第30話「総裁選と80兆円」
時事ネタ?社会風刺?いずれにしろ、この作品はフィクションであり、実在の企業・団体・個人とは一切関係ありません。キリッ
2025年10月4日。土曜日。
内閣官房の執務室に、橘慎一郎は一人だった。
モニターに自民党本部の中継が映っていた。
音量は小さくしてあった。
冷めたコーヒーを一口飲んだ。
総裁選の告示から十二日が過ぎていた。
当初は「大泉vs高道の2強対決」という構図だった。
議員票では大泉が先行し、メディアは「大泉優勢」と報じ続けた。維新が大泉に近づいた。石田派の一部も大泉に流れた。
それが変わったのは、一週間前だった。
大泉陣営が、SNSに好意的なコメントを投稿するよう依頼していた問題が発覚した。
「やらせ」という言葉が一人歩きした。
大泉の勢いが、静かに止まった。
橘はその経緯を執務室のモニターで見ていた。
想定の範囲内だった。
大泉が維新に近づいた瞬間から、保守票の流れは変わり始めていた。あとは望月が動くだけだった。
投票当日の朝、橘のスマートフォンに望月からメッセージが来た。
「手配は済んだ」
それだけだった。
橘は返信しなかった。
第一回投票。
開票が始まった。
モニターの中で、アナウンサーが数字を読み上げた。
高道早苗:党員票119・議員票66・計185票
大泉進太郎:党員票78・議員票82・計160票
森 芳久:党員票62・議員票44・計106票
大林鷹夫:党員票21・議員票31・計52票
望月邦彦:党員票15・議員票21・計36票
過半数に達した候補者はいなかった。
決選投票へ。
アナウンサーが解説を続けていた。
「高道さんが党員票でトップに立ちました。大泉さんは議員票でリードしていましたが、やらせコメント問題の影響が出たとみられます——」
橘はモニターの音量を絞った。
望月が動いたのは、第一回投票の開票が終わった直後だった。
望月派の議員が決選投票で高道に流れる。大林派も同じだった。大林は「満員電車状態」の大泉陣営より、高道陣営に乗った方が後の人事で有利と判断した。
「党員票が一番多い候補に投票せよ」
望月が事前に下した指示の意味が、ここで完全に回収された。
決選投票。
高道早苗:185票
大泉進太郎:156票
モニターの中で、高道が壇上に上がった。
拍手が起きていた。
「新しい時代を刻む——」
橘はモニターを消した。
スマートフォンを手に取った。
望月からメッセージが来ていた。
「今夜、赤坂。来られるか」
橘は返信を打った。
「はい」
その夜。東京・赤坂。
料亭の個室に五人が集まった。
高道早苗。片貝かつき。大泉進太郎。望月邦彦。橘慎一郎。
仲居が料理を運んで、障子を閉めた。
高道が口を開いた。
「望月さん、ありがとうございました」
「いえ」望月は静かに言った。「高道さんが勝てる設計をしただけです」
大泉が苦笑した。
「俺は負け役でしたね。やらせ問題まで出て散々でした」
「想定外でしたか」望月が聞いた。
「正直、あそこまで騒がれるとは思いませんでした」
「でも結果的に保守票が高道さんに流れた。悪くなかった」望月は静かに言った。「大林君も賢い判断をしてくれた」
大泉が頷いた。
「政調会長ポストで手を打ったんですね」
「そういうことです」
大泉は杯を持った。
「で、防衛大臣のポストはお約束通りですね」
「もちろんです」
「分かりました」大泉は一口飲んだ。「本題は何ですか」
望月が橘を見た。
橘が口を開いた。
「80兆円の対米投資についてです」
全員が橘を見た。
「7月23日に日米合意がされました。5500億ドル規模の対米投資支援枠組みです。半導体、AI、造船、重要鉱物——9分野への投資を実行する枠組みです」
片貝が口を開いた。
「利益配分が日本1:米国9という点が問題です。しかも民間主体とはいえ、国際協力銀行と日本貿易保険を通じた財政リスクがある」
「国民に説明できない内容ですね」高道が静かに言った。
「そうです」橘は続けた。「ただし、この枠組みを完全に拒否することはできない。ドランプ政権との関係が壊れます」
「だからどうするんですか」大泉が言った。
「遅延させます」
全員が橘を見た。
「民間企業の投資計画の精査に時間が必要——という建前で、内容の確定をできる限り遅らせます。その間に——」
橘は資料を一枚出した。
「09計画の装備輸出を、造船・AI分野の対米投資枠に組み込みます」
片貝が資料を見た。
「つまり——09計画の産物を、対米投資の名目で米国に売る」
「そうです。三菱グループとJMUが表に出る形で、日本主導のスキームに作り替えます。利益配分も修正できる」
高道が静かに言った。
「ドランプはそれを認めますか」
「認めざるを得ない形にします」橘は静かに言った。「米国が必要としているものを、日本が持っている」
「何ですか」
「造船能力です」橘は続けた。「米国は造船能力が著しく低下しています。海軍艦艇の建造・修繕が追いつかない状態です。日本がその能力を対米投資の枠組みに乗せれば、利益配分の修正交渉ができます」
高道が頷いた。
「米国が必要としているものを、日本が持っている——ということですね」
「そうです。造船、AI制御、防衛装備の量産技術——全部09計画が実証してきたものです。それを実績として示せれば、交渉テーブルでの立場が変わります」
望月が杯を置いた。
「橘君、遅延させる期間はどのくらいですか」
「できる限り長く稼ぎます。その間に09計画の実績を積み上げる」
「目安は」
「状況次第です。ただし造船能力の実績が出た時が、一番交渉力が高まるタイミングです」
片貝が静かに言った。
「財務省として、遅延の理由を作る書類は用意できます」
「お願いします」
大泉が橘を見た。
「防衛大臣として、俺に何をしてほしいですか」
「09計画の存在を、対米交渉の切り札として使う許可をいただきたい」
大泉はしばらく考えた。
「表に出せない計画の存在を、外交の場で使うということですか」
「そうです」
大泉が笑った。
「親父が郵政民営化で散々やってきた手ですね」
橘は答えなかった。
「分かりました」大泉は杯を置いた。「やります」
望月が全員を見回した。
「では方針を確認します。対米投資80兆円の内容確定をできる限り遅延させる。その間に09計画の実績を対米投資の枠組みに組み込む。異存はありますか」
誰も言わなかった。
望月が頷いた。
「よし」
仲居が新しい料理を運んできた。
五人は箸を取った。
料亭の個室に、静かな夜が続いていた。
橘が料亭を出ると、赤坂の夜風が冷たかった。
十月の東京。
スマートフォンに、城島からメッセージが来ていた。
「09式、量産ライン第一号、完成」
橘は返信を打った。
「了解」
もう一通打った。
「頼む。できる限り時間を稼ぐ」
城島から返信が来た。
「何を稼ぐんだ」
橘は答えなかった。
赤坂の夜道を歩いた。
冷めたコーヒーが飲みたかった。




