080.遠くの街や国
アルシエルの言葉に、俺はカップをひと口ついてから答えた。
珈琲の苦味が舌に残り、ほんの少しだけ間が空く。
「まあ、それは否定しないけどな。確かにノルンには色々案内してもらったし、ノルンがいなかったら見られなかった景色があったのも本当だ。
でも、それだけじゃない。祝祭の裏で動いていた二人や、ほかにもたくさんの人がいてこそだと思ってる」
そう言うと、アルシエルはスプーンを止め、少しだけ眉を寄せた。
「……逃げた?」
冗談めいた口調なのに、目だけは鋭い。
その空気を、ふわりと和らげるように。
ルミエルがアルシエルの方を向いて、にこりと微笑んだ。
「アルシエルは……嫉妬しているんですよね」
穏やかな声。けれど、迷いのない断言だった。
「私も、一緒にミハネさんと過ごしたかったな、と」
「ルミエル!?」
思わず声を上げたアルシエルが、慌ててこちらを見る。
頬にさっと朱が差し、視線が落ち着かない。
けれどルミエルは、そんな反応も気に留めず、ゆっくりと言葉を続けた。
「でも……それは、私も同じかもしれません」
カップに添えた指先が、わずかに力を帯びる。
「以前、ミハネさんが話してくださった物語の中にもある、特別な日に、特別な人と一緒に過ごすお話」
ルミエルは目を伏せ、静かに息を整える。
「それができたら……どれほど嬉しいことでしょう」
声は小さい。
けれど、その一言には、飾りのない本音が込められていた。
アルシエルは一瞬言葉を失い、ぷいっとそっぽを向く。
「……ずるいわよ、ルミエル。そういうの、先に言うの」
拗ねたように呟きながらも、否定はしなかった。
「あーあ。私たちも祭事のお役目がなかったら、ミハネと一緒に回れたのに」
「一緒に回ってたら、それはそれで目立って仕方ないだろ」
「それも……そうね」
アルシエルは納得したように頷きながらも、どこか名残惜しそうに視線を泳がせる。
「でも、どこか別の場所でならいいじゃない。私たちのことを知らない人が多いところで、普通に楽しむとか」
そう言いつつ、ちらちらとこちらを窺う視線を送ってくる。
「ミハネさん。今回で、前にノルンとお話していた“二人で出かける”という約束は果たせたんでしょうか?」
少しだけ言葉を選びながら、ルミエルが問いかけてくる。
「ああ。王都の外までは出てないけど……まあ、外へ連れて行くのは難しいしな。代わりとしては、果たせたと言っていいと思う」
すると、アルシエルがすぐに食いついた。
「何よそれ。いつの間に、そんな約束までしてたの?」
「冒険者として色々聞かれたときにな。外の世界を見てみたいって言われてさ」
アルシエルはふうん、と小さく頷く。
「まあ、気持ちはわからなくもないわね。私たちもそうだけど、修道女は特に外に出づらいもの。魔物もいるし、戦う術がなければ余計に。
それこそ、冒険者に守ってもらうとか、ね」
そう言って、意味ありげにこちらを見る。
その横で、ルミエルが珍しく言葉を探しているようだった。
指先をそっと重ね、少し逡巡してから、静かに口を開く。
「私は……目が見えません。人よりも歩くのも遅いです」
一度、息を整える。
「誰かに導いてもらわなければ、安全に道を歩くこともできません」
それでも、と続ける声は震えていたが、逃げていなかった。
「そんな私ですが……もし、もしミハネさんがそれでもいいと言ってくださるなら。
私も……外の世界へ、一緒に連れて行っていただけませんか?」
真正面から向けられたその問いに、俺は迷わなかった。
「もちろん。いいよ」
少し震えている彼女の手を安心させるように、そっと自分の手を重ねる。
「……っ」
ルミエルが小さく息を呑んだ、その瞬間。
「ちょっと!」
勢いよく声を上げたのはアルシエルだった。
「ルミエル? 私のことは? まさか忘れてないわよね」
じっと俺を睨みつける。
「ミハネも!」
その視線に、思わず笑みが漏れた。
「忘れるわけないだろ。二人ともだ」
「最初からそう言いなさいよ」
アルシエルはむっとしながらも、どこかほっとしたように肩の力を抜いた。
「まあ、でもミハネが連れて行ってくれるなら行きたいところは色々あるわ。
各地の巡礼で少し外へは出たことあるけど、遠くの街や国までは行ったことないもの」
そう言って、アルシエルは指先でカップの縁をなぞりながら続けた。
「たとえば水都連邦。
街中に水路が張り巡らされていて、移動は小舟が当たり前なんだって。
年に一度だけ、“天映の水位”と呼ばれる日があって、その日は水が一斉に満ちるの」
アルシエルは目を細め、楽しげに続ける。
「空と水面が同じ色になって、どこからが下で、どこからが上なのかわからなくなるらしいわ。
建物も舟も、全部が宙に浮いているみたいに見えるんだって」
「その日ばかりは道が消えてしまうので、灯を水に浮かべて、自分が帰るべき場所を探すそうです」
ルミエルが静かに言葉を添えた。
「……きっと、音や気配だけでも、とても綺麗なのでしょうね」
「……帰るべき場所、か」
俺が思わずそう呟くと、ルミエルは間を置かず、次の話を紡いだ。
「神樹の国という場所にも、似たように年に一度だけ許される日があります」
その声は穏やかで、自然と敬意を帯びていた。
「国の中心に、神そのものと呼ばれる大樹があり……普段は外から祈ることしかできませんが、決められた日だけ、その神樹の中に入ることができるそうです」
「樹の中に……?」
「はい。幹の内側には広大な空間があって、外の音も光も遮られているのに、なぜか明るく、暖かいのだとか。
そこで神の声を聞いたという人もいれば、ただ静けさに包まれて、涙が止まらなくなったという人もいるそうです」
ルミエルはそっとカップに指を添えた。
「何かを見る、というより……自分自身の祈りと向き合う日なのかもしれません」
「それから、潮歌の国。
島々が点在していて、潮の満ち引きで道が現れたり消えたりする国よ」
アルシエルは、指先で円を描くようにして続ける。
「年に数回、干潮のときだけ海底から石の道が浮かび上がるの。
国の人たちは、その道を渡って島から島へ移り、好きな島で暮らすんですって」
「干潮のときしか辿り着けない島もあるらしく、その時間に合わせて歌いながら歩くそうです。潮の音に合わせて、歌って、踊って……」
少し声を落とし、アルシエルが悪戯っぽく付け足した。
「踊りを間違えると——次の島へは渡れないんだって」
「海と人の声が重なって、国全体がひとつの歌になっているように聞こえるそうです」
ルミエルが、そっと言葉を継ぐ。
「目が見えなくても……きっと、とても楽しめる国だと思います。潮の音も、人の声も、きっと迷わず導いてくれるでしょうから」
「潮と歌の国、か」
思わず口にすると、胸の奥が少し軽くなった。
「ルミエルが一番楽しめそうな国だな」
アルシエルは少し表情を引き締め、次の話題を持ち出した。
「じゃあ、少し物騒なところ。燼祈の国」
声の調子が、ほんの少しだけ低くなる。
「火山に囲まれた国で、噴火は災いじゃなくて祈りへの応えとされてるの。
あの国の灰は神聖な物扱いで、ただの灰じゃないわ。動力にもなって、生活の一部になってるらしいの」
「だから人々は、みんな灰色の服を着て暮らしているらしいです」
静かに息を吸い、続ける。
「大噴火の日には、国全体が音を立てずに噴火の音を聞きながら祈るの。怖いけど……どこか、綺麗だと思わない?」
「火山が噴くこと自体が、祝福……か」
ルミエルが小さく息を吐いた。
「価値観が異なる文化に触れるのも……きっと、意味のある体験になりますね」
「最後に……これは噂だけど」
アルシエルは、ほんの少し声を落とした。
「境喰の国。
地図にも載っていなくて、場所もはっきりしないところよ。
昨日までただの道だった場所が、翌日には“国の中”になっている……なんて話もあるわ」
「……昨日までとは、違う場所」
思わずそう呟くと、ルミエルが静かに言葉を継いだ。
「そこには、人でも魔物でもない者たちが暮らしているそうです。
自分の在り方を失った人にとっては……天国のような場所だとも聞きます」
少し間を置いてから、穏やかに続ける。
「でも……だからこそ。私たちのことを知っている人は、きっといません」
アルシエルが、にやりと口元を歪めた。
「身分も、役目も、名前も。全部、置いていけそうでしょ」
その国々の話に、胸の奥がかすかにざわついた。
「……世界は、本当に広いな」
自然と、そんな言葉が零れる。
「帰る場所を見つけられるかもしれない国もあれば、神の声が聞こえるかもしれない国もある。
そして、俺が稀人としてこの世界に現れたときみたいに——ある日突然、今までとはまったく違う場所になってしまう国もある」
どれも、他人事とは思えなかった。
ルミエルが小さく微笑み、アルシエルが肩をすくめる。
「でしょ? 一生、教会の中にいるだけじゃ……もったいないわ」
そう言ってから、二人の視線が、自然とこちらに集まった。
「だから——ね、ミハネ」
アルシエルが、片目をつぶり冗談めかした声音で問いかける。
「最初は……どこから連れて行ってくれる?」
テーブルの上で、三人分のカップから湯気が立ちのぼる。
まだ行ったことのない国々の話が、朝の空気の中で、静かに広がっていった。
まだまだ拙い部分も多い作品ですが、
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