002.森の中にて
気がつけば、そこは木漏れ日があふれる森の中だった。
むせかえるような深い緑の匂い。
鼻孔を刺すような草と、湿った土の匂いが混じり合い、肺の奥まで侵入してくる。
現代の街では決して感じることのない濃密さに、思わず息を詰めた。
足元の草は柔らかく、膝の裏をくすぐる。
風に揺れる葉が織りなす光と影のまだら模様が、視界いっぱいに広がっている。
耳を澄ませば、小鳥のさえずりや虫の羽音が幾重にも重なり、遠い世界の旋律のように響いていた。
「なんだ……これ。なんで、こんなところに……?」
「さっきまで、どこにいたっけ……?」
思わず、自分の身体を確認する。
手にはいつものエコバッグ。
中身は、雑然と放り込んだ携帯電話、くたびれた財布、金属音を立てる自宅の鍵、そして瓶ラムネが二本。
鍵にはキーホルダーが付いていて、やけに場違いに思えた。
街の帰り道、そのまま手に持って帰ってきたはずの生活の破片たちが、どうしてこんな森の中にあるのか。
「そうだ……今日は特別暑くて。だから……ラムネでも飲もうって……」
携帯を起動するが、表示されたのは「圏外」の二文字。
液晶に反射した空の色は、見慣れた街の灰色ではなく、深い青だった。
「ここ……どこだ?」
「……拉致……? でも、こんな森に?」
考えれば考えるほど不自然だった。
足取りや記憶に空白はないのに、気づけば世界はまるで塗り替えられていた。
街の熱気も、アスファルトの匂いも、排気ガスのざらつきもない。
あまりにも違いすぎる空気。
ここが自分のいた場所ではない、と比べるまでもなく突き付けられる。
「……遠くに連れてこられた? いや、そんな……」
思考が形を結ぶ前に、背筋を撫でる悪寒が走った。
ガサリ、と茂みが揺れる。
反射的に振り返る。
そこにいたのは——兎。
だが、常識にある兎とは似ても似つかない。
身体はひと回り大きく、額からは三十センチを超える角が天に突き出ていた。
「……なんだ、あれ……」
「大きい兎……いや、あんな角は普通——」
視線を逸らさず後ずさるが、背中が木にぶつかった。
次の瞬間。
兎の後ろ脚に力がこもり、地を蹴った。
空気が裂けるような音とともに、一息で距離を詰めてくる。
「っ……!」
恐怖に全身が硬直した。
筋肉が悲鳴を上げ、足は地面に縫いつけられたように動かない。
灼熱の痛みが右脚を貫いた。
肉が抉れ、骨が砕ける。
背骨にまで突き抜けた衝撃で肺の奥の空気が強制的に吐き出され、喉から絶叫が迸った。
「——ああああああぁぁぁぁぁッ!!!」
悲鳴は森に木霊し、鳥が枝を叩いて飛び立つ。
背後の木に角が深々と突き刺さり、脚は串刺しにされたまま固定された。
世界が赤に滲み、視界は脈動と共に波打った。
焼けた鉄を押し込まれるような痛みが絶え間なく走り、意識を何度も刈り取ろうとする。
必死に考えろ――そう頭の中で叫ぶのに、痛みに脳が千切られて思考がまとまらない。
呼吸は短く浅い。
肺に入る空気は熱を帯び、吐き出す息に血の味が混じる。
耳鳴りが轟き、心臓の鼓動が自分の全てを支配した。
涙に滲む視界の中、かろうじて見えたのは――木に固定された角。
そこだけが唯一の救いのように映った。
だが兎は止まらない。
角を引き抜こうと頭を振るたび、脚の奥で肉が裂け、神経が焼け、火花のような痛みが全身を走る。
背筋を駆け上がった痛覚が首筋を強張らせ、歯を噛み砕かんばかりに食いしばる。
意識が暗転しかけ、喉の奥から獣のような呻きが漏れた。
嗚咽と咆哮の中間のような声。
——ポキリ。
骨が砕けたのかと思った。
だが違う。折れたのは兎自身の角だった。
不意に襲った解放感に、胸の奥で淡い期待が膨らむ。
脚を貫いていた凶器は砕け散り、この地獄から逃れられる――そう錯覚した。
痛みは消えない。それでも、束の間「助かった」という甘美な安堵が脳裏をかすめる。
だが、その希望はすぐに砕け散った。
根元から折り取られた角の断面は、生き物のように蠢き、血管のような筋が脈打っている。
そこから芽吹くように新たな突起が伸び、みるみるうちに刃のような尖端を形作っていった。
「……嘘だろ……」
絶望が喉を締めつける。
兎は地を蹴り、今度は腹を狙って突進してきた。
死の予感に全身が凍りつく。
脳裏に浮かんだのは「死にたくない」ではなく「まだ死ねない」という叫びだった。
藁にもすがる思いで、手に握っていた携帯電話を突き出した。
角が深々と突き刺さり、液晶が砕け、手の中で火花が散った。
だが、それでも止まらない。
掌を貫き、腹部に灼熱の痛みが走る――そう覚悟した瞬間、衝撃は訪れなかった。
突進の勢いが不自然に途切れ、角の先端が掌と携帯の間で止まっていた。
胸の奥で心臓が跳ね、息が詰まる。
兎がほんの僅かに目を見開き、動きが一拍、鈍る。
ここで仕留めなければ終わる――直感が全身を駆け抜けた。
手の中にあるのは、壊れた携帯以外に何もない。
武器はない。だから――自分の肉体を武器にするしかなかった。
目の前で跳ねる兎の唯一の急所。
瞳に向かって、俺は手を突き出した。
ぐちゃり。
柔らかな抵抗を押し分け、眼球の内側が潰れる感触が掌を満たす。
温かくぬめる液体が指の隙間から滴り落ち、頬に生臭い雫が跳ねた。
兎は狂ったように暴れ、前脚で俺の腕を引き剥がそうとし、後脚で蹴り上げる。
だが俺は離さなかった。
力任せに指を突き込み、眼窩の奥の柔らかな壁を突き破る。
どろり、と脳をかき混ぜる感触が掌に広がり、粘液と血が温かい川のように滴り落ちた。
兎の叫びが鼓膜を破るほどに響き、森中の空気が震える。
やがて暴れる動きは弱まり、片目を失った兎はのけ反り、その巨体を地面に叩きつけた。
手の中に残った生々しい感触に、全身が震える。
指の奥まで染みついた柔らかさと温もりが消えず、吐き気がこみ上げる。
「おえぇっ……!」
胃の奥からこみ上げ、血と混じった唾液を吐き出した。
初めて、自らの意思で命を奪った。
それは生きるためであっても、紛れもなく殺意を伴った行為だった。
右脚に再び鋭い痛みが走る。
串刺しにされたまま木に固定された脚は、自分のものとは思えないほど痺れ、熱を帯び、わずかに動かしただけで視界が白く弾けた。
無理に引き抜けば、血が噴き出し、失血死は避けられない。
その現実が、凍りついた思考に杭のように突き立つ。
血の熱さ。呼吸の荒さ。
そして、体の奥底で――何かが抜け落ちたような、空洞感。
ふと掌に目をやると、白い欠片が握られていた。
石とも牙とも骨ともつかない、不思議な質感。
さっきまで持っていた覚えはない。
だが確かに、血に濡れた手の中に在る。
森の光を反射し、欠片はかすかに脈打つように見えた。
それがどうしてここにあるのか分からない。
ただ一つ――あの致命の一撃を逸らしたのは、これだと直感できた。
理解は追いつかない。
脚に突き刺さった痛みが全身を灼き尽くし、意識を塗りつぶしていく。
火の粉が血管を逆流するように、腕も胸も頭までも痛覚に呑まれ、他の感覚は押し潰されていった。
この小さな白い欠片が、後に俺を“人間師”へと導く運命の欠片であるとは――まだ夢にも思っていなかった。