008.魔術組合
「じゃあ、今日のところはこんなもんにしとくか。初日だしな」
ヴァンが木剣を肩に担ぎ、笑みを浮かべた。
「わかった。この後はどうするんだ?」
「俺はミハネの資金難を解消するために、例のものを売却しに行ってくる」
例のもの――あのラムネ瓶だ。
「わかった……手間をかけるな」
「気にするな。それより、この後ミハネはどうする?」
問いかけられ、言葉に詰まる。
日はまだ高く、宿に戻るには早い。
そんなとき、ふと聞きそびれていたことを思い出した。
「そういえば――魔術は?」
俺の言葉に、ヴァンは苦笑して肩をすくめる。
「忘れてたな。魔法が使えるやつにとって、魔術は“魔術刻印を書いて運用する”形になる。だから実戦じゃ二手も三手も遅れる。だがまあ、役に立つ場面もある。魔術組合の場所を教えるから行ってみろ。基礎くらいなら教えてくれるはずだ」
「ヴァンは教えてくれないのか?」
「ああ……俺は魔術は苦手でな。直感で扱える魔法のほうが性に合ってる。とはいえ魔道具には世話になってるし、仕組みや使い方くらいは多少わかるけどな」
「そうか……じゃあ、魔術組合に行ってみるよ」
会話の合間に、街のざわめきが耳へ戻ってきた。
行き交う人の声、石畳を踏む蹄の音。
異世界の息吹が、確かにここにあった。
「俺のほうは少し時間がかかるだろうから、用事が終わったら宿で合流だ」
「了解」
互いに頷き合い、俺とヴァンはそれぞれの目的を胸に、冒険者組合を後にした。
◆
ヴァンと別れたあと、俺は石畳の通りを歩いていった。
鉄を打つ音、革を裁つ音。
職人たちの声が飛び交い、空気には煤と油の匂いが混じり始める。
賑やかな鍛冶屋や工房の並びを抜けると――視界の奥に、それは現れた。
灰色の石を幾重にも積み上げた高い塔。
窓はほとんどなく、外壁のあちこちに刻まれた魔術刻印が、脈動するように青白い光を吐き出している。
塔の根元は城壁のように分厚く、外界そのものを拒むような重苦しさを放っていた。
門柱に掲げられた古びた銘板には、くっきりと「魔術組合」と彫られている。
冒険者組合の威勢の良さとは対照的に、ここには学問の静けさと、近寄りがたい冷気が漂っていた。
胸の奥がわずかにすくむ。
けれど足は止まらない。
重い扉を押し開けると、ひやりとした空気が肌を撫でた。
薄暗い室内には、薬草の青臭さと金属の錆の匂い、そして古紙の乾いた匂いが折り重なって漂っている。
壁際には天井まで届く書架が並び、分厚い本や巻物が隙間なく詰め込まれていた。
机に向かう人々は皆、長衣をまとい、羽根ペンを走らせたり、薬瓶に光を当てて液体の濃度を確かめたりしている。
ぱらりと紙がめくられる音。
かりかりとペンの走る音。
瓶の中で泡がはじける小さな音。
その一つ一つが、塔全体を巨大な研究室として脈動させているかのようだった。
「……ようこそ。冒険者ですか?」
カウンターに座っていた眼鏡の男が、こちらを値踏みするように見やった。
「はい。魔術について、少し学びたくて」
「なるほど。基礎の講習なら受けられます。……料金は銀貨一枚」
ヴァンから受け取った小袋を思い出し、銀貨を差し出す。
男はうなずいて奥へ案内してくれた。
通された部屋は講義室のようになっており、十人ほどの若い者たちが机に座っていた。
俺と同じくらいの年頃の者もいれば、年端もいかない子供もいる。
皆、手元に羊皮紙と羽根ペンを用意している。
「では、講義を始める。私の名はエドガー・クラリオンだ」
講師役の老紳士が前に立ち、低く響く声で話し出した。
背筋を伸ばした立ち姿は、一分の隙もない。
灰色を帯びた髪は几帳面に撫でつけられ、口元には上品な口髭。
片目に掛けたモノクルが光を反射し、その視線は鋭くも理知的だった。
纏うのは黒を基調としたスリーピーススーツ。
金の縁取りや繊細な刺繍が施され、袖口から覗く白い手袋が気品を際立たせている。
まるで格式ある執事か、あるいは貴族の学者そのものだ。
その名を名乗った途端、周囲がざわめいた。
「クラリオン……?」「本物か……?」
魔術師としての名声、そして魔術道具の開発で知られる高名な人物――。
受講生の誰もがその名を知っていたのだろう。
俺にはその重みがすぐには実感できなかった。
だが、彼がモノクル越しに静かに視線を巡らせた瞬間、空気が張り詰めるのを肌で感じた。
ざわめきは一瞬で凍り付き、教室は水を打ったように静まり返る。
荘厳な本棚や魔法陣に囲まれた講義室そのものが、老紳士ひとりの存在に支配されたかのようだった。
「まず、魔法と魔術の違いの理解からだ。魔法は“即時の力”。詠唱と想像により、魔力を外に放つ。速いが制御は難しい。対して魔術は“刻印の力”。文字や紋を描き、それを媒介として魔力を流す。発動するまでの準備は必要だが、詠唱は不要で効果は安定している」
黒板代わりの石板に、白い粉で複雑な紋様が描かれていく。
円の中に三角。さらに幾何学模様の連なり。見慣れないはずなのに、どこか秩序だった美しさがあった。
「例えば――この魔術刻印は《灯火》。刻印に魔力を放てば、小さな光を生む。試しにやってみろ」
机の上に小さな木板が配られた。
表面にはすでに簡素な紋様が刻まれている。
俺は恐る恐る板に手を当て、息を詰めながら魔力を流すことを意識する。
……だが、何も起きなかった。
その隣で、少女が小さな声で「光れ……」とつぶやいた。
瞬間、彼女の板が机の上を白く照らし、ぱっと周囲が明るむ。
「おお……!」
思わず声を漏らす。
続けざまに、あちこちの木板が灯っていった。
淡い光が次々と生まれ、講義室は小さな星々で飾られたかのようにきらめいている。
だが――俺の板だけは、いつまでも暗いままだった。
「……魔力の流れ方がおかしいな」
講師が俺の机に歩み寄り、モノクル越しにじっと俺を見つめた。
その眼差しは鋭く、逃げ場を失ったような気分になる。
「お前、魔力は感じることはできるか?」
「はい。感じることはできます。けど……うまく放てなくて」
「ふむ。ならば魔力を身体中に巡らせてみなさい。身体のどこかにある“外へ出る穴”を探すように、魔力を循環させてみるんだ」
言われるままに、魔力を全身に回す。
胸、腹、腕、脚。指先の隅々まで。
だが――どこに流しても、抜け穴のような感覚は見つからなかった。
「……無いです」
講師は興味深そうにモノクルを調整し、俺を観察する。
目の奥に宿る光は、失望ではなく好奇心だった。
「なるほど。ならば次の方法だ」
掌を俺に向け、ゆっくりと言葉を重ねる。
「掌を意識しろ。そこには小さな孔がある。人間の身体には幾つも“出口”が備わっている。汗をかく孔、息を吐く孔……同じように魔力を漏らす孔があると“想像”してみろ」
俺は机の上の木板に手を置き、呼吸を整える。
掌の中心――皮膚の奥に、小さな小さな孔が開いている、と必死に思い描く。
そこへ魔力を押し込むように流し込む。
……だが、板は静まり返ったままだった。
指先がじんわりと熱を帯び、掌の皮膚が痺れる。
それでも光は生まれない。
「……駄目です。何も出ません」
唇が震え、額に汗がにじむ。
魔力を確かに“感じている”のに、世界に放てない。
まるで見えない壁に阻まれているようだった。
だが、それを見た講師の顔は、わずかに笑みを浮かべたようにも見えた。
「ならば仕方ない。今は講義中のため、今回は座学に注力しなさい」
魔術の講義はそのまま続いた。
だが、俺の心中は魔力を放てなかったことばかりでいっぱいだった。
――魔力を放てない俺が、魔術を学ぶ意味はあるのか。
頭の中を不安が渦巻き、気づけば講義は終わっていた。
そぞろに立ち上がる受講者たちを横目に、俺も机を片づけ、帰る支度を始める。
そのとき、講師が近づいてきた。
「講義に身が入っていなかったように見えたな」
鋭い目が俺を射抜く。問いただすというより、観察するような眼差しだった。
「あ……すみません。どうしても魔力のことを考えてしまっていて」
「ふむ……まあ、気持ちはわからなくもない」
講師は再びこちらの顔をまじまじと見た。
「名は何という?」
「えっと……ミハネと言います」
「ミハネ……か。魔術、ひいては魔道具は生活において極めて有用なものだ。それを使えないとなれば、魔術組合としても看過できん。それに――私自身、その体質に興味がある」
老紳士は懐から小さな札を取り出し、こちらに差し出す。
「受付に渡せば、私を呼ぶことができる。次は、他の手段を試してみよう」
「あ、ありがとうございます」
深々と頭を下げる。
掌の中で小さな札を確かめる。
ただの木片にすぎないのに、そこにはまだ残された手段が刻まれている気がした。
すがるように握りしめ、ポケットへと仕舞い込む。
組合を出ると、外はすでに夕暮れ。
赤く染まった陽が街並みを覆い、瓦屋根の影が長く石畳に伸びていた。
行き交う人々の足取りも夕陽に染まり、昼間の喧噪は徐々に静まりつつある。
その代わりに、屋台の灯がぽつぽつとともり始め、香ばしい匂いと人声が新たな賑わいをつくっていた。
目に映るのは、元いた世界とは何もかもが違う光景。
屋台の灯、漂う香り、聞き慣れない話の内容――そのすべてが、俺だけを異物だと告げているようだった。
喉の奥がきゅっと締めつけられる。
「……早く帰らないと」
ヴァンとの待ち合わせを思い出し、俺は足早に宿へと向かった。




