041.世界を繕う御手
教会の重い扉を押し開けると、夜風が頬を撫でた。
冷たい空気が、まだ胸に残る光の温もりをさらっていく。
階段の下で待っていたヴァンがこちらを見上げ、すぐに歩み寄ってきた。
「……どうだった?」
俺は言葉を探したが、喉に詰まって出てこない。
ただ小さく首を横に振った。
ヴァンは眉をひそめたが、すぐに肩を竦めて苦笑する。
「そうか。……まあ、あの教会の連中にできることなんて、たかが知れてるからな」
俺は少し迷った末に口を開いた。
「……でも、双子聖女が……《世界を繕う御手》を使ってくれた」
「……は?」
ヴァンの目が大きく見開かれた。
「待て……《世界を繕う御手》といえば、根源魔法じゃねぇか! 本気で言ってんのか」
俺がうなずくと、彼は深く息を吐き、呆れとも驚きともつかぬ笑みを浮かべた。
「……俺も伝承でしか知らねぇが、あれは本来、戦場で数千の兵を一度に癒すか、王家の大儀式で使われるような代物だ。
だが本質は神の奇跡なんかじゃない。……あくまで自己治癒の延長線上を、限界まで強化した力だそうだ」
ヴァンは指を鳴らしながら言葉を続ける。
「人間は傷を負えば自分で塞ごうとするだろう? それを女神の加護で一気に引き上げる。
骨が砕けても、臓腑を抉られても、自己治癒がほんのわずかでも残っていれば――繋ぎ直せる。
極端な話、首を落とされても“まだ体温が残っている一瞬”なら、蘇生すら可能だって伝わってる」
彼はそこで言葉を切り、真剣な眼差しを俺の左腕に向けた。
「……それでさえ治せなかったってのは……」
「ああ。俺の腕はもう“傷”じゃない。癒す対象が存在しないんだ」
言葉を口にした瞬間、胸の奥に冷たいものが沈み込む。
俺は無意識に革の鞘を押さえ込み、視線を落とした。
街灯の下で反射する白い刃は、どこまでも冷たく、不気味に光っていた。
冷たい街灯の光を浴びる白刃を、ヴァンはしばし黙って見つめていた。
やがて彼は、深く息を吐いて言った。
「……それでも、お前は生き残った。
腕がどうなろうが、立ってここにいる。それが一番大事なことだ」
その声は軽口でも慰めでもなく、ただ事実を告げる響きだった。
けれど不思議と、その言葉は胸に温かさを残した。
自分では認めたくない姿でも、少なくとも生き延びたからこそ今ここにいる――そう言われているようで。
俺は視線を落としたまま、小さく呟く。
「……明日、双子聖女が宿に来てくれるそうだ。誰にも知られないように、こっそりと」
「……はぁ?」
ヴァンが眉を跳ね上げ、思わず声を上げた。
「おいおい、あの双子が? 聖女様が冒険者の宿なんかに顔を出すだと? 下手すりゃ教会の連中が血相変えて飛んでくるぞ」
「それでも……そう言ってくれた」
言いながら、自分でも信じられない気持ちが胸の奥にあった。
けれど同時に、確かにあの場で向けられた双子の瞳と、触れた温もりが思い出される。あれは偽りではなかった。
ヴァンは頭を掻き、苛立ち混じりの笑みを浮かべる。
「まったく……お前、どれだけの大事に巻き込まれてるんだよ。
けどまあ、あの二人なら――信用できるだろう。……いいか、絶対に他言するな。人目も避けろ。
聖女が“ひとりの冒険者のために動いた”なんて噂が広まれば、国中を揺るがしかねないからな」
「……わかってる」
二人の間に短い沈黙が落ちる。
王都の夜は冷たく静かで、遠くの鐘の音だけが微かに響いていた。
昼間は賑わう大通りも、今は人気が少なく、並ぶ店の看板の明かりがぽつぽつと灯っているだけだ。
街の空気そのものが、事件の余韻に沈んでいるようだった。
ヴァンは歩き出しながら、ちらとこちらを見る。
「なあ、ミハネ。……お前、本当に戻りたいと思ってるか?」
「え……?」
「腕のことだ。さっき“怖い”って言ってたろ。
たしかに痛みは地獄だろうし、元に戻せる保証もねえ。……けど、もしもこのまま骨剣のままでも生きられるなら、それでもいいって思ってないか?」
言葉に詰まる。
否定したかったが、胸の奥では確かに「このままでもいい」と囁く声があった。
痛みへの恐怖。あの瞬間の悪夢を再び味わうくらいなら――と。
ヴァンは苦笑して肩を竦める。
「まあ、答えは今すぐ出さなくていいさ。
……ただ一つだけ言っとく。俺はお前がどんな姿でも、仲間だと思ってる」
その言葉に、少し涙が滲んだ。
夜風に吹かれながら、革の鞘を押さえた左腕はまだ冷たい。
それでも、心の奥には微かな火が灯っているのを感じた。
◆
しばらく無言のまま歩いた。
王都の石畳は夜露を吸って黒く光り、街灯の影が長く伸びている。
昼の喧騒が嘘のように、すれ違う人影もほとんどなかった。
ヴァンが肩越しに振り返る。
「とにかく、今日は休め。……頭を冷やせるのも休んでる間だけだ」
「……ああ」
やがて馴染みの宿の灯りが見えてきた。
窓から漏れる橙色の明かりと、漂うスープの匂いが、妙に現実感を思い出させる。
事件も、教会も、双子の祈りも――すべて夢のように遠く感じられた。
宿の前でヴァンが立ち止まる。
「俺は組合に顔を出してくる。明日の予定は任せろ」
俺は頷き、扉に手をかけた。
ヴァンが何か言いかけたが、結局口をつぐみ、手を振って夜の通りへと消えていった。
部屋に入ると、薄暗い明かりが迎えてくれる。
椅子に腰を下ろし、革の鞘を外した。
白刃が月光を反射し、薄闇に冷たく浮かび上がる。
……あれほどの光の御手ですら届かなかった。
これが、今の俺の“手”だ。
触れた感触は硬く、冷たい。だが確かに俺と繋がっている。
拒絶しようとしても、共に生きる以外に道はない。
ベッドに身を横たえると、瞼の裏に再び黄金の糸が浮かんだ。
女神の御手。双子の祈り。あの温もり。
そして、痛みと恐怖。
俺は深く息を吐き、胸に沈む不安を抱えたまま、静かに目を閉じた。




