083.魔法の使い道
扉の内側は、外観から受けた印象よりもずっと落ち着いていた。
高い天井から差し込む自然光が、床の文様を淡く照らしている。
音は控えめで、紙をめくる音や、低く抑えた会話が反響することなく吸い込まれていく。
受付らしきカウンターの前では、数人の魔法使いが手続きをしていた。
いわゆる“魔法使い然”とした風体というより、貴族の客人に近い装いの者が多い。
冒険者の荒さとも、魔術組合の緊張感とも違う、どこか余裕を帯びた空気。
ここでは力を誇示する必要すらないのだと、無言で示されているようだった。
視線を巡らせると、壁際には系統別の案内板や、整然と並んだ依頼書。
冒険者組合のような喧騒も、魔術組合のような張り詰めた空気もない。
すべてが管理されているという印象だけが残る。
カウンターに近づくと、向こう側にいたのは銀縁の眼鏡をかけた若い受付係だった。
穏やかな表情だが、その視線には人を見極める冷静さがある。
「ご用件をお伺いします」
俺は一瞬だけ言葉を選び、口を開いた。
「フェルシオンという魔法使いに用があって来ました。この組合に所属していると聞いたんですが……今日は在席していますか?」
受付係はわずかに眉を動かし、手元の帳簿に視線を落とす。
羽根ペンがさらりと走り、数ページがめくられる。
「フェルシオン・アークレイン様ですね……少々お待ちください」
そう言ったあと、彼女は一瞬だけ言葉を探すような間を置き、受付の奥へ視線を向けた。
その先には、一般の立ち入りが制限されているらしい通路が伸びている。
次の瞬間、受付係は静かに魔法を紡ぎ始めた。
「蝶は語り声は調べとなる
風に溶け壁を越え迷わずそのもとへ
光よ薄き羽となり名を呼ぶ声を抱いて舞え――《蝶幻調》」
詠唱が終わると、指先に淡い光が集まり、一羽の蝶の形を結ぶ。
半透明の羽が、わずかに震えながら脈打っていた。
アルシエルやルミエルがくれた、声を届けるための魔道具。その魔道具の原型になった魔法だ。
受付係はその蝶に小さく囁きかける。
次の瞬間、光の蝶は迷いなく宙へ舞い上がり、受付の奥へと吸い込まれていった。
それから、しばらくの沈黙が流れた。
周囲の気配は変わらない。ただ、返事を待つ時間だけが、静かに積み重なっていく。
やがて——
奥の通路から、一人の男が姿を現した。
現れたのは、フェルシオンではなかった。
どこかで見たことのある顔。魔法組合の老魔導師だ。
深紅の、仕立ての良い外套を羽織り、長い白髭を指先で軽く撫でながら歩いてくる。
その足取りには一切の無駄がない。
理知的でありながら、血色を失ったように淡い——それでいて、底の見えない眼差し。
その視線がこちらを捉えた瞬間、空気がわずかに張り詰めた。
「初めまして……ではないな」
男は穏やかな口調で、そう切り出した。
「私はこの魔法組合で副組合長を務めている。バイザード・メルクリウスだ」
——以前、五勢力会議に参加していた、魔法組合の代表者。
副組合長という肩書きを聞き、俺は一歩だけ姿勢を正す。
「直接お話しする機会はありませんでしたが……初めまして。狼紋の冒険者、ミハネと申します」
バイザードは短く頷き、こちらを測るように一瞥する。
それから奥の通路へと視線を向けた。
「来なさい。少し話そう。私のほうにも、君に聞いておきたいことがある」
その言葉に、俺は小さく息を吐き、黙って頷いた。
◆
受付の奥へと続く通路を進み、バイザードに導かれるまま、一つの扉の前で足が止まった。
装飾は控えめだが、扉そのものは厳重に施錠されており、施された魔力の気配が、ここが組合の中枢に近い場所であることを静かに告げている。
バイザードが指先で軽く扉に触れると、鍵を回す音もなく、重厚な扉が音も立てずに開いた。
中は、思っていたよりも簡素だった。
広い部屋ではあるが、過剰な調度はない。
壁一面に並ぶ書棚には年代の異なる本が整然と収められ、天井近くまで積み上げられている。
部屋の中央には、大きな執務机と、向かい合うように二脚の椅子。
窓は高い位置に一つだけあり、外光が柔らかく差し込んでいる。
どこか、研究室と執務室の中間のような空間だった。
「掛けなさい」
バイザードは机の向こうへ回り、自分の椅子に腰を下ろした。
その一連の動きには、長年この場所で人を迎え、裁いてきた者の自然な重みがある。
俺も促されるまま、対面の椅子に腰を下ろした。
「さて。君がここを訪ねてきた理由は、フェルシオンだと聞いている」
真正面から、逃げ場のない視線が向けられる。
「君とフェルシオンは、どういう関係かな?」
声は低く、穏やかだ。問い詰める調子ではない。
だが、その分、曖昧な答えは許されないとわかる。
「狼紋の冒険者、ミハネ。以前、王都を揺るがした事件の解決に深く関わった人物だ」
バイザードは指を組み、淡々と続けた。
「その事実を知る者は、決して多くない。だからこそ聞きたい。君が“何者なのか”。
そして、フェルシオンとどういう関係なのかをね」
この人物がフェルシオンとどのような関係にあるのかは、正直わからない。
だが、ここで隠し立てをする理由もなかった。
「俺とフェルシオンの関係は……そうですね。友人――いや、仲間です」
「ほう……」
「ほんの少し前のことです。光の祝祭の前、庶民街で飲み水が汚染される事件がありました――」
そう前置きしてから、俺は語り始めた。
管轄であったアークレイン家の人間としてフェルシオンが動き、俺と共に下水道へ潜り、事件の核心へ踏み込んだこと。
命の危険が隣り合わせの状況で、互いの背中を預け、死線を越えたこと。
簡潔に、だが誤魔化すことなく説明を終えた。
話を聞き終えたバイザードは、深く椅子にもたれ、長い息を吐く。
「ああ……そうか。今なら理解できる」
低く、独り言のような呟き。
「どうしてフェルシオンが、ここを出ていったのかが……」
その言葉に、俺は思わず聞き返していた。
「……フェルシオンが、出ていった?」
「うむ。君には、伝えておくべきだろう」
バイザードは静かに頷く。
「光の祝祭の日だ。フェルシオン本人から申し出があってね。魔法組合を脱退したい、と」
「……っ」
「当然、私は引き留めた。あやつは魔法組合の中でも指折りの魔法使いであり、私の直弟子でもある」
その言葉に、胸の奥が少しざわつく。
「フェルシオンは……バイザード様に比べれば短い付き合いでしたが、本当に魔法が好きなやつでした。
そんなあいつが、研究の場でもある魔法組合を抜けるなんて……」
「君の言う通りだ」
バイザードは静かに肯定した。
「あやつは常に魔法の鍛錬を怠らず、文献を集め、研究に没頭していた。
魔法組合内での評価も高く、君にもわかりやすいように言えば、冒険者組合で言えば鳳紋の地位――そして、いずれは竜紋の地位にすら届き得る存在だった」
淡々とした口調の中に、確かな誇りが滲む。
「この魔法組合において、超越魔法を扱える者など数えるほどしかいない。フェルシオンは、その数少ない一人だった」
そして、わずかに目を伏せる。
「……しかし、だからこそ、なのだろう」
「だからこそ……?」
「君にも話していたかもしれないが、フェルシオンは常々、嘆いていた。実戦で魔法を使う機会が、あまりにも少ない、と」
バイザードはゆっくりと言葉を選ぶ。
「権威の象徴としての魔法組合では、依頼の多くは講師や顧問、研究補助といったものに留まる。
冒険者組合のように、魔物と相対し、命を賭けて魔法を振るう場は……存在しない」
それは、フェルシオンが何度も口にしていた不満だった。
「魔法を“守る力”として扱う場所と、魔法を“生きるための力”として振るう場所。あやつは……後者を選んだのだろう」
その言葉を受けて、俺の中にひとつ疑問が浮かぶ。
「……鳳紋ほどの地位にいたのなら、脱退までする必要はなかったんじゃないですか。
冒険者組合と兼任する、という形では駄目だったんでしょうか」
バイザードは、すぐには答えなかった。
指先を組み直し、視線を机の一点に落とす。
「兼任するだけであれば、制度上は問題なかった。だが……今回は、それだけでは済まなかったのだ」
低く、慎重な声。
「君が話してくれた、庶民街の水質汚染事件。
あれは、解決した“結果”だけを見れば称賛されるべき事案だ。だが、貴族社会は結果だけを見ない」
バイザードは、淡々と現実を語る。
「管理責任だ。
あの区画はアークレイン家の管轄だった。未然に防げなかったこと。
そして、一歩対応が遅れていれば、光の祝祭そのものが中止になりかねなかったこと。
——それ自体が問題だと判断された」
「……解決できたから良い、ではなかったと」
「そうだ。
“起きてしまった”のではない。
“起きうる状態だった”ことが、罪とされた」
わずかに、苦いものを噛みしめるような間が落ちる。
「いかに魔法組合で高い評価を得ていようと、アークレイン家におけるフェルシオンの立場は三男。
決して高いものではない。ゆえに……責任を取らされる役回りになったのだろう」
バイザードは一度、言葉を切った。
「それだけなら、魔法組合を辞める必要はなかった。私は、そう思っていた」
俺は、静かに頷く。
「……今回の経験が、フェルシオンの中で決定打になった、ということですね。
魔法組合を辞めてでも、やりたいことが見つかった」
「うむ」
バイザードは、はっきりと肯定した。
「研究室に籠もり、理論を磨くだけではない。
自分の魔法で人を救い、世界を見て、命のやり取りの中で魔法を使う。
それが、今のフェルシオンの望みなのだろう」
その声には、止められなかった悔いと、止めなかった覚悟の両方が滲んでいた。
「……君と出会ったことも、無関係ではあるまいな」
静かに向けられた視線が、俺を捉える。
「君は、あやつに“魔法の使い道”を見せてしまった。
研究でも、権威でもない——生き方としての魔法を、だ」
部屋の空気が、再び静かに張りつめた。




