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異世界人間師  作者: 白黒 シろ
1章.初まり街、沈む影
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009.異世界の夜

 宿に戻ると、ヴァンはすでに席に着いていた。

 机の上には乾いたパンと酒杯。俺を見つけると、片手を軽く上げる。

「おう、遅かったな。魔術組合はどうだった?」

 俺は小さく首を振った。

「……ダメだった。やっぱり魔力が放てないと魔道具も起動できないらしい」

 ヴァンの表情がわずかに曇る。

「……そうか」

「だけど、講師の人が俺の体質に興味を持ってくれて……また見てもらえることになった」

 そう言って、懐から木札を取り出す。

「おお、それはいいじゃねぇか。魔術師なら魔力の流れにも詳しいしな。どれ……」

 ヴァンが札を受け取った瞬間、琥珀の瞳が見開かれた。

「おい……これ、間違いねぇか?」

「え……?ああ、間違いないと思うけど」

 ヴァンは木札を睨み、低く唸る。

「これは……クラリオン家の紋章だ」

「クラリオン家?」

「一言でいえば――貴族だ。で、その講師の名前は?」

「確か……エドガー・クラリオンって」

 その名を口にした瞬間、ヴァンは息を呑んだ。

「エドガーだと……!? クラリオン家の筆頭じゃねぇか!」

「そんなにすごい人なのか?」

「ああ。クラリオン家はノヴァリア王家の分家筋。今でも学術院や魔術師団に強い影響力を持ってる。エドガーは当主を退いたとはいえ、貴族としての矜持も忠誠心も厚い。それに魔術道具の開発にも名を残してる――魔術師なら誰でも知ってる大物だ」

 信じられない思いで札を見下ろす。

「……そんな人物が、普通の講義に?」

「ありえねぇよ」

 ヴァンは頭をかきむしり、呆れたように笑った。

「お前の稀人としての性質が、それだけ珍しかったんだろうな。悪い話じゃねぇ。下手をすりゃ――強力な後ろ盾になるぞ」

 ヴァンの言葉に、わずかな光明が胸に射した気がした。


「……で、ヴァンの方は?」

 話題を変えるように尋ねると、彼は懐から小袋を取り出し、机に置いた。じゃらり、と硬貨の音が響く。

「例のラムネ瓶な。思った以上に高くは売れなかったが……金貨五枚だ」

「金貨五枚……!」

 思わず目を見開く。宿代どころか、当面の生活費をまかなえる大金だった。

「これでも少ない方だ。脚がつかないように売るとなると、どうしてもな」

 そう言いながら、ヴァンはさらに掌を開いた。

 そこにはビー玉がひとつ、澄んだ光を宿して転がっていた。

「勝手なことをしたと思うが……中に入っていたこれは売らなかった」

 灯りにかざすと、小さな硝子玉は深い奥行きを抱えて、まるで星空を閉じ込めたかのように輝いた。

「魔術組合に行くって聞いてな。これは魔術道具の媒介にすごく使える。売るのは簡単だが、買い戻そうとしたら白金貨が数枚は飛ぶだろう。俺も詳しくは知らんが――完全な球体は“始まりと終わりを司る”とも言われてる」

 言葉の意味は理解できない。だが胸の奥に、なぜかその硝子玉が引っかかった。

 ただの玩具のはずなのに、触れる指先から確かな重みが伝わる。

「……わかった。ありがとう。金貨五枚でも十分すぎる額だからな」

 息を吐き、背もたれに身を預ける。

 今日一日で――新たな力の兆しと、貴族との縁、そして当面の資金。

 思いもよらぬ道が、少しずつ形を持ち始めていた。

「……まあ、いい流れだな」

 ヴァンは酒杯を傾け、口元に笑みを浮かべる。

「明日からが本番だぜ、ミハネ。異能も、魔術も、ぜんぶひっくるめて鍛えていくぞ」

 その言葉に、俺は大きくうなずいた。


 ◆

 

 ――その夜。

 ヴァンと別れ、宿のベッドに身を投げ出した。

 この世界に来てから、初めて迎える夜だ。

 長いようで短い一日。

 見知らぬ街。

 異質な人々。

 目の前で繰り広げられた魔法と魔術。

 どれもが非日常のはずなのに、今ではすでに「自分のいる場所」として受け入れざるを得なくなっていた。

 気づけば、もう“あちら”とは完全に隔てられているのだと、体の奥底で理解していた。

「いまごろ……あっちは、どうしているだろうか」

 胸の奥からせり上がってきたのは、結局その思いだけ。

 この世界で出会った人々は親切で、興味深く、悪くない。

 ヴァンもエドガーも、まだ出会ったばかりなのに頼りになる。

 けれど――。

 そうした温もりを感じれば感じるほど、むしろ自分の中の“欠落”は大きさを増していった。

 まるで、自分の半分をどこかに置き去りにしてきたようで。

 どうしようもなく心細い。

 頬が濡れていることに、触れて初めて気づいた。

 涙が流れていた。

 なぜ泣いているのか、自分でもわからない。

 帰りたいという切実な願いゆえか。

 それとも、この世界でたった一人きりになってしまった孤独のせいなのか。

 あちらとこちらでは、常識がまるで違う。

 見知らぬ貨幣。

 聞き慣れない単語。

 魔力という新しい力。

 学ぶことは山ほどある。

 足を止めている暇はない。

 ――それでも心のどこかで、ずっと繰り返していた。

 帰ること。

 それが何よりも大切だ、と。

 だが、もし。

 もし、この世界で贖罪を果たせるなら。

 その可能性を見過ごしてまで帰ることが、本当に正しいのだろうか。

 考えれば考えるほど、答えは霧の向こうへと遠ざかっていく。

 それでも――心の奥底で、確かに何かが灯っていた。

 迷いの中に、ぽつりと浮かぶ。

 小さな決意の火種だった。

 耳を澄ます。

 外からは街のざわめきもなく、虫の音だけがかすかに響いている。

 昼間は活気に満ちていた市場や、冒険者の喧騒が広がっていた。

 だが夜の帳が降りると、すべてが遠ざかってしまったかのようだ。

 窓越しに見える空は、あちらよりも紫が濃く、星々の瞬きが近い。

 異世界の夜は、想像以上に静かで――そして綺麗だった。

 けれど、その静けさは心を落ち着けてはくれなかった。

 むしろ余計に、元の世界を思い出させる。

 あのときの笑顔も。

 泣き顔も。

 抱いた腕の重さも。

 全部が、この静寂の中で鮮やかに蘇ってしまう。

 胸の奥に残る欠落の痛みと、決して折れない願い。

 それを抱きしめるように、俺はゆっくりと目を閉じた。

 胸に灯った小さな決意を抱いたまま――。

 俺はいつしか、深い眠りへと落ちていった。


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