021.教会
夕暮れの王都を歩いた。
赤く染まった石畳が暮れゆく光に照らされ、足の裏へ冷たく長い影を落とす。
呼び声が波のように重なり、馬車の軋みが遠くで低く唸る。
焼き菓子の甘い匂いが風に乗って鼻をくすぐる。
さて……結局、宿はどうしようかな。
イリスから“湯を出す魔道具”を受け取ったばかりだ。
ならば今の安宿より、寝食のしっかりしたところへ移った方がいい。
だが、それより何より、右腕の痛みが上書きしてくる。
風が抜け、袖が傷を撫でると焼けるような激痛が走った。
思わず歯を噛み締める。
涙腺が熱を帯び、視界の端がじんわり滲む。
あの時の光景が脳裏に刺さる。
ガルドとの死闘。
力任せに振り下ろされる刃。
叩きつけられる衝撃。
骨を軋ませる痛み。
一度でも判断を誤れば、今ここにはいない。
あの戦いで学んだのは、異能に頼るだけでは命は繋げないという現実だ。
セリナが用意してくれる痛み止めは頼りになるだろう。
だが、それはまだ先の話。
そう考えながら露店の並びにふと視線をやると、一振りの剣が目に留まった。
装飾は削ぎ落とされ、刃はよく研がれている。
使い込むほどに手に馴染みそうな質実剛健な造りだ。
柄を握ると、ガルドとの決闘で感じた重みと同じ感覚が掌に伝わった。
決して軽くはない。
だが、この重さに慣れなければ、次は命を落とすだろう。
「……とりあえずは、これでいいか」
最高の剣ではない。だが今の俺にはこれで十分だと、自分に言い聞かせる。
腰に下げ、息を一つ吐いた。
石畳の振動が、まだ手首に残る微かな痺れを呼び覚ます。
「それと、教会にも行かないとな」
このまま痛みを放置すれば、次の一歩さえ踏み出せない。
剣を手にした以上、体を整えておく必要がある。
呟きは夕暮れの喧騒に溶けていった。
右腕を押さえながら、王都の中央にそびえる白亜の教会へ向かった。
◆
王都の中央、広場の向こうにそびえる白亜の教会。
落陽を浴びた外壁は金に染まり、尖塔は空を裂くように天へ伸びている。
鐘の低い音が風に溶け、街のざわめきの上から重ねるように人々の耳へ届いてきた。
どこからでも見える巨大な教会――昨日出会った双子の聖女も、きっとこの中で仕えているのだろう。
重い扉を押し開ける。
ひんやりとした空気が頬を撫で、香草と蝋の匂いが胸の奥に沁みる。
彩り豊かなステンドグラスから夕陽が射し込み、大理石の床に朱と蒼の模様を刻んでいた。
堂内にはすでに多くの人々がいた。
包帯に血を滲ませた兵士。煤にまみれ、疲れ切った労働者。泣きながら子を抱く母親。
誰もが救いを求め、静かな祈りの声が重なり合って響いている。
「……意外と人がいるな」
立ち尽くす俺に、近くの修道士が声をかけてきた。
「どうされました?」
「怪我をしてしまいまして。治療をお願いしたいんですが」
「それは大変でしたね。こちらへどうぞ、治療院へ」
修道士は痛ましげな顔をしながらも、丁寧に案内してくれる。
「光の女神ルーメリア様のご加護があらんことを」
一言を残し、祈るように頭を下げて去っていった。
治療院の中には重病の者が横たわり、神聖魔法を受けていた。
子供の膝をさする母親のすすり泣きが、どこかで絶え間なく続いている。
皆それぞれの痛みを抱え、救いの光を待っていた。
「次の方」
呼ばれて進み出し、右腕を差し出す。
袖の下から露わになったのは、赤黒く裂け、まだ血が滲む右腕だった。
「……これは剣傷、ですか?」
若い修道士が眉を寄せる。
「剣傷というより……裂傷ですね。まるで内側から引き裂かれたような……」
一瞬、心臓が強く跳ねた。だが苦笑でごまかす。
「ええ、ちょっと無茶をして」
「無理は禁物ですよ。――では治療を始めます」
修道士が両手を添え、祈りを捧げる。
「祈りを受け給え 慈悲は光となり 彼のものを包みて癒せ――《聖癒光》」
詠唱ののち、掌から淡い光が広がった。
じんわりと沁みこむように右腕を包み、焼けるような痛みがすっと薄れていく。
強ばっていた筋肉が緩み、呼吸がわずかに楽になる。
「……っ」
思わず息が漏れた。
光はあたたかく、穏やかだ。
だが、昨日ルミエルに触れられたときのような圧倒的な癒しとは違う。
あのときは心の奥底までも癒されるような感覚があった。
今の治癒は、確かに痛みを消してはくれたが……どこか弱い。
「これで大丈夫です。痕は少し残りますが、痛みは和らいだはずです」
修道士は静かに手を離し、告げた。
右腕を持ち上げてみる。確かに痛みは消えている。
だが視線を落とすと、形がわずかに歪んでいるのが分かった。
筋の流れが不自然で、骨の位置も微妙にずれている。
――そういうことか。
この世界の治癒は「傷を塞ぐ」ことはできても、“元通り”にはならない。
自然治癒を一気に促進させる魔法だから、一度壊したものはそのままの形で固定されてしまう。
俺の右腕は異能で無理やり組み替えたせいで、筋が歪なまま癒えてしまったのだ。
「……ありがとうございました」
頭を下げ、銀貨五枚を差し出す。
修道士は静かに受け取り、祈るように小さく頷いた。
石段を降りながら、右腕に視線を落とす。
痛みは消えた。けれど、この歪んだ感覚は拭えない。
――ルミエルなら。
あの圧倒的な光なら、“元通り”にしてくれたのかもしれない。
あの時の癒しは、ただの治療を超えていた。
見上げれば、教会の尖塔が暮れなずむ空に影を落としている。
胸の奥で小さくつぶやいた。
「……ただの女の子じゃない。聖女なんだな、あの子は」
石段を降りきり、夕暮れの王都の通りへ出る。
腕を軽く振ってみると、痛みはほとんど消えていた。
だが、どうにも馴染まない。
筋を策にした代償か――関節が歪んで固まったような、妙な引っかかりが残っていた。
「……治ったは治ったけど、完全じゃないな」
苦笑が漏れる。
自然治癒を促す教会の術では、形を戻すことはできない。
昨夜ルミエルに癒されたときとの違いを、今さらながら痛感していた。
とはいえ、動けるのだから贅沢は言えない。
腰の袋を開き、財布の中身を確かめる。
教会で支払った銀貨――その分の重みが消えていた。
手のひらに残る軽さが、そのまま不安へと変わっていく。
「こんな戦い方を続けてたら……身体だけじゃなく、懐まで壊れるな」
苦笑しながら呟いた声は、夕暮れの喧騒にかき消されていった。
◆
教会を後にし、宿探しに出た。
「さて……どこに泊まろうかな」
通りはすでに夕餉を求める人々で賑わっている。
焼いた肉の匂い、酒場から溢れる笑い声、窯から立つ香ばしいパンの香り――王都の夜が色濃く始まっていた。
宿屋通りを歩けば、呼び込みの声が矢継ぎ早に飛んでくる。
「一泊銅貨三十枚! 共同寝室だよ!」
「うちは夕食にシチュー付き! お得だよ!」
その中で、ふと目に留まった一軒があった。
石造りの外壁に磨かれた木扉、窓には彩り布。
掲げられた木札には――【宿〈赤い梟亭〉 一泊 銀貨一枚 個室 客室風呂あり(湯張り 別途一銀貨)】。
「……客室風呂つき、か」
思わず足が止まる。今までの宿の倍以上の値段。
だが、その一文から目が離せなかった。
扉を押し開けると、豪奢すぎず、落ち着いた雰囲気が広がる。
磨かれた床、温かなランプ、厚手の絨毯――「そこそこ高級感」という言葉がぴったりだった。
「いらっしゃいませ。お泊まりですか?」
受付の青年がにこやかに迎える。
「ええ……料金は看板の通り?」
「はい。お部屋代が一泊銀貨一枚。朝夕のお食事付きでございます。……客室風呂をご利用でしたら、別途一枚銀貨を頂いております」
「……一銀貨」
心臓が跳ねる。宿泊費と合わせれば一泊銀貨二枚。
財布の重みが一気に削がれる額だ。
だが脳裏に浮かぶのは、桶に張られた湯気の立ちのぼる水面。
イリス師匠からもらった魔道具の存在を思い出し、口を開いた。
「お湯を自分で準備する場合はどうなりますか?」
青年が目を瞬かせる。
「……魔法使いの方ですか? でしたら、客室に備え付けのものですから無料でご利用いただけます」
「……なるほど。じゃあ、泊まります」
案内された部屋は、木目の床に柔らかな寝台が置かれた個室だった。
壁際には木桶と石造りの浴槽が据えられている。
俺はさっそく、イリス師匠からもらった魔道具を取り出し、浴槽に湯を張った。
白い湯気が立ちのぼり、部屋全体にふわりと温かさが満ちていく。
服を脱ぎ、湯へと身を沈める。
「……っはああ……」
熱が筋肉を解きほぐし、骨の奥に残っていた違和感までもが溶けていくようだった。
戦いで擦り減った心と体が、ようやく解き放たれていく。
「……衣食住。ようやく、人並みに足りてきたな」
ぽつりと呟き、湯から上がる。
着替えを整えると、ちょうど食堂に夕食が並ぶ時刻だった。
宿の裏手は食堂になっていた。
灯されたランプの下、冒険者や商人が席を囲み、皿を叩く音と笑い声が入り混じる。
運ばれてきた夕食は、温かなシチューに焼きたての黒パン、香草を散らした肉のグリル。
漂う湯気だけで、腹が鳴りそうになる。
一口すすると、濃厚な肉汁と香草の香りが舌を満たした。
「……うまい」
思わず声が漏れる。
温かいパンをちぎり、シチューに浸せばとろりと絡んで、冷えた体に沁み渡る。
周囲のざわめきの中で、ようやく人心地がついた。
体を蝕んでいた痛みも、重くのしかかっていた緊張も、今だけは遠ざかっていく。
皿を空にし、椅子に背を預ける。
「……この世界に来てまだ数日だってのに、また死にかけたか」
魔物との戦いではなく、訓練場での出来事――それでも確かに死を感じた。
命の奪い合いではなくとも、“境界”はすぐそこにあったのだ。
その夜、心地よい疲れとまどろみに包まれ、俺は久方ぶりに深い眠りへと落ちていった。