062.魔法の仕組み
左手の失敗から数日が経った。
祭事の準備で街は浮き立っているというのに、俺の胸は重いままだった。
そんな折、組合から呼び出しが届いた。
冒険者組合の会議室。
厚い扉を開けると、既にフェルシオンとセリナが待っていた。
二人の前には鑑定士から届いた報告書が広げられている。
「来たな」
フェルシオンが顎で席を示す。
セリナは報告書を差し出しながら口を開いた。
「鑑定師から追加の報告がありました。井戸の水から、生活排水に含まれる成分が検出されたそうです」
「……排水?」
思わず問い返す。
「井戸は地下水脈から直接引き上げるはずですよね。どうして下水の成分が」
「本来なら混ざるはずがありません」
セリナは机上の古い地図を指で叩いた。
「ですが、この記録をご覧ください。貧民街の井戸は、旧水路の一部に接していた形跡があります。しかもそこは水脈の近くを通っている。数十年前の下水道建設で封鎖されたはずですが……崩落や地盤の影響で再び水脈と繋がった可能性が高いのです」
フェルシオンが頷き、地図に指を滑らせる。
「……つまり、その区画が崩れていれば水路の汚染がそのまま水脈へ流れ込み、井戸に直撃する。だから貧民街は毒と排水、両方の影響を受けたわけか」
「……だから、あれだけ被害が出たんですね」
毒だけでは説明できない規模の発症。だが、旧水路と水脈が繋がっていたとすれば、確かに筋が通る。
フェルシオンはさらに続けた。
「一方、庶民街は水道が整備されている。魔道具で清浄される分、下水の汚染はある程度はじける。だが――」
彼は地図の庶民街の井戸を指で叩いた。
「水脈そのものが毒と排水で汚されてしまった。だから浄化を経た水道であっても、井戸に近い地域ほど影響が強く出る」
「……なるほど。庶民街でも被害がほとんどないのは、そのせいですか」
「そうだ。貴族街は上水管理が徹底しているから、ほとんど影響は出ていないが……」
地図に描かれた区画の濃淡は、被害の広がりを雄弁に物語っていた。
直撃を受けた貧民街。水脈を通じて蝕まれた庶民街。
そして、ほとんど無傷の貴族街――その差は、あまりに残酷だった。
「下水道に潜るしかないですね」
セリナが断言した。
「冒険者組合として正式に依頼を立てました。調査担当は――できれば、ミハネさんにお願いしたいと思っています」
フェルシオンは地図を畳み、椅子を押しのけて立ち上がった。
「私も同行する。ついて来てくれ、ミハネ」
セリナが驚きに目を見開く。
「フェルシオン様が赴くような場所ではありません! 下水の調査なら、冒険者組合に任せていただければ――」
フェルシオンは口元に薄い笑みを浮かべ、首を横に振った。
「いや、ようやく核心に近づいたのだ。私が行く」
その声音には、高揚と好奇心が滲んでいた。
窓の外では祭事の旗が風に翻っている。
地上は華やかに彩られ、人々のざわめきが遠くまで響いていた。
だが、その裏で俺たちは、暗く淀んだ地下へ潜ろうとしている。
「はい。俺もその依頼、受けます。フェルシオン様、ご一緒させてください」
――アルシエルとルミエルが、何の憂いもなく祭事を迎えられるように。
俺がやれることをやる。
◆
数日後、正式な依頼書を受け取った俺とフェルシオンは、貧民街の外れにある鉄格子の前に立っていた。
錆び付いた扉の向こうには、下水道へと続く石の階段。
湿った風が地上へ吹き上げ、鼻を突く悪臭をまとわりつかせる。喉の奥が焼け、胃の底から吐き気が込み上げた。
「……なるほどな」
フェルシオンが鼻筋に皺を寄せる。
「これほどの臭気なら、病状の悪化も納得できる」
足を踏み入れた途端、靴底が湿気に吸い付いた。
暗闇に足音が反響し、石積みの壁を這うように戻ってくる。
天井から滴る雫が水面に落ち、ぽたり、と鈍い波紋を広げた。
フェルシオンが杖を掲げ、低く詠唱を紡ぐ。
「揺るぎなき輝きよ 深淵を払い 道を照らせ――《光導》」
杖先に宿った光が波紋のように広がり、闇を剥ぎ取るように下水道を照らし出す。
苔むした石壁の緑、濁った流れ、漂う瘴気。
そのすべてが淡い光に浮かび上がり、地下の淀みが姿をあらわにした。
「地図によれば、ここから先はしばらく歩くことになる」
光導に導かれながら進む。
湿気を帯びた風が頬を撫で、腐臭が喉を焦がした。
「フェルシオン様、どうして今回一緒に来ようと思ったんですか?」
気になっていた疑問を口にする。
彼はちらりとこちらを見て、少し間を置いて答えた。
「……君になら話してもいいだろう。私は貴族の三男だ。食うに困ることはないが、家の中での権限はほとんどない」
「三男……」
「ああ。兄たちが家の務めを背負っている。私はその陰で“体裁”を守るだけだ」
最初に出会ったとき、彼が俺の冒険者札を興味深そうに見ていたことを思い出す。
あれは――羨望の眼差しだったのか。
「冒険者に憧れてたんですか?」
「そうだ」
フェルシオンは頷き、その声音はどこか柔らかかった。
「魔法組合にも所属しているし、勉学や訓練は嫌いじゃない。だが、あそこは“権威”の象徴でもある。堅苦しい儀礼ばかりで、自分の魔法を自由に振るう場は少ない」
俺は頷き、続けて尋ねる。
「フェルシオン様は、どんな魔法を使えるんですか?」
「基礎は一通りだ。火・水・風・土、それに光と闇。組合にいる以上、座学も訓練も日課のようなものだ」
「まあ、貴族のほうが魔法適性が高いのは事実だ」
フェルシオンはわずかに得意げな表情を浮かべる。
「だが、魔法は結局“型”だ。現象を思い描き、詠唱で形を与え、魔力を放つ。要は、それをいかに効率よく運用できるかが肝心だ」
思えば、俺は魔法が使えないからこそ、その仕組みをほとんど知らなかった。
「……魔法が使えないのもあって、どんな種類があるのか分からなくて。よかったら教えてもらえませんか?」
フェルシオンの瞳がわずかに輝く。魔法の話題は本当に好きなのだろう。
「ああ、目的地に着くまでの良い話題になる。先ほど言ったように属性は六種類だが、その中にも様々な分類がある。
例えば神聖魔法は光属性の一種とされ、雷を発生させる魔法は風と水を組み合わせて扱う。
そして魔法には等級がある。初級・中級・上級・最上級、さらに一部の天才や狂人だけが踏み込む“超越”の領域、そして最後に“根源魔法”だ。
等級が上がるほど魔力の制御難易度と消費量は跳ね上がる。制御を誤れば術者を呑み込む危険もある」
フェルシオンはこちらへと視線を移した。
「……ミハネは今までに、どんな魔法を見たことがある?」
俺はヴァンが使っていた魔法を思い出す。
「俺が見たのは、《熱掌》とか《炎刃衝》ですね」
「なるほど。区分で言うなら《熱掌》は初級、《炎刃衝》は中級にあたるな。基本的に等級が上がるほど詠唱は長くなる。それで判断するのも一つだ」
「等級ごとに様々な差があるんですね。じゃあ例えば――初級でも、魔力を込めれば強くなったりしますか?」
「ああ。魔力量を過剰に注げば、威力も規模も増す。ただし――」
フェルシオンはわずかに声を低める。
「制御を誤れば、すぐに暴走する」
「なるほど……。じゃあ上級や最上級は、もっと危険ってことですか?」
「ああ。高度になるほど消費も制御も桁違いだ」
「……じゃあ、そのさらに上の“根源魔法”ってのは、一体どんなものなんですか?」
俺は、かつてアルシエルとルミエルが使用した《世界を繕う御手》を思い出す。
「ああ、やはり気になるか」
フェルシオンの声は、遠くを見つめるように淡かった。
「普通はまず目にすることはない。人目に触れるのは、大規模戦争や特別な祭事のときくらいだ。そして――根源級魔法は代償が重い。魔力を枯らすだけではない。時には精神や肉体までも蝕む。未熟な者が扱えば、命を削る行為に等しい」
彼は言葉を切り、わずかに息を吸った。
「特徴としては、“世界の理”そのものに干渉する魔法とされている。詳しくは私も知らないが……例えば火の根源魔法なら、この世界に内包された業火を呼び出すという。伝承では、一度放たれれば王都ひとつを焼き尽くすほどだ、とも言われている」
フェルシオンはそこで言葉を切り、杖先の光を見つめながら小さく息を吐いた。
「……まあ、実際に振るえる者など、ほとんどいないがな」
その憧れにも似た声音に、思わず尋ねる。
「フェルシオン様は……根源魔法を?」
「ああ。私にはまだ扱えない。だが、いつかは試してみたいと思っている。もっとも――伝承にあるように辺り一面を焼き尽くす真似は、さすがにできないがな」
彼は淡く笑んだ。
「詠唱を積み上げ、現象が組み上がる瞬間は美しい。だが実際に振るう機会はほとんどない。組合にいても、貴族にいても、な」
そして、低く息を吐き言葉を続ける。
「訓練で積み重ねた魔法を、誰かを救うために使えたなら……どれほど嬉しいことだろうか。だからこそ、冒険者に憧れているのかもしれない」
光導に照らされた横顔は、静かな決意を帯びていた。
「……俺、見てみたいですね。フェルシオン様が本気で放つ魔法」
「はは。そんな機会が訪れるのは、大きな惨事の時だ。……来ないに越したことはないが……」
俺は小さく頷いた。
確かに、彼の魔法は実戦でこそ光るだろう。だが、その場が来なければ意味を成さないのも事実だ。
フェルシオンは目を伏せ、湿った通路に響く声で告げる。
「貴族としての責務は理解している。家の名誉を傷つけるわけにはいかない。だが……それでも自分の手で事件を解決してみたかった。たとえ冒険者の真似事だとしても、な」
その響きはどこか孤独だった。
俺はしばらく黙って歩き、やがて吐息を漏らす。
「……真似事なんかじゃないと思いますよ」
フェルシオンが意外そうにこちらを見る。
「そう言える根拠は?」
「ここに立っている。それだけで十分です」
俺は肩を竦めた。
「冒険者は依頼を受けて、現場に足を運ぶ。それがすべての始まりですから」
フェルシオンは目を細め、しばらく黙った後で小さく笑った。
「なるほど……そういうものか」
杖先の光に照らされた横顔は、どこか少年のように見えた。
「ミハネ。君は冒険者になって、どんな経験をした?」
「どんな、ですか」
「ああ。貴族の屋敷では知り得ないことを、君はきっと見ている。戦いも、人の営みも」
足音に混じり、記憶が蘇る。
腐臭漂う森での戦闘。仲間と肩を並べた瞬間。そして、命を落とした仲間。
その一つひとつが胸に刻まれている。
「……そうですね。命懸けの戦いもありました。森羅蜘蛛に肩を貫かれたときは、本当に終わったと思いました」
左肩に視線を落とす。
「森羅蜘蛛か……名だけは聞いたことがある。だが――」
フェルシオンの碧眼が俺の左腕に落ちる。
「君のその手を見れば分かる。壮絶な経験が、今の君を作っているのだろう」
「はい。仲間がいたおかげで、今の俺があります」
ガルドとライに命を繋いでもらい、アルシエルとルミエルに癒しをもらい、ヴァンに生きる術を教えられた。
「仲間、か」
フェルシオンの声に微かな羨望が混じる。
「君は一人で全てを背負っているわけではないんだな」
「もちろん一人じゃ無理です。……俺なんかまだ駆け出しですし」
「だが、その経験を積んでいる時点で羨ましいよ」
フェルシオンは歩みを止めずに言った。
「私の周囲は血筋や地位を重んじる者ばかりだ。命を賭け合う仲間など得られない」
言葉の端に、彼の孤独が滲んでいた。
俺は少し考え、口を開いた。
「今回の調査を終えて……一緒に帰ったら、そのときは仲間ってことでいいんじゃないですか」
フェルシオンは目を見開き、やがて小さく吹き出した。
「……君は時折、驚くほど率直なことを言うな」




