077.心のありか
祝祭は、もう終わりを告げようとしていた。
人々の笑い声が少しずつ落ち着き、街全体が名残惜しさと安らぎに包まれていく。
ノルンは教会の方へと視線を向け、少し寂しそうに微笑んだ。
「ミハネ様……今日はありがとうございました。とても……とても素敵な一日でした」
「ああ、俺も楽しかったよ。ありがとう」
周囲の紙灯籠の光が彼女の頬を照らす。
ノルンは、胸元に小瓶をぎゅっと握りしめ、上目遣いでこちらを見上げた。
「私、ミハネ様と出会えて本当によかったです。きっと、これもルーメリア様のお導きで……だから――」
その先の言葉は、祭りのざわめきにかき消された。
けれど、その表情だけで、十分に伝わるものがあった。
ノルンは小さく息を吸い、少しだけ微笑んだ。
「……また、お会いできますよね。私……きっと、近くにいますから」
その声は灯籠の光よりも静かで、夜風に溶けるようだった。
紙灯籠がひとつ風に揺れ、光が彼女の頬を照らした。
だが、その瞬間、顔の半分が影に沈み、
——どんな表情をしていたのか、俺には見えなかった。
「……ああ、また」
そう答えると、ノルンは深く一礼し、
金色の光の中へと歩き出した。
人の波に紛れていくその背を、俺はただ静かに見送った。
◆
夜の王都には穏やかな静けさが戻り、人々は最後の儀式を見届けるために、再び教会前の広場へと集まっていた。
白い階段の上では神官たちが行き交い、両手に紙の灯籠を抱えている。
その灯籠は淡く金色に光を宿し、表面には「祈り」や「願い」の文字が書かれていた。
人々はひとつずつ受け取り、胸の前で抱くようにして広場を埋め尽くしていく。
無数の灯が揺れ、まるで大地に星が降りたようだった。
そのとき、教会の鐘がゆっくりと鳴り始める。
音が夜空を渡り、広場全体に静寂が広がった。
人々のざわめきが止まり、風までもが一瞬だけ息を潜める。
祭壇の高台に、教皇が姿を現した。
白金の法衣をまとい、金の錫杖を高く掲げる。
灯籠の光がその衣に反射し、まるで天上の光を纏ったようだった。
その両脇には、アルシエルとルミエルが静かに控えている。
金と白の聖衣が夜風に揺れ、灯りの粒を受けてゆらめいた。
「——今宵、光は人の手に宿り、女神の御心は我らと共にあった。
いまこそ、感謝とともにその光を女神へ返し、明日からの一年が、すべてのものに輝く未来を描けることを祈る」
教皇の声が夜空に響く。
その言葉は穏やかで、けれど確かな重みをもって、広場のすみずみにまで届いていった。
祈りの静寂のあと、鐘が鳴る。
それを合図に、人々は一斉に灯籠を空へと放った。
神官と修道女たちの詠唱とともに風が吹き抜ける。
灯籠が宙に浮かび上がり、ゆっくりと空へ昇っていく。
赤、金、白——色とりどりの光が風に乗って流れ、やがて星々と混ざり合っていった。
まるで人の祈りが夜空に還っていくようだった。
その光景はあまりにも幻想的で、祈りの声も感嘆の息も、すべてが光の海に溶けていく。
——そのとき、祭壇の上で教皇が静かに杖を掲げた。
そうして、アルシエルが澄んだ声で詠唱を始め、ルミエルがそれに重ねるように言葉を紡ぐ。
ふたつの声が重なった瞬間、夜空が脈打つように震えた。
空へと吸い込まれていた無数の灯籠が、呼応するように軌跡を描きながら一点へと集まり、やがて——ひとつの巨大な光輪を成した。
眩い白金の光が王都全体を包み、その一瞬だけ、夜は昼のように明るくなった。
まるで、空の彼方で女神が微笑み、祈りを聞き届けたかのように。
人々は息を呑み、誰もがその奇跡をただ見上げるしかなかった。
光輪の輝きに照らされ、街には影がひとつもなかった。
涙を拭う者、手を組んで祈る者、微笑みながら光に手を伸ばす者——。
誰もが等しく、その光の中に包まれていた。
やがて、光輪はゆっくりと薄れ、その残光だけが夜空に細い弧を描いて消えていった。
教皇が再び声を上げる。
「これをもって——光の祝祭、閉幕とする」
鐘が鳴り響き、静寂とともに夜風が吹き抜けた。
金と白の花弁が空を舞い、街の灯が一つ、また一つとともる。
その中で、アルシエルとルミエルは静かに祈りの姿勢を取り、祝祭の終わりを、神の御心へと捧げていた。
◆
光輪の残光が夜空からゆっくりと消えていく。
祭壇の上の灯がひとつ、またひとつと落ち、
人々の祈りの声も、いつしか静かな余韻だけを残して遠ざかっていった。
風が吹き抜ける。
淡い香草の匂いと、灯籠の焼けた紙の匂いが混じっていた。
俺は少し離れた場所で、教会の尖塔を見上げていた。
光の祭が終わったあとも、夜空の星々はまだ瞬いている。
その下で、人々は互いの肩を抱き合い、笑い合っていた。
——きっと、この世界の人たちは、これからもこうして生きていくのだろう。
互いの光を分け合い、誰かの祈りを支えに、今日という日を明日へ繋げていく。
けれど俺は、その輪の外にいた。
俺はこの世界では、必要以上の関係を作るべきではないと思っていた。
ヴァンやイリスは、俺が“帰るため”に必要な力と知識を教えてくれる仲間であり師だ。
アルシエルとルミエルは、この世界で唯一——“澄羽”の面影を感じさせる存在であり、恩人でもある。
俺の心の中心にいるのはただ一人。
けれど、その存在がいない今——空いたほんの小さな欠けを、あの二人の笑顔が静かに埋めてくれた。
彼女たちは澄羽の代わりではない。
けれど、もしこの世界で“失われた温もり”を形にするなら、
きっとそれはアルシエルとルミエルの姿なのだと思う。
だが、ノルンは違う。
彼女は、この世界の“日常”そのものだ。
信仰と優しさの中に生きていて、俺がいる場所とは、ほんの少しだけ違う光の中を歩いている。
——だから、本当はあの少女と関わるべきではなかった。
向けられる好意に気づきながら、それを受け取ることも、拒むこともできなかった。
この世界で過ごす時間の中で、それがどれほど危ういことか、俺は知っていた。
なぜなら俺は、この世界の住人ではないからだ。
俺の生きる目的は、“帰ること”だ。
ここでの幸福も、誰かの想いも——本来、俺には触れてはいけないものだった。
だから、ノルンが言った「来年も……こうして見られたらいいですね」という言葉に、俺は短く返事をすることしかできなかった。
あの言葉は、彼女にとっては希望でも、俺にとっては——来年もこの世界にいるかもしれないという“絶望”だった。
余っていたのだろう、灯籠のひとつが空へと昇っていく。
その小さな光を目で追いながら、俺は静かに息を吐いた。
この世界の祈りも、笑顔も、優しさも、すべてがあたたかい。
それでも、俺がそこにいる理由は——ただひとつ。
帰るために、生きること。
そう胸の奥で呟いたとき、夜空に浮かぶ灯籠の光が、まるで誰かの涙のように滲んで見えた。
まだまだ拙い部分も多い作品ですが、
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