新しい部屋
俺はただ、生活する意味を持ちたかった――。
きっかけは些細なことだった。
「良介。この部屋、俺にくれない?」
ちょうど、家を出て一人暮らしを考えていた直隆の冗談半分の言葉に、俺は乗った。
正確には賃貸なのであげるわけにはいかなかったが。
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去年の春に一人暮らしを始めたばかりだというのに、俺は新しい部屋に引っ越した。
三DK。
ちゃんとローンを組んで購入するつもりだった。
ここで微妙な言い回しをするのはつまり、ここの所有者が俺じゃないからで。義兄が勝手にここを購入してくれたからで。他より比較的安い物件だったが高いのは変わりないそれを、簡単に俺にプレゼントしようとしてくれたからで。それを強引に押し切られてしまったからで。……それらの原因はすべて、俺にあるわけで。
金の問題、その他を含めて話をしなければと思うのに、義兄とは夏からまともに口を利いていない。
代わりに、彼からの伝言を直隆が持ってくる。
連絡係兼仲介役、みたいな感じだ。
夜の十時過ぎになって玄関のベルが鳴った。
いつものことだが連絡もなしに、突然直隆はやってきた。
黒の革ジャンとジーンズ。シルバーの指輪とネックレス。彼のお気に入りの格好だった。香水を適度につけていて、匂いは甘ったるくもなくきつくもなく爽やかで、嫌みがなくセンスがいい。少し悪ぶっているような格好なのに、どこか気品というか美麗な雰囲気が滲み出るのは仕方ないのかもしれなかった。
直隆の体には、育ちゆえの立ち居振舞いが染みついていた。そのことでちょっとしたコンプレックスを抱いているのか、彼は時々意図的にぞんざいな態度を取った。
コンビニの袋を提げたまま、直隆は部屋に入るなりソファに軽くダイブした。
「やっぱりここって落ち着くよなー。良介、俺にここ売ってくれよー」
「おまえにはもう部屋があるだろう」
「ちぇー」
反応が高校生とあまり変わらない。
言葉が多い。今日はテンションが高いようだ。
たぶんその理由は――
「良介も食べる、オニ盛り生クリーム?」
「いらない」
デザート。直隆は、たとえ何時に仕事が終わろうとも一日に一個は必ず「楽しみ」として甘物を食す。最近はコンビニのデザートがお気に召したようで、この部屋に来るときは必ず最寄の店で買った何かしらを持ってくる。
そして今日は生クリーム。俺が一番嫌いな食べ物だ。
「おまえ、性格悪い」
「何が?」
「……いや」
視線の先で、すでに直隆は目を細めて好物を味わっていた。
そんな至福の顔を見てしまうと、それがたとえ彼の演技だったとしても、俺はその日の最も幸福な一時を過ごす彼を、非難することはできなかった。
「でもまさかさ、本当に部屋を譲ってくれるなんて思ってなかったぜ。良介って、たまに突拍子もないことするよな」
「ほっとけ」
「何? ここから見える桜が気に入ったとか? 良介って、桜好きだよな。庭の桜とか、子供の頃からよく見てたし」
「たまたまだよ。前からここのアパートには目をつけていたんだ」
「ふうん?」
直隆は聞きたそうな顔をしたが、俺は答えずにコーヒーを淹れに台所へ向かった。
いつか、買おうと思っていた。
彼女と千尋の三人で暮らせる部屋を。
でもまだ早いと思っていた。
だから適当に物件を探すだけにしていた。
夏に偶然、目をつけていたアパートの部屋が空いたことを知った。
俺は生活する意味を持ちたくて、それを買うことに決めた。
俺は、実に無謀な衝動買いをしようとしていた。
それをある意味で阻止した義兄には感謝しなければいけないのだが、
貰うのでは意味がないのだ。
借りた金として絶対に返済する!
俺の意気込みは強い。
『裏話 長き夜』は、ずっと「俺」と直隆がソファの上で喋るお話です(笑)
時系列は、『肌をなでる風』の
『それでも春はやってくる』と『冬のぬくもり』の間です。
つまり、『季節観』の秋の部分になります。
他にもリンクしている部分があるのですが、それはまた後述。