果未来に立ち現れるだろう困難を予想し、しかし、それを打ち砕くという確たる決心を込めて、差し出された酒杯をもぎ取ると、なみなみと注がれていた酒を一気に呷った。

 所詮幻であり、味など無かったはずの酒を呑み干した瞬間、内臓から全身の皮膚に向かって電撃が放射されて刺し破れたかの如き激痛が走った。踵が飛び上がって地面に倒れ、喉を掻きむしりながら叫びを上げてのたうち回った。それをスレイアの影が静かに見下ろしていた。その顔には微笑みとも侮蔑とも取れぬ曖昧な表情を影の中に浮かび上がらせていた。

『お前の生命の力は拡張された。より多くを聞き、より多くを見ることができるだろう。イグの血肉に宿された、神の片鱗を存分に味わうがいい』

 木霊のように遠ざかる影の声を、のたうち回るキアラは聞いたが、そのまま身体に走る痛みに苦しみ、跳ね回る内に、気を失ってしまった。

 意識下の幻の中で、さらに意識を失ったキアラの魂が、生命を欲する叫びをあげた時、キアラ・グィズノーの感覚は潜行していた体内世界から外部へ、現実世界の血肉ある四肢へと回帰していった。

 

 

 意識が現実の肉体に帰ってきた時、キアラがまず最初に感じ取ったのは窒息だった。金縛りから徐々に覚醒するように、息を自由に吸えぬままじわじわと四肢に力が戻り、両手に地の砂を握って体を起こす。体の上にも塵のように細かい砂が分厚く降り積もり、振り落とすと同時に息を吸った。

 できなかった。鼻にも口にもたっぷりと砂が詰まっていたのだ。特に口の中は酷い。土の苦みと歯に噛んだ石の固さに涙が出る。泣きながらキアラは砂を吐き出し、鼻からも泥団子になったものがだらりと落ちた。

 砂交じりの涙を流しながら膝立ちになり、手探りで槍を探した。手に当たった柄を手繰り寄せて杖変わりに立ち上がると、そこが空の下ではないらしいことを、霞む目でキアラは捉えた。そこは激しい砂嵐と熱射を何度も潜り抜けた革張りの天幕の、残骸だった。骨組みに頑固に張り付いた幕の一部がまだ影を作り、キアラはそこに吹き溜まる砂の小山の中に頭を突っ込んでいたのだ。

 天幕からよろめきながら外へ歩み出す。既に砂嵐は過ぎ、日は昇り、さわやかな風が体に吹き付けた。雲のないすっきりとした青空が広がり、遠くに切り立った稜線が全周をぐるりと取り囲んでいる。

 そこは間隙の砂漠の終点とも言うべき場所だった。嘗ては豊かな水を湛えた湖でもあったのだろう。流れ込む水がはるか昔に絶え、あとは砂漠から運ばれる砂粒が、嘗ての水底を埋めて砂丘を作っている。問題は、何故そんなところにキアラはいるのかだった。勿論自分の足でここまで来たとは考えられなかった。

 その時、天幕の影になる方角から、重い足取りによる砂を踏む音が近づいてくることにキアラは気付いた。気付くと同時に身体が跳ねるように動いた。槍を低く構え、距離感を奪う砂漠の果てへ、足音の主を探すべく目を凝らす。その足音は規則正しく砂を踏み、やがて最も近い砂丘の脇からのそりと姿を現した。

 それは鈍い褐色の毛に覆われた四足の獣で、長い脚には金属の光沢をもつ蹄を持ち、その頭部は伸びに伸びた黄土色の鬣で覆われていた。鬣の下から突き出た鼻先が、ひくひくと空気を嗅ぎ取って、首をこちらにぴたりと据えており、相手もキアラを感じ取っているのがわかった。

 天幕の前まで来ると、獣はぴたりと足を止め、首を縦に振って鬣を後ろへ流した。面長の頭の両側についた鳶色の目は長いまつ毛があり、それがキアラを暫くじっと見つめていた。それは巨大な馬だ。鐙も鞍もない雌の裸馬だった。

 巨大な雌馬はキアラを見つめながら一歩ずつ傍に近寄ってくる。その足取りに、攻撃の意志はなさそうだ。槍を下ろしたキアラを見て、相手も警戒心を解いたと見え、近寄る足取りが僅かに軽やかになった。

 間近によるとその巨躯は一層とキアラを圧するようにそびえ、陽光を背にした獣の眼差しが見下ろしてくる。ぶるり、と鼻息を吐いた。馬の扱いを知っているキアラには、それが野生馬というよりは人馴らしを済ませた調教馬に見られる、「どうしたんだ?」という馬からの意思表示だと感じた。そっとキアラは馬腹に近寄り、その太く筋肉の寄り合った首筋に手を触れる。久しく手入れのされていない荒れた皮の下で熱い血が脈打っている。幻影でも怪異でもない、正真正銘の生きた馬だった。

 巨馬はしばらく黙ってキアラに首を撫でられていたが、やがてキアラから離れ、時折振り返りながら砂丘の先へ歩き始めた。ついてこい、とでもいうような。馬の足跡を追いかけて、キアラは歩き出した。砂丘の間には細い一本の獣道があった。幾重にも踏みつけられ、風で飛ぶほど軽い砂粒が石のように固く締まった道筋を作っているのだ。

 鋼の蹄で作られた道を先導されていると、やがて鼻と耳に捉えるものがあった。麗らかなせせらぎ、湿った空気の匂い、ここ数日欲しても得られなかったものを脳裏に浮かべるに足る水の気配だった。果たして、獣道の先にはささやかな泉が湧いているではないか。キアラは逸り勇んで駆けだすと、泉の淵に立った。泉は槍の石突きを握って描いた円形よりもなお広い大きさの、すり鉢状の窪みに膝下までの深みを湛え、底の砂地が透ける程澄んでいた。跪き、土に汚れた手を浸すと、ぞくぞくするほど冷たく感じた。掬った水を顔に当てて流し、瞼や鼻筋に溜まった砂が流れ落ちた。次の瞬間には、キアラは堪らなくなって衣の帯を解し下帯だけの姿になって泉に飛び込んでいた。

 この数日の間に受けた、水の乾きと砂汚れの苦しみを散々にやっつけ、黒衣の汚れをすすぎ落して槍先に引っかけて、泉の縁に足を付けて腰を下ろしていると、濡れた肌を風が吹き抜けた。僅かに砂を含んではいるが、今なら払って落とせる程度だ。濯いだ髪を弄びながら吹き抜けた風下に、ここまで案内してくれた巨馬が立っている。こいつはキアラを案内すると、後は彼女が水に戯れるのを眺め、時折泉に口を付けてのどを潤していた。よくよく泉を観察すると、縁のそこかしこにはわずかながら若草が張り付き、泉の底にも清流で繁茂するコケ類の一種が棲息していた。巨馬の蹄の鋼色が、水に濡れて一層その金属色を強めてキアラの目を止めた。巨大な体躯、強靭な血肉を備え、その足には生まれついての蹄鉄というべき金属の蹄を持っている。

 そんな生物をキアラは知っていた。

「おまえは、戦馬なんだね」

 戦馬と呼ばれた巨獣はぶるりと吠え、下生えの草を潰さないように意識を払いながら膝を折った。寛いでいるように見えて風上に向けてピンと立つ耳が周囲を警戒しているのが分かる。水から離れたキアラは戦馬に近づいた。局部を覆う下帯一本の無防備な姿で、手で触れられるか触れないかの距離まで詰めた。獣は座り込んだまま、立ち上がるそぶりを見せないので、逞しい背に手を置いた。

「お前が私を、あの砂嵐の中からここまで運んでくれたんだね。礼を言うよ。あそこで私は死んでいたに違いない、お前がいなければ……ありがとう」

 戦馬はキアラの言葉が聞こえないかのように平然としていた。キアラも戦馬が黙っているので、しばらくその温かで逞しい馬腹の傍に座った。水辺の風の冷ややかさ、巨大な獣の優しい温かさは、眠くなるほど安らかな気持ちでキアラの何かを満たしていった。

「お前はなぜこんな不毛の場所をほっつき歩いているんだい?戦馬は馬の群れで暮らす生き物だろう。まさか私みたいに酔狂で無思慮なために、砂漠に迷い込んだわけじゃないだろう、戦馬ってのは、利口だからね……」

 戦馬は答えなかった。優しい眼差しで空を見ているだけだった。

 

 汚れを落として寛いでいると、今まで堪えていた空腹が思い出されて、キアラは立った。黒衣を纏って天幕まで戻り、自分の倒れていたところに転がっていた荷物を漁って糧食を持ってきた。商人と接触した時に頂戴した、硬く焼しめたパンと、オルグ族から貰った未知の獣の干し肉だ。今まで出もしない唾液で飲み下すだけだったが、綺麗な水で戻しながら腹に入れる。それだけで今のキアラには値千金のごちそうだった。萎み切った水袋を満杯にしている間、戦馬はキアラの行動に気を配りながらも、どこか遠くの風景に対して意識を払っている素振りを続けていた。その時のキアラには、それが何なのかは分からなかったが、間もなくそれらしき異変が、正午を過ぎ徐々に沈み始めようと傾きはじめた太陽の光の下で、陽炎を沸き立たせる遠景の砂丘の果てから漂ってくるのだった。

 それは、はじめは揺らぐ地平線とキアラたちとの間の空間を遮る霞のようだった。景色を曖昧にかき乱す、薄い面紗ヴェールだったそれは、次第に分厚い砂煙の奔流に変わった。巻き上がる砂塵が渦を巻きながら大きくなり、キアラと戦馬の居たオアシスを中心とした、目測にして半里四方を取り囲む檻の格子の如く取り囲み始めたのだ。

 忌々しい砂嵐め、とキアラは体に受けた砂粒と暴風の乱打を思い出す。目に見える程にはっきりと成長した暴風の壁は、やがてこのオアシスに迫るだろうと思った。たが、そうでなかったのだ。

 天まで高く砂煙を巻き上げ、青空を薄く汚しさえした砂嵐は、しかしそれだけだった。耳には砂地を削りとり、空気をかき乱す音ははっきりと聞こえるし、肌には砂粒を含んだ風が吹き付け始めている。しかし、それ以上のことはない。まるで透明な壁に遮られているかのように、砂嵐はオアシスを囲ったまま、その外縁を吹き荒んでいるのだ。

 肌から冷たい汗が滲み始めているのにキアラは気付いた。理解にたどり着けない何らかの現象がここにあるのだ。と、その時。それまでぴたりと動かず彫像と化していた戦馬が身震いしながら立ち上がると、わき目もふらずオアシスから天幕跡への道をだく足に駆けていってしまった。その様子は野生生物の危険を回避する、本能的な動きというよりは、待ち受けていた獲物が近づいてきたことを察知し、より有利な場所へ移動しようとする狩猟者の足取りを思わせた。

 キアラは戦馬の後をつけることにした。群れの動物が孤独に砂漠に佇んでいた理由が分かるかもしれないし、それが分かれば砂漠から脱出する手段の糸口になるかもしれない。水と食料を体に入れて、十分に休んだおかげで思い通りに身体は動く。ともかく、前方の戦馬を見失わないため、槍を持って駆け足に追いかけた。戦馬は天幕跡を越え、砂丘のうねって立つ砂漠の中へ駆け出し始めていた。キアラは地面にあるほんのわずかな起伏を捉え、それに身を隠すために殆ど腹ばいに近いくらい体を低く屈め、しかし見失わないように素早く移動した。戦馬は立ち去ったオアシスの側へ全く注意を払っていないように見えた。立ち止まった砂嵐に近づいていくと、這っているキアラの背中を風が吹き抜けていく。風下にいるキアラの匂いで戦馬を警戒させることはなさそうだった。

 風と砂煙が深く周囲に立ち込め始めていた。その中を慎重な足取りで進む戦馬の姿は、霞んだ黒い曖昧な影となっている。キアラもそのような姿を最前、失神する直前に見たような気がした。耳には風の轟音に混じった馬の足取りが聞こえるが、徐々にその足音はゆっくりと、忍び歩くように小さく途絶えていった。嵐の音に紛れ込めるようになってきて、キアラは体を起こして霞む馬の影をはっきりと捕えようとした。ぼやけて見える馬の影が、風の乱流の中でピンと立っている。馬首は伏せるでなく、むしろ太陽を覆っている厚い砂煙の中心を見据えるように空を見上げていた。耳をそば立て、全身に緊張がみなぎっていた。

キアラにもその緊張が伝わってくるようで、自然とその感覚は周囲に向けられたその時。

 オルグ族の刻印により強化され、喪心していた中でさらに拡張された鋭敏な感覚……実際それは、超人類的な、あるいは野生生物により近い、視覚、嗅覚、聴覚の、複合的知覚の枠中に、戦馬とキアラ以外の生物の反応を見た。濃密な砂煙と砂漠の中に埋没していたらしきそれは、暴風の中から中空にぬっと現れたのだ。なるほどその生き物は、砂に紛れるに適した黄土色の、岩のような硬質の鱗で全身を護っていた。小山のような巨体は腸詰め型で、先端に枯れ枝のような節くれた繊毛が無数に生え、その中心に黄緑色の櫛状の歯が生えている。荒れた大地特有の長虫ワームの一種にこのような生物がいるのを、南部高原で生まれ育ったキアラは知っていた。だが、それらは精々片手で包み隠せる程度の他愛無い生き物だ。ここに居るのは砂嵐に紛れて宙を飛び、丸太のような巨体を持っていた。

 極限的生存環境が生み出したに違いない、怪異なる生物を前に硬直するキアラと対照的に、同じく自然が生み出した天性の戦闘生物である戦馬は、己を鼓舞するように大きく嘶くと、繊毛を垂らして滑るように砂地に潜り込もうと着地した大長虫へ全速力で駆けだした。大長虫も自分に向けられる攻撃意志に敏感に反応すると、繊毛が伸びて近づくものへ接触を試みた。だが、戦馬の方がはるかに速かった。

 十分に訓練された戦馬は、その鋼の蹄で前方に陣取る敵兵士の兜を叩き割り、首を蹴り刎ねることさえ出来る。銜を咥えながら槍先を歯で噛み砕くこともある。屈強な体格だけではなく、戦馬はそれと同じくらい、身に備わった武器を脅威としている。大長虫の身体を護る硬質の殻に素早く近づくと、後ろの二本脚で立ち上がり両前足を叩き付けた。殻に深く食い込んだ蹄で地に押さえつけると、大きく開いた口で殻に噛みついた。身をよじり逃れようとする大長虫から伸びる繊毛が戦馬の後ろ足に巻き付き、引き剥がすべく締め上げてきた。姿勢を崩された戦馬が、なおも不安定な足取りで踏みしめようともがいていたが、健闘空しく、前足の下に敷いていた大長虫の胴体が身震いしながら伸縮して難を逃れていた。

 繊毛が巻き付いていた後ろ足から離れると、大長虫は砂地に頭を沈め始めた。小さな納屋ほどもある巨体がみるみる内に砂の中へと隠れていき、最後にはわずかな窪みだけを痕跡として残し、姿を消してしまった。その間、戦馬は逃がすまいと長虫に近づこうとしていたが、撒き散らされる土砂が壁のように動きを遮っていた。

 長虫がいなくなると、徐々に砂嵐が弱まっていき、やがて止んだ。空は澄み渡り、陽光は徐々に陰りを見せ始めている。荒い息を吐いて戦馬は身を震わせ、砂を落としながら振り向いて、それまで彼ら巨獣の戦いを観察していたキアラの方へ目を向けた。キアラは一瞬、見とがめられたような気まずい気分になったが、戦馬は無視するように視線をずらし、オアシスからここまでの道を戻っていった。

 

 

 天幕の骨組みを解体し、焚きつけを取り出して火を熾そうとしたキアラは、天幕跡の周囲を丹念に調べ、嘗てのかまど跡らしき痕跡を見つけた。何度も表面を火で焼かれた煉瓦がまだいくつか、砕けもせずに残っていたので、それらを適当に組み合わせて火床が飛ばないようにした。

 数日振りにみた、赤々と燃える炎の煌めきは、水辺ゆえに一層寒々としている砂漠の夜を温かく満たす。

 できれば湯でも沸かせればよかったのだが、あいにくと器の類はなかったのでじっと火の傍に蹲っていたキアラは、いつの間にか傍に座り込んでいた戦馬を見た。

「傷を負っているな」

 囁きかけに戦馬は鼻息で応えた。こんなものは大したものではない、と言いたげだ。大長虫の繊毛には、腐食性の滲出物があったらしく、絡みつかれていた後ろ足には無数の蚯蚓腫れが痛々しく残っていた。

 この戦馬にとってあの大長虫が何らかの意味を持っているらしきこと、それは明白だったが、それが何なのかは分からなかった。

「どうしてお前はあの化け物と戦っているんだい?」

 答えるはずもなかった。戦馬は知恵はあっても言葉は話さない。

 だがキアラは戦馬を産する南部の人間であり、故国アグノーでも戦馬に接する機会の多かった戦士長だった。だからその生態は、或る程度分かっている。戦馬は責任感が強い動物で、野生でも自分の加わった馬の群れを護り、人馴らしさせれば鞍上の主人や他の騎兵らにも仲間意識を持つ。そしてこの戦馬は、孤独に砂漠の中で暮らしている。

「お前の群れはあの長虫に滅ぼされたのか」

 耳が震えてキアラの声を聞き取っているのが分かる。目は焚き火を眺めていたが、まるで懐かしむ様な潤んだ眼差しをしていた。

 やがて戦馬は立ち上がると一鳴きし、畔から離れて歩き出した。首を向けてキアラを見ながら、カツカツと歯を打ち鳴らしてこちらの注意を呼んでいる。キアラも火の傍から離れ、後をついて行った。

 戦馬は解体された天幕の傍まで来ると、前足の先で器用に地を掘ってキアラにそれを示す。戦馬の前足の先を見た。そこは天幕の影で、吹き込む風から守られた一画だった。そこが、どこか不自然な……意図的に地均ししたような痕跡があった。そこを前足で指し示しながら、再び地面を掻く動作をしてみせた。そこを掘ってみろということなんだろう。

 地面は周囲と同じ軽く細かな砂粒でできていて、手で簡単に掘ることができた。半身を埋めるほど掘り返すと手に当たる異物が、あった。

 二重に張り込まれた蜥蜴の革で作られた行李が一つ、地の中の湿気に汚れて埋もれていた。検めるべく持ち上げて火明かりの届く傍まで引っ張り出して掛け金を外すと、中の物の匂いがぷんと漂ってくる。湿気を含んで腐りかけた獣の匂いだ。行李の中には腐敗した獣皮紙と共に銀貨が片手一杯分散らばっていた。それを取り出すと、何かの獣の毛髪が僅かにこびり付いていた。

 そこから漂う匂いに戦馬は機敏に反応し、遠く響く嘶きを夜空へ向けて吠えた。銀貨には稲穂とバスチアン連合王国の副王の名を中原語で刻んであった。指に絡まりつく毛からは、嗅ぎ慣れた馬油の匂いが微かに残っている。

「随分遠くからやってきたんだな、お前の群れは。バスチアンの馬匹商、といったところか……」

 大陸北西部からきた馬匹商人が、遠路はるばる南部諸国へ分け入り、虎の子の戦馬を購って故郷へとんぼ返りしようとして慣れぬ近道に入り込んで災難に遭った、というところだろうとキアラは考えた。

 指先に掬った毛は、馬の質を示すために切り取った鬣だろうか。微風に揺れる黒茶色の長い毛を脇に立つ戦馬が熱いまなざしで見つめ続けていた。

 

 翌朝まで天幕の残骸で作った影の下で眠り、目が覚めた時、焚き火跡の周りに戦馬の姿はなかった。ただ、消えやすい砂地にさえくっきりと残る深い足跡が、オアシスの外に広がる砂漠へと出ていったのを伝えている。オアシスを囲む砂丘のすぐ外に、彼女は立っていた。

 まだ中天には早い時間だというのに激しく照り付ける日射の中で、黒い影を伸ばして立つ戦馬は、まるで岩のように微動だにせず、鬣も尾もぴたりと身体に張り付き、そよぎはしない。半ば伏せるような両目にかぶさる豊かなまつ毛が朝露でわずかに濡れていた。

 何を、と誰何する間もなく、上空遥か彼方に翼の羽ばたきを聞いたキアラは、身を守るために寝床の影に身をひっこめ、腹ばいになって馬の足先だけが見える格好で様子を窺うことにした。その羽ばたきは徐々に地上へと近づき、やがて不吉な調べを伴う厭らしくも獰猛な猛禽の鳴き声が聞こえるようになった。

 間隙の砂漠は不毛の土地だ。でも生き物がいないわけではない。この数日の彷徨でもキアラは未熟な成長を遂げた樹木、その下のわずかな湿った土の下に潜む虫、日陰から日陰へと跳ねるように移動する小動物の数々がいるのを知った。そして今、低空をゆっくりと漂いながら地表へと近づいてくる翼の正体も検討がついていた。

 そいつは人間の子供程度の大きさはある死肉食性の禽獣だ。全身から被った腐敗物の香りを放っていて、普段は影さえ落とさぬほどの高空を飛んで獲物を探し回っている。そして砂上で倒れ伏し、飢えと渇きで弱り死にかけている者があれば舞い降りて鋭く曲がった嘴で啄み殺すのである。

 荒れた砂漠の中に棒立ちになっている戦馬を死にかけていると勘違いして舞い降りた禽獣は、嘴から毒汁の如き涎を吐きたらして劈き、地にその大きな翼の影を落とした。その影の中へ戦馬の身体が入り込んだ瞬間、彼女はそれまで溜めこんでいた気力を1点に噴き出すような嘶きを上げて身を震わせた。空をかき回す羽根の風切りと乱れる影、その下で鋼の蹄がしばらくたたらを踏んでいた。が、それもすぐに止んだ。伏して見えない馬首の方向からはぞっとするような怪鳥の断末魔が途切れながら聞こえたが、踏みしめた砂の上に血の雫が滴りはじめると、それも絶えた。

 静かに始まり、そして終わった戦いの結果をはっきりと確認するべく、キアラは影から腹ばいのままゆっくりと抜け出て立ち上がった。予想された結果が、こちらに向かって歩を進めて近づき、はっきりと見えるようになった。

 戦馬の大きく丈夫な顎が、死肉貪る禽獣の頭をかみ砕き、歯でしっかりと挟んでいた。開いたまま硬直している翼で地面を引きずらないように器用に首を伸ばして歩いている。その姿が何やら滑稽な風情さえ感じられたが、目の前まで戻ってきた彼女の収穫物は、やはり醜悪な死肉荒らしそのものだった。生命としての美しさ、逞しさなど生まれて今さっき死ぬまで、ひとかけらも持っていなかったのではないかと思うほど、その鋭い爪、嘴、羽の一本一本まで、腐肉と汚れの匂いがこびり付いている。

 汚らわしい限りだが、一方でこれは今さっきまでどくどくと脈打って生きていた骨肉に違いない。内臓はともかく手羽元の筋肉を切り離せば可食に堪えるかもしれない、などと、手元の糧食が心乏しくなっていたキアラは思った。

 戦馬はキアラの前に猟犬よろしくうやうやしげに獲物を捧げ下ろすと、泉に歩いていき汚れた口を漱ぎ、水底の藻を食んでいた。戦馬は肉を食わない。だからこの『狩り』は自分の腹を満たすためのものではなく、目の前の来訪者に対する食事の世話だった。

「あ、ありがとう……?」

 戦馬は気に留めない様子で濡れた鼻先からぶるりと雫を噴き飛ばしていた。

 禽獣の肉は炙り焼きにしただけでも今のキアラにはごちそうに違いなかった。オアシスの湧き水と合わせて十分に腹がくちくなったのは久しぶりのことだった。肉を抜いた禽獣の残骸を穴を掘って捨てた頃、音もなく戦馬は近寄り、キアラの頬へ首を寄せた。力強く脈打つ馬首がぐいぐいとキアラの向きを変えさせようと躍起になっていて、なんだかくすぐったい。

 腹が満たされて、厳しい状況にありながら楽しささえ覚えていたキアラは、そんな戦馬らしからぬじゃれつきに笑いながら付き合ってやることにした。戦馬はキアラを引き連れて砂丘の向う側まで歩いた。そこはオアシスの周囲に乱立する大小の砂丘の中でも特に立派な稜線を保持した一画で、彼女はキアラに自分の鬣を掴ませたまま、ゆっくりと、まるで自分の踏みしめる蹄の力で巨大な砂の山を崩落させないように、そっと登っていった。

 実際のところ、その大砂丘は長年にわたって吹き付けられた砂粒が、下層で固着したことで幾分か固定化していて、一頭の戦馬がその上を駆けまわろうと崩れそうにもなかったが、目測にして八十尺はある小高い頂点に登り詰めたキアラの前には、そこまでの旅で見ていた物とは違った風景が広がっていた。間隙の砂漠という、切り立つ丘陵の岩壁に囲まれた閉塞感はなく、全周に渡って広がる波打つ砂漠が広がっていた。昨日、大長虫と戦馬が取っ組み合っていた地点が、浅い窪みのような痕跡を残しているのを見下ろし、そこから視線を遠くへと持っていくと、霞む先に丘陵の終点ともいうべき、鋸刃を思わせる山型の線がぐるりと砂漠の外縁を囲っている。

 地上から沸き立つ陽炎が地平線を滲ませる姿を眺めていると、それまで感じなかった感傷がキアラの胸に迫ってきた。猛烈にアグノーに帰りたかった。あの日より以前のアグノーへ。人々は塩と交易品に塗れながら商いに従事し、兵営は規律たたしく領内を見回り、それらを慈悲深くも威厳をもって治める君主ティリックス。その末端に組み入れられ、自分の身の内に宿った名誉と忠誠が統治と一体化していた日々を、痛烈に思い出させた。茫漠としたこの砂の大地に吹く、熱い風に全身を晒しているからかも知れない。キアラは身に纏った黒衣の合わせをきつく締め、頭巾の庇を目深に下ろした。そうしなければ、瞼に熱いものが込み上げてきそうだった。

「こんなところに連れてきて、どうするつもりだったんだい?」

 吹く風に飛ばされそうな心もとなさに、隣に立つ戦馬に片身を凭せ掛けながら問いかけるが、彼女は生きた石像よろしくじっとしており、その眼差しはまっすぐ一点に向けられているようだった。キアラはそれを追った。

 遠い稜線を凝視すると、霞空に混じり込んでいた傾斜の細部が見えてくる。緑のない岩山が連なっているのだ。だが、戦馬が首を向けていた方角の稜線には、他の連なりよりも深い、傾斜の重なりのような面があることにキアラは気付いた。その部分だけ、山の傾斜が繋がっているのではなく、ごくわずかだが互い違いになり、隙間が出来ているのかもしれない。その隙間は恐らく、両側に頂を窺うことも出来ない絶壁がそびえる細い谷間になっているだろう。砂漠から吹き込む風で草一本なく、足元は岩屑が散らばって踏み込む足から体力を奪っていくだろう。だが、そこは確実な砂漠からの出口には違いない。

 戦馬は自分が伝えたかったことが、キアラに伝わったことを感じて動き出した。身震いして振り返った背中を追いかけながら、キアラは言った。

「私に脱出路を教えてくれてありがとう。あの南にある谷間から抜け出れば、恐らくムタールメンのアッタロス属州に抜けられるだろう。泉の水に、あの腐れ鳥の肉片が有れば、まだ十日かそこらは歩ける」

 そこでキアラは立ち止まってしまった。考えがよぎったのだ。

「なぁ、なぜお前ははここから脱出しないんだ?戦馬にとって自分が属した群れが大事なのは知ってる。けれど、お前の群れは滅んだんだろう?どうしてもここに残らなきゃいけない理由があるっていうのか?」

 キアラの声に戦馬は立ち止まった。その鋼の蹄で所在無げに地を引っ掻いて、視線を広がる砂漠に向けている。

 答えることのない戦馬からは微かな動揺が感じられたが、それも見慣れた景色の変容が訪れるまでだった。また、オアシスを中心に壁のように立ち現れる砂嵐が、じわりじわりと不惑な風で小さな砂丘を削り取り、塵に塗れた旋風となって出現しつつあった。それを認めたとたん、戦馬からは戦場を間近にした戦士特有の、破壊と死に寄り添った興奮が陽炎のようににじみ出ているのに、キアラは気付いた。砂漠と、その上に起こる嵐、その下に潜む長虫に向けられた戦馬の殺気は、砂に塗れた彼女の鬣を風に吹かれているかのように揺らめかせるほどに濃厚だった。

 今すぐにも駆けだして獲物を探しに行きそうな戦馬に駆けよって、キアラは熱く脈打つ太い馬首に手を置く。

「お前の戦うべき戦場があそこなんだな。だけど、一人じゃ勝てないぞ。お前が真に優れた戦馬なら、乗り手が要るべきなのを知っているはずだ」

 闘志に燃える熱い眼が馬からキアラへと注がれていた。それを受けてキアラはにやっと微笑む。

「施しの礼をさせてもらえそうで、何よりだよ」

 

 

 天幕の切れ端で、なんとか馬銜と手綱の代わりを拵えることは出来たが、流石に鞍は用意できなかった。戦馬の背中は広く、鞍が無ければとても座っていられないから、細く切った革で彼女の腹を巻いて鐙のように足を掛ける箇所を作った。これで膝の締め付ける限り馬上から体が離れることは無い。

 一騎のにわか騎兵は石の槍を脇に挟んで吹き荒れる砂嵐の壁に向かい、ゆるゆるとだく足で歩み出した。騎乗馬として天性の素質を持つ戦馬である彼女は、恐らく久しくなかっただろう背の上の重みと温もりを前にしても小動だにせず、まるで何度も騎乗を受けた馴染みの騎手であるかのように大人しかった。即席の馬具も嫌がることなく、キアラがその感覚を確かめながら手綱を通して意志を伝えてくるのを受け取った。

 やがて吹き付けてくる砂粒の勢いが激しくなる。キアラは広い馬の背に伏せ、手綱を緩めるが同時に腹を蹴る。視界が塞がれ暴風の音に囲まれた状況では戦馬の感覚が頼りになる。彼女は任された役割に従い、薄織物が幾重にも重ねられたような黄土色の空気の中、感覚を研ぎ澄ませながら駆けた。

 一人と一頭の戦士は『敵』を探す意志を、夜闇を切り裂く篝火の光の如く燃やしていた。戦馬からキアラへ伝わる、『敵』への怒り、仲間を失った無念、それを糧に幾日もの間に芽生えた報復の決意があった。キアラから戦馬へ伝わる、砂漠を彷徨った己への悔恨、それを助けてくれた彼女への感謝と敬意があった。互いの意志を戦いの予感の中で酌み交わしながら、一組の戦士たちは自分たちが戦うべき相手に近づいていることを、目ではなく、耳でもなく、あえて言えば肌にねばりと吸い付く気配で察し始めた。

 荒れ狂う風と砂をかき分けて上空から迫る大長虫に気付いた時、戦馬は手綱からの伝達を待つことなく、自分の意志で踏切り、跳躍した。稲光を背景に浮かび上がる不快な巨大生物が完全に見え、キアラは集中していた意識を一気に解放した。オルグ族の匠によって鍛えられた石槍の穂先が、体内から引き出した熱でもって赤化されると、すれ違いざまに大長虫の側面を切り裂いた。

 包丁で海老の背を割ったような音を後方に残し、跳躍の頂点から一騎は落下した。着地と同時にキアラは手綱を引いて馬首を返させ、同じく地面に降りた長虫を逃がすまいと追った。

 長虫は恐らく初めて受けたであろう体内に達する攻撃に対し、身悶えし、吠えていた。ぞっとするほど重く、粘液の底から泡が立つような叫びが風を破って聞こえてくる。その不快さが、一人と一騎の殺意をさらに燃え立たせた。戦馬が戦場であれば敵兵を恐慌に陥らせるような嘶きをあげ、その上にいるキアラは焼ける槍先をぴたりと相手に向けて腋を締め、突撃の構えを取った。

 距離にして110間を瞬く間に詰めた戦馬は、その脚力に乗せた重さをキアラの穂先の一点に掛けて、触手に塗れた口吻を広げて待ち構える長虫と激突する。穂先が節くれた触手を捌き、次に柔らかな肉を切り裂く感触が伝わり、だが次の瞬間に硬い甲殻に突き当たり、そして突き抜けた。腕にかかる衝撃にキアラは渾身の膂力でもって耐え、穂先を引きずるように長虫の体の中へ引っかけ、戦馬の脚力に任せて初撃とは逆の脇腹を無理やりに割り破った。

 身体の両側面に加えられた大きな裂傷から、肉と汁を噴き出した大長虫は、しばらくぶるぶると身を不快に震わせながら以前と同じように砂地の中へ深く身を画して逃げようとあがいていた。だが、自分の腹からあふれ出る紫色の液体に沈めた蟲は、次第にその蠢動が緩慢になり、やがて動かなくなった。

 その様をキアラと戦馬は50間の距離を置いて見ていた。逃走を謀ろうものなら一足駆けに三度目の槍撃を見舞える最短の距離である。一人と一頭は冷たい汗を掻きながら胸を震わせて息をしていた。ぶっつけ本番の人馬一体の戦闘は両者に想像以上の疲労を与えていたのだ。その上、二人はまともな馬具を付けてない。馬上で体を固定するためにキアラは常に足で胴を締め付けねばならず、今にも戦馬の上から落ちそうだった。戦馬も、自分の背で絶えず動き続ける生き物を背負っての疾走で筋肉が強張っていた。もしこの一騎を成す戦士と馬が、十分な時間をかけて歩調と呼吸を合わせたなら、その疲労は半分に、威力は倍になっていたことだろう。だが、今はあくまでも即席の組み合わせに過ぎない。

 長虫の死を確信したキアラと戦馬は、ゆっくりと……疲れた体を労わるために歩き、近づいた。大長虫の骸を中心とした紫の粘液の水たまりが出来上がりつつあり、そこへ寄るほどにむかむかする悪臭が漂う。粘液を吸った砂が肌理の細かい泥となって泡立ちっているのだ。遅々とした歩みにキアラは一度降りてやろうとしたのだが、自分の足が固く締まったまま動かなくなっているのに気づき、仕方なく馬上で静かに息をしながら横たわる肉塊を見ていた。その大きさは水分が粗方抜けてしまったからだろう、幾分か萎び、小さく見えた。

 粘液の溜まりの中へ戦馬の蹄が躊躇わず入り、キアラの槍先で突けるほどの距離に立つと、キアラは自分の両足を叩いて励ましながら、なんとか地面に降りた。踝まで浸かる粘液の上を、槍を杖にして歩き、長虫に触れた。まだわずかながら温かく、そして臭かった。

 振り返り、キアラは自分と死体とを見比べていた戦馬を仰ぎ見た。

「お前の仇敵は死んだ。お前をこの不毛の場所に縛り付けていた楔は無くなったんだ」

 それを聞いた途端、戦馬が鬣を興奮に立ち上がらせ、粘液の溜まりが腹に引っ掛かるのも気にせずに長虫の腹へ勇んで駆けつけた。キアラが目を見開き体をよけると、戦馬は蟲の外殻を歯で器用に剥き始めた。既に割られた蟲の殻は卵を割るように容易に剥きとられ、硬い外部の下に仕舞われた肉を次々に晒していった。晒された肉の中へ戦馬は首を突っ込み、ぶよぶよと弾性のある締まりのない蟲の肉を噛みちぎって、内臓を引きずり出した。

 長虫の体内は殆どが臓物だった。不毛な砂漠の生物とは思えぬ、極彩色の内臓が溢れ出てキアラの目に焼き付いた。一体何の機能があるのか見当もつかない器官が無数にあり、その中で辛うじて食物を消化するためのものだろう一束の筒状の部位を、戦馬は選んだ。歯で先を噛み切り、その内容物をキアラの前に投げ出して見せたのだ。

 長虫は長年の悪食により生きながらえた不浄の化け物らしく、腹の中には無数の未消化物が残っていた。その殆どは粒状の鉱物で、粘液に晒されて変色している。濡れた砂利のようなそれらの中に、貴金属や宝石が混じっていても、恐らく誰も欲しがらないだろう。事実キアラはめぼしい石の中から翡翠と思しき一片を拾い出してみたが、拭っても落ちぬべたべたとした感触と臭いに捨てざるを得なかった。

 それら汚染された鉱石の小山を、戦馬は選り分けていく。一粒一粒の石くれに鼻を近づけ、まるで微かに残った何かの匂いを探っているようで、その姿は戦勝の余韻どころか悲しげでさえあった。やがてひたり、と鼻先の動きが止まると、彼女は幾つかの塊を石の小山から取り出して分けた。

 それは輝石ではなかった。貴金属ですらない、鋼の玉だった。全部で四つ、握りこぶし大の歪な鉄球を戦馬は選び出すと、それを見ながら深いため息のような呼吸を取り、目を伏せた。キアラもまたその鉄球を眺め、果たしてこれが一体何なのかと思った時、その思い至った答えに愕然とした。

 彼女は雌の戦馬だった。それは珍しいことではない。だがもし、彼女が子を孕んでいたとすればどうだろう。子を産む戦馬は南部諸国でもそうとみられない希少中の希少品だ。何故なら、戦馬は南部ではなく、さらに西方にあるという赤銅の海岸で生まれると言われているからだ。もし、バスチアンの馬匹商が、同じ重さの黄金にも等しき、この孕んだ戦馬を持ちえたとしよう。故郷の連合王国へ連れ帰り、王侯貴族へ高く売りつけようと、逸るままに近道をするべく間隙の砂漠に入り込んでいったに違いない。だが強行軍の旅で、雌馬は産気づいた。不慣れな地で産み落とされた仔馬は、乳を吸ったのだろうか。それとも、そのような自然の営みさえ始まる暇もなく、砂嵐に乗って砂漠を行く生き物を貪る長虫に襲われてしまったのだろうか。

 ここにある不揃いの鉄球を見ていると、キアラは何やら苦いものが腹から込み上げてくるようだった。ふと、隣に立つ戦馬が天へ向けて嘶いた。涙を流して鳴くような、悲しく、辛い、しかし聞き入らずにはいられない、遠くまで響き渡る嘶きが、空を濁らせる砂嵐を貫いて響く。

 不揃いな鉄球、それは生まれて間もなく怪物のような長虫に貪り食われた、戦馬の仔が持っていた蹄の成れの果てだ。母はこの世に残された、我が子の最後の痕跡を前に泣いているのだった。

 

 

 泉の畔に深く穴を掘り、そこへ仔馬の蹄を埋めて墓を作ってやると、残されていた天幕の残骸で墓標を突き立てた。解体し尽された残骸の痕跡は跡形もなくなってしまい、その晩は熾した火の中へ砂中にあった行李をちぎって投げ込んで過ごした。

 火の中で燃え上がる古い皮と紙は細い一筋の煙となって空へ上がっていった。

「このような弔いの仕方しか私にはできないな」キアラのつぶやきに戦馬は傍に座り、首を摺り寄せて感謝を示した。

「明日にはここを出るよ。お前が教えてくれた道を行き、おそらくアッタロス属州の外れに出るだろう。お前はどうするんだ?」

 戦馬は首をかしげるような仕草をして、なんのことだか分かっていないようだった。

 キアラは続けた。

「お前のここでの戦いは終わったんだ。たまさか終生、子供の墓を護ってこの砂漠で暮らすのか?お前なら人の住む領域を縫ってでも南部の故郷へ帰りつくだろう。そこでまた新たな群れを見つけるがいい。戦馬の本分に従ってな」

 キアラは目の前にいる優しい獣が戦馬であると知ってから、この砂漠の畔で済み暮らす姿が戦馬本来の生態からかけ離れたものであることをひしひしを感じていた。戦馬は強い。しかしその強さは孤独の為ではなく、共に暮らす群れの為にある力なのだ。

「もう人に捕まるんじゃないぞ……とは、言い難いな。お前は自分を連れていた商人を嫌っていなかったらしい。でなければその痕跡を砂に埋めさせず、守ったりなんかしない。よくしてくれたんだろう」

 脈打つ首を撫でていると、なにやらキアラの瞼に在りし日の姿が見えてくるような気がした。南部の荒野と中原域の境にありそうな草原地帯に走る、細い細い街道を往く群れがあった。片手に数える程度だが、丹念に手入れのされた馬たちが、先頭を行く商人と彼の従える丁稚に率いられていく姿だ。バスチアン人特有の袖がゆったりと広がった服に鍔のないバスチアン帽をちょこんと乗せた小柄な男が、積み荷を背負わせた去勢馬を牽いて、遠路はるばる南部から買い取った馬たちを故郷へ持ち帰ろうと気張った顔つきで遥かな地平を目指す。馬たちは連銭葦毛の牡馬から鹿毛、青鹿毛の雌馬やら、どれも骨格が綺麗で力強く地を蹴っている。大陸北東域のバスチアン連合王国の君主たちは、きっとお前たちを大事に扱ってくれるだろう。そんな商人の自信と希望にあふれた気持ちが群れ全体を包んでいる。その中で一際体格の良い一頭の馬が、自分と同じくすんだ焦げ茶の毛色をした仔馬を連れて歩いている。

 空の霞みながら広がっていく青さと薄黄緑の若生えで塗り分けられた、短調素朴な世界に浮き立つ、生命と生活の逞しくも慎ましい小世界がそこにはあったのだ。

 翌朝、キアラは眠りから覚め、荷物をすべて纏め、焚き火跡も念入りに消していた。泉の畔には自分のいた痕跡を残しておくのが何くれとなく不快な気がしたのだ。

 戦馬の姿は、なかった。キアラが寝ている間に泉から離れたのだろう。

 最後にまた、あの大砂丘に登って周囲を見覚えておこうと泉を囲む砂丘から歩み出た時、砂丘の影から朝日の逆光を受けた巨獣がキアラの前に立ちふさがっていることに気付いた。

 はっと驚き、そしてキアラは見上げた。まるで日陰に沈み込んで息を潜めていたかのように、戦馬はひっそりと現れたのだ。ちょうど、隠しごとを告白しようか悩んだ子供のように、首を振り、視線を迷わせていた。そのつぶらで大きな瞳が時折こちらを見つめて、声をかけてもらいたそうにうるみを帯びている。

「どうした?」

 声をかけてやると、戦馬は横腹をキアラに寄せるようにして立った。するとどうだろう、とっくに外してあったはずの鞍と鐙代わりの皮がしっかりとまた巻き直されている。

 かくも器用な四足の獣は、首を巡らせてキアラを再びまじまじと見ていた。その意味を分からないキアラではなかったが、逡巡はあった。

「お前は自分がしていることの意味を分かっている筈だ。それともなにか、あの一度きりの騎乗で私を『群れ』と決めたというのか」

 自信たっぷりに戦馬は頷いた。

 やれやれ、とキアラは目の前の大きな体へ腕をいっぱいに広げて抱き着き、軽く肌をたたいてやった。

「今の私は根無し草だぞ、人間なんかについて行かず、自然に帰っていればいい目に遭ったかもしれないんだぞ。それでもいいのかい」

 震えもしない戦馬の格好に、キアラはくく、と苦みの滲んだ笑みを浮かべた。

 そして次の瞬間、キアラの身体が発条人形のように跳ね上がり、一瞬のうちに戦馬の鞍上に収まった。無造作に伸び、垂れさがっていた手綱を握ると、裂帛の一声と共に馬腹を蹴った。戦馬は全身に興奮へ沸き、煮え立つ血の巡りを感じ、一息に駆け始める。

 砂丘の周囲を軽く一周し、互いの呼吸を合わせた一人と一頭は、それまで自分たちの命を繋いでくれた泉を振り返りもせず、南に見える山岳の絶壁に走る谷間へ向けて走り出した。

 きめ細かな砂の上を軽快な足音と砂煙だけを残し、どんどんと加速しながら戦馬は走る。その足取りは既に凡庸な馬なら全力疾走になるだろう速度だというのに余裕があり、むしろ身体を一杯に動かす喜びが手綱から伝わってくる。

 うねる砂の大地を巨大な蹄で切り付け、その背に乗って体に当たる風を浴びていたキアラは、瞠目した。

「これが!これが戦馬なのか!」

 我知らず、キアラは叫び、笑った。大長虫を倒したときのような、わずかなぎこちなさもなかった。それはキアラと戦馬が、互いの解放された感応の交わりが生んだ喜びだった。

 

 陽が落ちるよりも早く砂漠を走り抜けた戦馬に乗って、キアラは絶壁がそびえる谷間に入り込んだ。まだ太陽は空高く上っているが、それを遮るほど高い、険しい岩の頂が左右の視界に迫っている。砂漠から入ってきたというのに足元には名残雪が点在し、岩屑で埋められた細い道に平坦な場所は全くなかった。

 流石に戦馬でもその道を行くには慎重な足取りを要求された。人が歩く程度の速度で荒れた道を踏みしめていた。その背に揺られていたキアラは周囲を警戒しながら話しかけた。

「お前は自分を連れていた商人から、なんと呼ばれていたのかな。それとも、商品だから名前なんて付けてもらえなかったのかな……いつまでも『戦馬』なんて、余所余所しい呼び方をするのも嫌だし」

 戦馬は聞いているのかいないのか、一見すると分からないくらい反応がなかった。だが、よく見るとぴたりと耳が後ろを向いて固まっていて、しっかりとキアラの言葉を聞き取っていた。

 鞍の上で少し格好を崩し、広い背中の上で腹ばいになったキアラは戦馬の首筋を撫でた。馬の熱く脈打つそこをひたひたと撫でるのが昔から好きだった。

「ははは、普通の馬ならこんなことできないな。広い背中だ」

 キアラはそうしながら、目の前で揺れる鬣越しに、戦馬の視線をなぞった。大きくつぶらな馬の瞳は、恐らく絶壁の上から下までくまなく写し取っているだろう。行く先の蛇行する道にある、足を取られそうな悪い足場も先んじて認め、そこを踏まないように足取りを変えてもいた。

「賢いな、戦馬って言うのは。私が知っていた戦馬はお前ほど頭は良くなかった。乗り手の言うことは聞くし、単騎駆けでも物怖じしない勇敢さはあったが、こんな難所を走らせたら間違いなく足を踏み外しかねないくらい観察力と言うものを欠いたところがあったな……」

 今は亡きアグノー王国の宮城でただ一頭飼われていた戦馬『円舞の炎』と、その背にあって手勢を率いていたかつての主君を一時思い出しながら、これからの旅路を考えた。この先を更に行けばアッタロス、そこから北東へ開発された街道を登ればムタールメン。その間、人目につかずにいることは出来ないだろう。

 今の自分は普通の人にとってどのように見えるだろう。擦り切れた旅装束の下に妖しい紋様を刻んだ肌が垣間見える、槍をからげた女が、目を見張るほどの巨馬を携えてたった一騎でやってくる。まともな商売をしている人種には見えまい。良くて傭兵くずれ、悪ければ不審な風体を見とがめられて番兵に追いかけられるかもしれない。

(実際、今の私は流浪の上、身分も定かでない。だがこの五体は生きている。身についた力と技で生きていける。この戦馬が一人、砂漠の中で生きながらえたように)

 戦馬が足を忍ばせながら荒れた細道を進み、やがて出口が見え始める。出口から流れてくる風の匂いが変わり、それは砂漠に吹く乾いて熱い、潤いを奪っていくようなものではなく、草木の間を抜けてきた甘い香りさえ混じっているように思えた。

 緑豊かな景色を思い浮かべていたのはキアラだけではなかったようだ。戦馬の胴が興奮に震えているのが伝わってくる。考えてみれば、キアラ以上にこの戦馬は緑ある世界から長い間離れていたのだ。

 腹と手綱を操って彼女の気を落ち着けさせ、キアラ自身も逸る期待を抑えながら、困難な荒れ道を抜け、出口に立った。そこはなだらかな斜面の途中にある大きな裂け目だった。内側から見た山の連なりも、今ははっきりとはわからない。その代り、見える限りの一面を埋める、小石交じりの草地が徐々に色合いを変える緑色の絨毯のように広がっていた。空にはいつの間にか千切れ雲が浮かび、肌に当たる空気もしっとりと湿りを帯びていた。

「やっと、出られた。帰ってきたんだ。私とお前は」

 絞り出すように言うと、それに答えて彼女は嘶いた。

「さぁて、まずはここを下りてどこか集落を見つけないとな。いつまでもこんな襤褸をお前に付けさせておくのも、私の趣味に合わないし」

 そういうと、戦馬はキアラの意識が捉える間もなく駆けだして斜面へ飛び降り、怒濤の勢いで駆け下りはじめた。

 間一髪、その衝撃を躱し、キアラも手綱と鐙替わりの革ひもでその勢いに乗った。

 

 アッタロス属州北西部にある集落としては中小規模といえる街、ダリンジにたどり着いた頃には、既に陽が没しかけていた。街を囲む板塀を巡って出入りの門を閉めようとしていた間際のところに、滑り込むように中へ入った。

 背後で厚い鋲打ちの扉が締め切られるのを肌で感じ、目の前に広がる文明の営みを見た。

 夕刻とあってどの住宅も煮炊きの煙が上がり、芳しい料理の匂いが嗅ぎ取れそうだ。住民は野良着普段着のまま、道具や荷車を伴い、あるいは家族の待つ家へ、あるいはその日の疲れを癒すべく居酒屋を目指して歩いている。住宅の造作は中原によくある煉瓦状に切られた石を組んだ石煉瓦と板葺屋根で、既に風雨の試練に長く耐えたものが多かった。蛮習のまかり通る湿原から不毛の砂漠を経て文明世界に戻ってきたキアラの目に、そのような何気ない光景は眩しくさえあった。と同時に、自分の中に刻まれた穢れが生涯に渡ってこの中へ自分を溶け込ませることがないだろうことを本能的に悟った。

『今のお前にとって、この環境が果たして安全と言えるか?』

 胡乱な囁きが耳元でなされたような気がした。だが、

「どこでも生きていける」

 というひそやかな自信がキアラには宿っていた。それを鞍の下で感じ取った戦馬も、それに呼応するがごとく鳴いた。

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