005.稀人
本日から2章の終わりまで毎日投稿します。
手慰みにでも読んでいただけると幸いです。
甘い香りのケーキと落ち着いた香りの飲み物が卓に並ぶと、ようやく場が落ち着いた。
この世界で初めて食べた食事は思っていたよりも普通だった。
エルヴァンは椅子に深く腰を下ろし、カップを傾けて一息つく。
「じゃあ、何から聞きたい?」
軽い調子だが、その眼差しは真剣だ。
「……えっと。まず、この国のことを教えてほしいです」
「国か。俺たちが今いるのは“ノヴァリア王国”。大陸の西部にある国だ。建国はおよそ五百年前――小国が乱立し、戦が絶えなかった時代にな、“稀人”と呼ばれる異邦の者が現れた。そいつが乱世を収め、この国の初代国王となった……そう伝わっている」
言葉を切り、エルヴァンはカップを傾ける。
蒸気の向こうで、琥珀色の瞳がじっと俺を見ていた。
「真偽はともかく、今じゃ大陸でも指折りの国力を誇る大国だ」
「稀人……」
その響きに、思わず背筋が伸びる。
やはり――“異邦人”がこの世界に来た記録があるのか。
心臓の鼓動が、ほんの少し速まった。
街を歩いてから気になっていたことが、脳裏に浮かぶ。
どうして別世界から来た俺とエルヴァンの言葉が通じているのか。
どうしてこの喫茶店の看板やメニューの文字が、日本語に似ていたのか。
――おそらく、この世界には俺以外にも日本から迷い込んだ人間がいたのだ。
胸の奥にざわめきが広がり、指先が小さく震える。
カップを持ち直し、口元に手を当てて考え込んでいると、エルヴァンが続けた。
「稀人ってのはな、どこからともなく現れては、特別な能力や知識で偉業を成す存在だ。伝承では黒髪黒目で、魔法とは異なる何かしらの“力”を持っていたと言われている。……初代国王は《言霊の力》を授かっていたらしい。言葉を紡ぐだけで人々を従わせ、国を一つにしたそうだ」
ケーキの甘い匂いが鼻をかすめたが、味を確かめる余裕はなかった。
「……言霊……」
小さく呟くと、その響きが自分の胸にも深く沈む。
「あとは、もともと小国ごとに違っていた言語や文化を統一したのもその稀人だ。だからノヴァリア王国は他国に比べて識字率が高いんだよ」
「そうなんですね……」
息を整え、もう一歩踏み込む。
「それ以外の稀人は、どんな人がいたんですか?」
「そうだな……」
エルヴァンは琥珀色の瞳を伏せ、記憶を探るように言葉を選ぶ。
「稀人は魔法を使えない者が多いらしい。理由は分からん。だが代わりに“魔術”という体系を築いた稀人がいた。魔道具の礎を作り、上下水道や街灯……今の暮らしを豊かにしたのはそいつのおかげだってな」
カップを傾ける音が、静かな店内に小さく響く。
「他には、迷宮を攻略して秘宝を手に入れ、天空に城を浮かべた稀人もいた。……世界を飛び越えようとした、なんて伝承もある」
彼はそこで声を落とし、肩を竦めた。
「まあどれも数百年前の話だ。今じゃ信じるやつは少ない」
「……世界を飛び越えようとした?」
その言葉に、心臓が大きく跳ねた。
胸の奥で何かが点火する。
――もしかしたら、そこに帰る手がかりがあるのかもしれない。
希望とも焦燥ともつかない熱が体を駆け抜ける。
その表情を見透かしたように、エルヴァンは静かに笑った。
「俺がこうしてお前に世話を焼いてるのは、単なる親切心じゃない。お前を“稀人”だと思ったからだ。……俺が冒険者になったのも、子どものころに聞いた稀人の伝承に心を奪われたからさ。いつか真実を確かめてみたいと思ってな」
視線が鋭さを増し、言葉に熱がこもる。
「伝承の中には、稀人が残した財宝の話もある。国を何もからも守ることができる秘宝。死に際に造ったと言われる“禁忌の魔道具”。そして天空の城そのものが財宝だという説もある」
その声音は、冒険者らしい昂ぶりに満ちていた。
――伝承。夢。希望。
エルヴァンにとって、それはただの昔話ではなく、追い求めるべき目的そのものなのだ。
「――稀人の話はいったんここまでにしておいて、ノヴァリア王国の話に戻すぞ」
エルヴァンはフォークを置き、姿勢を正す。
「ノヴァリアは王と議会によって治められている。初代国王の血筋を“象徴”として代々王座に就くが、実際に国を動かしているのは議会だ。貴族どももいるにはいるが……まあ、中には腐ったやつもいる。それでも基本は“民あっての国”と考え、支え合っている」
「なるほど……王が象徴なんですね」
言いながら、俺はカップを口に運んだ。苦味が舌に広がり、話の重さを少し和らげる。
「それから、この国で大事なのは“冒険者組合”だ」
エルヴァンはカップを置き、声を少し落とした。
「国軍や衛兵もいるが、魔物や外敵に本当に対処できるのは冒険者だけだ。だから組合はどの街でも大きな影響力を持ってる。それに、上位の紋章を持つ冒険者となれば――一国の王にすら対等に物を言えるほどだ」
「……そんなに、ですか」
想像を超える言葉に、思わず背筋が強張る。
エルヴァンはケーキを口に運び、肩を軽くすくめた。
「通貨は“ノヴァ”。銅貨、銀貨、金貨、白金貨の四種類だ。銅百枚で銀一枚、銀貨百枚で金貨一枚……まあ、手にしてみりゃすぐ分かるだろ」
「物価の目安で言えば、銅貨一枚でパンがひとつ。宿に泊まるなら銅貨三十枚ってところだ」
「なるほど……」
思わずテーブルの木目をなぞる。ようやく、この世界での暮らしの実感が、少しずつ輪郭を帯び始めた気がした。
「この国で権力を持っている組織はいくつかある。国、冒険者組合、魔法組合、魔術組合、そして光の女神を崇める教会――大きく分けりゃ、この五つの勢力が拮抗している。いわば“五すくみ”だな」
「国は税と軍で民の暮らしを押さえている。冒険者組合は魔物退治や外敵に備える秩序の戦力。魔法組合は軍事にも関わるが、権威や研究色が強い。一方で魔術組合は生活基盤を担っている。上下水道や街灯……ああいう魔道具はだいたい魔術師の仕事だ」
「へえ……」
思わず感嘆の声が漏れる。
戦いと暮らしで役割がはっきり分かれているのだ。
「最後に教会だ。光の女神を崇める信仰の場であり、治療や病気祈願の中心でもある。特に“神聖魔法”と呼ばれる癒しの術は、他では真似できねぇ。祈りを媒介にした光で肉は塞がり、骨すら繋がる。冒険者が重傷を負っても――教会があるから生き延びられるんだ」
言われてみれば、まだ脚の奥に熱の残滓がある。
皮膚は繋がっているのに、痛みの記憶が骨にこびり付いているようだった。
エルヴァンはカップを置き、口の端を吊り上げる。
「ちなみにだ。磔兎にやられたお前の脚。あれが塞がったのは、俺がお前を教会まで担いだからだ。完全に治ったわけじゃねぇが、歩けるようになっただろ?」
「……そうだったんですね。どうしてあんな大きな傷が消えたのか、不思議に思っていました」
「だが勘違いするなよ。ある程度の怪我なら癒せるが、欠けた腕や足を生やすことはできねぇ。死んだ者も蘇らない。あくまで“生きている命を繋ぐ力”ってだけだ。……それと、あれくらいの治療で銀貨十枚だ」
「ぎ、銀貨十枚……」
息を呑む。銅貨三十枚で宿一泊――そう聞いたばかりだ。
つまり、庶民なら一月分の生活が消し飛ぶ額。
命を繋ぐ代価がいかに重いか、背筋が冷たくなる。
エルヴァンは椅子にもたれ直し、真剣な眼差しで続けた。
「ってことでだ。これからお前がこの国で暮らすなら、どこかの組織に身を置くのが賢明だ。力ある庇護を得ておけば、余計な厄介事に巻き込まれにくい」
カップを置き、一息つく。そして言葉を選ぶように口を開いた。
「さて、この国の話は大体した。……でだ。俺はお前を冒険者組合に登録させるのが一番だと思ってる。どうだ、俺と一緒に冒険しないか?」
「なんで……こんな、身元も分からない俺を誘うんですか?」
率直な疑問をぶつけると、エルヴァンはにやりと笑った。
「稀人特有の力に期待してる。それに――天空の城の話のとき、お前の目に“望み”が宿ったのを見た。……伝承を追うなら、俺と来い」
胸の奥を突かれ、言葉が詰まった。
心臓が速く打ち、息が詰まる。
確かに俺には――一刻も早く、帰る方法を見つけなければならない理由がある。
だが異世界で右も左も分からない俺が、本当にやっていけるのか。
足手まといになるだけじゃないのか。……不安が黒い影のように胸を覆った。
視線を落とすと、皿の上には半分残ったケーキ。
白い皿に散った苺の赤が、妙に鮮やかに見える。
甘い匂いが鼻をくすぐり、張り詰めた心がほんの少し緩んだ。
――磔兎に襲われ、死にかけたとき。
俺を助け、教会まで担いでくれたのはこの男だった。
もし彼がいなければ、もう歩くことすらできなかっただろう。
命を救われた。その事実は、ただの感謝では済まない。
胸の奥で、ずしりと重く響く。
ならば――。
胸の奥で決意が形になりかけたそのとき、静寂が一瞬だけ卓を包んだ。
店の奥からは湯気の立つ音が微かに聞こえる。
呼吸を整え返事をしようとした俺の前で、エルヴァンが椅子を軋ませて身を乗り出した。
その影が卓の上を覆い、大きな手が差し伸べられる。
「決まりだな。ここからは仲間だ、ミハネ。改まった言い方はやめて、ヴァンって呼んでくれ。どうせ年も三つか四つしか違わねぇ。それに……一緒に伝承を追うことで、お前を助けた借りを返してくれ」
冗談めかした笑み。その掌は、温かくも重みを帯びていた。
一瞬ためらう。
――仲間、か。
異世界に放り出されてから、孤独は常に背中に張り付いていた。
頼れる相手もいないまま生きる不安。
けれど、この男は命を救い、今もこうして差し伸べている。
迷う理由なんて、もうなかった。
しっかりと、その手を握り返す。
「……わかったよ。これからよろしく、ヴァン」
その瞬間、胸の奥に温かなものが広がった。
――初めてこの世界で出会ったのがヴァンで良かった、と心から思った。