前編:始まり
日本ケータイ小説大賞へと出していた作品です。ようやくリメイクが出来ましたので掲載します。一度読まれた方ももう一度ぜひ読んで見てください。小説大賞には掲載しなかった。真実があります。では、どうぞよろしくお願いします。
暑い――。
今年の梅雨は雨が例年に比べて降らず、水不足となった。
当然、俺も節約をする破目となり、苦しい思いをしている。
夏も例年より、暑く各地で観測史上最高の気温の高さとなっているとニュースでやっていた。やはり二酸化炭素による温度上昇は食い止められていないようだ。
俺はこんな暑さの中、スーツを着て片手には携帯電話を握り、外周りをしている。
額からは、この暑さで温度を上げている俺の顔面を冷やすための冷却水とも言うべき塩水が溢れんばかりに吹き出ている、スーツを着ていて見えない部分からも、同じように塩水が俺の身体を冷やすべく流れ出ている。
俺は、携帯を持っている手とは違う逆の手で、ズボンのポケットから汗を吸って少し濡れているハンカチを取り出し塩水という汗を額から拭きとった。
冷却水を無くした顔面は、再び暑さによる熱を取り戻すがそんなことは気にしていられない。
俺はこれから大事なお客様とのビジネスを控えているからだ。
大手のIT企業に就職した俺は、インターネットを使って商売をしていない個人営業店へ、インターネットへの商品の掲載の許可を得るためにお客の家まで向かっているのだ。
外は地獄の業火で焼かれているかのように暑いが、これが終わり会社に戻ればクーラーの効いた部屋でパソコンに向かっての仕事だけで済む、だから俺は早くこの外周りの仕事を終わらせたかった。
早歩きで行ったおかげか自分で思っていたよりも早くお客の家に着いた。
その家は一階の一部を改造して子供のおもちゃを販売している。外からもそのおもちゃの一部が見える。
俺は呼び鈴を鳴らし、お客が家から出てくるのを待った。
「はい!」
出てきたのはオーナーの奥さんだった。俺は一礼をした後、今日約束していたとの旨を伝えた。
奥さんは心置きなく通してくれて、家の中に入るとクーラーがよく効いていて、さっきまでいた外とのギャップに鳥肌がたったくらいだ。
家の奥の応接間に通されると、そのお店のオーナーがタバコを吸いながら静かにテレビを見ていた、テレビから流れる音声が自然に俺の耳にも入ってくる。
そのテレビの内容は、去年施行されたばかりの死刑執行人制度という法律についての特別番組だった。
死刑執行人制度は、2009年に正式に施行された裁判員制度の後版で2014年に正式施行された、なんでも死刑囚の死刑の際に、本来の死刑執行人の変わりに電気椅子のスイッチを押さなければならないらしい。
馬鹿げた法律が出来たものだ。
俺は例えどんなに凶悪な犯罪者でも死では罪は償えないと思ってる。
償うには生きて社会に貢献すべきだと思う。
だけど……。
俺にははっきり言って関係のない話だ、死刑執行人に選ばれるのは極一部の人間だけ、日本にはかなりの人数の人間がいるのだから俺が死刑執行人に選ばれるなんてあるわけがない。
だから、俺にはまったく関係のない話だ。
それより俺は今、目の前にあるビジネスを成功させるほうが大事だと思ってる。
その後しばらくオーナーと話をした後、俺は会社に戻った。
会社に戻った俺は、地獄の業火から開放され、クーラーの効いた部屋で残りの仕事に取り掛かった。
仕事をしていると、同僚が話しかけてきた。
「お〜い、一樹! 今日合コンいかねぇか?」
「合コンか……、悪い、合コンはやめとくよ」
「また? お前飲みには行くのに合コンは絶対行かねぇよな?」
合コンは女との出会いの場。俺にはそんなとこには行きたくない理由がある。そんな同僚の誘いも断り、俺はさっさと残りの仕事を済ませ、家路に着いた。
外は昼の暑さに比べると、夜はかなり涼しい、それでもまだ暑いことに変わりはないが……。
俺は、今年から安アパートで1人暮らしを始めている。
社会人にもなったし、いつまでも親の世話にはなっていられないと思ったからだ。
アパートへと帰ってきた俺は、アパートの入り口の前にある郵便受けをいつものように開けて中を確認した、中にはいつものように勧誘の郵便物が入っている。
今年の四月からこのアパートに住み始めた俺の部屋の郵便受けには、毎日のようになにかの案内状や勧誘の手紙などが入っている、つまりいらないものばかり……。
しかし、今日は違った。
郵便受けの中に、他の封筒やら手紙やらと一緒に黒い封筒が入っていた。
「なんだ? これは……?」
神谷 一樹 様 という俺の名前だけが白い文字で書かれている黒い不気味な封筒。
俺は、それを見て鳥肌が立つほどの寒気を感じた。
俺はエレベーターを使い、三階にある自分の部屋へと行くため足を動かした、三階のエレベーターの真正面に俺の部屋はある、エレベーターを降りた俺は、真正面にある俺の部屋の前まで来るとカバンから家の鍵を取り出し、ロックを解除した。
部屋の中に入った俺は、部屋を見渡す。
俺の部屋には、机や冷蔵庫などの生活に必要な物以外はなにも置いていない。部屋になにかと物を置くのは邪魔だし、汚く見えるからだ。
でも、机の上には1つだけ写真立てが置いてある。写真立てには一枚の写真が飾られている。写っているのは俺と、昔付き合っていた彼女。
彼女の名前は、葵 由奈。高校生の時に付き合っていた女の子だ。彼女はとても明るく、元気があり、俺は彼女が大好きだった。
――でも、付き合い初めて5ヵ月後に死んだ。
事故や病気じゃない。
――殺されたんだ。
裏路地で見つかった由奈の死体は裸で全身を切り刻まれ、必死に抵抗したであろう痕跡がたくさん残っていた。そして由奈には右腕がなかった。警察の話では犯人が持っていったのだろう……と。
犯人はまだ捕まっていないと思う。
思う……と言うのは、俺は由奈のことを乗り越えることが出来たからだ。一時は犯人を殺したいという復讐の気持ちと由奈を守れなかった自分の不甲斐なさを呪って死ぬことさえ考えた。
――でも、俺はそれを乗り越えた。
乗り越えることが出来たのは由奈のおかげ。由奈と付き合っていた5ヶ月の間に由奈が俺に言った数々の言葉のおかげ。由奈は死んだけど、まだ俺の中ではしっかり生き続けている。そう思うと、俺は立ち直ることができた。
俺は、由奈と俺の写った写真を見ながら由奈のことを思い出し、手に持っていた郵便物を机に置いた。
そして、先ほどの黒い封筒を立ったまま手に取った。
こうして、この黒い封筒だけ手に取ってみると、嫌に不気味だ。
まるで昔、流行った不幸の手紙を思い出す、だがこの手紙はそんなオカルトとは違う不気味としか言いようのないオーラを放っているようだった。
俺は、近くにあったハサミを手に取り、封筒の最先端を横に真っ直ぐ切っていった。
中には、白い紙に黒い文字で印刷された紙が数枚入っていた、中身を封筒の外に出し、俺はそこに書かれている文章を読み始めた。
俺の額からは、昼間流れた塩水が流れ出してくる、だが昼間とは違う……。
背中には寒気を感じて、足は力が入らず立っているのがやっとで力が入り、小刻みに震えている、唇は青くなり、眼は血走り、顔面は白くなった、紙を持つ手も震えている、まるで身体全体でその恐怖を感じているかのように、俺の全身は氷ついた。
封筒の中に入っていたものは、死刑執行人とはどういうものかが書かれた内容の紙と、その死刑執行人に選ばれたという内容の紙だった。
俺は、全身が金縛りにあったかのように小刻みに震え、声が出なくなっていた。そのため俺は、手に封筒の中身の紙を持ったままそこに立ちすくんでいた。
この瞬間、俺は人をこの手で殺すことが決まった。
――いままで、関係のないことだと思っていた。
この制度に選ばれる人は極わずか……、宝くじで一等を当てるより少ない確率だとテレビで言っていたし、まさか俺が選ばれるなんて夢にも思わなかった。
俺は手に紙を持ったそのままの状態で、そこに書かれていることを何度も何度も熟読した。
肩の力が抜け、やっと床へお尻をついた頃には朝になっていた、つまり会社へと行かなければならない時間になっていた。
気分が重い……。
俺は、着替えもせず風呂にも入らず、朝ご飯も食べず、一睡もしないで再び会社への道のりを歩いていた、どんな状況だろうと休まないと入社時に心に決めたからだ。
手に持っているカバンの中には、仕事の資料や、読みたい小説などが入っているが、今日は黒い封筒も一緒に入っている。
法律で、死刑執行人に決定したという案内の封筒が来た時は、会社へ通達しなければならないと、この封筒の中に入っていた紙に書いてあったからだ。
この死刑執行人制度という法律からは、よほど特別な理由がない限り、辞退することはできない。つまり俺は確実に人を殺さなければならない。
会社に着いた俺は、自分のデスクにカバンを置き、すぐに上司の所へと行った。
上司は電話中だったが、俺が黒い封筒を前に差し出すと、驚いたような表情を見せ、電話先に後でかけ直すと言って電話を切り、俺の顔をジッと見た。
「これは……。まさか……?」
「そうです。死刑執行人への決定通達書です」
俺は上司の顔色を伺いながら、封筒を差し出した。
上司は封筒の中身を確認すると、中身を再び封筒に入れ俺に手渡した。
「……わかった。社長にも通達しておこう。それと今日はもう帰ってもいいぞ」
「……ありがとうございます」
俺は深々とお辞儀をして、その場を後にした。
休まないと入社時に心に決めていたのに、早退してしまった。そんな自分が悔しかった。
俺は、再びデスクに戻り、カバンに封筒を入れるとカバンを持って会社を後にしようとした。
「おーい、聞こえたよ。一樹ー!」
話かけてきたのは、同僚だった。
「お前、死刑執行人制度に選ばれたんだって? やったな!」
「……、やった?」
なにを言ってるんだ。こいつは。
「だって、法的に人を殺せるんだぞ? 普通、人は殺せないからな。羨ましいぜ!」
俺は、その言葉に一気に頭に血が上ってしまった。
「羨ましいだと!? ふざけるな!! なんで殺したくもないのに殺さなきゃいけないんだ!!」
俺は、すぐ横にあったデスクに思いっきり手を突き言い放った。その声で周りにいる全員がこっちを見る。
「……っ。おいおい、キレるなよ」
俺は、その男を睨みつけ、なにも言わずに会社を出て行った。
今日は家で落ち着きを取り戻そう。
家についた俺は、部屋の中にある唯一の机に備え付けられていた椅子に座り、写真と向かい合わせになって座った。
写真には笑顔の由奈と俺が写っている。
――由奈の夢は歌手だった。
始め出会ったのは、学校内で……あれは文化祭の日だった。
由奈は有志として学校の体育館で歌を歌っていた。彼女の声は透き通るように綺麗で俺は、いつの間にか聞き入るように聞いていた。
歌を歌い終わった彼女はバンドのメンバーと共に舞台から降りてきて、1人1人にお礼を言っていた。もちろん最前列で聞いていた俺にも……。
「聞いてくれて、ありがとう」
それが、俺の聞いた初めて由奈が俺に発した言葉だった。
その後、俺達は運命のように惹かれ合い、付き合うことになった。
昔のことに想いを寄せていると突然インターホンがなった。俺は急いで玄関に駆け寄って行き、ドアを開けた。
そこには、郵便員が立っていた。いつもは、アパートの入り口に備え付けてある郵便受けに入れるのに……。
「速達です。サインもらえますか?」
なるほど、速達か。俺は所定の位置にサインをし、郵便物を受け取った。郵便員は元気よくお礼を言って、エレベーターへと乗った。
郵便員がエレベーターで下へ降りるのを確認した俺は、ドアを閉め郵便物を見た。それは昨日の封筒のように黒く、しかし少し大きめの封筒だった。
黒い封筒……、これは恐らく死刑執行人制度に関する封筒だろう。中身を開ける前にそれを確信した俺は、再び全身が寒さに襲われた。真夏の昼間にも関わらず……。
再び椅子に座った俺は、机に置いてあるハサミを使って封筒を開ける。
封筒の中身を取り出した俺はおそらく、いや確実に驚きの表情をしているのだろう。この封筒に入っていたのは、俺が処刑する死刑囚の資料だった。
資料には、死刑囚の顔写真、死刑囚の生まれた時からの経歴や犯した罪の詳細に至るまでこと細かく書かれていた。俺は恐る恐るその資料に書かれた文字を読み始めた。
死刑になるのは男だった。名前は牧村 大輔35歳。これはこの男自らが記したものなのだろうか……趣味の欄を見ると『人間狩り』と書かれてあった。
それを見た俺は全身に鳥肌が立ち、手には汗が吹き出ていた。
しかし、その後に書かれていたその言葉は、俺が胃に含んでいたものを吐き出すのには十分なものだった。
趣味『人間狩り、殺した人間の一部を食べること』。
――狂っている。
こいつは狂気をはらんだ……異常殺人者だ。
もう、読むのはやめたくなった。こんな奴は死刑になって当たり前だとさえ思ってきた。でも……法律上送られてきた資料にはすべて目を通さなければならない。後で目を通してないことが知れたら……罰を受けるらしい。
仕方なく、半ば強制的に俺は残りの資料も読むことにした。
次に出てきたのはまたもや衝撃的なものだった。
殺した人間のリストが出てきたのだ。殺された人間のことについても細かく書き記されている。俺は上から順に目を通していく。
順番に見ていくと、殺しているのは全て女か子供ばかり全部で23人。なんて冷血非道な奴だ。こんな人間がいるなんて信じられない。
多少の怒りを覚えながらも俺は意外と冷静にリストを見ていた。けどそれは21番目までだけだった。22番目のリストを見た瞬間、俺の手には自身の爪で手のひらを押し潰しそうなくらいの力が入り、目はその文字以外は視界に入らないくらい一点だけを凝視し、心臓は自身の動きをしっかり確認するかのように激しく脈打っているだろう。それに伴い椅子に座っていた俺の身体は自らの意思とは無関係に立ち上がった。
――そこには、葵 由奈の文字があった。
殺害されたのは街の裏路地、裸にされた上に全身を切り刻まれ、さらに右腕をもぎ取られ血だらけで死んでいた所を偶然に通りかかったゴミ収集者が発見。と書かれていた。
それは、間違いなく疑いようもないくらい確実に由奈だった。
俺は事件の日、そのすぐ近くを歩いていた。由奈と事件現場のすぐ近くの駅で待ち合わせをしていたからだ。
時間になっても現れない由奈が心配になり、携帯にかけようとした時、パトカーと救急車が目の前を通り、駅のすぐ近くに止まったので俺は、野次馬になると分かっていながらも好奇心でパトカーの止まっているところへと行った。
人ごみをなんとか掻い潜り野次馬の最前列で俺が見たのは、無残な由奈の亡骸だった。
――由奈はコイツに殺されたんだ。
あの日の由奈の姿が俺の頭に蘇ってきた。裸で切り刻まれ、右腕を無くし血だらけになった由奈の姿が……。
その時、俺の中で消え去っていた……いや、正確には小さくなっていただけで消えてはいなかったのかも知れない、復讐という名の炎が再び命を吹き返し激しく燃え始めた。
――俺は、由奈のカタキをとることが出来るのだ。
しかし、それと同時にこんな男から由奈を守れなかった自分が惨めで仕方がなかった。あの日、由奈とあの場所で待ち合わせをしなければ、由奈は死なずに済んだかもしれない。
心の奥底に閉まっていた犯人への憎悪と自分への後悔が大きな鎖となって自分の精神を昔のようにきつく締め付けていくようだった。
封筒の中にはあと数枚、紙が入っていた。
それはこの異常殺人鬼、牧村大輔の母親から俺への手紙だった。そうだ、こんな異常殺人鬼でも人間……、母親はいる。俺はその事実に少し変な気持ちになった。
俺は封筒の中に入っていたその手紙を取り出して、文面を読み始めた。
そこには、牧村大輔に関する様々なことが書かれていた。生まれた時のこと、小学校や中学校でのこと、高校生、大学生までのことが何枚もの紙に書かれてあった。親の想い、そして息子が殺した人達への謝罪。
その母親からの手紙の一文に、あることが書かれていた。それは、人間に見せる手紙の内容としては不相応のものだった。
――それは、牧村大輔が殺人鬼へと変貌した事件のことについてだった。
牧村大輔は、大学生まで普通だったらしい。友達もそれ並にいて、普通に大学生活を送っていたそうだ。
牧村大輔は山岳部に入っていた。
ある日、山岳部の部員達6人である山へと登ることになったらしい。季節は冬だったが念入りに天候をチェックし、最良の日を選んで山登りを始めたらしい。頂上には何事もなく順調に着き、頂上に設置された小屋で一夜を過ごすことになったらしい。
けど山の天気は非常に変わりやすい、天気予報ではその日から三日は晴れが続くと言っていたのに、その日の夜から猛吹雪が吹き荒れ始めたらしい。
部員達はその小屋から何日も身動き出来ず、寒さと空腹により少しずつ命を削られていったようだ。一泊二日の予定だったために、たいした食料も持ってきておらず、食べるものもないこの空間に漂うのはただの冷気だけだった。
三日目の朝、部員の1人が死んだのだ。それを見た部員の1人が異常行動に出た。
そう、あまりの空腹からかその死体を食べ始めたのだ。
あまりの光景だったらしいのだが、他の部員達もお腹が減っていたためにその部員のようにみんなで死んだ部員の肉を食べ始めたらしい。
――でも、その時でさえ牧村大輔は食べようとしなかったようだ。そんなことをしてまで生きたくなかったのか、他の部員達が人肉を食べている時も隅っこのほうで固まって震えて座っていたようだ。
数日後、牧村大輔は衰弱していた。他の部員達は人肉を食べたことにより、まだ牧村大輔よりは元気があった。
再び、空腹が襲ってくる。そんな時に犠牲になるのは一番死にそうな人間、その場においては牧村大輔だったようだ。
他の部員達は一斉に牧村大輔を殺しにかかったらしい。
さらに数日後、山が晴れ、救助隊が小屋に到着した時に見たものは、五体の死体の傍らで、死体の肉をおいしそうに食べる牧村大輔の姿だったらしい。
牧村大輔は、救助された数日後に姿を消し、その後すぐ、殺した人間の一部を食べるという事件が多発。それが牧村大輔だった。
俺は、その内容を読んだ時、心に迷いが存在していた。
牧村大輔は間違いなく殺人鬼。
でも、それには理由があって……。
俺がもし、その時にその場にいたら、みなと同じように死んだ部員の肉を食べていたかもしれない。絶対に食べるわけがないという保障は出来ない。
そう考えると、牧村大輔は運が悪かっただけなのかもしれない。
もちろん救助された後、失踪し、異常殺人をしてきたことは許されることのない事実である。だけど牧村大輔が異常になったのも全てこの事件があったからだ。
俺があの日、由奈とあの場所で待ち合わせをしていなければ由奈は死ぬことがなかったかもしれない。でもそれと同じように、牧村大輔もあの日その山に登らなければ異常者になることもなかったかもしれない。
牧村大輔を殺すことは正しいことなんだろうか……、俺の頭にそんな疑問が浮かびあがった。
もしも由奈ならどう思うだろうか……。そういえばあの時、由奈は。
「あ〜!!」
「な、なんだよ由奈、いきなり大声だして」
俺は、由奈の突然の大声に驚いて、由奈のほうを見た。だが由奈は俺のほうを見ていない。由奈の目線は由奈のずっと先のほうを見ていた。
「コラー!! なんてことしてるのよー!!」
由奈は怒っているような声で、目線の先のほうへと走り出した。俺も由奈の走っていったほうに目線を移動させる。そこには道路の真ん中で無残にも車に轢かれ死に絶えた猫の死体に群がるカラスがいた。
由奈は大声をあげ、カラスの群れを猫の死体から追い払った。
猫は、車に轢かれたのだろうか、それともカラスにやられたのだろうか……、内臓が飛び出し血だらけだ。俺も由奈のいる猫の死体のほうへと歩み寄って行った。
「かわいそう……、この子はなにも悪くないのに」
由奈は猫の死体をジッと見つめていた。
普通の高校生ならこんな光景を見たら、誰も近寄らない。見ようとさえ、いや……気にかけることすらしないだろう。現に俺も見えていたのに、気にもならなかった。けど、由奈は違った。
でも、さすがに次に由奈がとった行動には驚いた。
由奈の手には、身体から臓物が飛び出し、血まみれになっている猫が抱かれていた。
「ゆ、由奈!?」
由奈の手は猫の血で赤く染まっている。いや、服にも血が付いている。
由奈は無言で道路の端まで、猫を抱いて歩きだし、道路の端の土になっているところに猫の死体を降ろした。
すると、今度は素手で土を掘り始めた。
俺は、そのあまりの光景に驚いて、身体が反応できなかった。
「ゆ、由奈! なにやってんだよ?」
「この子を埋めてあげなきゃ!」
由奈の言葉に俺は、なにも言えなかった。
「この子はなにも悪くないのに殺されて……、カラスに食べられていたんだよ! 誰かがちゃんと葬ってやらなきゃ!」
由奈の手は土で汚れ、痛々しかった。
「そんなのなにも由奈がやることないだろ? 由奈が轢いたわけじゃないんだし、手だって、服だって汚れてるんだぞ!」
俺のその言葉に由奈の穴を掘っていた手が止まった。
「そんなの……、どうってことないじゃん。この子を轢いた人だってきっと悪くない。轢かれたこの子も悪くない。ただ運が悪かっただけ。もしこの子を轢いた人がここを通らなければ、もしこの子がここを通らなければ……」
俺は、由奈の言葉を静かに聞いていた。
「一樹……、悪い人なんていないんだよ。どんなことにでも必ず理由があるの。見る人によれば、この子を轢いた人が悪いという人もいれば、道路に飛び出してきたこの子が悪いっていう人もいる。見方一つで悪くも良くもなる。大切なのは誰が悪いかじゃなくて、その後にどうするかだよ」
「どう……するか?」
俺のその問いに由奈は静かな口調で答えた。
「轢いたのは仕方がない。轢かれたのも仕方がない。もう起きたことは取り返しがつかない。でも、どちらがどうであれ、そこに命を失った子がいる。だったらあたし達にできることは一つしかないよ」
……由奈の言う通りだった。気が付かない振りをするのではなく、見捨てるのでもない、今ここで自分が出来ることをやらなくてはなにも意味はなさない。
気が付かない振りをすることも見捨てることも簡単だ。
――でもそれは、逃げなんだ。
由奈は、逃げないことを選んだ。手や服を犠牲にしてでも逃げないことを選んだ。
目の前で起きている死という現実から逃げようとしていた自分が無償に恥ずかしくなった。
由奈は、再び素手で土を掘っている。
「由奈、どいてくれ。俺が掘る!」
そう言って俺は由奈にどいてもらい、俺も素手で土を掘り始めた。
今、自分に出来ることを精一杯やらなくては意味がないんだ。俺が出来ることはそれしかないんだから。それをやらないことは逃げなんだ。
俺の手も、服も土の汚れで汚くなっていたが、不思議と気にならなかった。
今、自分に出来ること……。
そうだ。牧村大輔を死刑にすることが正しいかどうかなんて答えは今出るはずがない。だって俺はなにもしていないから。今、自分が出来ることをやろう。
そう思った俺は、資料に添えられていた牧村大輔の両親のいる住所を調べ、すぐにそこへと向かった。
牧村大輔の両親は意外にもすぐ近くに住んでいた。車で行っても30分ほどのところだ。
俺は、車に乗り込みすぐにその住所へと車を走らせた。
と、突然携帯が鳴った。友達の肇からだった。
「どうした? いま運転中なんだけど」
『あ、悪い。いや、ちょっと由奈の墓参りに行きたいと思って』
肇は高校の時の友達だ。だから俺と由奈が付き合っていたことも由奈が殺されたことも知っている。
「墓参り? なんで急にそんな」
『いや、だってさ俺、由奈が死んだ後、一度しか墓参り行ってないから……、お墓の場所もよく覚えてないし、一樹なら当然知ってると思って電話したんだ』
「分かった。じゃあ明日家に来いよ」
『悪いな、ありがと』
その言葉を言い終わると電話は切れた。
墓参りか、俺はついこの間行ったばかりなんだけど、まぁいいか。
そんなやり取りをしていると俺は、牧村の両親の家に着いた。
そこは、昔風の家だった。ずっとこの家に住んでいるのだろうか。
俺は、家の呼び鈴を鳴らした。
中からは、ドアを開け父親らしい人物が出てきた。大きい身体にがっちりした顔をしている。
「あの、牧村大輔の親父さんですか?」
「大輔ー!? あんな親不幸もんはうちの子じゃねぇ!!」
そう怒鳴ると家のドアを閉めてしまった。その意外な展開に唖然としていると再びドアが開いた。中から出てきたのは母親らしい人物だった。気の優しそうな感じの女性だった。
「ごめんなさいね、えっとどちらさんですか?」
「あ、俺……、いや僕神谷一樹と言います。実は……」
俺は、自分が息子さんの死刑の担当をすることになったことを話した。
「そう……、あなたが……」
母親であろうその女性は不意に悲しいそうな表情になった。
「あの……、牧村大輔について教えてくれませんか?」
俺のその言葉を聞き、悲しい表情を浮かべていた母親は笑顔でうなずいた。
母親の話からはいろいろなことが出てきた。手紙で読んだ内容と同じことも出てきたが、それ以外にもたくさんのことが。
話をしている途中で母親は涙を流し始めた。辛いのかもしれない。
いくら異常殺人鬼と言えどもお腹を痛めて生んだ我が息子。心配なわけがない。愛していないわけがない。
人を殺すというのはそういうことなのかも知れない。殺した人の残りの人生を全て背負って生きていく。
俺は、制度で偶然選ばれただけだけど、それでも人を殺す以上やはりその人のことは知っておきたいと思う。
こうやって話を聞いていると人によっていろんな人生があるんだなと思う。俺とは違う人間なのに同じ部分も持っていて新鮮な部分もたくさんあって。
――ほとんど俺と変わらない。
もしかしたら、普通の人と殺人鬼は紙一重なのかも知れない。本能をそのまま自由に解放するか、それを抑止するかだけの違い。俺は抑止できている……今は。牧村大輔は自由に解放させているのかもしれない。
正反対のようだけど、同じ人間。心の開け方が少し違うだけの。
俺は、母親の話が終わりそうなところを見計らって聞いた。
「あの、さっきの人は父親ですよね? どうしてあんな……」
「あー、お父さんはね。自分の息子が人殺しをしたっていうのを認めたくないのよ。ごめんなさいね」
俺は横に首を振った。
父親の気持ちも分かる気がする。自分が大切に育ててきた息子は異常殺人鬼でいま死刑を迎えようとしている。そんなこと普通の人なら信じられない。いや、信じたくない。
俺は、話を聞き終わると、両親の元を後にした。
俺が死刑を執行する牧村大輔は、異常殺人鬼……。
だけど、その殺人鬼のことを心から心配し、愛しているものがいる。
世の中の大半は、牧村大輔が死ぬことで喜ぶかもしれない。でも……、必ず悲しむ人もでてくる。あの両親のように……。
本当に牧村大輔には死刑意外に手は残されてはいないのだろうか。
俺は、牧村大輔は死ではなく別の方法で罪を償うべきではないかと思うようになっていた。
次の日、俺はついに会社を休んだ。行く気にはなれなかった。なぜならもうすぐ死刑執行予定日だったからだ。それに今日は肇と由奈の墓参りに行く約束をしていたし。
「お〜い!」
突然、玄関の外から声がした。この声の主は肇だ。
俺は、急いで玄関まで行きドアを開けた。
「オッス! 元気か?」
その言葉に俺は普通に笑顔で元気さを見せてみたが、空元気だということはすぐに見破られた。
「元気ないなー。なにかあったのか?」
俺は、肇を車へと誘導し、車に乗せ車を出した。その車内で肇の質問に答える。俺が死刑執行人制度に選ばれたこと、その相手が異常殺人鬼だということ、そして由奈のカタキだということ。
「もしかして由奈はカタキを討ってほしいのかもな」
静かに俺の話を聴いていた肇が突然言った一言。俺はその一言に思わず声が詰まった。
「だって、普通に考えて見ろよ。宝くじで当たるより当たりにくい死刑執行人に選ばれて、さらにその相手が由奈のカタキだなんて、どんな確率だよ。由奈が復讐を望んでいるとしか思えないね」
確かに、ありえないほどの確率だ。由奈がカタキ討ちを望んでいるのか。自分を殺し、あげくに右腕を食べた牧村大輔に死の制裁を望んでいるのか。
それが、由奈の望みなのだろうか。
もし、由奈がそれを望んでいるのなら……、いや由奈がそれを望んでいなくても俺は、この男を本気で殺したいと思った。
由奈はコイツに夢をも奪われたのだ。あの時、言っていた夢さえも。
「ナイスシュー!」
ゴールにボールが入る。俺は体育館でバスケの練習を夜遅くまでしていた。由奈はそれを座って見ている。
「上手いねー、一樹。将来はプロバスケ選手かな?」
「バーカ、そんな簡単にプロのバスケ選手になれるかよ」
俺は、ボールをつきながら走りドリブルに発展させゴールしたでジャンプし、軽くゴールにボール乗せる感じで置いた。そのままボールはゴールに入り、床に着いたボールは体育館の床を響かせる。
「そういう由奈の夢はなんなんだよ?」
「あれ? まだ言ってなかったっけ?」
俺は、転がったボールを取りに行く時、由奈の横を通りながら軽く返事をした。
「あたしの夢は、歌手だよ」
その言葉に、取る筈のボールをとり損ねてしまった。これが試合だったのなら俺は交代させられているだろう。
「か、歌手ー?」
「失礼ね。なんなの? その驚きかたはー!」
由奈は顔をカエルのように膨れさせ、膨れっ面を見せてみた。かわいい。
「一樹だって、文化祭であたしの歌声聞いて、綺麗だったって言ってくれたじゃん」
確かに由奈は、歌が上手かった。おまけに透き通りいつまでも心に残る余韻を持った声は、一度聞いたら忘れられない。
俺にとってはそこ等の歌手よりも由奈のほうがよっぽど上手に歌っているように感じられた。
「歌手か、大変だぞー!」
俺は、そう言ってボールを拾い、ゴールを狙ってシュートしようとしたが、それは由奈の声によって止められた。
「あ! 待って!」
「な、なんだよ? いきなり大声出して、ビックリするだろ」
「ねぇセンターラインからシュートして決めること出来る?」
由奈の言葉の真意がよく分からなかったが、とりあえず俺は正直に答えた。
「センターラインからか……、決めたことはないなー、ちょっと難しいかも」
「だったらさ、チャレンジしてよ」
俺は思わず視線を由奈に向ける。
「センターラインからシュートを打って、もし一発で決めることが出来たら、あたしは歌手になれる。一樹はプロバスケ選手になれる……でどう?」
「面白そうだな、やってやるよ」
俺は、センターラインまで移動し、バスケットボールを床に一度つき、跳ね返ってきたボールを両手で掴むと、シュートの体制になった。そして、ジャンプしながらボールをゴールに向けて放った。
ボールは楕円を描きながらゴールに吸い込まれるように飛んでいく。
そして、ボールはゴールの枠に当たり、ネットを揺らすことなく、無残にも床へと落ちていった。
体育館には空しくボールが転がる音だけが響いた。沈黙が2人を襲う。
「……ハハッ。ま、まぁそんなうまくいくわけないか」
俺は、由奈の悲しむ顔が見たくなくて無理やり明るく振舞った。
「まっ!まだまだ努力が足りませんってことだね。あたしも一樹も」
由奈は悲しむ様子を見せることなく、笑顔で前向きとも取れることを平然と言ってのけた。
このときの結果は残念に終わったが、俺は夢への希望は一度も忘れたことがなかった。きっと由奈も歌手に本気でなりたかったんだと思う。
牧村大輔は、由奈の夢をも無残にも散らさせた。この殺人鬼は華を咲かせたいと願っていたつぼみを無残にも摘み取ったのだ。
由奈は復讐を、カタキ討ちを願っているのだろうか。
自分を殺し、幸せや夢を奪ったこの殺人鬼に。
確かに俺がこの男の死刑を実行すればカタキ討ちは、復讐は完成する。
俺は、そんなことを思いながら肇と一緒に、由奈のお墓の前で手を合わせていた。




