049.日本の甘味
癒しを受けつつ異能の研鑽に励み、依頼をこなしながら鍛錬を続ける――そんな日常が形を成し始めていた。
アルシエルとルミエルに傷を癒やしてもらいながら、失われた左手を何度も作り直す。
魔力の糸は以前より扱いやすくなっていたが、手先に近づくほど人体の複雑さが立ちはだかった。
手首まで組み上げては崩し、また組み直す。その繰り返しは、あたかも人形の腕を人に似せて削ぎ寄せるような――冒涜にさえ思えた。
魔物討伐では走り込みで肺を焼き、剣を振るって痣を刻み、身体強化の失敗で身を痛めることも少なくない。
弱さを突きつけられても、それでも立ち上がる。
その痛みは己を削る苦行でありながら、生き延びるための礎でもあった。
「……少しは、強くなれてるのか」
荒い息を吐き出す。
強さは掴みかけている。けれど、まだ届かない。だからこそ、歩みは続いていった。
◆
鍛錬を終えたあとは決まって市場を歩いた。
作れる菓子はいくつも思い浮かぶ。焼き菓子も、練り菓子も、日本で覚えているものなら数え切れない。
だがこの世界では器具を揃えるのも難しく、カカオや生クリームといった材料は到底望めない。
そんな折だった。
街の雑踏の中で、ふと鼻先をかすめた甘い香りに足が止まる。
卵と砂糖が混ざった、どこか懐かしい香り――。
「これは……何の飲み物なんですか?」
店主は人の良さそうな笑みを浮かべ、胸を張った。
「卵と牛乳に、ちょっと酒を混ぜたものさ。子どもには飲ませないけど、体が冷えた時や力をつけたい時にはちょうどいい。喉に通れば芯から温まるよ」
瓶の口を開け、ひと口含む。
卵の濃厚さと牛乳のまろやかさに、酒の香りが微かに混じる。甘さはなく、喉を通った瞬間、じんわりと体が熱を帯びた。
「……滋養に効きそうだな」
思わずそんな感想が漏れる。
だが、どこか物足りなさを覚えた。甘い味を想像していたせいか、そこまで美味しいとは感じられない。
けれど、もしこれに甘味を加えて固めれば――。
頭の中に浮かんだのは、妹と何度も作った固形の甘味。皿の上で揺れる黄金の層と、それを囲む食卓の情景。
胸の奥がきゅうと締めつけられる。異世界の喧噪のただ中で、一瞬だけ過去が蘇った。
プリンに似たものがこの世界にあるのかはわからない。だが、どうしても作りたくなった。
別の露店に積まれた砂糖の袋を手に取る。色は白くはなく、粒も荒いが甘味としては十分だ。
値札に並ぶ銀貨の数に思わず眉が動く。日用品に比べれば明らかに高値。
それでも迷わず、必要量より多めに買った。甘味がなければ始まらない。二人の笑顔のために惜しむ理由はなかった。
卵を選ぶ。籠の中でころころと転がる殻は厚く、黄身の色も濃い。数を数え、しっかりと包んでもらう。
さらに搾りたての牛乳を瓶で受け取る。表面には白い泡が浮き、豊かな香りが立ちのぼった。
袋を受け取る手に重みが伝わる。心の奥に弾むものを抱えながら、俺は石畳を踏みしめた。
◆
自然と足は《金色の羽亭》へ向かっていた。
来客を告げる鐘の音に応えて、奥からリディアが姿を見せる。
「あ、ミハネさん。いらっしゃいませ?」
俺の抱えた袋に目をやり、首を傾げる。
「リディアさん、この前の話……お菓子作り、お願いできますか」
「なるほど、そのための食材ね。いいよ、ちょうどお客さんもいないし」
「ありがとうございます」
案内された厨房の奥には、大鍋をかき混ぜた名残がまだ温もりを残していた。
火を使っているはずなのに煙が立たないのは、赤い石が脈動するように光る“火晶石炉”のおかげだ。一定の熱を保ちながら、焦げも煙も出さない。
壁際の棚に目をやると、水魔法で氷を生む“冷却瓶”、風魔法で香りを逃がさない“保存壺”、火水風の複合魔法で冷気を保つ“冷蔵箱”が並んでいる。どれも魔術組合の品らしく、淡い光を放っていた。
「ここまで揃えるの、大変だったんじゃないですか?」
尋ねると、リディアは手を拭きながら肩を竦める。
「それはね、私がお店を始めるって決めた時に、お兄ちゃんが全部買ってくれたの。ほんと過保護でしょ」
「なるほど……そういうことですか」
ヴァンが大荷物を抱えて押しかける光景が頭に浮かび、思わず苦笑が漏れる。
ふと視線をやると、棚の保存坪に珈琲豆に似た豆が入っていた。
「そういえば、“蠱毒蛙のしぼり汁”なんて、この辺りじゃ手に入らないですよね? 仕入れたら相当高いんじゃ?」
それでも値札には銅貨二十枚と良心的な数字。
「ああ、それもお兄ちゃんが冒険先の街で見つけて、商人の知り合いを通して仕入れさせてもらってるの。だから私自身の力は全然なくて……貰ってばかりだからこそ、せめて少しでも安くて美味しいものを提供したいの」
リディアは棚の魔道具にそっと触れながら、小さく呟いた。その指先に浮かぶ陰影は、誇りと負い目の両方を物語っていた。
その横顔を見つめる。
受け取ったものに報いようと必死に踏ん張る姿は、不器用なほど真っ直ぐで――どこか、今の自分と重なって見えた。
「……俺にも、リディアさんの気持ちが少し分かる気がします。ヴァンや双子のあの子たちには、貰ってばかりで返せてるものが少ないと思ってるから」
言いながら店の中を見渡す。磨かれた調理器具、魔道具の微光、積み上げられた努力の証。
「でも、リディアさんは“貰ってばかり”なんて言うけど……こうして店を開いて、続けてること自体、十分すごいですよ。少なくとも俺には真似できません」
リディアは一瞬目を丸くし、それからふっと笑みをこぼした。
「ふふ……ありがとう。じゃあ、あの子たちのためにも、一緒に美味しいものを作ろうね」
俺は彼女と並んで調理台に立った。
思えば、この世界に来てからというもの、趣味に没頭する時間などほとんど持てなかった。すべては生き延びるため、そして帰還のために費やしてきた。
――けれど今は違う。
ただ、懐かしい味を再現するために手を動かす。妹と台所に並び、笑い合いながら作った日の記憶を、そっと指先で辿りながら。
商業区で見つけた鉄製のカップを手に取る。冷たい金属の感触が掌に馴染み、心の奥が少しだけ引き締まる。
「へぇ、鉄製の器なんて珍しいね」
「これがないと、うまく作れないんです」
まずは鍋に砂糖と水を入れ、“火晶石炉”にかける。赤い石が脈動するように光り、鍋底をじりじりと熱した。思った以上に火力が強く、透明だった砂糖液はあっという間に泡立ち、色を変えていく。
「ねぇ……黒くなってきてるけど、大丈夫なの?」
不安げなリディアに、俺は小さく笑みを返す。
「大丈夫ですよ。これくらいで――よし」
琥珀色に変わった液体を鉄の器へ流し込む。じゅっと音が弾け、甘く香ばしい匂いが立ちのぼった。煙がゆらめき、思わず咳き込む。
「あー、ごめんなさい、煙まみれになった」
「ふふ……いいの。焦げ臭いというより、香ばしくてお腹が空いてくる匂いね」
下地となるカラメルが冷えて固まり始める。
次にボウルを手に取り、卵を割る。黄身が鮮やかに揺れ、砂糖と混ざり合って淡い金色の筋を描く。
そこへ温めた牛乳を少しずつ注ぐと、湯気とともにやさしい香りが広がり、液体は滑らかな黄金色へと変わっていった。
できあがった卵液を器に流し込む。湯を張った大鍋に並べ、蓋を閉じると、火晶石炉の熱が穏やかに伝わり始めた。
「これで終わり? なんだか温かい飲み物みたい」
「いや、しばらく待てば固まります。鉄の器を使うのも、熱を均一に通すためで……まあ、出来上がりを食べてもらった方が早いかな」
数分ごとに器を取り出し、表面の固さを指先で確かめる。ぷるりと震える感触に、懐かしい温度が胸に広がる。
最も滑らかに仕上がったものを選び、粗熱を取ってから“冷蔵箱”に収めた。
「これで一晩冷やしたら完成です」
「初めて見るお菓子ね……楽しみ」
「明日、いつもの二人も連れてきます。リディアさんも一緒に食べませんか?」
「いいわね。じゃあ、ちょっとだけ開店時間を遅らせようかな」
思案顔の彼女の声を聞きながら、俺は明日の光景を思い描いた。
驚き、喜び、笑い声。その場に流れる温かさを、きっとこの甘味が呼び込んでくれる――そう信じていた。
――ふと、もう一つ確かめておきたいことが頭をよぎった。
「そうだ。お菓子の材料で探しているものがあって。“蠱毒蛙のしぼり汁”みたいに豆を焙じて飲むものじゃなくて、もっと苦みが強くて……熱を加えると香りが立つ。甘い菓子の材料になるような豆なんですが、知りませんか?」
「豆を菓子に……? うーん、聞いたことないなぁ」
リディアは首を傾げ、棚の豆を見やりながら考え込む。
「ごめん。私自身は知らないけど、この豆を仕入れてる商人なら何か知ってるかもしれない。よかったら紹介しようか?」
「是非お願いします」
彼女は商人の名と連絡先を書き留めた紙片と紹介状を差し出してくれた。紙のざらつきと共に期待の重みが乗る。
店を出ると、夜風がひやりと頬を撫でた。街路の灯火が滲み、石畳の影が揺れる。
明日、双子の笑顔にプリンを届けられる――そして、もしこの世界で“カカオ”を見つけられたなら、さらに新しい甘味を生み出せるかもしれない。
胸の奥に芽生えた小さな期待を抱きながら、俺は《金色の羽亭》を後にした。
◆
石畳を踏みしめ、商業区の外れにある倉庫へ向かう。
懐には、リディアがしたためてくれた小さな紹介状。紙一枚なのに、胸の奥には微かな緊張が広がっていた。
軒先の魔道具が青白い光を揺らめかせる。扉を叩くと、帳簿を抱えた中年の商人が顔を上げた。
「どなたかな?」
「こちらを……《金色の羽亭》のリディアさんからの紹介で探してるものがあって、それについてご存じではないかと思い来たのですが」
封蝋を割らぬまま手渡すと、男は素早く目を通し、ふっと口元を緩める。
「なるほど、リディア嬢の知り合いか。――珍しい豆を探してるって?」
「ええ。リディアさんが仕入れている“蟲毒蛙の毒汁”の豆に似ていて、似たような地域で、一つの硬い殻を割ると中に身が詰まっていて、苦みが強く、熱を加えると香りが立つ。多分その土地では薬や滋養の飲み物になってるんじゃないかと思うんですが……」
商人は顎を撫でながら帳簿を閉じた。
「“蟲毒蛙の毒汁”……ああ、“夜果豆”のことか。それに似たもので、南方の密林で採れる実となると――“焦香の実”のことだろうな。殻を割れば黒い種がぎっしり詰まっている。現地では薬として噛んだり、飲み物にしたりするそうだ。癖が強く、好みは分かれるがな」
目当ての物の話が飛び出し少し身を乗り出す。
「ここからだと、どれくらいの距離に?」
「馬車で急ぎ足なら七日ほど南下した《ナウガル交易市》。そこから船で運ばれてくる。護衛つきの隊商に頼むのが普通だ。時期が合えば十日もあれば手に入るが……いつも流通している品じゃないな」
「仕入れをお願いするとどれくらいの費用になりますか……」
「一つの実で銀貨十枚前後。ただし中に入っている豆の大きさも数も質もまちまちでだけどな。場合によっては倍にも跳ね上がる。安定しない品だ」
「馬車で急ぎ足なら七日ほど南下した《ナウガル交易市》。そこから船で運ばれてくる。護衛つきの隊商に頼むのが普通だ。時期が合えば十日もあれば手に入るが……いつも流通している品じゃないな」
「仕入れをお願いすると、どれくらいの費用になりますか……」
「一つの実で銀貨数枚だな。ただし、中に詰まってる豆の大きさも数も質もまちまちだ。場合によっては倍に跳ね上がることもある。――安定はしない品だ」
思わず眉を寄せる。
一つの実で、どれほどの菓子が作れるのか見当もつかない。保存の仕方や加工の段取りも未知数だ。見込みなく金を出すのは、危うすぎる。
商人はそんな俺の表情を見て、口元に苦みを帯びた笑みを浮かべた。
「まあ、リディア嬢の紹介なら話は別だ。彼女の得意先なら定期的に仕入れてくれるだろうし……こちらとしても悪い話じゃない。まとまった数を頼んでくれるなら、多少は値を引いてやるよ」
心臓がひとつ強く鳴る。ありがたい言葉だが、まだ踏み切るには不安が残る。
「……わかりました。少し考えてみます」
別れの挨拶のつもりで、自然に手を挙げていた。――これまで何度も腕を癒してくれたのは、アルシエルとルミエルだ。
月夜の光が倉庫の格子窓から射し込みむ。
「とりあえず、ヴァンに相談してみるか……」
声にした瞬間、胸の奥に小さな決意が芽生えた。
双子が笑顔になるのなら、そのための苦労も惜しくはない。
その想いを抱きながら、俺は倉庫を後にした。




