022.和解
朝の光に目を細め、寝台の上で大きく息を吐いた。
久しぶりに深く眠ったせいか、体は鉛のように重い。
それでも、右腕の痛みが昨夜より和らいでいることに気づき、胸の奥でわずかに安堵が広がった。
窓を押し開ければ、王都の街並みが朝日に照らされて輝いている。
パン屋の前にはすでに行列ができ、広場では露店の商人たちが荷を広げていた。
――生きている街の息遣い。
昨日まで背中に張り付いていた緊張が、少し遠く感じられる。
身支度を整え、裏手の食堂へ降りると、簡素ながら温かな朝食が待っていた。
黒パンに卵と干し肉を炒めたもの、香草の香りが立つスープ。
一口かじれば、塩気がちょうどよく、夜明けの冷たい空気で冷えた体を内側から満たしてくれる。
「……うん、美味しい」
小さく呟き、皿を平らげる。
銀貨を支払い、宿の青年に軽く挨拶する。
宿の設備も食事も申し分なく、しばらくここに腰を落ち着けることを伝えて宿を後にした。
◆
石畳の大通りを抜けると、冒険者組合の堂々たる建物が視界に現れた。
朝の組合はすでに活気に満ちている。
新米らしい若者たちが依頼掲示板に群がり、熟練の冒険者たちが受付で笑い声を交わしていた。
油と鉄の匂い。
革鎧の擦れる音。ざわめきと笑い声。
それらすべてが渦を巻き、冒険者たちの“日常”を物語っている。
「おはようございます、ミハネさん」
受付にいたセリナが、いつもの柔らかな笑みを向けてきた。
「昨夜は大変でしたね。……その後、お加減はいかがですか?」
「正直、まだ完全じゃないけど……動けるくらいには」
右腕を軽く振ってみせると、セリナは小さく苦笑した。
「無理はなさらないでくださいね。……こちら、組合長の許可をいただいて、強めの痛み止めの香薬をご用意しました」
差し出された小瓶には、薄緑色の液体が揺れていた。
封を切った瞬間、清涼感を含んだ強い香りが鼻腔を突き抜ける。
まるで草原を吹き抜ける風に、焚かれた薬草の煙を混ぜ込んだような、不思議な匂いだった。
「これを嗅ぐだけで痛みを和らげられます。傷口に直接塗布すれば鎮静効果は強まり……原液を布に垂らし口を覆えば、数秒で眠りに落ちるほどの効力があります。飲み込めば、さらに強力に作用しますが――あくまで一時的なものです。痛みは本来、体からの危険信号。どうか頼りすぎないでくださいね」
その声音には、職務を越えた真摯な気遣いがにじんでいた。
「……助かります」
小瓶を受け取り、胸の奥で深く息を吐く。
これで、あの異能を研ぎ澄ませることができる。
怖さは消えない。
だが、その怖さを抱えたまま歩き出すしかない――そう思えた。
受付を離れ、広間を歩く。
そういえば、これまで一度も依頼を受けたことがなかった。
無紋だからと舐められて絡まれたばかりだ。どういう依頼をこなせば等級が上がるのか、気になるところだ。
依頼掲示板には、朝一番に張り出された紙札がびっしり並んでいる。
薬草採集、荷物運搬、下水掃除――そして魔物討伐まで様々だ。
「思ったより危険そうな魔物の討伐とかはないな」
もっと名を聞いただけで凶暴そうな魔物の討伐依頼がずらりと並んでいるものだと思っていた。
そういえばセリナの説明で、等級によって受けられる依頼が変わると聞いた気がする。
「もっと危ない依頼は、受付で直接受ける感じなんだろうな」
呟きながら視線を流すと、一枚だけ妙に浮いた札が目に留まった。
【失踪者の捜索 依頼主:王都南区住民組合】
報酬:銀貨五枚/一名発見ごと
「……失踪、か」
銀貨五枚。新米向けにしては高額すぎる。
王都の大通りは朝から活気に満ちている。だが一歩裏路地に踏み込めば、その影には「不安」が潜んでいるのだろう。
誰かが帰ってこない。いつの間にか姿を消す。そして組合に依頼が回ってくる……そんな流れか。
依頼札を眺めていると、背後から重たい足音が近づいてくるのがわかった。
石畳を踏みしめる音。――獣が縄張りを確かめるような、低く響く足取り。
「失踪事件か。……この街じゃ珍しくもねぇ」
「……そうなんですか?」
声をかけられ横を向くと、昨日絡んできた狼紋の冒険者――ガルドが立っていた。
胸の奥が反射的に強張る。
だが昨日のような威圧感は薄い。
それでも、その鋭い眼差しは人を射抜いてきた。
「王都は馬鹿みてぇに広い。金が尽きて夜逃げするやつもいりゃ、闇の仕事に足突っ込んで消えるやつもいる」
低く、石壁に反響する声。
耳に残る響き。
言葉を探していると、別方向から軽い靴音が加わった。
次の瞬間、軽薄そうな声が割り込んできた。
「でもよ、理由もなく消えるやつが増えてるのは……正直、気味が悪いよな」
現れたのは、昨日の決闘の時に観客席で煽っていた冒険者の一人だった。
栗色の髪を後ろで無造作にひとまとめにし、乱れた前髪が顔にかかっている。
細身ながら無駄のない体つき、軽快さを優先した冒険者らしい体格だ。
優しげな顔立ちをしていながら、口元にはにやりとした笑みを浮かべ、その琥珀色の瞳はどこか楽しげに輝いていた。
ガルドは一度目を伏せ、そして俺を睨み――不意に頭を下げた。
その瞬間、広間の喧噪が一拍だけ遠のいたように感じた。
「昨日は……すまねぇ!」
九十度に折れた背中。
訓練場での殺気立った気配とは、まるで別人のようだった。
「俺は……エルヴァンさんに憧れてる。なのに、無紋のあんたがヴァンに稽古をつけてもらって、仲間に迎えられたって聞いたとき……頭に血がのぼった。なんで俺じゃねぇんだ、俺とお前の何が違うんだって。訓練してる姿を見てたら……喧嘩を売らずにいられなかった」
その声音には、誤魔化しのない真実があった。
栗色の髪の男が肩をすくめながら続けた。
「俺もさ、お前の訓練を見ててわかってたんだよ。ガルドには敵わねぇって。……けどつい、口が勝手に動いちまった。煽って、悪かった」
にやりと笑う口元に軽さは残っている。
だがその瞳は真正面から俺を射抜き、誤魔化しのない色を宿していた。
正面から差し出された言葉に、胸の奥の緊張がふっと緩んでいく。
昨日のやるせなさはまだ残っていたが、彼が罰を受けたことも知っている。
それに俺自身も、異能を試すために戦いを受けたのだ。
「……気にしないでください。気持ちは、よくわかりました」
そう答えると、ガルドは怪訝そうに顔をしかめた。
「お前……俺に勝ったんだ。そんな言い方しなくてもいい。少なくとも敬語は、俺に使わなくていい」
「……そうか。じゃあ、そういうことなら」
言葉を改めると、ガルドは胸元の冒険者札を指で弾き、掲げてみせた。
「そういえば、お前の名前を聞いてなかったな。俺は見ての通り、狼紋のガルド。で、こいつは兎紋の――」
「ライだ」
栗色の髪を後ろで束ねた青年も、自分の札を掲げながらにやりと笑う。
「昨日は散々煽っちまったけどな。……まあ、あんたが勝っちまったんだから結果オーライだろ? よろしくな、新顔」
軽口を叩きながら差し出された手。
軽薄そうに見えるが、その握手は驚くほど力強かった。
「……ああ、よろしく。俺はミハネだ」
力を込めて握り返すと、ライは満足げに肩をすくめる。
その様子を見て、ガルドもわずかに頬を緩めた。
そしてガルドは口の端を吊り上げ、ふいに俺の肩を小突く。
「……なぁ、腹減ってねぇか? 昨日のこともあるし、飯くらい奢らせろ」
「え?」
意外すぎる誘いに思わず目を瞬かせる。
「ほら、立ち話ばっかしてても仕方ねぇだろ。ライも来い」
「おっ、珍しいなガルド。おごりなんて日が来るとは!」
ライは愉快そうに笑い、先に歩き出した。