019.冒険者の世界
イリスから魔道具を譲り受け、魔術組合を後にした。
今日は魔術組合へ先に寄ったので、次は冒険者組合で鍛錬だ。
石畳を踏みしめ、商業区の近くへ戻る。
組合の建物は相変わらず人の出入りが多く、活気に満ちていた。
「おはようございます、セリナさん」
「おはようございます、ミハネさん。今日も鍛錬ですか?」
受付のセリナが柔らかく微笑み、言葉を返す。
俺は肯定し、軽く会釈して奥の訓練場へ向かった。
広々とした訓練場では、すでに多くの冒険者が汗を流している。
剣を振る音、気合いの声、木人形を打つ鈍い衝撃――それらが渦となり、場の空気を震わせていた。
俺は隅に立ち、軽く準備運動を済ませて走り始める。
昨夜の感覚を思い出す。
魔力を血管だけでなく、骨や筋肉、そのさらに奥へ――そうイメージして巡らせた。
足が地を蹴った瞬間、身体が軽くなる。
速度は増すが息は荒れない。
最後まで走り切っても、膝に手をつくほどではない。
「……この感覚だな」
エドガーの助言のおかげで、俺は自分の魔力の性質に気づけた。
身体強化の想像は以前よりもずっと容易になっている。
息を整え、木剣を手に取る。
木人形に向かい、ヴァンに叩き込まれた型を一つひとつ確認するように振り下ろした。
木剣は以前より軽く、振り抜いた軌跡は鋭い。
打ち込むたび、衝撃が木人形を震わせ、反動が腕に響く。
「よし……次は槍か」
槍架へ視線を向けた、そのとき――。
「おい」
背後から低い声が飛んだ。
振り返ると、一人の冒険者がこちらを睨んでいる。
二十代前半ほどか。
背は高く、筋肉質。
乱れた茶の短髪に無精髭を生やし、鋭い目で俺を見下ろしていた。
口元には挑発めいた笑み。
「お前、この前までエルヴァンさんの腰巾着してたやつだろ」
訓練場の空気がわずかに張り詰める。
「この前までの動き、見てたがな……なんだあれは。子供でももう少しマシな型を振るぞ」
男は鼻で笑いながら、俺の首から下がる冒険者札に目をやる。
「冒険者登録もしたばかりなんだろ? 無紋がどうやってエルヴァンさんに取り入ったんだ?」
眉をひそめる。
魔物以外に絡まれるのは初めてだ。
冒険者の世界は腕っぷしがものを言う。
こういう絡みも定石なのだろう。
ただ、いままではヴァンがいたから黙っていただけで、今は違う。
「……ヴァンって、そんなに有名なのか?」
率直に尋ねると、男は大仰に肩をすくめた。
「はっ、気安く呼ぶな。――エルヴァン“さん”だ」
冒険者が吐き捨てる。
「あの方はたったひとりで《炎燃える山》を登り、鳳凰を討った鳳紋の冒険者だぞ。冒険者組合で知らないやつはいねぇ。お前みたいな無能が並んでいい人じゃないんだよ」
訓練場がざわついた。
エルヴァンの名は、それだけで強烈な権威を持つらしい。
「どうだ、この俺が代わりに稽古つけてやろうか?」
男はにやつきながら、手にしていた鉄剣を俺の足元へ放った。
ガラン、と重い音が訓練場に響く。
木剣とは違う、本物の刃。
浅い一撃でも血が出る。
稽古と呼ぶには重すぎる剣だ。
「どうした……怖いか? そりゃそうだろ。エルヴァンさんに媚びてる腰巾着なんかにはな」
挑発に、周囲の冒険者たちが面白そうな視線を寄せてくる。
無視することもできた。
ここは組合の修練場。
木剣が常備されていることからも、無断の流血沙汰は処分の対象になるはずだ。
だが――胸に浮かんだのはヴァンの言葉。
――「異能は窮地ほどに応じる」
確かに、この男の言う通り、ヴァンと並び立つにはこんな難癖すらはねのけなければならない。
そして何より、この稽古には“死戦の気配”があった。
本当の戦場との違いは、致命の確率が低いというだけ。
ならば、限界を試すには絶好の場だ。
「……わかった。稽古をつけてもらおうか、先輩」
男はにやりと口角を吊り上げる。
「よく言ったな。俺は“狼紋”のガルドだ。冥土の土産に覚えておきな」
訓練場の空気が一瞬で張り詰めた。
深く息を吸い、床の鉄剣を拾い上げる。
掌にずしりと重みが沈み、冷たさが皮膚の下へ食い込んだ。
木剣とは比べ物にならない。
――これで切り結べば、稽古だろうが血は避けられない。
ほんの少し前まで、俺は走り込みで汗を流し、木人形に型を繰り返していた。
筋肉はすでに熱を帯び、息も完全には整っていない。
ただでさえ不利な状況で、相手は「狼紋」の冒険者。二段上の手練れだ。
だが退く気はなかった。
「来な」
ガルドが挑発的に剣を片手で下げ、隙だらけに見える構えを取る。
しかし眼光は鋭く、油断など欠片もない。
「……っ!」
先に踏み込む。
ガンッ!
火花が散り、衝撃が肩から腕へ走った。
剣越しに伝わる重さで足裏が石畳にめり込みそうになる。
だが、ガルドは余裕の笑みを浮かべ、片手で受け止めているだけだった。
「どうした? 顔色悪いぞ」
「……っ!」
押し返すように剣を振る。だが――。
キィンッ!
刃と刃が噛み合い、反動が痺れを走らせる。
力比べでは勝てそうにない。
弾かれた剣が揺れ、握りを立て直す間もなく斜めの打ち込みが迫る。
「ぐっ……!」
咄嗟に横へ跳ぶ。
刃先が頬を掠め、熱い線が走った。
わずかに触れただけで血の匂いがする。
――一撃でもまともに喰らえば、タダじゃ済まない。
ガルドの剣は重く、一振りごとに骨の芯まで響いた。
受け止めれば掌が痺れ、いなせば肩が抜けそうになる。
空気を裂く音が耳を刺す。
石畳を踏み鳴らす足音が、胸の鼓動と重なり合う。
汗が額を伝い、視界に落ちる。
瞬き一つすら命取りになる。
「どうした、もう限界か!」
挑発と共に、剣圧が真正面から叩きつけられる。
鉄と鉄が噛み合い、火花が散った。
反動で膝が沈み、肺の奥まで空気が絞り出される。
「……まだだ!」
歯を食いしばり、反撃の一撃を返す。
だが読み切られていた。
横合いから鋭い切っ先が迫り、咄嗟に剣で受ける。
バギィンッ!
修練場全体に響く音とともに衝撃が走り、手首が痺れた。
握りを保てずに剣を取り落としそうになる。
そこへ畳みかけるように、二撃、三撃――。
石畳に靴が滑り、体勢が崩れる。
防戦一方。
「腰巾着坊主の無紋にしては粘るな。だが、これで終わりだ!」
ガルドの剣が振り下ろされる。
――駄目だ、このままじゃ……!
視界の端に、床に転がったままの木剣が映った。
咄嗟に身体を転がす。
背中と肩が石畳に叩きつけられ、肺の空気が押し出される。
それでも腕を伸ばし、指先で木剣の柄を掴んだ。
無理な体勢のまま引き寄せ、左手に握り込む。
「はっ――何やってんだ? 鉄と木の二刀流だぁ?」
ガルドが嘲笑する。
視線は俺の手にある、重さの違う二本の剣に釘付けだ。
「二刀流の修練を積んだ奴ならまだしも、お前に扱えるかよ。やぶれかぶれはそこまでにして、大人しく刻まれてな!」
確かに、左右の剣のバランスは最悪だ。
右はずしりとした鉄の刃。左は軽すぎる木の棒。
力の入れ方を間違えれば、どちらかが空を切る。
「おらぁッ!」
ガルドが渾身の力で振り下ろす。
木剣ごと叩き折るつもりの鋭い一撃。
「……ここだ!」
右腕に魔力を叩き込む。
骨が軋み、筋が裂けそうになる感覚を押し殺し、腕一本を強化。
刃と刃が噛み合った瞬間、腕がきしみ、背筋まで震えた。
それでも耐える。
開いた左手の木剣を、横薙ぎに振り抜いた。
バコッ!!
乾いた衝撃音。
木の塊が頬を直撃し、ガルドの頭が横に弾かれる。
皮膚が裂け、口の端から赤い飛沫が散った。
骨を打った反動が手首に痺れとなって返ってくる。
「ぐっ……この野郎ッ!」
さすがに狼紋の冒険者。
これくらいでは致命傷にはならない。
だが、意表を突かれた一撃に観衆の冒険者たちがざわめいた。
――ただの腰巾着だと思っていた奴が、まさか二刀で反撃してくるとは。
ガルドは目を血走らせ、剣を両手で大きく構え直す。
「調子に乗るなよ、腰巾着……次は本気でぶった斬る!」
もう次はない――そう確信する。
咄嗟の二刀流。まして碌に修練を積んでいない俺の二刀は、一度見せただけでは通じないだろう。
そして、激昂した男が放つ一撃は、受けどころが悪ければ死を意味する。
――なぜだか、あの磔兎との戦いを思い出した。
あの時も「ここで終わりだ」と思っていた。
掌を盾にして何が何でも生き残る覚悟。
その源は、今も胸の奥に熾火となって燃え上がっている。
ガルドの鉄剣が振り下ろされる。
先ほどとは比べものにならない、鋭く研ぎ澄まされた一撃だ。
初手からこれが来ていたなら、何もできずに斬り刻まれていただろう。
俺は自分の右腕を見た。
力でも技でも、今の俺はこの男に及ばない。
ならば、俺には何が残されている?
そこにあるのは、自分の身体ただ一つ。
それを犠牲にしてでも生き残れと、胸が脈打つ。
「……ッ!」
魔力を血流に乗せる。
いや、それだけじゃ足りない。
骨へ。
筋肉へ。
腱へ――。
魔力の線を右腕に伝わせ、纏わせる。
イメージしたのは、自分の右腕と鉄剣をまとめて一本の“武器”に組み替えること。
魔力の線で繋ぎ、骨を支柱に。
筋を束ね、腱をねじり。
強引に、剣を振るのに適した形へと作り替える。
瞬間、皮膚の下で何かが裂けた。
「ぐぅぅうう……!」
筋繊維がプチプチと千切れ、骨がゴリゴリと擦れ合う。
その音が脳に直接突き刺さる。
肘の内側から血の珠が噴き、血管が浮き上がって赤黒く脈動した。
涙と涎が勝手ににじみ、呼吸は嗚咽に近くなる。
激痛に顔が歪む。
だが――止めない。
「うおおおおおおッ!」
魔力が右腕の腱を撚り上げる。
筋繊維が束ねられ、腱が太い索となって皮膚の下でうねった。
その異形の右腕で、ガルドの剣を受け止める。
ガァンッ!
衝撃が走り、束ねられた筋がばねのようにしなり、力を内側で蓄える。
その反動が爆ぜるように解放され、相手の剣を正面から弾き飛ばした。
一瞬、皮膚の下で焦げた肉の匂いと金属の匂いが混じった。
同時に、肘の奥で何かが千切れる感触。
口内に広がる血と汗の鉄臭さ。
「な、何ッ!?」
ガルドの目が見開かれる。
その隙を逃さず、右腕に回していた魔力を左手へすべて流す。
力任せに、顔面へ木剣を横薙ぎに叩き込む。
「――っぐあああッ!」
木剣が頬を裂き、肉がめくれて赤い飛沫が散る。
衝撃で歯が砕ける鈍い音が耳に残った。
ガルドは数歩よろめき、石畳に倒れ込む。
「はぁ……ばぁ……」
……勝った。
そう確信した瞬間、右腕が悲鳴を上げた。
「っ……!」
骨が無理やり元の形に戻ろうと軋み、裂けた筋からじわじわ血が滲む。
皮膚の下で筋肉が痙攣し、泡立つように膨れたり萎んだりした。
まるで自分の腕が別の生き物のように暴れている。
握力はもう残っていない。
剣は手から滑り落ち、石畳に鈍い音を立てて転がった。
だが――確かに勝った。
壊れた肉体と引き換えに、敵を叩き伏せたのだ。