086.ただのフェルシオンとして
カップから立つ湯気が、ゆっくりと細く揺れた。
それを合図にしたかのように、フェルシオンは一度だけ息を整える。
「ミハネも、私が冒険者になるとは思わなかっただろう?」
そう言って、胸元の無紋札へと視線を落とす。
からかうほど軽くはないが、少しだけ反応を窺うような口調だった。
「ああ。正直、驚いたよ」
少し間を置いてから、続ける。
「冒険者になったことじゃない。魔法組合を辞めたことに、だけどな」
フェルシオンは一瞬、目を瞬かせた。
「魔法組合を辞めたのは、つい昨日のことだが、よく知っていたな」
「俺も、お前に会いに行こうとしてたんだ」
カップを指で押し、机の上でわずかに位置を直す。
「冒険者組合に行く前に、魔法組合と……それから、ここにも寄った」
「なんだ、行き違いだったか」
そう言ってから、首を傾げる。
「だが、この場所もよく分かったな。屋敷を出たばかりだったから、魔法組合の帳簿にも載っていなかったはずだが」
「それはな」
俺は苦笑し、少しだけ視線を逸らした。
「フェルシオンを呼び出したつもりが、バイザード様が出てきた」
その名を聞いた瞬間、フェルシオンの表情がわずかに引き締まる。
「お前がここを辞めた理由が何なのか、その真意が、どこにあるのか……知りたがってたよ」
フェルシオンは何も言わない。
ただ、指先が冒険者札に触れたまま、静止する。
「ちゃんと話しておけよ。師匠なんだろ」
「……バイザード様に会ったのか」
フェルシオンは一瞬だけ視線を伏せ、苦笑に近い息を吐いた。
「まあ、少し話しづらくてな。魔法よりも冒険者という道を選んだこと、それと……我が家のことも、少なからず絡んでいるからな」
家のこと。
その言葉に、胸の奥で引っかかっていたものを思い出す。
「そうだ。それが聞きたかった」
俺は身を乗り出す。
「下水道の一件で責任を取らされたとは聞いたけど、管理自体は、商業組合にも任せてたよな?」
フェルシオンは少し考えるように、カップを手に取った。
一口含み、ゆっくりと置いてから、語り出す。
「お互いに下水の後始末をつけようと別れてから、私はアークレイン家へと戻った。
一連の事件の流れと、その規模。そして、それを解決したことを、家族に報告した」
淡々とした口調だが、言葉は重い。
「祝祭の前日というのもあり、国にも報告を上げる必要があった。
本来なら、そこで私の役目はほぼ終わるはずで、褒美にせよ、罰にせよ……大したものにはならないだろうと、そう思っていた」
だが、と。
そこで言葉が一瞬だけ止まる。
「商業組合との話し合いが、すでに家にも届いていたようでな、聖女が絡んでいる件だと伝わっていたようだ」
その言葉に、胸の奥がわずかに冷えた。
俺が最後に口にした――アルシエルとルミエルの名。
それが、アークレイン家にまで届いていた。
「そこで兄が逸った。
この件の解決に尽力した者が表に立てば、教会からの覚えも良くなる。アークレイン家として、大きな手柄になるとな」
嫌な予感が、背中を這う。
「結果として——」
フェルシオンは、静かに続けた。
「今回の一件は、王国としては『光の祝祭を救った功績』として扱われた。
解決したのは、アークレイン家。だが、その手柄は兄のものになった。
そして。
起きた管理責任や諸々の後始末だけが、私の役目になった。……そういう顛末だ」
胸の奥が、じわりと冷える。
俺は、無意識に顔が固まっていくのを感じていた。
「それは……フェルシオンが三男だからか? そんな扱い、普通なのか……?」
問いかけながら、ふと視線が横へ逸れた。
壁際に控えるムイの手。重ねられた指先が、白くなるほど強く握りしめられている。
表情は変わらない。
だが、その手だけが、彼女が何を思っているのかを雄弁に物語っていた。
「三男というのもある」
フェルシオンは否定しなかった。
「それに、魔法組合での立場もあるだろう。貴族も多く所属している魔法組合の中で、バイザード様の覚えが良い、という点もな」
自嘲するように、肩をすくめる。
「実家を継ぐ立場ではないとは、私は思っている。だが、兄たちはそうは思っていない。父も……三男が家を継ぐよりは、という考えだろう」
「……そう、なのか」
言葉が、重く落ちる。
だが不思議なことに、フェルシオンの表情はどこか晴れていた。
「勘当されたわけではない。貴族としても、魔法組合での地位も、以前のままだ」
そう前置きしてから、静かに言う。
「ただ、思ったのだ。そうして生き続けることに、どんな価値があるのかと」
視線が、冒険者札へ落ちる。
「手柄を横取りされたことなど、どうでもいい。責任も、ある程度は私の管轄だ。仕方がない」
だが、と。
「そうして力をつけていく兄たちの隣で。私は、何ができるのだろうかと」
声は低く、しかし揺れていない。
「貴族としての役割は与えられていた。それが誇りでもあり責務でもあった。
だが今の私は、ただの装置ではないかとすら思う。そこに、私自身の意思はあるのか、と」
そして、少しだけ息を吐く。
「魔法組合に残っていても、同じだろう。下水の一件が、それをはっきりさせた。
魔法を研究しても、それを使う場がない。誰かを救うために、直接手を伸ばすこともできない」
フェルシオンは、俺を見る。
「私はずっと、用意された正解の上を歩いていた。間違えない代わりに、確かめることができなかった。
守られている場所にいる限り、私は“責任”を、自分のものとして背負えない。だから、ここに来た」
フェルシオンは、冒険者組合の方向を思い描くように視線を流した。
「命と選択が、すべて自分に返ってくる場所で、自分が何者なのかを、確かめたかった。
言葉を選び、はっきりと告げる。
「貴族ではなく、肩書きでもなく、一人の人間として、ただのフェルシオンとして冒険者になりたいと思った」
部屋に、静かな沈黙が落ちる。
それは重苦しいものではなく、ようやく言葉になった決意が、そこに腰を下ろしたような間だった。
俺はカップを置き、ゆっくりと言う。
「……らしい理由だな」
フェルシオンは一瞬、言葉を探すように視線を泳がせた。
すぐに何かを返すわけでもなく、ただ小さく息を吐く。
「そう言われると……少し、肩の力が抜ける」
少し照れたような、だが安堵したような声音だった。
俺は肩をすくめる。
「逃げでも、勢いでもない。ちゃんと考えた結果だろ。なら、俺はその気持ちを尊重するよ」
フェルシオンは、無紋札に触れたまま、しばらく黙っていた。
「……そうか」
そして、わずかに目を細める。
「……ありがとう」
「バイザード様からも、面倒を見てやってくれって言われてるよ。言われるまでもないけどな」
そう言いながら、懐へ手を入れる。
指先に触れた冷たい感触を、そのまま掌へ移す。
「……こんなものも、もらっちゃったし」
バイザードから託された魔石を、そっと見せる。
淡い光を宿した空色が、居間の静けさの中で息づいていた。
「それは……」
フェルシオンは一瞬、言葉を失う。
「また、随分なものをもらったな」
そして、次の瞬間には、ふっと力の抜けた笑みを浮かべた。
まだまだ拙い部分も多い作品ですが、
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いつも読んでくださり、ありがとうございます。
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