003.赤毛の冒険者
兎の体が崩れ落ちても、手のひらにはまだ生温かい感触が残っていた。
呼吸は荒く、胸の奥で心臓が暴れ続ける。助かったという安堵と、次があれば死ぬという予感が交互に押し寄せ、胃の奥を掻き回す。
――ガサガサ。
葉の擦れる音に反射的に顔を上げた。
木々の間から現れたのは、燃えるような赤毛の男だった。
太陽の光を受けて赤毛が鮮やかに輝き、瞳は琥珀の刃のように鋭い。
背丈は自分より少し高く、しなやかに鍛え上げられた筋肉が鎧の隙間から覗く。
片手には長剣。鍔から刃先まで無駄なく研ぎ澄まされ、ただ持っているだけで戦いの場数を物語っていた。
その顔立ちは西洋人を思わせ、高い頬骨と通った鼻筋が際立つ。
まるで見慣れた街の延長ではなく――ここが、自分の知らない世界なのだと視覚だけで告げられたようだった。
気さくな兄貴分にも見える雰囲気。だが、その視線の奥には独特の威圧感があり、森の空気を一瞬にして引き締める。
「……大丈夫か?」
落ち着いた声。だがその奥に潜む強さは、戦場で幾度も命を懸けてきた者のものだった。
赤毛の男は俺の脚に突き刺さった角を見て、状況を瞬時に把握する。
「よくやった。もう大丈夫だ」
駆け寄ってきて、朱色の金属板を首から掲げる。中央には翼を広げた鳥の紋章が刻まれていた。
「俺の名はエルヴァン。鳳紋の冒険者だ」
その声には自信と誇りが混じっていた。
「磔兎か……その状態で仕留めたとは、大した根性だな」
エルヴァンはそう言い、すぐさま表情を引き締める。
「だが、このままじゃ死ぬ。ここには神官はいない。王都まで運ぶしかないが、その前に角を抜かなきゃならん」
背筋が凍る。抜けば血が噴き出す。それは死を意味する。
「……抜けば、血が」
言葉が重く落ちる。
「だから苦肉の策だ。傷口を焼き潰して塞ぐ」
そう言って荷物から布を取り出す。
「激痛は避けられん。この布を噛め。痛みを和らげる香を染み込ませてある」
矢継ぎ早に告げるその姿は、迷いなく命を扱う者のそれだった。
本当に信じていいのか。さらに強い痛みに耐えられるのか。疑問と恐怖が押し寄せる。
だが――助かる道はこれしかない。
「……お願いします」
声は震えていたが、そう告げるしかなかった。
エルヴァンはにやりと笑う。
「よし、よく言った」
次の瞬間、低く呟く声が響いた。
「この掌は灼熱 触れるものを焼き焦がせ――《熱掌》」
掌に陽炎のような揺らめきが立ちのぼる。
――そこからは一瞬の出来事だった。
脚に突き刺さった角が、勢いよく引き抜かれる。
血が噴水のように溢れ、熱い飛沫が肌を叩いた。
直後、燃え盛る鉄板のような掌が傷口に押し当てられる。
「ぐうううううっ!!!」
肉が弾ける音。鼻を突く焦げ臭。
皮膚が泡立ち、骨にまで熱が沁み込む。
視界が白く飛び、喉から獣のような悲鳴が溢れた。
そして――意識は闇に沈んだ。
◆
『……ちゃん、起きて……』
心地よい声が聞こえた気がした。
安心する声に、もう少し眠っていたいと身じろぎした途端、右脚に痛みが走り、意識が覚醒した。
目を覚ました場所は自室ではなかった。
簡素なベッドと、脇に置かれた椅子が一脚だけの小部屋。
「……そうだ、兎に殺されかけて、エルヴァンって人に助けてもらって……」
右脚に視線を落とす。
傷は塞がっていたが、焼け焦げた皮膚はまだ少し赤黒く爛れ、ずきりと疼いていた。
その痛みが、すべてが夢ではなく現実であることを突きつけてくる。
「本当に……どこなんだよ。早く帰らないと……!」
胸のざわめきを宥めるように、右耳で揺れる耳飾りへそっと指先を伸ばす。
冷えた金属の感触が、かえって熱に浮かされた心を静めていく気がした。
頭の奥から少しずつ記憶が蘇る。
見たこともない獣に襲われたこと。
そして――陽炎のように揺らめいた、エルヴァンの掌。
「……まさか、魔法……」
子供の頃に憧れた幻想。
だが今の胸を満たしているのは、ときめきではなく、不安と帰りたいという渇望だけだった。
――コン、コン、コン。
ノックの音が、現実へと意識を引き戻した。
「どうぞ」
促すと、例の赤毛の男が入ってきた。
「よう、やっと起きたか。調子はどうだ?」
「……おかげさまで一命をとりとめました。本当にありがとうございます」
「いいさ、そんなにかしこまるな。そもそもお前が磔兎を仕留めてなきゃ、とっくに死んでただろうしな」
「……磔兎?」
問い返すと、エルヴァンは頷いた。
「ああ。お前が倒したあの兎だ。獲物を壁際に追い詰め、角で磔にして捕食する魔物だ。角はすぐ再生するし、弱い獲物を狙う狡猾さもある。ただ突進しか能がないから、慣れた冒険者なら対処は難しくない」
背筋に冷たいものが走った。
もし突進を止められなかったら、何度も貫かれ、磔にされたまま食われていた。
「……魔物なんて本当にいるんですね」
「そりゃあいるさ」
エルヴァンは笑みを浮かべる。
「――で、お前の名前は?」
名乗っていなかったことに気づき、慌てて口を開く。
「天城弥羽といいます。弥羽が名前で、天城が苗字です」
「なるほど、この国と逆なんだな。――じゃあ、ミハネと呼ばせてもらう」
「二度目になるが、俺はエルヴァン。エルヴァン・ストラトス。仲がいいやつらからは“ヴァン”と呼ばれてる。よろしくな」
赤毛の男は肩をすくめ、にやりと笑った。
少し迷った後、思い切って口を開いた。
「……あの、ひとつ聞いてもいいですか?」
「ん?」
「さっき、あなた……首にかけた、その板を見せて“冒険者”って言ってましたよね。あれは、なんなんですか?」
「ああ、これか」
エルヴァンは朱色の金属板――プレートを指先で弾いた。中央には、羽ばたく鳥の紋章が浮かんでいる。
「これは“紋”。冒険者の証だ。俺のは“鳳紋”――朱色の鳳凰が刻まれている。色と刻まれた生き物の種類で格が分かる」
「紋……冒険者……」
「ってことは、ミハネ……お前は〈組合〉に登録してないんだな?」
「はい、初めて聞きました」
「冒険者ってのは、この世界じゃ魔物退治や護衛、探索に雇われる者たちの総称だ。各地にある〈組合〉に登録して活動する。紋はその証明であり、力の目安でもある」
「じゃあ……その鳳凰は、強い証拠なんですか?」
「まあな。鳳紋の冒険者なら、単独で鳳凰級の魔物を倒せるって証明でもある」
エルヴァンは軽く笑みを浮かべる。
「もっとも、魔物の強さは一口に言えんがな。小物相手に手こずるようじゃ鳳紋は名乗れん」
そう言った後、こちらをじっと見据えた。
「……ただな。冒険者組合はどんな村にも関わりがある。魔物の群れに襲われたら、普通の村なんざひとたまりもない。だから日々、討伐や護衛の依頼を組合に出すんだ。年頃まで生きてきて、一度も関わらなかったなんてことはありえない」
そう言った後、鋭い視線をこちらに投げかけた。
「それに……この辺りじゃ見かけない服装に、黒髪黒目。いったいどこから来た?」
心臓が大きく跳ねた。
逡巡する。ここで正直に話していいのか。
信じてもらえるのか。
危険はないのか。
だが――ここで誤魔化そうとすれば、きっとこの男には見抜かれる。
それに、命を救ってくれた相手に嘘を吐くのも、どうしてもためらわれた。
恐怖と、助けてもらった恩義。
その両方が背中を押した。
「……はい。多分……ここは俺の知ってる世界じゃないみたいです」
声は震えていたが、それが精一杯の正直な答えだった。