004.異邦の街並み
「……はい。多分……ここは俺の知ってる世界じゃないみたいです」
声はか細く震え、自分でも何を言っているのか分からなかった。
「知ってる世界じゃない、だと?」
赤毛の眉がわずかに動く。驚きと訝しさが混じった声音だった。
「俺のいた世界には、冒険者組合なんてありませんでした。魔物もいなかったし……」
言いながら、自然と視線は傍らに置かれた布袋――エコバッグへと落ちた。
助けられたとき、エルヴァンが一緒に拾ってくれていたらしい。
「証拠になるかはわかりませんが……これを見てください」
バッグから携帯電話を取り出し、差し出す。掌に収まる小さな長方形。
「……なんだこれは」
エルヴァンの琥珀色の瞳が細められる。
「ぱっと見はただの板だが……魔道具にしては魔術刻印も魔石も入っていない。……なのに、内部は……」
彼は壊れ物でも扱うように慎重に傾け、穴の開いた隙間から覗き込む。
見慣れぬ基盤の精緻な回路が光を反射し、エルヴァンは息を呑んだ。
「……とんでもなく細かい造りをしてやがる」
驚愕と訝しさの入り混じった声。携帯電話を持つ手がわずかに強張るのが見えた。
「はい。これは“携帯電話”といって……簡単に言えば、これ一つで遠くの人と会話ができる道具です」
自分の声も震えているのがわかる。
「しかも、俺の世界じゃ珍しくもなく……誰もが持っていました」
「……遠くの人と、か」
エルヴァンは顎に手をやり、しばし沈思した。
その横顔には、戦士らしい硬さと同時に、未知に触れた子供のような好奇心が同居していた。
エルヴァンは携帯電話をしばらく弄んだ後、俺に返した。
「……わかった。少なくとも俺が今まで見たことのない道具を持っているのは確かだ。
これほど精巧な一品を持ちながら、あんな森で死にかけていたってのが妙な話だからな」
琥珀の瞳が真っ直ぐに俺を射抜く。からかいではない、本気の眼差しだった。
「どうやら本当に、俺たちの常識の外から来たらしい」
低く言い切ると、腕を組み直す。その仕草に、胸の奥でかすかな望みが灯る。
思わず言葉が零れた。
「……ここが本当に別の世界なのだとしたら、俺は何も知りません。
だから……どうか、この世界のことを教えてくれませんか。
もし代価が必要なら、このかばんの中身を……何でも差し上げます」
必死だった。
ここで見放されれば、次は森で魔物の餌になるか、街で怪しい連中に狙われて終わるだろう。
一度でも命を救ってくれた、この男に縋るしかなかった。
エルヴァンは一瞬、呆気にとられた顔をした。
次の瞬間、腹の底から笑い声を響かせる。
「ハハハッ!」
あまりに豪快な笑いに、今度は俺が目を丸くした。
「安心しろ。最初から、ある程度は面倒を見るつもりだったからな」
その言葉に、張り詰めていた力が一気に抜ける。
全身に安堵が押し寄せ、思わず深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
「礼はいい。だが、この世界で生きるなら基礎から叩き込んでやる必要がある。
国の名前、通貨の単位、この国の仕組み……そして何より――魔法について、だ」
声は真剣そのものだった。だが同時に、未知を前にした男の好奇心も隠しきれていない。
「とはいえ――」
ふっと肩をすくめ、にやりと笑う。
「講義の前に、まずは腹ごしらえだな。空っぽの腹じゃ、頭に入るもんも入らん」
張り詰めていた空気が、少しだけ緩んだ。
だが胸の奥にはまだ、見知らぬ世界に放り込まれた恐怖と不安が渦巻いていた。
◆
外に出ると、目の前に広がったのは、一昔前の中世ヨーロッパを彷彿とさせる街並みだった。
石畳の道が陽を反射して鈍く光り、両脇には木と石を組み合わせた家々が肩を並べる。
二階から突き出した張り出し窓や赤茶けた瓦屋根が連なり、まるで絵本の挿絵の中に足を踏み入れたようだ。
だが、よく目を凝らすと違和感が浮かび上がる。
街灯には鉄細工の籠が取り付けられ、その中で宝石のような石が青白く脈打つように光を放っていた。
火ではない。炎の揺らめきもなく、風に吹かれても揺るがない――おそらく魔道具と呼ばれるものだろう。
鼻をくすぐるのは焼きたてのパンの香り。
露店では果物や肉の串焼きが並び、油が弾ける音と香ばしい匂いが腹を刺激する。
人々の衣服は質素ながら丈夫そうで、腰に短剣や革の防具を下げた者も少なくない。――あれが冒険者という存在なのだろうか。
だが、期待していたものは見当たらなかった。
耳の尖ったエルフも、獣耳や尻尾を揺らす獣人も、どこにもいない。
異世界といえば、そうした種族が当たり前に暮らしていると思っていたのに……行き交うのは、髪や肌の色こそ多様でも、見渡す限り「人間」ばかりだった。
「どうした?」
横を歩くエルヴァンが怪訝そうにこちらを見る。
「いや……思ったより“普通の人”しかいないんだなって」
「ははっ、何を期待してたんだ?」
笑い声が石畳に響き、エルヴァンに続いて歩みを進めた。
◆
エルヴァンが案内したのは、大通りを抜け、脇道を少し入ったところにある小さな喫茶店だった。
こじんまりとした木造の外観に、手描きのケーキの看板。
その下に刻まれていたのは――見覚えのある、日本語に酷似した文字列だった。
異世界のはずなのに、胸の奥がざわつく。
扉を押し開けた瞬間、甘い香りが鼻腔を満たす。
バニラや蜂蜜の濃厚さに、果実を煮詰めたような酸味が混じり合い、胃がきゅるりと鳴った。思わず腹を押さえる。
店内は外観の素朴さに反して、よく磨かれた木の床と、艶のある椅子やテーブルが並んでいた。
壁には小さな花のリースや絵画が飾られ、温かみがありながらも細部にまで手が行き届いている。
店主の強いこだわりが感じられる空間だったが――客はまばらで、静けさが漂っていた。
「よう、リディア」
エルヴァンが奥に声をかける。すぐに、柔らかな声が返ってきた。
「ヴァン。いらっしゃい」
カウンターの奥から現れたのは、エルヴァンによく似た赤毛の女性だった。
年の頃は二十歳前後、背丈は一六〇センチほどで小柄かつ華奢。
肩までの柔らかな赤髪が揺れ、左側には小さな編み込みが覗く。
そのささやかな仕草一つで、親しみやすさが漂っていた。
幼さの残る顔立ちに、落ち着いた微笑が自然と浮かんでいる。
可憐でありながら、瞳の奥には芯の強さと温かさが同居していた。
白いブラウスに茶色のエプロンという飾り気のない装いは、清潔感と日常感を兼ね備え、喫茶店という空間にしっくり馴染んでいる。
派手さはない。だが、その自然体の姿が、見る者を安心させる不思議な魅力を放っていた。
「あら、そちらの方は?」
「ああ、こいつはミハネ。ちょっとした縁で知り合ってな。奥の席、使わせてもらうぜ」
「はい、どうぞ。ミハネさん、ごゆっくり」
促されて奥まった二人席に腰を下ろす。入り口からは死角になり、声も届きにくそうだ。
エルヴァンは腰を下ろし、口元に笑みを浮かべる。
「あいつはリディア。俺の妹だ。……人に聞かれたくない話をするときは、いつもこの店を使わせてもらってる」
「そうなんですね。……ずいぶん綺麗な方ですね。それに、店内もこだわってますけど……なんでこんなに閑散としてるんですか?」
「ああ、それはな……」
エルヴァンは苦笑し、懐から木の板を取り出した。手作りらしい小さなメニュー板だ。
視線を落とすと、そこに並んでいたのは――
“磔兎の串刺しパフェ”
“灰哭竜の吐息ケーキ”
“蠱毒蛙の毒泡ムース”
“脈動蛭の生絞り果汁”
場違いに物騒な名前ばかりだった。
「……これ、料理の名前……ですか?」
「そうだ。趣味の悪い名付けだろう? 味は確かなんだがな」
エルヴァンは肩をすくめてみせる。
「なるほど……」
思わず苦笑がこぼれる。
視線をもう一度板に戻したが、名前の禍々しさにどうしても食欲が削がれる。
確かにこれでは、初めて来た客は二の足を踏むに違いなかった。