085.そば付き侍女
貴族区を抜け、石畳の色が馴染みのあるものに変わっていく。
人の気配も、歩く足取りも、どこかせわしなくなる。
通りの先に見えてきたのは、見慣れた冒険者組合の建物。
魔法組合の整然とした佇まいとは対照的に、こちらは人の出入りが絶えず、扉の前では鎧の擦れる音や、笑い声、時折荒っぽい言葉が飛び交っている。
木製の扉を押し開けると、途端に熱気と喧騒が押し寄せてきた。
「次の依頼、何行く?」
「この報酬安すぎだろ!」
「酒! 仕事終わりの酒だ!」
馴染みのある空気。
魔法組合とは違う、命の匂いと生活の匂いが入り混じった場所だ。
俺は視線を巡らせながら、人混みの中へ足を踏み入れた。
――フェルシオンは、どこだ。
そのとき、視界の端に引っかかる影があった。
掲示板の前。 一人だけ、妙に背筋の伸びた立ち姿。
黒を基調とした外套。
装飾は控えめだが、仕立ての良さは隠しきれていない。
冒険者組合の雑多な空気の中で、どうしても浮いて見える。
フェルシオンがそこにはいたが、様子がおかしい。
彼の横には数人の冒険者が寄り添うように立ち、何やら話しかけている。
絡まれている――と断じるほど荒っぽくはないが、距離が近い。
フェルシオンの表情も、判断に迷っているような、微妙な困惑を浮かべていた。
俺は一瞬、昔の自分を思い出す。
無紋だった頃、ガルドに訓練場で絡まれた場面。
それを懐かしみながら、体が動いた。
フェルシオンの前へ踏み出し、軽く割って入る。
「ちょっと待った」
声を荒げることはしなかった。
ただ一歩、前に出る。その動きだけで、周囲の視線が俺に集まるのがわかる。
「何新人に絡んでるんだ。見ない顔だからって、やっかむのは感心しないぞ。痛い目を見る」
言葉を落とすと、冒険者たちの視線が互いに揺れた。
一瞬、距離が空き、俺はそのまま、フェルシオンを見る。
――あとは任せておけ。というように。
「ミハネ……?」
フェルシオンは、掲示板から俺へ視線を移し、わずかに目を見開いた。
予想していなかった、という表情。
「いや、絡まれていたわけではなくてな……」
言葉が途中で止まる。
説明を探すように、視線が一度、宙を彷徨った。
その横で、冒険者の一人が気まずそうに頭を掻いた。
「ああ、いや。やっかみってわけじゃないんだ」
「え……?」
話を聞いてみれば、拍子抜けするほど単純だった。
無紋で、身なりがいい。
掲示板の突っ立っていれば、目を引かないはずがない。
――新しく登録した、身分の良さそうな人物。
もし貴族なら、魔法に長けている者も多い。
なら、今のうちに声をかけて、パーティに引き入れておこう。
そういう算段だったらしい。
「まあ……仲間内に誘おうとしてただけでな」
苦笑混じりの声が続く。
「唾をつけてたって言えば、絡んでたように見えたかもしれないが」
俺は小さく息を吐き、肩の力を抜いた。
「なるほど。俺の早とちりだったな。すまなかった」
張りつめていた空気が、ようやく緩む。
フェルシオンも、ほっとしたように、わずかに息を吐いていた。
そうして誤解は解け、その場は自然と解散する流れになった。
「じゃあな。また気が向いたら、考えておいてくれや」
「気が変わったら、声かけてくれりゃあいい」
軽い言葉を残し、数人の冒険者は人混みへと戻っていく。
喧騒に紛れていく背中を見送り、気づけばその場に残ったのは、俺とフェルシオンだけだった。
「……助かった」
フェルシオンが、苦笑い気味に言う。
さっきまで張っていた気が、少しだけ緩んだような表情だった。
「自分で対処できたかもしれないが、正直、どう切り返すべきか迷っていた」
「まあ、助けになったならよかったよ」
一度だけ肩をすくめる。
「というか、フェルシオンに会うためにあちこち回ってさ。まさか、ここに来てるとは思わなかった」
「ああ。私もミハネに会おうと思って、ここに来たんだが……居なかったからな」
少し気まずそうに視線を逸らし、続ける。
「来るまでの間に、先にやりたいことだけ済ませておいた」
そう言って、フェルシオンは首から下げた冒険者札にそっと手を添えた。
無紋。
まだ何者でもない証。
だが、その仕草には、どこか誇らしさが滲んでいる。
「じゃあ、その話。詳しく聞かせてくれよ」
「……ああ。ぜひ、聞いてほしい」
そう答えたフェルシオンは、周囲を一度見回し、少しだけ頬を掻いた。
この場所で話すには、視線が多すぎる。
「落ち着いて話せる場所に、移らないか」
「だな」
そうして俺たちは連れ立って歩き出し、冒険者組合を後にした。
◆
再び足を踏み入れたのは、貴族区の外れ。フェルシオンの家だった。
派手さはないが、手入れの行き届いた佇まい。
玄関をくぐると、先ほど応対してくれたメイドがすぐに姿を現した。
背筋を正し、迷いのない所作で一礼する。
「お帰りなさいませ、フェルシオン様」
メイドは一礼してから静かに視線を上げ、その動きに迷いはなく、俺の姿を確認すると、ほんの一瞬だけほんのわずかに目を見開いた。
「ただいま戻った。
ムイ、この者は私の友人で、ミハネという。
ミハネ、こちらは私のそば付きの侍女のムイだ。何かあったら、遠慮なく頼ってくれ」
フェルシオンは落ち着いた声でそう告げる。
「ご紹介にあずかりました」
そう言って、彼女――ムイはあらためて俺へ向き直った。
「フェルシオン様のおそば付き侍女を務めております、ムイと申します。どうぞお見知りおきください」
無駄のない、洗練された挨拶だった。
長くフェルシオンに仕えてきたのだと、一目でわかる。
「はい。ミハネって言います。よろしくお願いします」
「ミハネ様」
ムイは柔らかく微笑みながら続ける。
「ミハネ様は、フェルシオン様とご懇意にされているご様子ですので、もしよろしければ、私への敬語はおやめください」
「あー……分かりま……」
一度言いかけて、言い直す。
「わかった」
ムイは小さく頷き、わずかに口元を緩めた。
ムイは一歩だけ身を引き、控えめに身を翻した。
先に立つが、決して急がない。
こちらの歩調を自然と測っている歩き方だった。
「こちらへどうぞ」
短くそう告げ、廊下を進む。
足音は静かで、家そのものと同じく、余計な主張がない。
案内されたのは、居間だった。
広すぎず、しかし窮屈でもない。
壁際には書棚と小さな飾り棚、中央には低めの机と椅子。
人が腰を落ち着け、言葉を交わすための部屋だった。
「すぐにお茶をお持ちします」
ムイはそう言って一礼し、部屋を出ていく。
俺は椅子に腰を下ろし、室内を見回した。
「派手じゃないけど、落ち着くいい家だな」
「急ごしらえの家ではあるがな」
フェルシオンは苦笑し、向かいの椅子に腰を下ろす。
「元々は、アークレイン家の屋敷に住んでいた。だが、そこを出てな」
一度言葉を切り、視線を室内へ巡らせる。
「ここは、私が選んだというより……ムイが整えてくれた家だ」
その名を口にしたとき、声音がわずかに柔らいだ。
「へぇ、そうなのか」
「彼女には、随分と世話になっている。子供のころからそば付きでな。
家を出ると決めたときも、一人でいいと言った私に、ついて来てくれた」
申し訳なさと、確かな感謝。
その両方が、表情の奥に滲んでいた。
そのとき、扉が静かに開き、ムイが盆を手に戻ってきた。
湯気の立つ茶器を机に並べ、二人分のカップを置く。
動きは簡潔で、音を残さない。
すべてを終えると、一歩下がった。
「ムイ。少し、話をする」
「承知いたしました」
即答だった。
ムイは壁際に控え、静かに視線を伏せる。
聞くべきときと、口を挟まぬときを完全に心得た立ち姿。
そこには迷いも誇示もなく、ただ役割を果たす覚悟だけがあった。
本物のメイドとは、こういう人間を言うのだと——
思わず、そんな感慨すら覚える。
「では、改めて話をしようか」
「ああ。色々、聞きたいことがあった」
湯気の向こうで、フェルシオンの目は揺れていない。
この家で、この距離で語られる言葉は、きっと軽くない。
俺はカップに手を伸ばし、小さく頷いた。
「聞かせてくれ」
冒険者組合の喧騒とは切り離された、静かな場所で。
フェルシオンが選んだ道の話は、ゆっくりと始まろうとしていた。




