009.異世界の夜
宿に戻ると、ヴァンはすでに席に着いていた。
机の上には乾いたパンと酒杯。俺を見つけると、片手を軽く上げる。
「おう、遅かったな。魔術組合はどうだった?」
俺は小さく首を振った。
「……ダメだった。やっぱり魔力が放てないと魔道具も起動できないらしい」
ヴァンの表情がわずかに曇る。
「……そうか」
「だけど、講師の人が俺の体質に興味を持ってくれて……また見てもらえることになった」
そう言って、懐から木札を取り出す。
「おお、それはいいじゃねぇか。魔術師なら魔力の流れにも詳しいしな。どれ……」
ヴァンが札を受け取った瞬間、琥珀の瞳が見開かれた。
「おい……これ、間違いねぇか?」
「え……?ああ、間違いないと思うけど」
ヴァンは木札を睨み、低く唸る。
「これは……クラリオン家の紋章だ」
「クラリオン家?」
「一言でいえば――貴族だ。で、その講師の名前は?」
「確か……エドガー・クラリオンって」
その名を口にした瞬間、ヴァンは息を呑んだ。
「エドガーだと……!? クラリオン家の筆頭じゃねぇか!」
「そんなにすごい人なのか?」
「ああ。クラリオン家はノヴァリア王家の分家筋。今でも学術院や魔術師団に強い影響力を持ってる。エドガーは当主を退いたとはいえ、貴族としての矜持も忠誠心も厚い。それに魔術道具の開発にも名を残してる――魔術師なら誰でも知ってる大物だ」
信じられない思いで札を見下ろす。
「……そんな人物が、普通の講義に?」
「ありえねぇよ」
ヴァンは頭をかきむしり、呆れたように笑った。
「お前の稀人としての性質が、それだけ珍しかったんだろうな。悪い話じゃねぇ。下手をすりゃ――強力な後ろ盾になるぞ」
ヴァンの言葉に、わずかな光明が胸に射した気がした。
「……で、ヴァンの方は?」
話題を変えるように尋ねると、彼は懐から小袋を取り出し、机に置いた。じゃらり、と硬貨の音が響く。
「例のラムネ瓶な。思った以上に高くは売れなかったが……金貨五枚だ」
「金貨五枚……!」
思わず目を見開く。宿代どころか、当面の生活費をまかなえる大金だった。
「これでも少ない方だ。脚がつかないように売るとなると、どうしてもな」
そう言いながら、ヴァンはさらに掌を開いた。
そこにはビー玉がひとつ、澄んだ光を宿して転がっていた。
「勝手なことをしたと思うが……中に入っていたこれは売らなかった」
灯りにかざすと、小さな硝子玉は深い奥行きを抱えて、まるで星空を閉じ込めたかのように輝いた。
「魔術組合に行くって聞いてな。これは魔術道具の媒介にすごく使える。売るのは簡単だが、買い戻そうとしたら白金貨が数枚は飛ぶだろう。俺も詳しくは知らんが――完全な球体は“始まりと終わりを司る”とも言われてる」
言葉の意味は理解できない。だが胸の奥に、なぜかその硝子玉が引っかかった。
ただの玩具のはずなのに、触れる指先から確かな重みが伝わる。
「……わかった。ありがとう。金貨五枚でも十分すぎる額だからな」
息を吐き、背もたれに身を預ける。
今日一日で――新たな力の兆しと、貴族との縁、そして当面の資金。
思いもよらぬ道が、少しずつ形を持ち始めていた。
「……まあ、いい流れだな」
ヴァンは酒杯を傾け、口元に笑みを浮かべる。
「明日からが本番だぜ、ミハネ。異能も、魔術も、ぜんぶひっくるめて鍛えていくぞ」
その言葉に、俺は大きくうなずいた。
◆
――その夜。
ヴァンと別れ、宿のベッドに身を投げ出した。
この世界に来てから、初めて迎える夜だ。
長いようで短い一日。
見知らぬ街。
異質な人々。
目の前で繰り広げられた魔法と魔術。
どれもが非日常のはずなのに、今ではすでに「自分のいる場所」として受け入れざるを得なくなっていた。
気づけば、もう“あちら”とは完全に隔てられているのだと、体の奥底で理解していた。
「いまごろ……あっちは、どうしているだろうか」
胸の奥からせり上がってきたのは、結局その思いだけ。
この世界で出会った人々は親切で、興味深く、悪くない。
ヴァンもエドガーも、まだ出会ったばかりなのに頼りになる。
けれど――。
そうした温もりを感じれば感じるほど、むしろ自分の中の“欠落”は大きさを増していった。
まるで、自分の半分をどこかに置き去りにしてきたようで。
どうしようもなく心細い。
頬が濡れていることに、触れて初めて気づいた。
涙が流れていた。
なぜ泣いているのか、自分でもわからない。
帰りたいという切実な願いゆえか。
それとも、この世界でたった一人きりになってしまった孤独のせいなのか。
あちらとこちらでは、常識がまるで違う。
見知らぬ貨幣。
聞き慣れない単語。
魔力という新しい力。
学ぶことは山ほどある。
足を止めている暇はない。
――それでも心のどこかで、ずっと繰り返していた。
帰ること。
それが何よりも大切だ、と。
だが、もし。
もし、この世界で贖罪を果たせるなら。
その可能性を見過ごしてまで帰ることが、本当に正しいのだろうか。
考えれば考えるほど、答えは霧の向こうへと遠ざかっていく。
それでも――心の奥底で、確かに何かが灯っていた。
迷いの中に、ぽつりと浮かぶ。
小さな決意の火種だった。
耳を澄ます。
外からは街のざわめきもなく、虫の音だけがかすかに響いている。
昼間は活気に満ちていた市場や、冒険者の喧騒が広がっていた。
だが夜の帳が降りると、すべてが遠ざかってしまったかのようだ。
窓越しに見える空は、あちらよりも紫が濃く、星々の瞬きが近い。
異世界の夜は、想像以上に静かで――そして綺麗だった。
けれど、その静けさは心を落ち着けてはくれなかった。
むしろ余計に、元の世界を思い出させる。
あのときの笑顔も。
泣き顔も。
抱いた腕の重さも。
全部が、この静寂の中で鮮やかに蘇ってしまう。
胸の奥に残る欠落の痛みと、決して折れない願い。
それを抱きしめるように、俺はゆっくりと目を閉じた。
胸に灯った小さな決意を抱いたまま――。
俺はいつしか、深い眠りへと落ちていった。




