↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

誰モ知ラナイ歌を〜episode4〜「カセットのB面」

作者: 國風 惠昂
掲載日:2026/10/03

挿絵(By みてみん)


「……まさかな」


時丘計一郎は、赤い車の前で足を止めた。


秋にはまだ少し早い陽射しが、磨き上げられたボディの上を滑っている。


旧車フェスの会場には、何十年も前の車がずらりと並んでいた。ボンネットを開けてエンジンを覗き込む男たち。カメラを構える若者。父親に手を引かれながら、見たことのない形の車を指差す子ども。


少し離れたステージからは、スタッフのマイクチェックの声が聞こえていた。


その中で、紺色の制服に制帽姿の計一郎は、どう見ても客には見えなかった。


普段は市内の路線バスに乗っている。


今日はシフトの都合で、この会場と最寄り駅を往復するシャトルバスの担当になった。


次の出発まで少し時間がある。


それだけだった。


挿絵(By みてみん)


せっかく旧車が集まっているのだから、少しくらい見て歩こう。


そんな軽い気持ちで会場へ入った。


だから最初に赤いトヨタ・セラを見つけたときも、


懐かしいな。


ただ、それだけだった。


けれど、近づくにつれて歩幅が小さくなった。


車体の色。


ホイール。


ガラス越しに見える運転席。


計一郎は足を止める。


「……ん?」


もう一歩、近づいた。


MOMOのステアリング。


胸の奥で、何かが小さく動いた。


腰を屈めて、さらに車内を覗き込む。


センターコンソール。


古いカセットデッキ。


そして、その脇。


パネルの縁に細い傷が一本残っている。


計一郎はしばらく動かなかった。


あの傷を知っている。


いや。


知っているという言い方では足りない。


自分でつけた傷だった。


カセットデッキを取り付けた日、奥行きがどうしても合わなかった。何度もパネルを外して、押し込んで、また外して。そのうちドライバーを滑らせた。


買ったばかりの車に傷をつけたような気分になって、何日もそこばかり気にしていた。


若かったな、と今なら笑える。


だが、その傷が今、目の前にある。


「……まだ付いてるのか」


MOMOのステアリングも。


カセットデッキも。


あの日の傷も。


同じ車種、同じ色なら偶然はある。


ステアリングやオーディオの仕様が似ることもあるだろう。


けれど。


あの傷まで同じ場所にあるはずがない。


計一郎はガラスに映った自分の顔を見た。


ずいぶん歳を取った。


当然だ。


あれから何十年も経っている。


それなのに、ガラスの向こう側だけが時間から取り残されたようだった。


「……この車」


声にしてみても、まだ信じられなかった。


かつての愛車との思わぬ再会に、胸の奥がまだ追いついていなかった。


そのときだった。


「個性的ですよね。こういう車、お好きなんですか?」


後ろから声をかけられた。


計一郎が振り返ると、若い女性が二人立っていた。


一人は赤を印象的に使った髪。


もう一人は肩まで伸びた金髪。


二人ともチェック柄のシャツにデニムという、どこか示し合わせたような格好をしている


ただ、計一郎には会場の客なのか、関係者なのかまでは分からなかった。


計一郎は少し考えてから答えた。


「ええ。まあ……好きというか」


そして、もう一度トヨタ・セラを見る。


「この車、昔、私が乗ってたんですよ」


赤い髪の女性が目を丸くした。


「セラに?」


「いえ」


計一郎は笑った。


「この車、そのものです」


「え?」


二人が同時に赤い車を見る。


金髪の女性が聞いた。


「分かるんですか?」


「最初は同じ仕様かと思ったんですけどね」


計一郎はガラス越しに運転席を指した。


「ステアリングも私が付けたものですし……ほら、あそこ」


二人が身を寄せる。


「パネルの横に、小さい傷があるでしょう」


「あ、本当だ」


「あれ、私が付けたんです」


赤い髪の女性が笑った。


「傷まで目印になるんですね」


「いい目印じゃありませんけどねえ」


三人で笑った。


金髪の女性はまだ車内を覗いている。


やがて、オーディオのところで視線が止まった。


「あれ……もしかして、カセットデッキですか?」


「ええ」


計一郎は少し身を屈め、ガラス越しにその位置を確かめた。


「それも、私が付けたんですよ」


Lukaが目を丸くする。


「そのときのまんまなんですね」


計一郎はすぐには答えなかった。


取り付けた日のことを、指先の感覚まで思い出せそうだった。

パネルを外して、配線を通して、何度も位置を合わせたこと。


そして、そのデッキに何本ものカセットを差し込んだこと。


「……これもまだ、残ってたんですね」


そう言って、計一郎は少しだけ笑った。


その言葉を口にしたとき。


計一郎の脳裏に、一瞬だけ別の景色が浮かんだ。


カセットを差し込む指。


助手席から伸びてくる白い手。


窓の向こうへ流れていく街灯。


そして。


曲がるはずだった角。


計一郎は、その記憶を振り払うように顔を上げた。


そこでようやく、隣にもう一台展示されていることに気づいた。


トヨタ・スターレット。


「セラに、スターレットですか。ここは面白い並べ方してますよね」


二人が顔を見合わせた。


赤髪の女性が自分を指す。


「私、Sera Rubyって名前なんです」


それから隣を指した。


「こっちがLuka Starletです。」


計一郎は二人を見て、それからステージ上の看板へ目を向けた。


――ZESTIAS。


「ああ」


ようやく合点がいった。


「ほぅ。あなたたちがZESTIASさんですか」


「はい」


「それで、この二台なんですね」


「主催の方が用意してくださったコーナーみたいです」


「洒落たことしますねえ」


また三人で笑った。


Lukaは、まだカセットデッキが気になるらしい。


「これって、自分で好きな曲を入れたテープとか聴いてたんですよね」


「そうですね」


「今でいうプレイリストみたいな?」


「近いかもしれませんね。ただ、今みたいに後から簡単に順番を変えられませんから」


「一曲ずつ録るんですよね」


「ええ。だから曲順ひとつ決めるのにも、ずいぶん考えましたよ」


Seraが首を傾げた。


「そんなに?」


「そんなに」


答えてから、計一郎は笑った。


「まあ……若いころは、暇だったんでしょうね」


そう言いながら。


自分でも、それが嘘だと分かっていた。


暇だったからではない。


たった一人に聴かせるためだったから、一晩使えたのだ。


計一郎は再び、かつての愛車へ視線を戻した。


「昔ね。この車で、ちょっと遠回りしたことがあるんですよ」


「遠回り?」


「ええ」


少しだけ、照れくさくなった。


何十年も前の話なのに。


「たった二分のために」


SeraとLukaが黙った。


計一郎の目の前で、赤いセラの輪郭がゆっくりと遠ざかっていく。


代わりに。


もうここにはない夜が戻ってきた。


*


九十分。


売り場でその数字を確認してから、若い計一郎はカセットテープを手に取った。


六十分では足りない。


百二十分では長すぎる。


九十分。


片面、四十五分。


それでなければならなかった。


彼女とは、もう長く付き合っていた。


休日になれば車で出かけた。


海へも行った。


少し遠い街まで食事をしに行ったこともある。


何を話すでもなく、ただ走った夜もある。


彼女を家まで送る道も、もう何度通ったか分からない。


どの信号が長いか。


どこで道が少し荒れるか。


どの交差点を曲がれば彼女の家へ着くか。


考えなくてもハンドルが動くくらい、身体が覚えていた。


それに計一郎は、昔から道と時間を一緒に覚える癖があった。


この信号を越えれば何分。


橋まで行けば、あと何分。


バスの運転席に座るようになってから、その癖はますます抜けなくなった。


だから彼女の家まで「だいたい四十三分」という数字も、わざわざ計ったわけではない。


何度も送り届けるうちに、いつの間にか身体の中に残っていた。


仕事中も、計一郎はいつも時間と音を一緒に聞いていた。


バスが停留所へ近づけば、車内に次の停留所を告げる声が流れる。

決まった場所へ近づくと、決まった声が入る。


ある日、その放送を聞きながら、ふと思った。


曲が終わったあとに。

自分の声を入れたらどうだろう。


彼女の家まで四十三分。

カセットの片面は四十五分。


なら、二分ある。


その二分なら、口ではなかなか言えないことを、自然な流れの中に預けられるかもしれない


付き合い始めたころにあった緊張は、もう薄れている。


助手席に彼女がいることが、少しずつ特別ではなくなっていた。


それが嫌ではなかった。


むしろ、そのことが嬉しかった。


いつのころからか計一郎は、ドライブの終わりに彼女を家へ送り届けるたび、考えるようになっていた。


このまま帰らなくていい日が来たら。


同じ家へ帰れたら。


そんな暮らしが、当たり前になったら。


けれど。


それを口にするとなると、話は別だった。


何度も機会はあった。


食事の帰り。


海を見ているとき。


信号待ちで並んで笑ったとき。


今日こそ言おう。


そう思って助手席を見る。


そして。


結局、何も言えない。


彼女はたぶん、そのことに気づいていた。


ときどき、こちらが何か言いかけると待っているような顔をした。


それでも急かさなかった。


その優しさが、かえって計一郎を困らせた。


だから。


カセットを使うことにした。


我ながら、ずいぶん回りくどい方法だった。


家へ帰ると、新品のケースを開けた。


透明な窓の向こうに、まだ一度も音を記録していない磁気テープがきれいに巻かれている。


計一郎は穴へ鉛筆を差し込み、少しだけ回した。


たるみを取る。


白いラベルを貼った。


日付を書く。


その下へ、彼女の名前を書こうとして。


ペンが止まった。


書けばいいだけなのに。


しばらく考えて、結局やめた。


日付だけ。


「何やってんだ、俺」


誰もいない部屋で呟いた。


一曲目。


彼女が以前、車の中で口ずさんでいた曲。


二曲目。


海へ行ったとき、ラジオから流れて「これ好き」と言っていた曲。


三曲目。


少し迷った。


録音する。


聴き返す。


違う。


巻き戻す。


消して、別の曲を入れる。


曲そのものより、その次に何を置くかで悩んだ。


明るい曲のあとに、急に静かな曲を入れるのは違う気がする。


歌詞が妙に意味深になるのも避けたかった。


彼女なら、そこまで深読みしないかもしれない。


それでも。


秒針より慎重に、彼女の「好き」だけを並べていった。


気づけば夜は深くなっていた。


たかがドライブだった。


明日、彼女を迎えに行く。


一緒に出かける。


そして家まで送る。


何度も繰り返してきたことだ。


そのためだけに。


計一郎は一晩を使った。


A面が埋まる。


B面も、一曲ずつ埋まっていく。


けれど。


最後の二分だけは。


最初から曲を入れないと決めていた。


計一郎は机の上に置いた小さなマイクを見る。


そこからが。


どの曲を選ぶより難しかった。


挿絵(By みてみん)


録音ボタンを押す。


カチッ。


テープが回り始める。


「……」


何も言えない。


停止。


巻き戻す。


もう一度。


カチッ。


「……あのさ」


停止。


違う。


もう一度。


「これから……」


停止。


頭を抱える。


誰も聞いていない。


彼女はここにいない。


なのに。


言えない。


計一郎は椅子にもたれた。


天井を見る。


どうして、こんな簡単なことが言えないのだろう。


好きだということなら、もう知っている。


自分も。


彼女も。


今さら確認する必要なんてない。


伝えたいのは、その先だった。


来年も。


その次の年も。


もっと先も。


助手席に彼女がいてほしい。


いや。


助手席だけではない。


朝起きたときも。


仕事から帰ったときも。


歳を取ってからも。


できることなら。


ずっと。


計一郎は目を閉じた。


言葉を飾るから言えなくなる。


そう思った。


もう一度。


録音ボタンを押す。


カチッ。


しばらく。


何も言わなかった。


息を吸う音だけが入る。


それから。


計一郎は。


ようやく声にした。


*


翌日。


赤いセラは、いつものように彼女を助手席へ乗せて走り出した。


「これ、作ったの?」


彼女がカセットケースを持ち上げる。


「まあ」


「日付しか書いてない」


「いいだろ、別に」


「私の名前は?」


「書かなくても分かるだろ」


彼女が横目で見る。


「誰のために作ったか?」


「……今、持ってる人」


「なにそれ」


笑われた。


計一郎も笑った。


それで少し緊張がほどけた。


挿絵(By みてみん)


カセットをデッキへ差し込む。


一曲目が流れ始める。


「あ」


彼女がすぐ反応した。


「これ好き」


「知ってる」


「なんで?」


「前に言ってただろ」


「覚えてたんだ」


計一郎は前を向いたまま答えた。


「まあな」


本当は。


彼女が思っているより、ずっといろいろ覚えていた。


海へ向かった日。


ラジオからこの曲が流れたこと。


サビだけ彼女が歌ったこと。


信号が青になっても、一瞬だけ続きを聴いていたこと。


そんな細かなことまで。


二曲目。


三曲目。


彼女は窓の外を見たり、小さく歌ったりした。


それだけで、一晩使った甲斐があったと思った。


途中で食事をした。


海にも寄った。


いつもと変わらない一日だった。


だからこそ。


帰り道が近づくにつれて。


計一郎の口数だけが、少しずつ減っていった。


夜。


A面が終わる。


カチッ、と音がして音楽が途切れた。


「終わった?」


「まだ」


計一郎はテープを取り出す。


裏返す。


B面。


ここからだった。


彼女の家までは、いつもの道ならおおよそ四十三分。


何度も走った。


夜にも走った。


信号の具合で多少前後する。


それでも。


だいたい四十三分。


片面は四十五分。


二分。


その二分が必要だった。


B面の一曲目。


橋を渡る。


二曲目。


見慣れた交差点。


三曲目。


街の灯りが増えていく。


計一郎は時計を見る。


「今日、時間気にするね」


助手席から声がした。


「そう?」


「さっきから見てる」


「癖だよ」


「そんな癖あった?」


計一郎は答えなかった。


彼女が小さく笑う。


最後の曲が始まった。


もうすぐ。


いつもの角。


そこを左へ曲がれば、数分もしないうちに彼女の家へ着く。


計一郎はハンドルを握り直した。


手のひらが少し汗ばんでいる。


隣にいるのは。


何度も隣に座った人だ。


何度も手をつないだ。


喧嘩もした。


仲直りもした。


好きだということなら、とっくに知っている。


それなのに。


その先のことだけが。


どうしても口から出なかった。


角が近づく。


いつもなら。


ここでウインカーを出す。


彼女もそう思っている。


けれど。


計一郎は。


ウインカーを出さなかった。


そのまま直進した。


曲がるはずだった角が、左へ流れていく。


街灯が一つ。


後ろへ消えた。


彼女が振り返る。


「……あれ?」


「ん?」


「曲がらないの?」


「うん」


「道、間違えた?」


「いや」


「じゃあ、どこ行くの?」


計一郎は前を見たまま答えた。


「ちょっと遠回り」


「なんで?」


「……たまには、いいだろ」


彼女はしばらく計一郎を見ていた。


何かを言いかけて。


やめた。


その横顔に。


ほんの少しだけ、分かったような色が浮かんだ気がした。


最後の曲が終わる。


車内から音楽が消えた。


エンジンの音。


タイヤが路面を拾う音。


そして。


スピーカーから流れる、微かなノイズ。


彼女がカセットデッキを見る。


まだテープは回っている。


計一郎は前だけを見ていた。


逃げ出したいくらい緊張しているのに。


逃げる場所はない。


自分で作ったテープだ。


自分で曲がらなかった道だ。


やがて。


スピーカーの向こうから。


誰かが息を吸う音がした。


彼女が計一郎を見る。


運転している計一郎は。


黙っている。


けれど。


昨夜の計一郎が。


スピーカーの中で。


長い沈黙のあと。


震える声で言った。


『真弓……これから先も、隣にいてほしい……です』


それだけだった。


また。


ノイズだけになる。


彼女は何も言わない。


計一郎も何も言えない。


十秒。


二十秒。


実際には、そんなに長くなかったかもしれない。


けれど。


計一郎には。


あの二分より長く感じられた。


失敗した。


そう思い始めた。


やっぱり、こんなやり方ではなく。


ちゃんと停まって。


顔を見て。


言えばよかった。


何十回も練習したのに。


結局。


テープに言わせてしまった。


耐えきれなくなって、計一郎は口を開いた。


「……余ったから」


彼女がこちらを見る。


「え?」


「テープ」


喉が渇いていた。


「二分、余ったから」


彼女はしばらく黙っていた。


「……二分余ったら」


「うん」


「普通、こんなこと録る?」


計一郎は観念した。


「……録らないな」


助手席から。


小さな笑い声がした。


「バスのアナウンスみたい」


計一郎は一瞬、返す言葉を失った。


笑われた。


けれど。


不思議と嫌ではなかった。


彼女は膝の上のカセットケースを手に取った。


日付だけが書かれた白いラベル。


その文字を指でなぞる。


それから。


ケースを裏返した。


何も書かれていない裏側を、しばらく眺めている。


計一郎は何も言わなかった。


聞けなかった。


やがて。


彼女が言った。


「じゃあ」


「……うん?」


「今度は私が作るね」


計一郎は。


一瞬、意味が分からなかった。


彼女を見る。


彼女はもう、窓の外を向いていた。


通り過ぎていく街灯が。


横顔を明るくしては、暗くする。


けれど。


口元が少し笑っているのが見えた。


今度。


その言葉だけが。


計一郎の中に残った。


今度がある。


明日より先にも。


来月より先にも。


その先にも。


彼女は。


自分の隣にいるつもりでいる。


計一郎は前を向いた。


「……うん」


それだけしか言えなかった。


赤いセラは。


次の交差点を曲がった。


今度こそ。


彼女の家へ向かって。


*


二人は結婚した。


赤いセラは、そのあともしばらく二人の車だった。


助手席は。


恋人の席から、妻の席になった。


結婚したからといって、何かが劇的に変わったわけではない。


相変わらずドライブをした。


相変わらず些細なことで言い合った。


彼女が助手席で眠ってしまうことも増えた。


計一郎が道を間違えると、あの夜のことを思い出したように、


「また遠回り?」


と言われた。


そのたびに。


二人で笑った。


カセットデッキも、そのままだった。


そして。


あの夜からしばらくして。


彼女は本当に一本のカセットを作った。


約束どおり。


彼女が選んだ曲が並んだテープ。


今度は、計一郎が受け取る側だった。


何を入れたのか。


どんな順番だったのか。


その話を、二人は誰かにすることもなかった。


ただ。


計一郎は、その一本を手放さなかった。


やがて。


蓮が生まれた。


後部座席にチャイルドシートが付いた。


小さな服。


おむつ。


ベビーカー。


買い物袋。


二人には十分だった車が。


三人には、少しずつ小さくなった。


計一郎は。


セラを手放すことにした。


代わりに選んだのは、ファミリー向けのミニバンだった。


納車の日。


荷物をすべて移し終えたあと。


妻は赤いセラのそばへ戻った。


ボディに手を置く。


そして。


ゆっくりと一度だけ撫でた。


「ずいぶん乗ったね」


「そうだな」


「いろんなところ行ったね」


「うん」


それ以上は言わなかった。


寂しくないと言えば。


嘘になる。


けれど。


不思議と後悔はなかった。


あの車で始まったものが。


あの車では足りないほど。


増えただけだった。


*


「――そんなことがありましてね」


計一郎が話し終えたあと。


Seraは、しばらく何も言わなかった。


Lukaも黙っている。


旧車フェスのにぎやかな音だけが、三人の周りを流れていた。


目の前には。


赤いセラ。


何十年も前。


一人の男が。


曲がるはずだった角を曲がらず。


たった二分だけ遠回りした車。


Seraが小さく言った。


「それで……結婚したんですね」


計一郎は笑った。


「まあ。そういうことになりますね」


「すごいな」


Lukaが赤いセラを見る。


「この車、全部知ってるんだ」


計一郎も車を見た。


「どうでしょうね。車は何も言いませんから」


「だからいいのかも」


Seraが言った。


そのとき。


遠くからスタッフの声が飛んできた。


「ZESTIASさん、そろそろ準備お願いします!」


「あ、はい!」


Seraが慌てて返事をする。


Lukaが促した。


「行こう」


「うん」


二人はステージへ向かいかけた。


けれど。


Seraは数歩進んだところで振り返った。


「素敵なお話、ありがとうございました」


計一郎は少し照れた。


「いやいや。若い人に聞かせるような話じゃありませんよ」


Seraは首を横に振った。


「昔の話だから、いいんです」


そして。


赤いセラを一度見た。


「今まで残ってた話だから」


計一郎は返事をしなかった。


SeraとLukaはステージへ走っていった。


計一郎も腕時計を見る。


そろそろ仕事へ戻らなければならない。


何十年も前の夜から。


いつもの時刻表の中へ戻る。


シャトルバスへ歩き始めてから。


一度だけ振り返った。


かつての愛車は。


あの日と同じように。


陽の下で光っていた。


*


やがて。


会場に歓声が上がった。


赤いセラと黄色いスターレットが並ぶ、その近くで。


ZESTIASのステージが始まった。


観客の中に。


一人の青年がいた。


時丘 蓮。


まだ二人がグレイプフルーツと名乗っていたころから、彼女たちの音楽を聴いてきた。


蓮自身も音楽をやっている。


まだ誰かに知られるような名前はない。


作った曲を聴き返しては消す。


人に聴かせては、帰ってから後悔する。


それでも。


いつか。


ステージの向こう側に立ってみたい。


Seraの歌。


Lukaのギター。


大勢の人間が同じ音を聴いている光景を見ながら。


蓮はそんなことを考えていた。


まさか。


その少し前。


自分の父親が。


憧れている二人に。


母へプロポーズした夜の話をしていたなど。


知るはずもなかった。


*


ライブが終わった。


ZESTIASを乗せた送迎車が、会場を離れようとしていた。


後部座席で窓の外を眺めていたSeraは、まだあの話を考えていた。


九十分。


四十五分。


四十三分。


二分。


数字ばかりなのに。


なぜか冷たくない。


むしろ。


その二分の中だけに。


あの人が言えなかった何年分もの気持ちが詰まっているような気がした。


車が出口へ向かう。


そのとき。


「あっ」


Seraが身を乗り出した。


Lukaが顔を上げる。


「どうした?」


「あのバス」


シャトルバスが一台。


乗客を乗せて待機している。


運転席にいたのは。


計一郎だった。


「すみません」


Seraが前へ身を乗り出す。


「ちょっとだけ停めてもらえますか?」


送迎車が停まった。


ドアが開くと。


Seraはすぐに降りた。


「ちょっと、Sera!」


Lukaも仕方なく後を追う。


計一郎は。


こちらへ走ってくる二人を見て目を丸くした。


「どうしました?」


Seraは少し息を切らしていた。


「ひとつ……聞き忘れてました」


「はい?」


「あのテープ」


計一郎の表情が。


ほんの少し変わった。


「あの九十分のテープ、どうなったんですか?」


計一郎は一瞬、遠い記憶の中を探すような顔をした。


それから、照れくさそうに笑った。


「さあ」


少し考える。


「女房が、まだ持ってるんじゃないかな」


Seraの表情が緩んだ。


「……よかった」


「何がです?」


「なんでもないです」


計一郎は不思議そうに笑った。


挿絵(By みてみん)


そして、二人が戻ろうとしたときだった。


「ああ、でも」


SeraとLukaが振り返る。


計一郎は少しだけ言いにくそうに続けた。


「彼女が作ったほうのテープなら、今も私が持っていますけどね」


今度はLukaが笑った。


Seraも何も言わず、嬉しそうに笑う。


二本のカセットは、ずっと同じ場所にあったわけではない。


それぞれが。


相手から受け取った一本を。


それぞれの手元に残していた。


Lukaが小さく言った。


「ちゃんと作ってくれたんですね」


「ええ」


計一郎は少し照れたように頷いた。


「約束でしたから」


後ろからスタッフの声が飛んできた。


「ZESTIASさん、そろそろ出ます!」


「あ、はい!」


Seraは計一郎にもう一度頭を下げた。


「ありがとうございました!」


二人は送迎車へ戻っていった。


計一郎は。


不思議そうにその背中を見送った。


そして。


その一部始終を。


シャトルバスの後方座席から、目を丸くして見ていた青年がいた。


蓮だった。


今、目の前を走っていったのは。


間違いなくSera Ruby。


その後ろにLuka Starlet。


そして。


二人が話していた相手は。


運転席を見る。


父親。


もう一度。


窓の外を見る。


送迎車が走り去っていく。


また父を見る。


――え?


それ以外の言葉が出てこない。


親父。


ZESTIASと知り合いなのか?


そんな話。


一度も聞いたことがない。


しかも。


聞こえた単語が妙だった。


テープ。


女房。


約束。


何の話だ。


訊きたい。


けれど。


父は仕事中だ。


間もなくドアが閉まった。


計一郎は、いつものようにミラーを確認する。


時計を見る。


定刻。


バスが発車する。


蓮は結局。


訳がわからないまま。


家へ帰った。


*


その日の夜。


蓮は結局、父に聞いた。


「今日さ」


夕食を終えた計一郎は、テレビを見ていた。


「ZESTIASと何話してたの?」


計一郎が画面を見たまま答える。


「ん?」


「バスのところまで来てたじゃん。SeraさんとLukaさん」


「ああ」


計一郎はようやく思い出したような顔をした。


「会場にあった車を見てたら、向こうから声をかけてくれただけだよ」


「それだけ?」


「それだけ」


「でも帰りにも来てたじゃん」


「聞き忘れたことがあったんだと」


「何を?」


計一郎は一拍置いた。


「昔の話」


「何の?」


「昔の話は昔の話だ」


そこで会話を終わらせるように、計一郎はテレビへ目を戻した。


蓮は納得できなかった。


会場で偶然声をかけられただけなら分かる。


けれど。


ライブを終え、送迎車で帰ろうとしていたSeraが、わざわざ車を停めてもらってまで父のところへ戻ってきた。


ただの世間話とは思えなかった。


それに。


あのとき聞こえた、


「テープ」


という言葉。


「女房」


そして。


「約束」。


いったい何の話だったのか。


数日考えても、やはり気になった。


ちょうどZESTIASのラジオ番組が始まったばかりだった。


蓮は一通の便りを書いた。


返事が来るとは思っていない。


まして、番組で読まれるなど考えてもいなかった。


ただ。


もし読まれたら。


あの日、父と何を話していたのか。


少しくらい教えてもらえるかもしれない。


その程度の気持ちだった。


*


数日後。


Seraはノートを開いていた。


Lukaは向かいでギターの弦を調整している。


「ねえ」


「ん?」


「四十三分だったよね」


Lukaの手が止まった。


「何が?」


「家まで」


それだけで。


Lukaにも通じた。


「ああ」


Seraはノートへ数字を書く。


四十五。


四十三。


そして。


その下に。


二。


「たった二分なんだよね」


「うん」


Seraはペン先を数字の二に置いた。


「二分のために、いつもの角を曲がらなかった」


Lukaは何も言わず。


ギターを抱え直した。


Seraはノートへ書いた。


――カセットのB面。


その下に。


もう一行。


――君の家まで四十三分。


Lukaが横から覗く。


「それ、サビ?」


Seraはしばらく考えた。


「……たぶん」


Lukaがコードを一つ鳴らす。


Seraが首を横に振った。


もう一つ。


「違う」


三つ目。


今度は。


何も言わなかった。


Lukaが同じコードを、もう一度鳴らす。


Seraのペンが動き始める。


九十分。


鉛筆。


白いラベル。


君の好きな歌。


四十五分。


四十三分。


街灯ひとつ。


そして。


余った二分。


まだ。


誰にも聴かせる予定のない歌だった。


*


数週間後。


ZESTIASのラジオ番組。


東京でのイベント出演をきっかけに始まった、小さな番組だった。


大きな放送局でもない。


深い時間帯。


それでも。


少しずつ便りが届くようになっていた。


「じゃあ、次のお便りいきます」


Seraが一通を手に取った。


「ラジオネーム――RAYNさん」


自宅でラジオを聴いていた蓮の背筋が伸びた。


「うわ……」


読まれた。


初めて送った便りだった。


Seraが読む。


『先日の旧車フェス、見に行きました』


蓮は無意識にラジオへ顔を近づける。


『グレイプフルーツのころからお二人の曲を聴いています。自分も音楽をやっているので、ずっと憧れの存在です』


Lukaが小さく、


「ありがとう」


と言った。


誰も見ていないのに、


蓮は少し照れた。


『それと、ちょっと不思議なことがありました』


Seraが続きを読む。


『普段は路線バスに乗っている父が、その日はたまたまシフトで会場のシャトルバスを運転していました』


Seraの声が止まった。


Lukaを見る。


『ライブの帰り、そのバスに乗ったら、父とお二人が話していて驚きました』


Seraの表情が変わる。


『帰ってから父にも聞いてみたんですが、会場の車を見ていたら声をかけてもらっただけだと言って、詳しいことは教えてくれませんでした』


Lukaも気づいた。


二人が顔を見合わせる。


『でも、帰りにSeraさんがわざわざ送迎車を停めて父のところへ来ていたので、ちょっと気になっています』


Seraは便りを読む声を少しだけ弾ませた。


挿絵(By みてみん)


『お二人は父と何を話していたんでしょうか。こっそり教えてください』


沈黙。


「……え?」


Seraから。


素の声が漏れた。


Lukaが小さく言う。


「もしかして」


二人が顔を見合わせる。


自宅の蓮は。


何が起きているのか分からない。


Seraがマイクへ向き直った。


「RAYNさん」


少し笑っている。


「たぶん、あの日お父さんと私たちが何を話してたのか……今夜分かります」


「……は?」


蓮は思わず声を出した。


台所では。


母が夕食の片づけをしている。


皿の触れ合う音。


水道の音。


ラジオの声は。


そこまで届いている。


Seraが話し始めた。


旧車フェス。


赤いトヨタ・セラ。


昔。


その車に乗っていた一人の男性。


九十分のカセット。


彼女の好きな曲だけを入れたA面とB面。


家まで四十三分。


片面は四十五分。


残った。


二分。


蓮の顔から。


少しずつ表情が消えていった。


「……ちょっと待て」


台所を見る。


母は。


皿を洗っている。


こちらを見ない。


Seraの話は続く。


曲がるはずだった角を曲がらず。


二分だけ遠回りしたこと。


最後の曲が終わったあと。


カセットに残っていた。


本人の声。


そして。


Seraは。


その声が何を伝えたのかだけは。


言わなかった。


「あの日聞いたお話が、なんだかずっと残ってて」


Lukaが続ける。


「それで、一曲作りました」


「まだデモです」


「録り直すかもしれないし、歌詞も変わるかもしれません」


「だから今日は」


Seraが少し楽しそうに言う。


「一回だけ」


Lukaが続けた。


「Demo Takeです」


一拍。


静寂が落ちる。


そして。


音楽が始まった。


*


そのころ。


営業所へ戻る途中の待機時間。


計一郎も。


バスのラジオを聴いていた。


ZESTIASという名前を見つけて。


何となく周波数を合わせただけだった。


あの二人か。


その程度だった。


歌が始まる。


九十分。


鉛筆。


白いラベル。


計一郎の眉が。


ゆっくりと上がった。


「……ん?」


A面。


晴れた道。


海の手前。


君の知る歌。


計一郎はラジオを見た。


もちろん。


そこに二人の顔が見えるわけではない。


歌は進む。


四十三分。


四十五分。


余白の二分。


「……まさか」


計一郎は。


片手で額を覆った。


困ったように。


それでも。


少し嬉しそうに笑う。


「参ったな……まさか、あれを歌にしてしまうとはねぇ」


誰もいない運転席で。


小さく呟いた。


*


自宅では。


蓮がラジオの前から動けなくなっていた。


曲がるはずの角。


後ろへ消える街灯。


最後の曲。


ノイズ。


息を吸う音。


そして。


歌の中の男が。


未来を訊く。


――これから先も、隣にいて。


蓮は。


ゆっくり台所を見た。


「……母さん」


返事はない。


歌は続いている。


巻き戻せない夜。


ケースを裏返す女。


そして。


『今度は私が作るね』


蓮は両手で顔を覆った。


「親父……」


しばらく。


それ以上の言葉が出なかった。


ようやく絞り出す。


「何やってんだよ……」


恥ずかしい。


ものすごく恥ずかしい。


自分がずっと憧れてきたアーティストから。


父親のプロポーズを。


歌で聞かされている。


勘弁してくれ。


そう思う。


なのに。


笑えなかった。


いつも時間にうるさい父。


出発時刻の五分前には準備を終える父。


仕事でも。


家でも。


何でも順番を決めて動く父。


その父が。


母に未来を尋ねるためだけに。


いつもの角を曲がらなかった。


たった二分。


決まった道から外れた。


蓮は。


ゆっくり手を下ろした。


最後まで。


黙って曲を聴いた。


曲が終わる。


部屋に静けさが戻った。


台所から。


水の音だけが聞こえている。


やがて。


それも止まった。


「母さん」


今度は。


返事があった。


「なに?」


「これ……」


何と聞けばいいのか分からない。


「これ、母さんたちの話だろ」


少し。


間があった。


母は。


布巾で皿を拭きながら。


ラジオの方を見る。


それから。


ほんの少し笑った。


「なんか」


一枚。


皿を棚へ戻す。


「懐かしい感じがする曲ね」


「いや」


蓮は思わず身を乗り出した。


「そういうレベルじゃないだろ」


母は答えなかった。


ただ。


次の皿を手に取った。


「……本当に作ったの?」


蓮が聞く。


「何を?」


「テープ」


母の手が。


ほんの一瞬だけ止まった。


それから。


また皿を拭き始める。


「さあ」


「さあって」


「昔のことだから」


そう言いながら。


母は少しだけ笑っていた。


挿絵(By みてみん)


蓮は。


それ以上聞けなくなった。


いつも見ているはずの母なのに。


ほんの一瞬。


知らない人に見えた。


自分が生まれる前の。


一人の女の人。


赤い車の助手席に座って。


カセットケースを裏返しながら。


「今度は私が作るね」


そう言った人。


そして。


本当に一本作って。


父へ渡した人。


父にも。


母にも。


自分の知らない時間がある。


その時間が積み重なったずっと先に。


自分がいる。


当たり前のことなのに。


蓮は。


その夜初めて。


それを少しだけ実感した。


*


営業所へ戻るバスの中にも。


曲の最後の余韻が残っていた。


やがて。


無線が入る。


計一郎は現実へ戻った。


時計を見る。


休憩時間は終わりだ。


ラジオの音量を。


少しだけ下げる。


ミラーを確認する。


前方確認。


時刻を見る。


定刻。


エンジン音が少し高くなる。


バスは。


静かに走り出した。


もう。


カセットを裏返すことはない。


鉛筆を穴へ差し込んで。


たるみを巻き取ることもない。


あの赤いセラも。


もう自分の車ではない。


それでも。


何十年も前。


たった一人にしか聴かせるつもりのなかった二分間の声が。


今夜。


歌になって。


この街を越えて。


遠くの街や、知らない街へまで流れていた。


あの助手席にいた彼女も。


もしかしたら聴いていたのかもしれない。


そして。


あの二分よりも。


ずっと先で生まれた息子も。


きっと同じ歌を聴いていただろう。


信号が赤になった。


計一郎は。


ゆっくりバスを停めた。


フロントガラスの向こう。


交差点の先へ。


道が続いている。


ふと。


あの夜の角を思い出した。


あの日。


一つの角を曲がらなかったからといって。


人生が変わったなどと。


そんな大げさなことを言うつもりはない。


彼女なら。


きっと笑うだろう。


ただ。


あの夜。


二分だけ余っていた。


言えない言葉があった。


そして。


隣にいてほしい人がいた。


それだけだった。


信号が青へ変わる。


計一郎はアクセルを踏む。


バスが。


ゆっくり走り出す。


街灯が一つ。


後ろへ消えた。


挿絵(By みてみん)


*


その夜。


蓮は自分の部屋で。


しばらく楽器に触れなかった。


机の上には。


書きかけの歌詞がある。


何度書いても。


どこかで聞いたような言葉になる。


格好よくしようとするほど。


自分から離れていく。


ラジオから流れた歌を思い出す。


九十分。


鉛筆。


四十三分。


四十五分。


二分。


どれも。


特別な言葉ではない。


父がやったことだって。


格好いいのかどうか。


蓮にはよく分からない。


むしろ。


相当に格好悪い。


直接言えなくて。


一晩かけてテープを作って。


わざわざ角まで通り過ぎて。


最後は「余ったから」と嘘をついた。


でも。


その格好悪さを。


母は受け取った。


そして。


何十年も経ってから。


知らない誰かが歌にした。


蓮は。


机の上の紙を引き寄せた。


書きかけの言葉を眺める。


そして。


ペンを持った。


何を書くかは。


まだ決まっていなかった。


ただ。


自分にも。


自分にしか書けない何かがあるような気がした。


ラジオネーム、RAYN。


今夜はまだ。


一通の便りの最後に書かれた名前にすぎない。


『カセットのB面』も。


まだ一度だけ流れたDemo Take。


Seraも。


Lukaも。


計一郎も。


まだ知らない。


いつか。


この歌がもう一度鳴る日。


そこには。


今夜この歌を聴いていた青年の声も加わる。


父が。


二分の余白へ声を残したように。


息子もいつか。


自分の声を。


この歌へ残すことになる。


けれど。


それは。


もう少し先の話だ。


今夜はまだ。


古いカセットのB面に残された二分と。


曲がらなかった一つの角と。


その先も隣にいることを選んだ。


二人の話だけでいい。




おわり


今回は、趣向を新たに、ミドル世代直撃のお話になりました。


カセットテープ、A面とB面、鉛筆でたるみを巻くこと、白いラベルに曲名を書くこと。


今では少し懐かしいものになりましたが、あの頃は一曲入れるにも順番を考えたり、録音のタイミングを気にしたりと、今よりずっと手間をかけていた。そんな方も少なくなかったのではないでしょうか。


でも、その手間があったからこそ、一枚のテープに、その人の時間や気持ちまで残っていたような気がします。


『カセットのB面』では、そんな時代の「不便さ」を懐かしむだけではなく、言葉にしにくい気持ちを、音楽や余白に預ける不器用さを書いてみました。


片面45分。

家まで43分。

残った2分。


たったそれだけの数字から始まった話ですが、気づけば、ひと組の男女だけではなく、その先に生まれた息子へまでつながる物語になりました。


カセットを知っている方には、少し懐かしく。

知らない世代の方には、こんなふうに誰かのために音楽を選んでいた時代があったんだと、楽しんでいただけたら嬉しいです。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。


國風惠昂


挿絵(By みてみん)



誰モ知ラナイ曲を episode4 ED曲

♪「カセットのB面」/ ZESTIAS feat. RAYN


https://youtu.be/z0idrx2zoMw







評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。