束縛付与
某小説大賞に持ち込むつもりだったのですが、いろいろあって時機を逸してしまった原稿を公開しようと思います。
流行のきらびやかなファンタジー観より、土や誇り、血や叫びに塗れたファンタジーが好きで、そのような作品を目指してみました。
あと馬です。馬こそ人類史における最古の軍事兵器として、剣と魔法とともに並列されるべき一品、と思っているのですが、残念ながらあまり活躍させられず、残念。
次回からもっとうまく使ってやらないと……。
序
永劫の歳月を閲してなお、深い深淵に蟠る『意志』があった。
『その意志』は光の差さない大地の奥底に安置され長い時を過ごしていた。微動だにせず、一瞬の眠りもなく、しかし遠くから聞こえる音と臭いばかりを感じ取りながら生き続けていた。
彼、あるいは彼女には、優しさも、悲しみも感じることは無かった。ただ一つ感じていたものは、身を狂わんばかりの憎しみだった。憎悪、ただひたすらに純粋な憎悪の心……。
その矛先は遥か彼方、地上で闊歩する者たちをひたすら呪うことで養われていた。あの者ら、敗残者が、我が物顔で大地を歩くことを憎んだ。栄光と繁栄を享受するに足る資格を持っていた己ではなく、なぜあのような者らがと。
既に身に悦びを浴びて過ごした記憶さえ古錆びつつあった『その意志』は、あるいは何事もなければ、世界の終りまでその深みの中で他者を呪い続けるただの石榑に過ぎなかった。
だが、世界を作りたもうた始原人さえ預かれぬ運命の采配が、この悍ましき存在に再起を試みる機会を与えようとしていた。
1
黒く変色するほど汗を掻いた馬の鞍からキアラは跳躍すると、左右から打ち掛かった槍先を躱し、宙にありながら素早く手の槍を繰り出して敵兵の頭部を連続で貫いた。着地と同時に槍を振りながら口笛で馬を呼び寄せ、その背に飛び乗り、アグノーの旗印である白い菱形を探した。
既に敵陣に突入して、かなりの時間がたっている。奇襲としては完全な失敗に終わり、あとはいかに敵兵を減らし、隙を見て乱戦から脱出するかしかなかった。
だが、領主ティリックスを見捨てて撤退するという気持ちはキアラには無かった。人間の戦士にして5人分の働きができるという戦馬に跨り、胴を縦に裂ける戦斧をふるうティリックスが易々と死ぬとは思えなかったし、その骸があればこれを拾っていかねばならないとさえ思っていた。
平地で入り乱れた敵味方の立てる土埃が舞い上がり、視界は徐々に悪くなっていく。その中を疲れ切った馬に跨り駆け回り、打ち掛かる兵を倒し、また領主を探す。それだけを繰り返すうちに、馬が血を吐いて倒れた。投げ出され、地面を転がって立ち上がった時、槍先が折れてしまっていた。打ち捨て、別の槍を拾い上げたキアラの前で、土埃の切れ間が現れ、そこに襤褸のように擦り切れた旗印を掲げた戦馬に乗るティリックスが、二人のピッグマン戦士と対峙する姿が見えた。
手綱を離し、鞍と膝で戦馬を操りながら、熱を帯びた戦斧を掲げてティリックスは突撃した。
大柄の戦馬に跨る男と背を並べる程の巨躯を持つピッグマンの戦士は、その手に握った黒曜石の剣を構え、ぶつかってくる騎馬に向かってそれを振り下ろす。
堅いものを砕く破壊音が地平を通り抜け、やがて埃が止んだ静かな戦場で、ティリックスと彼の跨る戦馬は、その体を真っ二つに切り裂かれて倒れていた。斧の頭が風を切って地面に突き刺さり、噴き出した馬と人の血で地面を広く汚していく。
キアラの目の前で、守りたかった人の命が消えていった。彼女は仇を討とうと衝動的に槍を構えて跳びかかろうとしたが、積み重なった疲労は手足の俊敏さを奪っていた。膝から地面に倒れ込み、しかし意地で仇の面を睨もうと首をひねって見た。
自分に背中を向けたピッグマンの戦士の姿だけが見え、やがてキアラの意識は暗い底に沈んでいった。
南部平原北方にあった都市国家アグノーは塩水湖アグノアンを擁した塩の貿易で栄えた国であったが、中原で勢力を拡大させつつあったムタールメン共和国の圧力を受け、恭順か抵抗かの選択を迫られていた。
アグノー周辺が乾季を迎える中、ついに共和国の軍隊が首都アグノーを領有すべく侵攻を開始する。アグノーはこれを迎え撃つべく防衛軍の一部を割き出撃させ、アグノアンに流れ込むサビィ川中流域に進出し、陣を張った。目的は渡河を目論む共和国軍を川岸に追い込み包囲攻撃することであった。しかし、その目論見は失敗することになる。
共和国軍本隊から先発すること三日、川の上流からアグノー軍へ急襲を掛ける部隊があった。共和国軍でその実力を買われたピッグマン、オルク族の傭兵部隊である。強壮な肉体を持つ彼らの襲撃で後背を脅かされたアグノー軍は、続いて現れた共和国軍本隊との挟撃を受け、敗退。多数の死傷者と捕虜を生むことになった。
さらにアグノー側にとって不幸が続く。サビィ川から引かれた水道が占領されたことが知らされたのである。これは塩水湖を望む立地のアグノーにとって急所を握られたも同然の出来事であり、続く籠城戦が一層厳しいものになることを予期させる事態であった。
サビィ川での前哨戦から五日を経て、首都アグノーを包囲すべく共和国軍が現れた。城壁を隔てた二国間で小競り合いの日々が続き、市内に閉塞と絶望感が漂う中、物語は始まる。
2
黄昏が迫る空をバルコニーから見上げていたアグノー領主ティリックス1世は、視線を下ろすと同時に領主館へ入り込んできた騎馬の人物に注目した。
緋色の皮鎧を着た女であった。背は高く、夕陽に照り映える赤い髪を波打たせている。彼女は馬を繋ぐと人気の少ない館の中を進み、領主の執務室のドアを叩いた。
「入りたまえ」
声に応えて開かれたドアを通り、女はティリックスに直立不動の礼を示した。
「キアラ・グィズノー、ただいま帰還しました」
キアラと名乗ったこの女は、現在進んでいる共和国との戦闘を指揮する指揮官の一人であり、唯一の女隊長だった。アグノーでは女性でも兵士として登用できる習慣があり、優秀な女戦士も多数輩出してきた歴史を持つ。が、ここ10年で隊長職に就くことができたのはキアラのみだった。
「報告を聞こうか、キアラ。進捗はどうなっている?」
「城壁の補修と築陣は、二割増しの工程数をこなさせてます。報告でありました弩砲の攻撃もはねつけることでしょう。しかし、資材の在庫が底を見せ始めています。特に水は溜め甕が数えるほどしかありません。程なく使い切り、我々は日干しになることでしょう」
「この塩水湖のようにな」
沈痛の面持ちで述べたキアラに対し、ティリックスは平然と答えた。
「領民たちの様子はどうだ、と聞くまでもないか。怯えと不安に苛まれていることだろうな」
「はい。かなり堪えていると思います。商人たちから食料品を買い上げて放出されたので、餓えさせることはないでしょう」
「やはり最後は水に戻るか。水がない以上いくら食糧があろうとな……」
ティリックスはここで懐から一通の書状を取り出し、キアラに渡した。
「今朝方交換した書簡だ。共和国側からのものだ」
「拝見します」
渡された書状をキアラは胸の前で広げた。山羊皮で作られた紙の上に青インクで中原語が書かれている。キアラはそれを難なく読めた。
「嫌らしい文面だよ。いや、合理的というべきだろうな。私と一族の身柄を引き渡し、製塩の権利を引き渡すこと、共和国の代官を置くこと、それらが受け入れられないならば翌日正午から攻撃を始める、とな」
「受け入れなかったのですか」
「出来ないな。いや、出来なくさせられているというべきだろう。塩の事を言っているが、彼らが欲しいのは塩じゃない。彼らの属州であるアッタロスを圧迫しているグレシアの後輩を突きたいがために、この国をせめ落とそうとしているのだ。南部の国々が互いをけん制し合い、容易に合従しないことを知っているのさ。私はグレシアやボクスに援助を求めたが、梨の礫だったよ」
複雑な表情でキアラはティリックスを見上げた。
「明日の攻撃が正午だというのなら、私はそれに先んじて全軍を持って城壁を出て攻勢を仕掛ける」
「!!」
「城攻めの準備に夢中になっている敵陣に奇襲を仕掛ける格好になるはずだ。素早く連中の鼻先を掠め取り、ここに戻ってくるのだ。うまく行けば交渉でより譲歩を迫ることができるだろう」
「では、今晩が勝負となりますね。敵方に知られずに兵を招集し、支度をさせねばなりません。素早く、的確に」
キアラは力強く答え、その眼には戦いの予感が守勢の重苦しさを打ち払っていくのが認められる。
「お前には苦労を掛けるな、キアラよ」
「とんでもございません。女の身で戦士として取り上げていただいた恩に報いるまでです」
「そう肩に力を入れるな。……ここを出る前に少しだけ時間をやろう。メルセデスに会っていくがいい。あれも不安な夜を過ごしているだろうからな」
領主館の廊下をキアラは進む。館の右翼には渡り廊下を渡した離れになっており、そこには領主ティリックスの妹君であるメルセデスが住んでいた。
キアラはもともと、メルセデスの警護役兼世話係として10歳の時登用された。生まれはアグノーであり、両親は塩の隊商を率いていた。親譲りの壮健な肉体と頭周りの良さ、そして領主の一族故に友を持つことのできないメルセデスに同性の友人を宛がおうという配慮からだった。
やがて長じ、キアラは本格的な戦士の訓練を施され、またメルセデスと共に家庭教師に学問を授けられるという幸運を得た。その為、彼女は平原諸国の言語に加え、中原の言葉や、製塩に導入されて久しい熱学術を修めている。戦士として武器を持たせれば、軽快な体躯から繰り出される槍の一撃は鋭く、五対一の組手をもこなせる腕となっていた。
その実力でアグノーでも珍しい女の戦士長となったキアラだったが、一方でメルセデスもまた領主の一族として薫陶を受け、ゆくゆくは近隣の名のある領主との婚姻を待つ身分となっていた。したがって、ふたりはかつてほど長い時間を共に過ごすことはなかったが、今もその友誼は篤い。
メルセデスの居室のドアを叩くと静かに応じる声がする。キアラは音をたてないようにドアを開き、中に滑り込んだ。
室内は暗い。壁に作りつけられた各種の棚、窓側に寄せられたベッドがあるだけの簡素な作りだ。その中で陶器で出来た球状の器具が吊り下げられ、柔らかな光を放っている。熱学術で用いられる蓄熱式の照明であるが、それもごく弱い。
「灯りは小さくするようにと兄君様から言われているのよ。……キアラ?」
「はい、私ですよ。メルセデス様」
灯りの真下に歩み出したキアラに駆け寄ったメルセデスは、アグノー領主の一族特有の顔をしていた。眉と目が細く、鼻筋の通った相貌である。アグノーで採れる塩の如き白い肌が弱い光の中でも輝くようで、眉も目もはっきりと描かれ、日に焼けた肌のキアラとは正反対だった。
「ご心労の程と思い、お見舞いに上りました」
「堅苦しい言い方はよしなさいな。兄君様の計らいと見てよいのでしょう?」
「ええ。……お辛くはありませんか?」
「辛いわ。辛いですとも。矛を構えてやってきた共和国に生活を奪われようとしている領民のことを思えばね。そして彼らを安んじて暮らせるようにするために苦しんでいるであろう兄君様の心中も、さぞ辛いことでしょう」
メルセデスはそういうと、部屋にいた傍仕えの者を下がらせ、キアラと二人きりになった。
「教えて。兄君様は何とおっしゃったの?あなたを寄越すくらいだもの。よいこととは思えないけれど」
「ティリックス様は攻めに転じる策を編まれましたよ。私も一隊を率いて同行することになりましょう」
「決死の旅路ね」
「そうとも限りません。あの方はここに戻るとおっしゃいました。無駄死にはしませんよ」
「あなたのことよ」
「私の?」
キアラを指さしてメルセデスは言う。
「あなたって奇妙に義理堅いから、兄君様をここに帰すためなら死んでもいいと思っているでしょう。たとえ今は思っていなくても、咄嗟にそう思って行動してしまうのよ。兄君様もそれを知っているから、後で悔いないように私の元へ寄越したんだわ」
「仮にそうだとしたら、私は大変名誉なことだと思っていますよ。メルセデス」
「部下として目を掛けられているから?忠義ものぶるのはやめなさい。あなたの家族は今、平原を離れているのは知っているわ。死にそうになったら逃げなさい。家族の元へね」
ふくれっ面を見せてメルセデスは言った。
「アグノーの一族は滅びるかもしれないけど、アグノーの塩とその民は残るわ。私はそっちの方が大事よ。だからあなたも生きて」
「……そのような余裕があれば、考えておきましょう」
どこか冗談めかして、キアラは答えた。
中原歴753年の第三季15日は夜明けと共に燃え立つ火球の雨で始まった。
アグノー防衛軍はその全軍の七割と言える約500の兵を抽出し、熱学術による火球弾で背後から援護を受け、首都アグノーを包囲するムタールメン共和国軍3000の待ち構える布陣へ突撃した。
炸裂する火球弾は敵陣をかく乱するための偽攻であり、本隊の目的は敵陣でもっとも薄い左翼を突破し、中央と右翼から援軍が出てくる前に反転し市内に帰還することであった。
火球弾は城壁全体から包囲する敵陣の右翼へ集中して投下され、相手の注意をそらした後、左翼へ最も近い裏門から出撃した。先頭を走る領主ティリックスはアグノー唯一の戦馬『円舞の炎』号に跨り、その手にした戦斧で立ちふさがる兵たちを薙ぎ払った。
奇襲の第一段階は上々の戦果を挙げた。500の兵が一体となった突撃は左翼の先端を削り取り、一旦はその背後を取った。
だが、そこから反転し、再び城門への帰還は行きより果てしない、長い道のりとなってしまった。理由は最初の攻勢により予想以上の消耗を強いられたためであった。その数を300を割り込むほどに減らしたアグノー軍の前に立ちはだかるのは共和国軍中央から駆け付けたピッグマン傭兵部隊だった。強壮な肉体に石の武器を握った異形の傭兵たちは、わずか100人ほどが一陣となって左翼に踏み止まり、突き抜けようとするアグノー軍はついにその足を止めてしまうのだった。
足を止めたアグノー軍はピッグマンをはじめとした共和国軍中央からの救援部隊により乱戦状態に持ち込まれた。元々寡兵であったアグノー軍は壊滅的打撃を受け、中でも領主ティリックスは陣頭指揮を執っていた最中に討たれたことが伝わると、わずかに残っていた兵たちは降伏した。
事前に侵攻を通知した正午になり、再び共和国軍はアグノー側に使者を送ろうとしたが、同時にアグノーはすべての城門を開き、ティリックスの妹メルセデスが領主代行の名で降伏を申し入れた。
ここに都市国家アグノーは敗北し、ムタールメン共和国軍の占領下に置かることになったのだった。
3
(結局私は、メルセデス様の言う通りに動いてしまった。ティリックス様を目の前でむざむざと殺され、己の身を顧みず逆上し、挙句に……)
(挙句に……私はどうなったんだ?)
目が覚めた時、キアラが感じたのは体の強張りだった。関節が痛み、筋肉が軋みを挙げているようだった。動き出そうと手を突こうとして、腕が止まった。両腕を重ねる形で縛られていた。両足も膝を曲げた格好で同じく縛られている。
「こ……これ、は……」
声が出なかった。戦場で動き回った挙句にどれだけ時間が経ったかわからない。喉も乾いていたし、空腹だった。
徐々に頭がはっきりしてくると、自分の置かれた状況を観察することができるようになってくる。ここは天幕の中だ。とても広く、100人は優に入れるだろう。そこに自分と同じように縛られた兵士たちが雑魚寝に横たわっている。みな負傷しており、時折痛みに苦しむ呻きがそこかしこから聞こえてきて、とてもつらい。武具の類はすべて無くなっている。鎧下の帯に残しておいた財布さえない。
疑う余地はない。自分は共和国軍に囚われているのだ。恐らく戦闘が終結したあと、遺体の確認なりをしている時に、息が残っていたものをまとめて収容したのだろう。
私は、いや、私たちはこれからどうなるのだろうか。共和国軍は捕虜をどう扱うのだろう。いまだ抵抗しているかもしれないアグノーの城壁の前で見せしめに殺されるということもありえるだろう。
「隊長?」
不意に横から声を掛けられ、キアラは振り向いた。自分と同じように手足を縛られた兵士がいる。だが、ほかの者よりは元気そうだ。
「キアラ隊長!よかった、目を覚まされましたようで」
「ここは、共和国軍の、陣地の、中だな」
掠れた声で何とか話すと、兵士は頷いた。
「皆戦場で降伏したもの、倒れていてもまだ息があった者ばかりです。中には二度と起き上がれないものもいますが……」
「まだ、生きているだけマシ、ということか。……アグノーは、どうなった?」
「……わかりません。ただ、囚われてからもう三刻は経っています。その間、何も物々しい音がしないところを見ますと……」
無念そうな兵士の表情に答えは出ていた。
捕虜の詰め込まれたテントには粗末なランプが支柱に吊り下げられている。その灯りの元で、彼らは一晩を過ごした。
出入り口の閉められた垂れ幕から細い日光が差し込む頃、幕が開かれて兵士たちがやってきて、雑魚寝になっていた捕虜たちを一人ひとり立ち上がらせて連れ出し始めた。
さほど眠ることもなかったキアラにも、一人の共和国軍兵士が近寄ってくる。
「まだ息はあるようだな。……女か」
「女だから、なんだ」
「いや。……立て。足縄を半分切ってやる」
膝を曲げていた縄を切られ、キアラは脇に手を入れられて立ち上がらせられた。丸一晩動かしていなかった膝がさび付いたように痛む。
「足首の縄も切ってくれ。これでは歩きづらい」
「駄目だ。そのままゆっくりついてこい。他の者もだ」
連れられてテントを出て浴びた陽の光が疲れ切った肉体を照らし出し、そしてそれらが目に慣れ始める。嘗てはアグノーの中から見ていたムタールメンの陣地の中にキアラはいた。朝日に照らし出されたそこは、巻尺で測ったように等間隔に張られたテントが並び、アグノーを囲むように、木と竹で作られた柵が視界の先にある。そしてその奥には懐かしのアグノーがあったが、ここからでも仰ぎみることができる領主館にはアグノーの旗が降ろされ、ムタールメン共和国の掲げる四つ角の雄牛の紋章がはためいていた。
薄々分かっていたことだが、いざ目にしていると忸怩たる気持ちが込み上げてくる。そんな中、並べさせられた捕虜の前を歩いて一人の男がやってきた。周りに立つ共和国軍の兵士たちと身なりは似ているが、よく見ると兜に一段と高い角飾りを付け、腰には装飾のされた剣を提げ、マントを付けている。そのマントも染めるのが大変な深い青色で出来ている。
ムタールメンの指揮官に違いないその人物は、キアラたちに向かって口を開いた。
「アグノーの勇敢なる戦士諸君に告げる。我々ムタールメンはアグノー領主代行メルセデスと正式に停戦し、ここにアグノー領全域をムタームメンの影響下に置いたことを宣言する。諸君らは能く戦ったが、地に塗れ、その身の自由を我らに委ねている。これは恥ではない。しかし、先の戦で我らもまた少なからざる血を流し、戦友を失った。その償いを我らは諸君らの主に求めた」
一見してその男は、壮年に入ろうという年齢の冴えない人相だったが、喋る中原語は外気に拡散しないはっきりとしたもので、その眼差しもまっすぐキアラたちを見ていた。敗軍の兵士だからと見下げている素振りは見せない。
「古来より、敗者は勝者にその償いをする義務がある。我々ムタールメンの失った戦友は300余りだ。そこで我々は提案した。アグノーの産する塩の大樽を200、そしてここにいる200名の戦士諸君の自由を貰いたいと。アグノー領主代行メルセデスは、これを了承した。諸君らは我々と共にムタールメンへ向かい、その身柄に合った代価を稼ぐまで、その身の自由を奪われることになる」
(つまり『奴隷』になる、というわけか……)
この時代、何らかの理由で自由民で無くなることは珍しいことではなかった。家族の借金のため、山賊に誘拐されたためなどの理由で自由を奪われた自由民は、己の自由を買い取る為に、自分の主のために働かなければならなかった。
そしてこのような戦争捕虜も同様である。恐らくはムタールメンの奴隷市場に競り掛けられ、労働奴隷や剣闘奴隷などに供されるのだろう。
(あるいは娼奴……とかな)
ここに何人かいるキアラを含めた女性兵士を娼婦として欲しがるもの好きがいるかもしれない。それが農場や闘技場で生きるのとどれほど違うのか分からなかったが、どのみち辛い日々が待って居るに違いない。
「私がなぜ、このような話を諸君らにしたかというならば、アグノーでは知らず、我々ムタールメンの庶民は奴隷の扱いに関して厳格な取り決めを持っているからである。諸君らは労働奴隷となっても鞭を打たれることは無い。闘技奴隷となっても、無用な死を要求されることは無い。ただ、諸君らは幾年間か、衣食住の自由を奪われ、職を選ぶこともできないだろう。それでもなお、その境遇に耐えられないというのであれば、我々は感知しない。魂に与えられた最後の自由を行使するかどうかは諸君に委ねられている」
(自殺するかどうかの自由は残しておいてくれる、というわけだ)
「では、諸君。我々は明日、ムタールメンへの帰路につく。諸君らはそれまでにそこにいる男と面談しなければならない」
男が手を差し向けたところには、周りの兵士と同じように一人の男が立っていたが、この男も目の前の男と同じ、深い青のマントを付けていた。
「諸君らは彼との面談で己の自由につけられる値を知らなければならない。虚心に答えることだ。嘘や見栄は自由への時間を長くすることはあれど、短くはしないと言っておこう」
目の前の男はそれだけ言うと、来た時と同じように捕虜たちの前を歩いてどこかへと歩き去ってしまった。
居なくなると、今度は周りに立っていた共和国軍兵士たちが動き出した。それまで疲労からふらふらと立ち並んでいた捕虜を厳しく整列させ、その列の先で別の兵士たちが待機し、さらにその先のテントで待つ、先ほどの男との面談を受けさせられる。
誰もが皆、自分が自由の身ではない、奴隷になってしまったことが信じられなく、また信じたくなかったが、そうやって扱われることで、信じざるを得なくなっていった。
4
日は暮れはじめ、地平線に太陽が落ち始めようとしている。戦勝を決めたムタールメン共和国軍陣地は祝杯の酒が兵士たちに振る舞われていた。明日には兵の一部を残し、共和国首都ムタールメンに帰る身である。
そのような少し緩やかな空気の中、一つの異様な影が天幕の間を進んでいた。姿かたちは人間に見えるが、その背はおよそ十尺を超える。篝火を受けて浮かび上がる体は磨いた鋼にも似た青い肌を持ち、その上から鎖帷子を着こんでいる。腰には黒々とした石の剣を提げていた。
巨大な影は幕舎の中で一段と大きなものの前で止まり、屈みこんで垂れ幕に呼びかけた。
「ガイウス。起きているか」
「起きているぞ。まだ寝るには早いからな」
ガイウスと呼ばれて幕舎から出てきたのは、捕虜達の前で演説をしていた司令官各のあの男だった。
ムタールメン共和国長老会議が選出したアグノー制圧軍司令官であるガイウス将軍は、幕舎の前に蹲った巨人の影を見上げた。
「オルグの勇者がこのような時刻に何用かな。オルグ族は早寝早起きだと聞いていたが」
「寝る前にお前に提案をしに来た。提案を聞き入れてくれれば、すぐに寝る」
「ほう」興味深げにガイウスはオルグを見上げた。
勢力圏下に置かれた各国家や部族から幅広く兵士を募る共和国軍にあって、複数の種族が立ち混ざっていることはそれほど奇異ではないが、兵士の運用上明確な区別はつけられる。敏捷で弓術に優れたウッドアールブと土中を泳ぐ能力を持つヴァルーシア人を混成して動かすことなどできはしないからだ。
そして今目の前にいるオルグ族、共和国でピッグマンと呼ばれる巨人たちもまた、かれら単独で一個の部隊として運用される者たちだった。彼らは此度の戦闘でも格別の貢献をしたので、通常の報奨金にいくばくかの色を付けてやらねばならない、とガイウスは考えていた。
「青肌のイッシュラトは提案する。契約の報奨金とは別に、一人の捕虜を貰いたい」
「なぬ?それでいいのか。俺はお前たちに金500アウルムとアグノーの塩樽50を与えてやろうと思っていたのだが」
「500アウルムの金と塩樽30で構わないから、捕虜を一人俺にくれ」
「お前に?」
「そうだ」
「ふむ……」
少し思案したガイウスは、幕舎の中から蝋板を持ってくると、そこにカリカリと字を書き始めた。そして書き終わると、イッシュラトと名乗ったオルグに見せた。
「読むといい。これでいいか」
イッシュラトは薄暮で見えづらくなる文字を読んだ。
<ムタールメン共和国は、オルグ族との契約により、以下の者を此度の報奨として支払う。
金貨500アウルム
アグノーの塩の大樽30個
査定不問の奴隷一名
共和国司令官 ガイウス・セクンドゥス・イスカ>
「それでいい」
満足したイッシュラトは、それだけ言って立ち上がり、自分の幕舎へと帰っていこうとした。
「待て、オルグの勇者よ。なぜそこまで奴隷を今欲しがるのか。後日に市場に降ろされてからではいけないのか?」
「俺が欲しいのはたった一人だけだ。誰でもいいわけじゃない」
イッシュラトはそれだけ答えると足早に帰っていった。
翌日、アグノー制圧を完了したムタールメン共和国軍は、残存兵約2500のうち、1000をアグノーに残すと、陣を畳み故国ムタールメンへと帰路についた。
行軍の間、捕虜たちは前後を兵士に挟まれた縦隊を組み、手縄の枷を嵌められた格好で歩く。夜になれば前と同じ一つの天幕に移動させられ、眠る。
配られた乾パンと水で腹を満たしながらそのような移動を10日続けると、南部平原から中原地帯に入り込む。拓けた平野部には耕作された肥沃な土地があり、遥か地平の先には天を衝く神々の山エスラロースが霞んで見えるようになる。
中原に入ってからさらに3日が経って、軍は一度その足を止めた。
行軍の先頭に居たガイウスはそこで振り返り、最後尾に移った。
そこでは緑の肌をした巨人たちが待っていた。ピッグマン戦士部隊として従軍していたオルグ族は、ここで一同と別れ、自らの集落へと帰っていくのである。
彼らは自らが持ち込んだ天幕などの宿営道具一式に、従軍の対価として分け与えられた金貨500アウルムの入った櫃、塩の大樽などを器用に背負子に積み上げている。人間であれば馬匹を使って運ぶものを、精悍で巨大な肉体を持つ彼らは自らの背に負って運ぶのだ。
「戦友諸君。此度の戦に力を分けてもらい、感謝している。また新たな戦いの時には重ねて力を貸してもらいたい」
ガイウスは儀礼的祝辞を述べると、オルグ族達の中でも目立つ青い肌の男の元へ近づいた。
「またの機会に会おう、友よ」
「例の物をもらっていないぞ、ガイウス」
「ああ、そうだったな。さぁ来い」
行軍が止まってそろそろ四半刻は経とうというのに、兵士たちは動こうとしないのを、捕虜の縦隊のほぼ真ん中にいたキアラはじれるような気持ちで待っていた。
何やら最後尾に向かって騎馬が一騎駆けて行ったようだったが、それ以上はわからない。
すると、どうやらその騎馬が戻ってくる。今度は人型の大きな影を連れていた。それは緩やかな速度でこちらへ……捕虜の列へやってくると止まった。
見上げた影の正体に、キアラは全身の血が燃えるような衝撃を受けた。それは自分の目の前で主君ティリックスを切り殺した青肌のオルグだった。燃える衝動に戒められた手が震え、飛びかかり掛けるが、手縄足縄のある姿ではどうしようもない。仕方なく、無様な姿に負けないようにその顔をじっくりと睨みつけ脳裏に焼き付けようとした。
としていると、不意にオルグと目が合った。さらにオルグと騎兵はどんどんとこちらへ近寄ってくる。気が付けば、周りの捕虜たちは一歩下がり、キアラ一人が前に出て二者と対峙する格好だった。
「この者でいいのか」
「こいつがいいんだ」
「そうか……貴様、名は?」
「アグノーの戦士長、キアラ・グィズノ―」
多少の糧食と水でその喉は治りつつあり、キアラは二人にはっきりと答えることができた。
その声を聴いてガイウスはぴくり、と眉を持ち上げ、さらに隣のイッシュラトを見上げる。
「ほほう。女の戦士か。そういえばアグノーには女を兵士として採る習慣があったな」
「そうだ。私はティリックス様の妹君、メルセデス様の護衛士であった。此度の戦の次第では立場を逆とすることもあっただろう」
バカにされた気がしたキアラは挑発するように言った。するとガイウスは破顔して一笑し、答えた。
「なかなか向こうっ気の強い女だ。気に入ったぞ。よく聞けキアラ。貴様の運命は決まった」
「なんだと?」
「いいか。お前はムタールメンの奴隷市を経ず、今ここでピックマンのオルグ、青肌のイッシュラトの元へ渡されるのだ。……手縄と足縄を切ってやれ」
命令された兵士がキアラの戒めの全てを解き、次に人ひとりが入れるほどの大きな籠が用意される。そこにキアラは体を押し込められる。
「さぁ、入るんだ!抵抗は許されない」
「や、止めろ!なんだ!どういうことだ!説明しろ!」
「貴様に説明することは先ほどで以上だ。後の運命は貴様の主人に聞くのだな……早くこめろ」
抵抗もむなしく、キアラは用意された大籠の中に押し込まれ、口を縄でしっかりと閉じられた。
「くそ!出せ!せめてまともな奴隷らしく扱って見せろ!昨日の演説はなんだったんだ!」
「すまないな女戦士よ。これも盟友オルグ族との取り交わしなのだ。ま、何事も例外事項というのがあるわけだ。さぁイッシュラトよ。あとはお主の好きにするがいい」
「分かった」
キアラの入った大籠を持ち上げたイッシュラトはそれを背中の背負子へ放り込んだ。
5
オルグ族の行軍はその巨体に見合った速度で進む。およそ馬の並足に等しく、そして勾配に左右されない。中原と西部湿原を遮る丘陵地帯を抜けるのに普通の隊商ならば10日はかかるが、オルグ族の足ならば5日で足りるのである。西部湿原に入ると、目に入るのはコケ類に覆われた地平、点在する沼や湖、そこに糸を伸ばすように広がった木道の軌跡であった。しかしよく見れば所々に乾いた土地があり、そこを占領するように針葉樹が繁茂しているのである。
キアラが籠に入れられて6日、1週間が経とうとしていた。その間、1日分の食料として変な臭いのする干し肉と水の入った革袋を差し込まれ、昼は背負子の上で塩樽と共に運ばれ、夜は降ろされた背負子の上で遠くに見える焚き火と夜空を眺めながら不十分な眠りにつく日々だった。
勿論、何度か脱出しようと悪戦苦闘した。籠の蓋は縄でがっちりと塞がれており、折り曲げた体で力を込めてもびくともしなかった。次に考えたのは、熱学術で熱を集めて籠を焼き切ることだった。だが、キアラの腕では揺れる背負子の上で十分な熱を集めることは出来ず、夜の静まった時に焚き火から熱を集めるには、火から遠すぎるのだった。
と、キアラは下腹部に異変を感じ取り、己を担いでいる青肌のオルグに話しかけた。
「お、おい。降ろしてくれ」
「まだだめだ。もう少しでつく」
「そうじゃないんだ。その……トイレ、に……行きたいんだ」
「……少し待て」
イッシュラトは応えると、ややあってから背負子を降ろし、籠の蓋を開け、キアラを摘まんで取り出し、地面にそっとおろす。長い間足を折り曲げていたキアラはおぼつかない足取りで湿原に立った。
荒涼とした南部平原で暮らしていたキアラにとって、湿原の緑深さは何度見ても興味深いものだった。今日まで1~2日に一度は排泄の為に籠から出してもらえたが、その度に風景は見知らぬ場所へ変わっていく。ここからアグノーまで、人間の足でどれだけかかることだろう。
「そこの茂みに入れ」
示された茂みに入り込みキアラが用事を済ませる間、イッシュラトは油断ない視線を周囲に巡らせていた。
逃げられるか?との思いが一瞬持ち上がったが、一面の湿地帯を走って逃げ切ることは出来ないだろう。おとなしく茂みからオルグ達の元へ戻った。
「教えてくれ。この旅はいつ終わるんだ?私をどうするつもりなんだ……あっ」
問いかけに答えることなく、イッシュラトはキアラを摘まみ上げて籠の中に無遠慮に押し込もうとする。
「だっ、やめろっ!つ、潰れる!」
籠の底で身体を反転させようとしてもがくキアラにイッシュラトはようやく答えた。
「陽が落ちる頃には里につく」
「里?お前たちの集落か」
「そうだ。そこで我が長に挨拶にいく。お前には待っていてもらう」
「私を奴隷として持ち帰って何をさせるんだ」
「……お前は奴隷にはならない」
「何?」
言い終わる前に籠の蓋はがっちりと閉められ、前と同じく縄で締め付けられた。
イッシュラトが背負子を負うとオルグ達の隊列は再び進行を始める。キアラには何が何だかさっぱりわからなかった。が、何やら唯の人足にするために自分を連れているわけではないらしい。
籠の中で捻転しながらキアラは籠の隙間から外を見る。オルグの背中はまるで川船のように揺れが少ない。景色を見る分に丁度いい。
と、開け閉めした為か蓋が少しだけ緩めてあった。押し広げても腕さえ伸ばせない細い隙間だったが、そこからキアラはイッシュラトの背後に連なるオルグ達の隊列を見た。薄黄色や濃緑色の巨人たちが、大人二人で運ぶ重い塩樽を何樽も積み重ねた背負子を負っている姿がどこまでも続いており、その表情は長旅の疲れからどこか陰鬱であり、同時に帰郷を目前とした喜びに俄かな輝きを目に宿している。
その肌、膂力、巨体に圧倒されながら、キアラは徐々に彼らが普通の人間とさして変わらぬ人格を持っているような印象を受け始めていた。
陽が湿原の果てへ沈もうとする頃、イッシュラトが率いるオルグの遠征隊は彼らの里『渇きの原』へたどり着いた。
湿原に点在する乾いた場所の一つを基礎に、石や木で地面を固めて広げられた土地で、周囲を立木で作られた防壁でぐるりと囲まれている。出入り口には簡易な柵が取り付けられているが、番人はいない。
防壁の中に入ると、土壁と板葺き屋根の家が点在する古風な村落の姿が露わになる。だが、その大きさはキアラの知る民家より倍はある。振り返って防壁を見直せば、イッシュラトの背中の高さから見て、使われている丸太も一本一本が巨木をそのまま使ったような大きさだった。
一行が進むにつれ民家が増え、住民の姿も見えるようになった。皆遠征隊と同じ黄色や緑の肌をしたオルグ達だ。その巨体の中に混じって、全身をローブのようなゆったりとした服で覆った人影がちらほらといる。よく見えなかったが、そのような格好の者たちは皆女性のようで、多くはアールヴやバスチアンだった。アールブのピンと立った耳や、バスチアンの尻尾が見え隠れしている。
隊列が井戸を中心とした広場に着くと、イッシュラトはオルグ達の言葉で号令をかける。一部の者は戦利品や装備品を持って別の場所へ行ってしまったが、大半の者は寛いだ素振りで散り散りになっていった。
キアラも籠ごと地面に降ろされ、緩められた蓋から這い出ることができた。
「ここがピッグマンたちの集落か……」
広場は人間なら数百人が収容できる広さだが、ピッグマンならばせいぜい百人で一杯になりそうな楕円形をしている。中央に石組みの井戸があり、地面も細かく砕いた石で敷き詰められていた。
そのように周囲を観察していたキアラの前方、広場へ通じる通りの先からこちらへ向かって歩いてくる人影があった。その物は広場に入ってくるとイッシュラトの前に止まり、片手に持っていた杖を軽く翳す。
「よくぞ戻ってきた、渇きの原の勇者イッシュラト。此度の遠征、大儀でありました」
朗々と響く女の声に、イッシュラトは右腕を背中に回し左腕を腹に当てたオルグ族伝統の礼をして応えた。
その女、黒檀の彫刻の如き艶やかな漆黒の肌を持つ大柄の女性がキアラの目に映っていた。黒い肌の上から縫い取りのない一枚布を銀の鎖で縛った衣を纏っており、この衣もまた色合いの異なった黒い布で出来ていた。乳白色の髪と首が金の飾りでまとめあげられ、掘りの深い顔立ちに開けられた目は、緑色の輝きに隠れない、名状しがたき感応を湛えて燃えている。
「この娘は例の……ということでよろしいですね」
「俺は下がらせて貰う。スレイア族長代理」
堅い口調のイッシュラトに対し、スレイアと呼ばれた女はころころと愉快そうに綻んだ笑みを浮かべ、立ち去ろうとするイッシュラトを制止する。
「お前にも話があります。ささやかな酒肴もありますよ」
「もので釣るような調子で言うな。……いい
だろう。俺も多少は言いたいことがあるからな」
応じたイッシュラトと先導するスレイアに挟まれた形でキアラは歩きはじめた。広場から先、砂利の敷かれた道を進んでいくと、他の民家と比べて二回りは大きい屋敷にたどり着いた。それはイッシュラトのようなピッグマンから見れば屋敷に過ぎなかったが、キアラの眼で見ればそれは城だった。土塗りの壁と野面積みの石垣、石瓦の屋根で作られた屋敷の中へ入った一行は、古木の彫刻で作られた玉座の置かれた一室にたどり着く。自らは玉座に座り、虜囚には粗末な藤網みの椅子が宛がわれる。磨き上げられた板材で作られた卓を挟んで、改めてキアラと対面した。
「改めて自己紹介しましょう。私はスレイア。今はこの『渇きの原』の族長代理をしています」
縛めのなくなった自由な身体を休ませるように椅子へ腰を下ろし、答える。軋みが部屋を木霊するほど静かであった。
「アグノーの戦士長キアラ・グィズノーだ。まぁ……今は奴隷の身だ。お前たちは私をどうするつもりなんだ?」
問いかけに対してスレイアは笑みを浮かべて答えなかった。彼女が手元の鈴を鳴らすと脇の小部屋から傍仕えの女が入ってくる。外で見かけたのと同じローブ姿のアールヴ女が木挽きの盆に乗せた酒杯と酒を持って立ち、スレイアの手で注がれる。
「まぁお飲みなさい。それと、私は貴方を奴隷として遇するつもりはありませんよ」
「ほう、じゃあ晴れて私は自由人となれるわけだ。イグの神に懸けて、幸運に感謝しようか」不遜な物言いをしてキアラも杯を受け取った。
「勿論、条件があります。その条件に合う者を探すように私はイッシュラトに命じ、そしてあなたを選んで連れてきたのです」
スレイアが杯の酒に口を付けるのを確認してからキアラも酒を呑んだ。湿地帯固有の果実を使った酒は甘ったるく、辛い蒸留酒を好むキアラの口にはいまいちだった。
「この里をはじめ、西部湿地帯には数多くのオルグ族の里があり、それらは互いに相争う仲。この渇きの原はムタールメンの同盟関係によって他の里より一歩抜きん出た地位にありますが、同盟を維持する為の条件として族長を共和国の首都ムタールメンに人質として出しているので、今は私が代理として里を治めています」
「結構な話だな。共和国の領土拡大意欲の深さは、それこそ餓えた牛が野の草を食い漁るが如しだ。アグノーが呑みこまれた様にな」
「しかしこのまま傭兵として里の男たちを遣わしている内はアグノーのように攻め滅ぼされることはありません。一族の戦士は強壮無比、たった一人で共和国兵士50人に匹敵する力を持っているから」
酒を干したスレイアは怪しげな眼差しを投げてゆっくりと玉座から降り、ちびりちびりと杯を傾けるキアラに歩み寄った。
「だから今なら共和国の余勢を借りて他の里に攻め込むこともできる。小競り合いばかりをしている他の里よりも多くの戦を経験した吾郷の男たちと、共和国からの援助があれば、湿原に散らばるオルグ十五の里どもを悉く攻め取り、渇きの原が頂点に立つことができる。……だが、人質となった族長は私のその提案を肯定してはくれなかった。あの老いぼれがいる限り、私の野心は内に秘めておかねばならない。そこで一つ考えが浮かんだのです。
何かの理由で共和国にいる族長が死ねば、代わりに私の意を汲んだ者を人質として送り込み、共和国の援助を貰うことができる、と」
剣呑な気配を漂わせたスレイアを見ていると、キアラの背筋に冷たいものが走りはじめた。曲りなりにも生死を賭して戦い続けていた戦士キアラに宿った防衛本能の現れだった。
「私を暗殺者に仕立てようという胎だな。だが、共和国の首都で、同盟国の首領を殺すとなれば、逃亡は叶わない。決死兵にならざるを得ない」
無意識に背後を確認すると、戸は閉ざされて番は居ない。イッシュラトは別室で待機しているのだろう。この場にいるスレインと傍仕えをなんとかすれば逃亡できるかもしれない。
「そんな汚れ役は御免だね。誰か別の者を使うといい」
「私の提案を呑まないとこの里から逃れられませんよ。里を出ても最も近い中原人の集落まで、馬の脚で10日はかかるでしょう。土地勘のない貴方ではとてもとても。運が良くて沼に潜む赤ゴブリンの餌と言ったところ」
「そうかな。お前たちピッグマンがムタールメンと行き来しているなら道くらいはあるだろうし、私の腕なら柳の枝でゴブリンを狩り、その肉を喰らってみることもできるかもしれない。運が良ければ徒刑人の懐を暴いて集落にたどり着けるだろう。お前の提案を呑むことはできないな」
喋りながら二人の視線が宙を交錯していたその時、キアラは手の杯を傍仕えの女に向かって投げつけた。中に残った酒を顔に受けた女が怯んだ隙に抱えていた盆を引ったくり、続けてスレイアの顔に向けて投げつける。スレイアはそれを躱したが、キアラはそれを認めることなく後退し、最後に藤の椅子を持ち上げて全速力で閉ざされた扉にぶち当たった。椅子はバラバラに砕け散ったものの、扉は開かなかった。だが蝶番が軋みをあげ、ぎしりと扉の合わせ目がずれた。そこに体をねじ込んで脱出を図っていると、視界の端で傍仕えが短剣を握りしめ、こちらに迫っている。渾身の力で隙間を広げ、キアラの体がすり抜けると、傍仕えは短剣の刃を扉板に叩き付けて破ろうとしていた。
追手が足止めを喰らっている間、キアラは当然待つつもりはなかった。周囲を警戒しながら廊下を行き、この土壁の宮殿から脱出できる箇所を探すべく、足を踏み出そうとした。が、その足元が揺らいだ。砂漠に足を踏み出す如く膝が沈み込み、それが一歩ごとに重くなっていくのだ。
「なんだ、これは……」しかしそれは足場に変化が起きていたわけでは無かった。床に敷き詰められた獣の皮の上に立つ、己の脚から力が抜けていくのだ。足首から膝、そして股へと這い上がっていく脱力感に抗い、必死に足を起てて踏み出す。だがそれも、歩数にしてわずかに13歩を数えるまでの事だった。たったそれだけの歩みで、キアラの額には汗が浮かび、体から熱が抜けて死人の肌色と化していた。14歩目を踏み出すべき足は持ち上がらず、前のめりに倒れると、脱力感が腰から登り、ついに手指を侵しはじめた。
瞼が鉛を張り付けたように重くなっていた。口から泡が零れている。霞み始めた意識がようやく気付く。毒を盛られた、と。
最後の気力を振り絞り、仰向けに転がった。無様に伏せているのが癪に障ったからだ。途切れる意識の間で自分の顔を見下ろすスレイアの顔が見えた気がした。その顔は笑いも怒りもせず、ただ己の顔を見る眼に、溢れんばかりの野心が緑色の炎となって宿っているのだった。
6
青肌のオルグ、渇きの原の住人達から『勇者』と呼ばれる戦士イッシュラトは、鎖帷子の下に着る樹皮織りの鎧下と腰巻を穿いた格好で寛いでいた。その部屋は宮殿にある部屋の一つで、いつもイッシュラトはそこに通され、酒と肉を食んでいた。
だが、体を休めていても精神はそうではなかった。体を休めるのは戦士の本能のようなものであり、心は別の懸念について常に闘争を強いられていた。それは渇きの原の族長代理として里を治めている者であり、彼の姉であるスレイアについてである。
スレイアが他の里を侵略する意図を持っていること、それについて異議はない。オルグは相争う気質のもと、極西の諸島から大陸に渡り、この湿原に棲み暮らすようになったのだ。どの里も互いを仇敵とし、支配せんと刃を尖らせている。だがその為に己の里の族長を謀殺することに、イッシュラトは賛成できなかった。自分とそれに付き従う渇きの原の戦士団500人の精鋭があれば、波が浚うように他の里を飲み込むことができる、と自負している。身内を手に掛ける必要はない。
空になった酒壺を卓に置くと、脇に控えていた下女が取り上げて下がっていった。黒染めのローブを着た女の手足には這い回る蛇にも似た刺青が垣間見える。
これもイッシュラトの懸念の一つだった。今、土壁の宮殿に棲み働く女たちは皆、イッシュラト以下戦士団が外地に遠征する都度、奴隷や戦争捕虜として貰い受けて里に連れてきたものだ。或る時からスレイアは宮殿で働かせる人足の補充を求め、イッシュラトがそれに応えたものだが、連れてこられた女たちは皆スレイアの下で肉体を改造されていた。肉体にスレイアの血を用いた呪術を施され、細い女の体を持ちながら強靭な身体能力を持った意志無き人形と化している。それに気づいたのはそれまでいた下女たちが徐々に数少なくなり、仮面のように無表情の、顔まで覆ったくねり這う刺青の娘たちが目に見えて増え始めた頃からだ。なぜ、ただの端女にこのような手間をかけるのか、以前の下女はどこへ消えたのか。不可解な振る舞いに対し、姉はただ、女たちで実験をしているだけ、以前のものは解放した、とだけ言った。その時はそれで納得して見せたが、此度の捕虜をどうするつもりなのか。これ以上下女が要るとも思えない。下女を使った実験というのも気になる。戦士団の長として、イッシュラトはスレイアに聞かねばならなかった。
二度目の酒壺を干したころ、扉が音もなく開き、スレイアが入ってきた。握っている杖を宅に置くと、イッシュラトと向かい合う形で座った。
「待たせましたね。此度の遠征で里の蔵も大層充実しました。金櫃にも十分な物を容れて下さったガイウス将軍には礼を送らねばなりませんね」
「その名目で首都に乗り込み、族長を殺める腹か?」
きらりと目を輝かせてスレイアはイッシュラトを制した。
「族長が他の里を攻めることを禁じているのは俺とて不愉快だ。だからと言って殺すまではない」
「いいえ、殺します」決然とスレイアは言った。
「あの男がいる限りこの里がオルグの覇者となることはない。イッシュラト、お前という強者を得ながら、この里を盛りたてる気概がない。私ならやれる」
「随分な自信じゃないか。……だが、俺は認めんぞ、スレイア。長殺しの下でのうのうと生きる俺と戦士団ではない」
「お前がどう思おうとも。既に準備は万全、戦費は遠征報酬で蓄え、ガイウス将軍を通して共和国との口利きが出来ればすぐにでも戦端は開ける。お前の戦士団と、私の改造した人形兵どもで。それにお前が今日連れてきたあの娘」
「あの娘がどうだというんだ。ただの南部人の女戦士だろう」
「あの娘には特別の改造を施し、ムタールメンで惰眠を貪る族長を殺す暗殺者に仕立てます」
「何だと?!」
陰惨に過ぎる企みにイッシュラトは立ち上がってスレイアを見下ろし、言った。
「あんたは一族の長を、実の父を殺すと言ったうえで、人形にそれをやらせるのか!自分の手を汚すこともなく!」
「私は戦士ではありません。自分の手を汚さずに目的を遂げることに、何の躊躇をすることがありましょう。目的はあくまで、里を栄えさせ、他の里を滅ぼすこと」
野心に燃える緑の眼が微笑んだ。
「そんなことのために俺はあの娘を取ってきたわけではないぞ!戦士団の長、青肌のイッシュラトとして、あの捕虜は返してもらおう!」
宣言して部屋を飛び出そうとしたイッシュラトだったが、その瞬間、壁際から飛んできた影がその体に激突し、その衝撃で体が扉から最も遠い隅まで押しやられた。
「させませんよイッシュラト。暫くそうして人形と遊んで頭を冷やしなさい」
それは最前までイッシュラトに酒の世話をしていた下女の一人だった。黒衣を翻し、両手に一本ずつ短剣を構えている。その背後でスレイアは優雅な所作で扉を開けて出て行った。
憎々しく思いながら、イッシュラトは目の前の殺戮人形と化した下女に意識を集中した。両手に構えた短剣が黒々と光って鋭い突きが繰り出されるのを躱し、机の下にあった己の石剣を拾い上げると鞘を払う。
「人形程度で遊ばれる俺ではないぞ!」
構えた石剣を一閃、下女の短剣を叩き落とし、切っ先を喉元に突き込んだ。下女はその電光の如き動きに対応できず、喉笛が石剣の刃で切り裂かれた。
だがそこからは生ける人間の流す赤い血は流れない。裂けた肉から噴き出る黒く腐った泡立つ肉汁がイッシュラトの握る石剣の柄まで濡らし、引き抜いた切っ先から滴る腐汁は沼大鹿の敷き皮の上に点々と穴を残すのだった。
喉輪を貫かれた下女の肉人形は、痙攣しながら数歩後ずさりして、そのままどうっと仰向けに倒れ、噴き出る黒い腐汁に焼かれて泡と煙をあげながら、黒く小さくなっていった。
テーブルクロスを引き抜いて剣と体を拭きながら、イッシュラトは姉と自分の戦利品にけじめを付けねばならないと決意し、外から施錠された扉をたたき壊して目指す部屋へ向かって出て行った。
自分が冷たい石の台座に横たえられていることを、キアラは薬で靄のかかる頭で辛うじて認識した。両手足が台座一杯に広げられていて指一本動かすことができないのは、つけられた枷で四肢を台座に結び付けられているからなのか、それとも盛られた薬のせいなのか。
キアラの寝かされた台座は円錐形をした部屋の中央にあり、その四方に置かれた陶器の炉からは胡乱な色と香りの煙が出る香木が炊かれていた。
煙を吸い込むたびにキアラはこめかみにうずくような痛み、肩や膝に締め付けるような苦しみ、みぞおちに落ち込む冷たさに襲われ、盛られた薬と相まって半死半生の状態に陥っている。体が死に始めているのに、魂と心臓と脳のみが溌剌と生命を発揮しているような、身心の均衡を欠いた状態に置かれているのだ。
既に時間の感覚も麻痺し、100年はこのような姿で置かれているのではないかという錯覚に囚われはじめた頃、どこへつながっているのかも定かではない扉が開かれ、複数人の人影が入ってきた。人影はそれぞれ据えられた香炉に取り付き、最後に入ってきた一人がゆっくりと台座のキアラに近づいてくる。
徐々に眩んだ目にもはっきりと、その人物が自分に毒を仕掛けたスレイアであると分かるが、唇さえも満足に動かないキアラには悪態すらつくことができなかった。
一方でキアラの寝る台座に取り付いたスレイアは、その美しくしなやかな指先で滑るようにキアラの体を検分しながら、満足げな笑みを浮かべていた。
「準備は十分のようね、キアラ。と言っても、今のあなたはしゃべることもできないのだけど」
土気色と化した顔色で睨みつけることも満足にできないキアラを眺めやり、そのままスレイアは指先をキアラの身体に這わせて愉しんだ。十分な鍛錬を積んだ筋肉が下にある、薄くも女性的な肉の柔らかさのある四肢を触り、慎ましくはあるがそれと分かる隆起を成す胸元のふくらみを確かめた。
このまま妖しく嬲りものにされるのかとキアラが思っていると、いよいよか、スレイアは黒衣を連れてきた女たちに脱がせ、自らも一糸まとわぬ姿になった。
だが次に、恭しく短剣を捧げて近寄った別の女からそれを受け取ると、逆手に構え自らの手首を刃で切り裂いたのである。途端溢れる鮮血は生ける者の力強い赤色をして垂れ、
一瞬床を濡らすが、すぐにまた別の女がやってきて黒い石を用いた深皿を置き、そこに血が溜まっていった。その間、自分を傷つけるスレイアの眼は恍惚として輝きを放っていた。己の痛み、そしてこれから成す所業に期待する喜びが体を駆け巡り、肌が情事の最中のように火照っていた。
皿がオルグの女から出た血で満たされると、短剣を下ろし、傷を手当てさせながらスレイアは言った。
「何をしているのかと、思うでしょうね。これからあなたをオルグの戦士に改造するのですよ」
血で満たされた皿にスレイアが指を浸すと、細く鋭く研がれた爪先が羽ペンのように血を含んで赤く染まった。その指先を今度はそっと持ち上げると、キアラの寝る台の前に立った。
「獣の神にして大いなる父オルコスの御業をここに再現す。土塊を肉に、木々を骨に、湧き出でる水を鮮血と成し、同朋を生み出せし父の業を我に貸し与えたまえ。我は父の子、西の八兄弟はヤミラの娘スレイアなり!」
朗々と唱えて掲げられた爪に、血に、それまで室内を満たしていた香木の煙が風に吹かれるように流れて集まっていく。
煙を吸った血と爪を、スレイアはゆっくりとキアラの胸に向けて下ろしていく。心臓の鼓動が見て取れそうなほど激しく打っている胸に爪が立てられた。
瞬間、キアラは自分の霞んだ目が瞬時にはっきりと像を結び、衝撃の光景を見た。血に染まった爪が、スレイアの指先が、自分の胸の中へ沈み込んでいる!まるで粘土を指でつぶすような手軽さで指先が体の中に入り込んでいるのを認めた時、それは起こった。体の芯としか言えない所から発生する、激痛である。だがそれは肉体的な痛みではなく、まさに魂が傷つけられたような、無痛の痛みであった。
キアラの口から無意識のうちに悲鳴が零れ、背が弓ぞりにのけぞった。尋常ではない痛みに肉体が反抗するが、四肢の戒めは固く、逃れることは出来ない。
目の前で暴れもだえるキアラに対し、指をうずめたスレイアは何食わぬ顔をして指を動かした。すると、まるで水面に棹を入れたように、キアラの肉体は引き裂かれることなく指の振うままにされた。そして驚くべきは、指の通った後、傷痕も残らないキアラの身体には、黒い刻印が残っていることである。
これこそがスレイアの言った戦士への改造であり、オルグ族に伝わる秘術、『血の呪術』である。オルグを生み出した獣の神の力を血液を媒介にし、対象となる事物に注ぎ入れ、意のままに変化させるのである。そのさまは血を使った刺青を入れるのに似ている。
半死半生だったキアラの身体に残っていた力が叫びとなって放出されているかのような壮絶な悲鳴が室内にこだました。
その魂が啼くような叫びの中で、キアラの微かな意識は途切れ、無意識のさらなる淵へ落ち込んでいくのだった。
胡乱な煙が立ち込めた円錐の部屋で、ただ一人、意識をはっきりとさせていたスレイアは、やがて台座に縫い取られたキアラの身体から離れた。黒檀を磨いたようなその裸体から滝のように汗を流し、足元は覚束ないが、すかさず控えた人形の一人が抱えるように寄り添い、衣を掛けた。
濃い疲労を浮かべたスレイアはしかし、深い満足を覚えてキアラを見た。刻印を除けばただの女にしか見えないそれは既にオルグの熟練戦士に匹敵する身体機能を有する戦闘機械に置き換わっている。それまで数多の女たちを改造してきたスレイアにとっても、此度の改造術は最高の出来と自負するものだった。
だが、最後にするべき仕事がスレイアには残っていた。肉体はそのままに、魂を殺して人形とする大事な工程を行わねばならない。その為に今一度体力と精神を充実させる必要があった。人形の一人から疲労を回復させて神経を集中させる力を持つ白銀蓮の汁を受け取り、それを啜りながら身体を拭かせる。この部屋は土壁の宮殿の地下にあり、したがって窓は無いが、肌感覚で既に夜が明けていることが察せられた。
蓮汁の杯を下げ、人形たちが部屋の隅に引くと、スレイアは呼吸を調整しながらふたたび台に転がっているキアラに近づいた。
改造した肉体を傷つけずに魂のみを殺すのは容易ではない。キアラの眠る魂にスレイアの魂の一部を注ぎ込み、同化吸収するのである。これによってキアラの肉体の主はスレイアとなり、意のままに動く人形となるのだ。
同化するためにはキアラの魂にスレイアから歩み寄る必要がある。呼吸を合わせ、互いの肉体の境界を曖昧にする。そのまま音を立てずにそっとキアラの身体に覆い被さった。眠るキアラの体内から、ゆっくりとした心臓の鼓動がが伝わってくる。スレイアもまた自らの心拍をそれに合わせながら、豊かな肉置きの手足をうねらせて体を重ね合わせていく。その姿は淫ら、というより、どこか大蛇が獣を締め上げて丸のみにするような悍ましさのうちにあった。
徐々に押し付けた胸越しに、鼓動を合わせたキアラの魂が吸い寄ってくる感覚があり、あと肉一襞、皮一枚と近づいてくる。強い魂の吸引力が働き、弱り切ったキアラの魂をスレイアが呑みこもうとした、その時。
内から閂のされた扉が一瞬で叩き壊され、青黒い巨大な塊がまろび入った。かと思えば、その塊は伸びあがって黒く輝く刃を振りぬくと、一呼吸に一閃、部屋の隅に突っ立っていた人形女たちを隣から首、胸、腰、膝と両断、その勢いで部屋に置かれた香炉の一つを蹴り飛ばす。壁に叩き付けられた香炉から火の子と共に赤熱した石炭が飛び散って壁材に使われていた染料に引火、にわかに炎が立ち上がった。
炎の広がり始めた壁を前に、血ぶるいをした石剣を構えた半裸の巨人、青肌の勇者イッシュラトは台座から半身を起こしたスレイアに言った。
「お遊びはここまでだスレイア。今まで姉と思い黙っていたが、これ以上惨めったらしい陰謀作りがしたいのなら、手駒の類は自分で駆り集めるのだな。その女は返してもらおう。俺の名前で頂戴した捕虜なのだからな」
燃える壁が四方からじりじりと広がる中、率いていた人形たちが黒い粘液に沈んでいるのを見たスレイアは、火灯りを受けながらゆっくりと台座から離れる。それに合わせてイッシュラトは逆に台座に近寄ると、初めて寝かされたキアラの身体をまじまじとみる。その身体に施された呪の痕跡を認めてはっと見張る。既にこの娘は姉の影響下に置かれた人形となっているのでは、との一瞬の緊張が走った。スレイアはその隙を突いた。人形たちの骸の影に垂れていた自分の杖を拾うと、杖先を残った香炉に向ける。香炉の中の香木が火を上げて燃え、急速に湧き出した煙が粘りある実体となってイッシュラトを取り巻く。
無論、それはスレイアの体内から湧いた呪力によって生まれた一瞬の戒めに過ぎない。だがその一瞬、煙の束縛と視界の遮断が晴れた後には倒れた人形の骸ともども、スレイアは部屋から姿を消していた。後には火柱を噴きだした香炉と柱へ移り始めた壁の火に囲まれたイッシュラトと、その傍で意識を失ったままのキアラが残されるだけだった。
土壁の宮殿から火の手が上がるのを見た渇きの原の住人たちは、取るものも取らずに井戸のある中央広場に湧き集まった。消火の手も空しく、宮殿は黒煙を上げて燃え続け、最も高い櫓部が焼け落ちて崩れた。石瓦が零れて瓦礫となり、炭化した梁の骨組みを露わにする焼け跡を検分しようとしたのは、その場を取り仕切っていた以前の戦士団長、“剣司”三指のディードであった。
「一体何が宮殿に起こったのかを知らなければならん」
片腕を戦場で失い、短衣の片袖をなびかせた老年に差しかかかったこのオルグの男は、残った片手で集まっていた若者たちを指示しながら、自らも杖を片手にかつての広間から入っていった。
火の走った跡を辿りながら、その足は玉座の後ろ、族長の私室に入ったところで止まる。本来の主である渇きの原族長ヤミラ=グランダがムタールメンで暮らすようになってから誰も使っていないはずのその部屋の、毛皮敷きの床があるべき場所が丸ごと地下に向かって落ち窪んでいた。
族長と年近く、長年戦士団を率いていたディードはその光景を見ながら記憶の糸を辿り、そこにかつて小さな地下抗があったことを思い出した。
「これ、お主ら、こちらへ来い」
焼け跡を引っ掻き回していた連中を集めてディードは床を指した。
「ここだ。この床を掘り返してみるぞ。どうやらここに何かあると見た」
鶴嘴が持ち出され、床材を砕き始めると、火でもろくなっていた床はすぐに砕けていき、やがて地下抗の入り口が見つかった。地下抗は熱気を未だ帯びており、所々にまだ火がくすぶっているようであったが、危険を押して調べていくと、宮殿の広間の真下に位置する部屋に出た。
「おそらくこの部屋が出火元だろう。ここから火が地下抗と天井を伝い宮殿全域に広がった、とみて間違いあるまい。問題はここが何の部屋かだが……」
ディードの記憶にもこのような場所があるとは知らなかった部屋は、窓もない上に全体が酷く焼け焦げて、夜闇のような暗さであった。
その、まだ熱を持った暗い部屋の片隅で、ごそり、と何かが動く気配がした。
「馬鹿者、不用意に動くな」
ディードは連れてきた若者が勝手に行動したものと思っていたが、そうではなかった。
気配はディードたちが入ってきた出入り口から逆、まだ灯りに照らされぬ闇の奥から近づいてくるのだ。
その重い足取りが近づき、さっと一同の持つ灯りを掲げると、黒い布地を体に巻き付けた巨漢がぬっと浮かび上がった。
「何奴!?」
「何奴とは酷い、言いぐさじゃないか。ディード」
「その声は……イッシュラトか!貴様か、まさか火を付けたのは……」
「俺、なんだろうな。原因はスレイアだが……」
「宮殿が焼け落ちる程の猛火の中で何をしていたんだ。逃げもせずに」
「逃げられれば逃げたさ。しかし、俺はここに追い詰めたはずのスレイアにまんまと一杯食わされ、この狭いあいつの秘密の部屋に閉じ込められた。火が部屋全体を包んでいた中であいつが忘れて行った黒衣を見つけた俺は、咄嗟にそいつを体に巻き付け、後は剣で床を掘りそこに身を隠した。知ってのとおり、オルグの織る黒衣は黒曜石を融かして染め込んであるから、焼けることは無いわけだ。後は火が消えてから戸口を叩き壊して脱出するつもりだったが、その必要は無かったみたいだな」
顔を煤塗れにしたイッシュラトは体に巻いていた衣を打ち捨てて、ディードと一緒に来た若者たちをしり目に部屋から出ていった。
「待てイッシュラト。その小脇のものは何だ?」
「スレイアから取り返した、先の戦の戦利品だよ」
イッシュラトの腕の中で、キアラが微動だにせずいる。
体を守る傍らで、彼はキアラにも衣を巻き付けて、穴に隠していたのだ。
焼け跡の検分が済んだのはもう日が暮れる頃であった。
出火元が地下であったこともあり、当分の間宮殿の再建ができないであろうことは、誰の眼にも明らかであった。
加えて不可解且つ不気味なのは、族長代理スレイアの姿が見つからないことだった。しかも、時を同じくして、宮殿内で働いていた下女達の姿も消えた。最初は火事に恐怖して飛び出て行ったのだろうと思われたが、里のどこを探しても、その姿は見つからなかった。スレイアの消失に呼応するかのようであった。
その夜。渇きの原の政治を取り仕切る司たちが集まり、今後の対策を話し合うことになった。集まった場所は、戦士団長イッシュラトの家。
体に火傷止めの薬を塗りながら、自宅の炉辺に車座となって座っている司達に対し、イッシュラトは失火の経緯、スレイアの変心と策謀について話した。
「俺は戦士団長だが、同時に族長の息子であり、スレイアの弟である。だから、積極的に止めることが出来なかった。もっと早く気付き、諌めるべきだったな」
「過ぎたことを言っても仕方あるまい。族長が里を離れてからかなりの間、スレイアは代理として里を仕切っていた。ムタールメンでのうのうと暮らす父親に反発の気を持ったとしても不思議ではないしな」
慰める言葉を掛けたディードに対して、司達の最年長、”物造司“金牙のファブロは、二人に対し怒りの声を上げる。
「儂ははじめからあの娘を代理にすることに反対だった!先代呪司が推挙したからこそ今まで族長代理として認めてやっていたのだ。それをこのように増長させたのは戦士団長イッシュラト、貴様に責任があるのだぞ!ふん、貴様とてディードの片腕が亡くなっていなければ戦士団長になどなれた器ではないわ。オルグとして恥と知れ」
「ファブロ!イッシュラトの戦士の才を貶す如き発言は聞き捨てならんぞ。こやつはオルグ戦士として若輩なれど、その剣と軍略の才は私よりも優れている。だからこそ私はこれを戦士団の長に迎えて剣司の身に退いたのだ」
「そうさ。イッシュラトの代になって、渇きの原の戦士たちは一段と戦上手になったよ」
煙草をくゆらせて追従したのは、オルグ男にしては異様に小柄な“蔵司”カーザ=アステトだった。
「先のガイウス将軍の要請もそうだが、イッシュラトの代になって戦士団の遠征する回数が増えただろ。大小の戦に駆り出されて、そのいずれでも十分な働きをしているじゃないか。老いぼれのやっかみだよ、それは」
煙管の端でふさふさとした耳を掻いてファブロに言ったカーザは、ぷいとその先をもう一人の出席者、”呪司“スピラ=ディオーナに向けた。
「むしろ私は今後のスレイアの行動が気がかりだね。元姉妹弟子として、何か思うところはないかい?」
「同じ師匠について学んだものとして、スレイアの行動は許しがたいものなのは当然として、少し気がかりなものがあるわ。……宮殿に残っていたスレイアの呪の香りが、以前のものとは違っているの」
司達の紅一点は懐から一本の棒を取り出し、炉の灰の上に線を描いていく。
「血の呪術を学んだ者はその個々の識別を血の香りで判断できる。でも、あの焼け跡に濃厚に漂っていた香りはスレイアのものではなかった……少なくとも、以前のスレイアのものでは」
「スレイアが術を施した人形女たちの行方も気がかりだね。術者の束縛が亡くなって自然消滅したのならいいんだけど」
「ありえないわ。呪が消えても呪に侵された肉体は残るもの。イッシュラトが言っていた、黒い粘液に変わってね……出来た」
「何が?」
「スレイアの呪の香りを追いかける術よ」
灰の上に描かれた線は複雑に交差した紋様を成しており、そこからふっ、と一握りの灰煙が立ち上る。煙は細く尾を引きながら炉の上の煙通しから抜けていくが、細い尾の先が宙に浮いたまま消えずに残っていた。
「呪術の基本は血と紋。あの子は血の力に長じたようだけど、私は紋を扱う方が得意でね。この煙の尾の先にスレイアがいる。でも、宙に残っている呪の香りが消えてしまうと煙が散ってしまうから、追いかけるなら早い方が良いよ」
「待て、先だって宮殿が燃えたことが他の里にも知られているだろう。これが好機と攻めてくるものがいるかもしれん。その備えもせねばならん」
「なら、私に考えがあるよ」
炉辺に煙草の灰を落としたカーザが一同を見回す。
「言ってみろ、へなちょこカーザ」
「まずスレイアを正式に渇きの原から追放する。理由は宮殿への放火と族長への反逆だ。まぁ、この辺は異論はないだろう」
「当然じゃ」
ファブロが息巻いた。
「次に新しい族長代理を決める。私はイッシュラトでいいと思うけど、どうかね」
「わしも賛成じゃ」
「私も」
ディードとスピラが賛成票を入れ、先ほどまでイッシュラトに否定的な物言いだったファブロは二の句が告げないのか、もぐもぐと口を動かしながら所在無げに視線を迷わせるが、何か思いついたのか、かっと見開いて四方の部屋隅、闇の溜まりに目を向けた。
「草司!お主はどうなんじゃ」
「聞くだけ無用のことだ」
答えた声は闇溜まりからではなく、天井から聞こえてきた。
里の政治を決める司達の中で、里の周囲の監視や斥候を務める草司には、発言権はあっても決定権は無いのである。草と呼ばれる特殊な戦士を養育するこの職能階級は普段は戦士団の下部に置かれ、偵察や諜報などの裏方仕事を任されている。その任務の性質上、他の司と同列には扱われなかった。扱えば、その技術で他の司を陥れることもできるからである。
「俺たち草は里の為に動くだけだ。誰が長でも関係なくな」
「ふむ。それじゃあイッシュラト、次の朝日と共にお前を族長代理と決める。いいね?」
言葉をまとめたカーザにイッシュラトは頷いた。
「よし、次に行方不明のスレイアの捜索と、里の防備についてだ。草司、何か言うことがあるんじゃないかい」
「蔵司に報告しよう。先の宮殿から上がった火煙を目撃した、他の里の草たちがいた」
「やはりな」
ディードは唸った。
「いた、ということは始末したとみていいな?」
「始末はした。だが煙は高く上っていたから、実際にはより多くの者の目に触れていただろうし、里の周りを嗅ぎまわっている他の里の草を全て狩ることは出来ない。早晩知られることだろう」
「仕方ないな。やはり防備を固めるか」
「うん。で、まず500人いる戦士団のうち、300で里の守りを固める」
「残りの200は?」
「イッシュラトと共に里を出て、スレイアを見つけ出す。もしスレイアがこの里を真に自分の支配下に置いて、オルグ族統一支配を始めたいなら、他の里が攻めてきた時をねらい目と見て行動を起こすだろう。その前に見つけ出すんだ」
「蔵司。一つだけ改めてもらいたい」
「何かなイッシュラト」
「俺が率いていく戦士は、50でいい」
「ほう」
カーザの目が微笑を浮かべた。この提案がイッシュラトの傲慢ではないかという意思が見え隠れしている。
イッシュラトもそれを知った上で続けていった。
「アグノーまでの遠征と戦で連れて行った300の戦士は皆、戦傷と行軍で疲れ切っている。彼らを休め、万一侵攻があった時に十分な働きをさせるには、俺に付ける戦士の数を減らしておくべきだ。それに呪司の術でスレイアの居場所は見当がついている。それほどの数は要らないだろう」
「50と1のオルグ戦士で何を仕掛けているか分からないスレイアを倒すってわけだね。分かった。君に自信があるならやって見給え。君を買っているディードを立てて、期待するとしよう」
「せいぜいオルコスの下へ首をさらすことにならぬよう気を付けるんだな」
煙管を懐から引き出して噛みながらファブロは嫌味づいた。
集まっていた司達が三々五々に帰宅していく。草司の気配が天井裏から消え、炉辺に残ったのはイッシュラトと呪司スピラだけだ。
「いつものことながら、ファブロ老の口の辛さには参る」
「盟友のディードが引退して若造のあなたが戦士団を率いているのが気に食わないのよ。彼も弟子に司株を譲って隠居すれば少しは大人しくなるんじゃないかしら」
「かもな」
炉の灰が爆ぜる音に耳を傾けていると、スピラの目が伏せがちになった。
「スレイアがこの里を大きくしたかった気持ちはわかるよ。渇きの原は運が良かった。その昔、ムタールメンが西部湿原にやってきた時、最初に接触したのが湿原の端にある渇きの原だった。ムタールメンの戦に参加して、代わりに金や麦、皮や鉄を受け取るようになって、他の里よりここは豊かになったから。他の里とムタールメンが繋がれば、今の優位は無くなるかもしれない。人間は弱くて短命だから、今の約束や信用が明日も続くとは限らない」
「戦場では誰でも死の閨に呼ばれるものだ。それはムタールメンの兵でもオルグの戦士でも変わりはない。命の多少なんて、些細なものさ」
「自信を持っているのね。戦うことに」
「そう思うか?」
「ええ。今の言葉に自分を含めてる気がしないもの」
確かにそうかもしれない、とイッシュラトは思った。
「俺は勇者だ。たった一人の戦士として戦うだけなら楽なものだ」
「『勇者はその剣と智を振って衆を守り束ねるものであらねばならない』……先代の呪司はそう言っていたわね。でもその為に貴方は自分の力以上の者と戦わねばならない」
「今のスレイアはそれほどに強いというのか」
「煙の尾で彼女の呪を追っている内に判るの。今のスレイアには何か別の呪が味方しているような、そんな予感がする」
「別の呪力?何かほかの里の呪者の力か」
「それは分からないけど……」
スピラが印象を曖昧に説明しようとした時、二人の背後で誰かが動く気配がした。
そこはイッシュラトの寝床で、敷延べた毛皮に毛織物が一枚置いてあるだけの簡素な代物だったが、部屋灯りの届かない暗がりで人ひとり分のふくらみを作っていた。
「誰か寝ているの?今の今まで気づかなかったわ」
「俺も半分忘れていた。スピラ、頼みたいことがある。そこに寝ている南部人の女を調べてくれないか」
被せられていた織物をはぎ取り、灯りの下に晒された南部人の女、キアラの姿を当代呪司スピラはまじまじと見る。
冷たい汗がわっと顔面から噴き出していた。
「……この娘にスレイアは呪の改造を施していった、というの?」
「恐らく」
「信じられないわ」
そっと指先でスピラはキアラの肌に刻まれた血の紋様を撫でた。キアラの身体はまだ冷たく、その意味で死体と言ってもよかった。
「この紋は唯の身体強化刻印じゃないわ。こんな精緻な……刻印の達人と言われた先々代呪司以上の超絶技巧よ。貴方には分からないでしょうけど」
「分からないだろうな。大事なのはこの女の意志が戻ってくるかどうかということだ」
「普通なら無理ね。これほど多くの刻印をオルグ以外の者に組み込めば肉人形にするまでもなく魂が血に耐えきれなくて砕けてしまうわ。恐らくスレイアの施術が完了していないのね。今息があるのは奇跡みたいなものよ」
「じゃあ普通ではない方法なら回復する見込みがあるわけだ」
「そういう言い方は辞めなさいな。……この娘の魂が血の刻印を制御して、肉体の主導権を取り戻すならば、目を覚ますことでしょうね。でも無理よ。ひ弱な人間じゃ」
スピラにはたった一人の奴隷にこだわるイッシュラトの気持ちが分からなかった。
「この娘に何を望んでいるの?あなたの所有物として欲望を満たしたいの?」
「そうじゃない。……俺たちオルグの戦士団は、ムタールメンの傘下で戦に駆られる度、向かい合う敵軍に恐怖と滅びを与えてきた。前に立つ者に絶望を施し、その脳天に石の刃を振り下ろす。音に聞く者は震え、目に見れば恐れおののく。だが、極まれにそんな奴らの中から、恐怖も絶望も跳ね返して飛び出してくる者がある。この娘や、この娘の上官だったアグノーの首領がそうだった。このまま死なせてしまうのは、惜しい」
「……そんな理由で?もしこの娘が復活しても、貴方に感謝するとは思えないけど」
「別に感謝されたいわけじゃないしな」
「まったく、物好きなものね。戦士っていう連中は……」
呆れ顔で話を聞き終えると、スピラはキアラの掌をとり、そこに炉の灰で紋を描き始めた。
「血に覆われた体の奥にあるこの娘の魂まで、こちらの声が届くか分からないけど。私の呪を込めた灰で血の紋の一部を上書きするわ。そこを『門』にして、彼女の魂に呼びかけなさい」
「ん?俺がやるのか」
「どうして私がやらなきゃいけないのよ。ほら」
と、灰で掌に細やかな紋様を描くと、その線が溜まった部屋の闇の中で薄らと白い光を放っているのが分かった。
イッシュラトは手渡された掌を片手で握る。灰に仄かな温もりがあった。
「仮にこの呼びかけが聞かなくても、それは彼女の運命だったということよ」
「ここでこいつが生き直せば、それがこいつの運命だ」
それは生きるという道なき定めであった。
太陽のない、しかし暗くもない。果てのない荒野と砂漠の中、キアラは馬を駆っていた。
馬首の先に頭は無く、たなびく鬣に色は無く、しかし蹄は必死に地を掻いて鞍上のキアラを導いていた。
どこへ?それは分からない。ただ分かるのは自分が何かに急き立てられ、追いまくられていることだけだった。
目の前にそびえる砂丘を横切ると、黒い影が手に手に武器を持ち、同じく首のない馬に乗って近寄ってくる。キアラも手に持っていた槍を構えて迎え撃つ。
影たちの胴に槍穂をねじ込み、追う者を振り切って走る。もう何度追手を跳ね除けたか分からない。
だが影の正体はわかっていた。この果てなき砂漠の意味も知っている。戦士なら、誰でも知っていることだ。今の自分は死の淵にあり、追いかける影は自分を捕えようとする「死」そのものであると。
避けられぬ死だが、それでもキアラは生存の本能に身を駆られて走った。馬腹を蹴り、どこまでも続く荒野を、砂漠を往った。
(だが、いつかは私も倒れ、追いかける死の担い手の刃にかかるだろう。この世界に出口は無い。死にゆく者の見る、一抹の夢なのだから)
冷めた悪夢を機械的にキアラは走っていた。
(……いっそ全てを諦めてしまおうか。虜囚になり、辱めを受けてまで、何で生きることがあろう。……戦士としての務めさえ果たせなかった私が、戦士の見る悪夢で遊ぶなど、古今の勇者に泥を塗る行為ではないか?)
馬が行く先に広がる光景は徐々に変化する。荒れ地は遠ざかり、熱く乾いた砂礫砂漠に変わっていた。そこには強風が吹き、立ち上がる砂埃に塩の匂いが漂っていた。
沈みゆくキアラの脳裏によぎったのは主君と掛けた己の運命を決めたあの戦場だった。
あの時も今と同じく、馬を駆り、寄せる敵を散らしながら走っていたのだ。
そう、丁度目の前にそびえる砂丘の上で、主君ティリックスとオルグ戦士が立ち会っていた。
(やめろ!また私にあれを見せないでくれ!)
目の前で始まるあの時の一騎打ちが再現されようとしていた。戦馬の上で戦斧を掲げたティリックスが駆け、オルグが石の長剣を構える。
雄たけびを上げながら走るティリックス目がけて石の刃が滑り込もうとした。その瞬間。
陽光に照らされぬ悪夢の劇場は完全な静止を見た。
『戦士キアラ・グィズノーよ』
呼びかける者があった。
『未だ戦う者よ』
(誰だ)
『逃げること無き戦う定めを背負う者よ』
(戦う定めだと)
『そうだ。お前はまだ戦うべき地平がある。その場所はそこではない』
(身も心も囚われた私に、もう戦う意味などない)
『違う』
(何が違う)
『戦うべきは己の為にある』
呼びかける声は悪夢の中で響き渡る。静止したキアラの背後からはまた、最前と同じく死の影が迫りくる。
『守ること、生きること、欲すること、逃れること。総て自らのために成さなければならない』
『それが戦士だ』
(それが……戦士)
逡巡するキアラを徐々に死が満たし始める中で、彼女の中で短い生涯の場面が閃光のように駆け抜けた。
戦士として教育され、アグノーの守り手として期待された自分。
ティリックスやメルセデスに信頼され、声を掛けられた自分。
「あなたも生きて」
メルセデスの言葉が蘇る。何かがキアラの頭の中に走った。正確には、そのような感触を得た。しかしそれは、初めから私の中に組み込まれていたのだ。私はそれを思い出したに過ぎなかった。
(そうか)
(私は今の今まで、何のために戦う業を磨いたのか、本当はよくわかっていなかったのだ)
(私は今まで自分のために戦ったことがなかったのだ。総てアグノーの為、ティリックの為、メルセデスの為だった)
(だがもし本当に)
(私がまだ戦う定めを持っているなら)
(まだ生きているべきなのなら)
(まだ生きていていいなら)
(一体何を気兼ねすることがあるだろう)
死の刃が鞍上のキアラに迫る。と瞬間、キアラの身体は鞍から跳ね上がった。空を切る刃をしり目に、手の槍が走って死の影を切り裂き、再び鞍に降りる。綱と拍車を掛け、首なしの馬が再び駆けた。
静止した時間がゆっくりと動き始め、目の前で止まっていた「ティリックスの最期」が動き始める。
雄叫びを上げて、駆けるティリックスに追いつき、そしてキアラはそれを追い越すと、鞍の上に立ち上がり、槍を構えた。全力疾走する馬に向けて、オルグの切っ先が迫った。
その切っ先より早く、キアラは飛んだ。悪夢の中でキアラは弓弦から離れた矢のように真っ直ぐ飛び、槍先をオルグの脳天に深々と打ち込んだ。
『そうだ。キアラ・グィズノー。生きろ。戦士として、より純粋に。それがお前の今の定めだ』
(いいだろう。生きてやる。それが私の定めなら)
槍に貫かれた額でオルグは、「青肌のイッシュラト」はニヤリと笑い。
そしてキアラも改心の笑いをうかべる。
そして死の影は去り、光なき無限の荒野に光が差す。
悪夢は終わった。