039.死生観
宿の机に広げられた羊皮紙の束は、まだ温もりが残っているかのように重く湿っていた。
黒々としたインクは細かい字を埋め尽くし、図面の線は執念を刻みつけるように濃く引かれている。
最初の頁には、人体の解剖図。
「腕を持ち上げるのは三角筋」「指を閉じるのは屈筋群」――そんな注釈が幾百と走り、筋の一本、血管の一本に至るまでが克明に記されていた。
読み進めるたび、背筋に氷が這う。
まるで人体を「人」ではなく「構造物」として見ているような視点だった。
次の頁には「再生」の章。
欠けた骨を鉱石と魔術刻印で補う図、裂けた肉を魔術の糸で繋ぐ手順。
そこには人を救うための研究と、冒涜の境界を踏み越えた手法が入り混じっていた。
最後の頁には「創造」の章。
そこに描かれていたのは――人と人に似せた異形。
筋繊維を束ね、魔石を核に組み込み、血液と魔力の循環を強引に成立させる過程。
その過程で作られた“人工魔人”。
ライの身を喰らい尽くしたあの存在は、紙の上では冷徹な数式に置き換えられていた。
俺は思わず息を呑み、震える指で最後の頁を閉じた。
「……これが……あなたの歩いた道ですか、先生……」
その声は震え、言葉の形を保ったまま胸の奥に沈んでいった。
◆
冒険者組合の中庭には、二つの布に包まれた亡骸が並んでいた。
一つは逞しい体躯を残したまま息絶えたガルド。
もう一つは――人工魔人と化し、再生が途切れた瞬間に崩壊した肉塊となったライ。
布越しでも違いは明らかだった。
ガルドの影は大きく、最後まで戦士としての姿を留めている。
対してライの亡骸は、再生を繰り返した果てに崩れ、歪んだ肉と砕けた骨が絡み合い、ようやく止まった形を保っていた。
顔の片隅に、ひょうきんな笑みを浮かべていた頃の面影がほんの少し残っている――それだけが、仲間の証だった。
布に覆われた二つの影を前に、静寂が支配していた。
この国には古くから伝わる掟がある。
――死後の肉体は辱めてはならない。
どんな姿であろうとも、魂は同じだからだ。
人が死ねば、魂は肉体を離れ、静かに“黄泉”へ帰ると信じられている。
だが、死体を穢せばその魂は足を取られ、現世に囚われてしまう。
罪人であっても、悪逆を重ねた者であっても、それは例外ではない。
死後の肉を弄ぶことは、その魂を苦しみの中に縛り付けることであり――それは、この世界に生きる誰もが忌むべき罪とされていた。
だからこそ、死者の肉体は一律に教会の管理下へと渡される。
祈りと供養を経て、大地に還される。
それは神々に誓った掟であり、人としての常識であり、死者と生者を隔てる最低限の尊厳だった。
神官が布の前に立ち、震える声で祈りを唱える。
その瞳には恐怖が浮かんでいた。
――崩れた肉塊と化したライの姿は、誰の目にも「人」とは言い難い。
だが、それでも神官は決して祈りをやめない。
――魂は同じ。
そう信じるがゆえに、彼は声を震わせながらも最後まで祈りを続けた。
俺は棺の前に膝をついた。
ガルドの布の下からは、不器用で豪快な笑い声が甦る。
「……すまない」
その言葉しか出てこなかった。
隣に立つヴァンが静かに口を開く。
「……ガルドは、俺を慕ってくれていたそうだな」
低い声には、鉄のような硬さと、鋼のような痛みが混ざっていた。
「そのせいで、ガルドと決闘にまでなったよ。……だが、あの時を経て、仲間になれた」
喉の奥が熱く詰まり、嗚咽が漏れる。
そして、もう一つの棺へと目を向ける。
布の下にあるのは、ライ――いや、“ライだったもの”だ。
お調子者で、時に場を和ませる冗談を言い、俺たちが疲れている時はおどけて笑わせてくれた。
誰よりも情に厚く、仲間のためなら迷わず立ち上がる奴だった。
その彼が、今は崩れた肉塊となって横たわっている。
顔の半分は潰れ、残った半分に――かろうじて、あのひょうきんな笑顔の痕跡が残っていた。
「……お前まで失うなんて、誰が思っただろうな」
涙が頬を伝い、拳に落ちる。
堪えようとしても、どうしても止まらなかった。
神官が聖句を結び、浄化の炎が舞い上がり、土が落ちる。
覆う布はやがて大地に隠れ、二人は土の中へと帰っていく。
その音が、心臓に杭を打ち込むように響いた。
「ガルド……ライ……」
声を震わせ、俺は拳を握りしめる。
「必ず、お前たちの分まで戦う。絶対に無駄にはしない」
ヴァンも目を伏せ、短く呟いた。
「安らかに眠れ。……二人とも、俺たちの中で生き続ける」
その言葉に、また涙が溢れた。
組合を出ると、朝日が雲の切れ間から差し込んでいた。
涙に滲んだ視界の中で、それは炎のように赤く、そして優しく輝いていた。
まるで、彼らがまだ空のどこかで見ていると告げるように。
俺は立ち止まり、深く息を吸った。
――ガルド。ライ。
この道を進む。たとえどれほどの血を流しても。
◆
教会への治療依頼は組合を通じて無事に手続きできていた。だが連絡が上層まで届くには、なお幾ばくかの時を要するという。
待つあいだに、どうしても避けて通れない場所があった。
――イリス・クラリオン。
祖父の死に俺が関わったことを、彼女はどう受け止めるだろう。
事実をそのまま告げるべきか、それとも言葉を濁すべきか。
胸の奥に、鉛のような迷いが沈んでいた。
屋敷の扉を叩くと、執事のロワが顔を出した。
「ミハネ様……お待ちしておりました。イリス様は奥に」
相変わらず無表情で、彼女の調子がどうかなど尋ねられる雰囲気ではない。
ロワに案内され、通されたのは学舎のように書物が積まれた部屋だった。
机の前に立つ少女――イリスは背筋を伸ばしていたが、その瞳の下には疲労の影が濃く刻まれていた。
「……来たのね」
彼女は俺を真っ直ぐに見据え、震えのない声で言った。
その双眸はガーネットのように冴え、怒りでも涙でもなく、ただ真実を求めていた。
「おじい様……祖父は、最期にどうなったのか。あなたの口から聞きたい」
息が詰まる。
言葉を探そうとした瞬間、喉に硬い結び目ができ、吐き出せない。
――嘘を並べれば楽かもしれない。
だが、それは彼女を二度殺すことになる。
深く息を吸い、俺は告げた。
「……先生は、禁忌の研究を続けていました。慈善団体の資金や人攫いも、そのために利用していた。最後、俺と対峙したときまで……研究を止めようとはしなかった」
イリスの唇がかすかに震える。
机の上に置かれた手は固く握られ、爪が白く食い込んでいた。
それでも彼女は声を荒げなかった。ただ、押し殺した声で問う。
「……祖父は、最後に……何か、言った?」
記憶の底から、あの光景が蘇る。
血の匂い、崩れ落ちる身体、そして最後に響いた声。
呪いのように残った言葉。
「――『お前の力は、私の理想の具現だ』と」
俺は右の掌を見つめながら、短く続けた。
「人を繕う力を。矛盾を抱えながら、それでも進め……と」
部屋に沈黙が落ちた。
イリスは俯き、肩を小さく震わせていた。泣いているのか、涙を必死にこらえているのかは分からない。
しばらくして顔を上げた彼女の瞳は赤く潤んでいたが、奥には確かな光が宿っていた。
「……あなたがどう答えるかで、私はあなたを憎むか、認めるかを決めようと思っていた。……でも、祖父の最期の言葉が本当にそうなら……私は、憎むことができない」
声は震えていたが、その芯は折れていなかった。
「祖父の罪は祖父のもの。……けれど、残されたものを託されたあなたを、私は見届けなければならない」
胸の奥で、刃がかすかに震える。
俺が抱えた呪いと、彼女が背負う宿命――その二つが重なり合う。
俺は黙って懐から一冊の束を取り出した。
血と煤で汚れた研究資料。エドガーが命と引き換えに遺した、禁忌の記録。
「……これが、残されたものです」
イリスの手が、ためらいながらもその紙束を受け取る。
ページをめくるたびに瞳が揺れ、呼吸が細くなる。
「……これは……人を素材として魔道具にする研究……? そして……人の体を作り替え、創造する……」
かすれた声が部屋に落ちる。
「少しでも踏み外せば、人を“別のもの”に変える……」
彼女は唇を強く噛み、ゆっくりと首を振った。
「やはり祖父は……救いと冒涜の狭間に立っていたのね」
俺はただ見守ることしかできなかった。
託された重さを抱えたまま、どう言葉を紡げばいいのか分からない。
やがて、イリスは小さく息を吐き、視線を落とす。
「ねえ、ミハネ……私が新しい魔道具の素材の研究なんてしなければ……こういうことにはならなかったのかしら」
胸を突く問いだった。
「それは……」
咄嗟に返す言葉が見つからず、喉に刺さったまま音にならない。
イリスは俯き、拳を膝の上で固く握る。
「……しばらく一人にさせて。魔術の講義も……当分は中止にさせて」
「……わかりました」
その声は、思った以上に掠れていた。
イリスは机に研究資料をそっと置き、涙に濡れた瞳で俺を見上げる。
「ただ……これだけは伝えておくわ。貴方がしたことは――間違ってはいない」
その言葉が胸に落ちた瞬間、押し潰されそうだった重さが、わずかに揺らいだ。
「……ありがとうございます、イリス師匠」
その言葉は彼女に向けたものでもあり――同時に、自分を支えるための呟きでもあった。
部屋を出る時、背後で紙束が静かにめくられる音がした。
それは遺された罪と理想を読み解こうとする音であり、イリス自身の戦いの始まりでもあった。
イリスの研究室を後にしようとすると、ロワが出口まで案内してくれた。
石造りの廊下に、二人の靴音だけが硬く反響する。
「……私は以前、申し上げましたね。お嬢様の純心を弄ぶような真似をすれば許さぬ、と」
抑えた声。だが続いた言葉は意外なものだった。
「ですが、今回は……感謝いたします。何より私ひとりでは、イリス様の胸に積もったものを取り除いて差し上げることができませんでした」
横目に見れば、ロワの拳は白くなるほど握られ、爪が食い込んで血が滲んでいる。
それでも彼の歩みは揺らがない。ただ前を向いている。
「ロワは、イリス師匠と……どれくらいの付き合いなんだ?」
問いかけると、彼はわずかに目を細め、懐かしむように微笑を浮かべた。
「私が物心つく前からです。……我が家は代々、クラリオン家の執事として仕えてまいりました。お嬢様と初めて言葉を交わした日のことも、鮮明に覚えております。幼い頃からずっと……傍に」
「じゃあ、イリス師匠にとってロワは……昔から一緒にいる、一番心を許せる存在なんだな」
その言葉にロワは小さく頷き、そして深いため息を吐いた。
「そうでありたいと、いつも願っております。……ですが今回ばかりは、私にはどう声をかけてよいのか分からなかった。何を言っても軽く響くようで、何も言えず……ただ見守るしかできなかったのです」
苦く笑みを歪め、拳をさらに強く握る。
「お嬢様の痛みに触れられるのは、血を分けた家族か……あるいは、同じ痛みを背負った者だけなのかもしれません。だからこそ、あなたが“師匠”と呼び、真正面から向き合ってくださったこと……そのことに心から礼を申し上げます」
言葉の一つひとつが重かった。
長い年月を共に過ごした者だからこそ抱く無力感――それでもなお支え続ける誓いの強さが、そこに滲んでいた。
◆
魔術組合を出て、ひとり石畳の道を歩き出す。
冷たい風が頬を撫で、先ほどまでの重苦しい空気を少しだけ洗い流すように感じられた。
だが、街は静かではなかった。
通りを行き交う人々の声は低く、ひそやかに交わされる噂が耳に入る。
「慈善団体が……人を攫っていたなんて」
「子爵様が牢に……信じられるか」
「魔術組合で何があったんだ? 兵士たちが夜通し何かを運び出していた」
どの言葉も確証はなく、断片だけが行き交い、まるで煙のように街全体を曇らせている。
普段は活気で溢れる露店も、今日は半分ほどしか開かれておらず、呼び声もどこか力がない。
子どもたちが遊ぶ声も沈みがちで、親に手を引かれて家へと急ぐ姿が目立った。
人々の視線は、行き交う兵士や組合の紋章をつけた者に集まり、そのたびにざわめきが広がる。
――民衆は知っている。
だが知らされてはいない。
真実は隠され、残されたのは「不安」という形のない怪物だけだった。
俺は歩を進めながら、そのざわめきを全身で受け止めた。
左腕の奥で刃が鞘を震わせ、誰に見せることもなく、ひそやかに音を立てる。
息苦しい現実はまだ続いている。
それでも、この街を歩く足を止めるわけにはいかなかった。




