特別幕間「在りし日の正月」
明けましておめでとうございます。
本来は、第3章を安定して開始できるまで更新を控える予定でしたが、
正月という節目もあり、この時期ならではの話を書きたくなったので、
特別な幕間として投稿することにしました。
今回は、ミハネが異世界へ来る“前”の日常を描いたお話です。
こちらは期間限定ではありませんので、
お正月のゆっくりした時間にでも読んでいただけたら嬉しいです。
光の祝祭の夜、俺は夢を見る。
在りし日の温度を、抱き寄せるように。
◆
正月の朝の布団は俺を裏切らない。
寒くて、静かで、起きなくていい理由しか見当たらないからだ。
俺はそのまま、もう一度眠りに落ちようとしていた。
「……今日はこのまま、もう少しだけ寝ようかな。……ん?」
冬の寒さに抗うように布団を胸元まで手繰り寄せた、その時。
もぞり、と布団の中で何かが動いた。
「引っ張らないで~。足がおふとんの外に出ちゃうよ~」
眠たげで、語尾の溶けきった声。
布団の中には、澄羽がいた。
「……何してるんだよ」
呆れ半分で言いながら、構わず布団を引き寄せる。
すると、外に出かけた澄羽の足が冷えたのか、彼女はもぞもぞと芋虫みたいに這い上がってきて、俺の胸元にたどり着いた。
「お正月だから、初詣に行こってお兄ちゃんを起こしに来たんだよ~。
でも、寝てる姿見たら温かそうだな~って。私も、もう少しだけ寝ようかな~って思って」
そう言って、澄羽はぴったりと身体を寄せる。
満足そうに息を吐いて、小さく笑った。
「あ~、あったかい。ね、お兄ちゃん」
その顔を見てしまうと、これ以上何も言えなくなる。
頬を軽くむにむにとつついているうちに、眠気と体温に思考が溶けていった。
「……そうだな。初詣は人も多いだろうし、もう少し後でもいいか」
「そうだね~」
短いやり取りのあと、俺たちは自然と同じ結論に辿り着く。
こうして、正月の朝は静かに二度寝へと引き返していった。
◆
目を覚ましたのは、それから少し経ってからだった。
布団の中の温もりが減っていて、その代わりに外から人の気配が流れ込んでくる。
外は寒い。
けれど空はよく晴れていて、冬の太陽が思ったよりもやさしく光っていた。
吐く息は白く、頬に触れる空気がひりりと痛い。
昼を少し過ぎた神社は、朝ほどの混雑はなかった。
それでも正月一日目というだけあって、人の流れは途切れない。
足元の砂利が、歩くたびに乾いた音を立てる。
「やっぱり、まだ人多いね」
澄羽がマフラーに顔をうずめたまま言う。
片手は手袋を外して、俺のポケットに差し込まれていた。
中で、指先が自然に絡む。
「まあな。正月だし」
参道の両脇には屋台が並び、甘い匂いと香ばしい匂いが入り混じっている。
焼き餅、甘酒、たこ焼き。
湯気の向こうで、笑い声が弾んでいた。
「ねえ、お兄ちゃん。あれ」
指差された先では、子どもが綿あめを抱えてはしゃいでいる。
少し大きすぎるそれを、誇らしげに掲げていた。
「……欲しいのか?」
「んー……ちょっとだけ」
そう言いながら首を傾げるが、視線は正直だった。
結局、俺たちは一つの綿あめを買って、二人で分け合った。
冷たい空気の中で、砂糖の甘さだけがやけに際立つ。
「お正月って、やっぱりいいね」
澄羽がぽつりと呟く。
「……ん?」
「みんな、ちょっとだけ優しくて。ちょっとだけ、ゆっくりしてて」
その言葉に、俺は返事をしなかった。
ただ、ポケットの中で繋がっている体温が、確かに温かかった。
境内の奥で鈴の音が鳴り、柏手が響く。
笛と太鼓の音が重なり合い、冬の空に溶けていく。
俺たちも順番を待って、賽銭を投げる。
澄羽をちらりと見てから、神様へと祈った。
――何気なく。
このまま、穏やかでいられますように。
幸せが、続きますように。
澄羽は目を閉じ、少しだけ長く手を合わせていた。
何を願ったのかは、お互いに聞かなかった。
聞かなくても、きっと同じだったから。
◆
家に帰ると、澄羽は靴を脱ぐなり先に中へ入り、くるりと振り返って両手を広げた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
そう言った瞬間、澄羽が抱きついてくる。
そのまま受け止めて、俺も軽く抱きしめ返した。
「今日は一緒に帰ってきたんだから、やらなくていいんじゃないか?」
苦笑しながらそう言うと、澄羽は不思議そうに首を傾げる。
「だって、今日はお正月だし?」
「いや、関係ないだろ」
「まあまあ。お正月の神社で体力使ったんだから、こうしてぎゅってしてあげないと」
胸元に顔を押しつけたまま、澄羽は楽しそうに続ける。
「私はお兄ちゃんの心の拠り所だから。ね」
そう言って、ウインクひとつ。
「ほら、早く中入ろ。寒いよ~」
手を掴まれ、そのまま居間まで引っ張られていく。
こたつの布団をめくると、澄羽は迷いなく潜り込んだ。
「こたつ、まだあったまってないよ~」
文句を言いながらも、俺も向かい側から足を入れる。
布団の中はまだ冷たく、こたつの熱が上からじんわりと降りてくるのがわかった。
「……あ」
次の瞬間、澄羽が俺の足を見つけ、わざと絡めてくる。
「冷たいんだけど。何してるんだよ」
「確認」
「何のだよ」
「お兄ちゃんが、ちゃんとここにいるかどうか」
「いるに決まってるだろ」
「ふーん」
澄羽は満足そうに笑い、こたつの中を進んで、向かい側の俺の方へ頭を出す。
そのまま、腹を枕にするように距離を詰めてきた。
「……これ、いつも思うけど狭くないか? それに、ちょっと重いし」
「ひどい。妹に向かって」
「事実だろ」
「でも、どかないよ~」
そう言い切られてしまえば、もう何も言えない。
頭に手を置いて、軽く撫でる。
澄羽は猫みたいに目を細めた。
その姿があまりにも幸せそうで、思わず笑ってしまう。
テーブルの上のみかんを一つ手に取る。
皮を剥く音が、静かな部屋に小さく響いた。
「あーん」
目は閉じたままだが、剥き終わったのがわかるかのように口を開ける。
「はいはい」
「やっぱり、お兄ちゃんが剥いてくれるみかんは美味しいね」
しばらくそんなふうに過ごしていると、澄羽が体を起こした。
「じゃあ、次はお兄ちゃんの番ね」
そう言って、今度は俺の頭を抱えるようにして、さっきと同じ体勢に持ち込む。
「ほら。今度は私が剥いたみかん、食べさせてあげる」
そう言って、器用に皮を剥き始める。
「あーん」
「……ん」
口に入ったみかんは、少し甘酸っぱかった。
それからは言葉もなく、
ただみかんを剥いて、食べて、また剥いて。
何も起きない。
何も変わらない。
ただ、その時間だけが、静かに流れていた。
やがて、こたつの中の熱は十分に回り、まぶたが自然と重くなってきた。
テレビはつけたままだったが、内容はほとんど頭に入ってこない。
澄羽はまた、俺の腹に額を押しつけたまま、みかんの最後の一房を口に運ぶ。
「……ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」
「このまま寝ても、いい?」
「もう半分寝てるだろ」
「ばれたか~」
小さく笑って、澄羽は身じろぎひとつせず、さらに体重を預けてくる。
こたつの布団の中で、体温が混じる。
「ねえ」
「ん?」
「来年も、こうしていようね」
何の前触れもなく、そんなことを言う。
「当たり前だろ」
「……本当?」
「ああ」
即答すると、澄羽は安心したように息を吐いた。
「じゃあ、その次の年も」
「うん」
「その次も」
「大丈夫だよ」
優しく安心させるように、澄羽の頭をなでる。
「何があっても、澄羽は俺が守るから」
「ふふっ、そうだよね」
「ああ、約束したからな」
そう言いながら、指先はしっかりと服を掴んでいる。
「……お兄ちゃんがいて、私がいる」
澄羽は満足したように、小さく頷いた。
「父さんのこと、忘れるなよ」
「今くらいはいいじゃん」
「こんな日でも働いてくれてるんだから」
「わかってるよ~。帰ってきたときのために、美味しいごはん用意しようね」
「ああ」
「じゃあ、それまでの間は、ね」
こたつの中は、静かで、暖かくて、時間が溶けていく。
いつの間にか、二人とも半分眠りかけていた。
澄羽の寝息が、すぐ近くで聞こえる。
その重さと温度が、確かにそこにあった。
呼吸の間隔が、少しずつ揃っていくのがわかった。
俺はそのまま、天井をぼんやりと見つめた。
木目の模様。
こたつの端から聞こえる微かな音。
みかんの皮の香り。
――何でもない。
本当に、何でもない一日だ。
初詣に行って、家に帰って、こたつに入って、みかんを食べて。
それだけの正月。
それなのに、胸の奥が妙に満たされている。
何かを成し遂げたわけでもない。
特別な言葉を交わしたわけでもない。
ただ、ここにいる。
澄羽がいて、俺がいる。
それだけでいいと、思えてしまう。
気づけば、澄羽の呼吸はすっかり寝息に変わっていた。
規則正しく、安心しきった音。
その温度が、腹の奥にじんわりと染みてくる。
俺は目を閉じた。
揶揄って、甘えて、守って、守られて。
二人で一つみたいに過ごす毎日が、こんなにも脆く、尊いものだったなんて。
だから夢の中で、俺は何度も確かめる。
澄羽の重さ。
声。
温もり。
欠ける前に、失う前に。
それがどれほど狂おしいほど大切だったかを、俺は知らなかっただけだ。
――この何気ない日常が、どれほど大切だったのか。
欠けて、失ってからでは、きっと遅いほどに。
あの日から、澄羽の前で本当の意味で笑うことはできただろうか。
この世界に来てからは、胸を裂くほどの、泣きたくなるほどの、在りし日の思い出。
それでも今は、まだここにある。
触れられる距離に、確かにある。
だから俺は、何も考えずに眠ることにした。
こたつの温もりと、澄羽の重さを確かめながら。
正月の午後は、静かに、優しく、もう一度だけ、俺たちを眠りへと連れていった。




