017.お風呂を求めて
「金色の羽亭」で朝食を終え、外に出ると街はすっかり賑わっていた。
露店の呼び声、行き交う馬車の音、焼きたてのパンの香り――王都は完全に目を覚ましている。
リディアから聞いた話のおかげで、頭の中にはだいたいの地図ができていた。
次に向かうのは、西の商業区だ。
商業区はリディアの店がある一帯でもあり、石畳の通りを抜けていくと、やがて賑やかな喧噪に包まれる。
果物を山盛りに並べる露店、色鮮やかな布を張り出す商人、子どもを肩に抱えた母親……そのすべてがひとつの音楽のように街を満たしていた。
「……おお、思ってた以上に活気があるな」
目に入ったのは仕立て屋の看板。木枠に吊るされた布地は赤、青、緑、どれも鮮やかで目を引く。
扉を押すと、鈴の音が鳴り、奥から小柄な老職人が顔を出す。
「いらっしゃい。冒険者さんかい?」
「ええ。服を新調したくて」
この世界では珍しいであろう服装に目を走らせた職人は、うんうんと頷き、奥から数着の服を持ってきた。
「動きやすさならこっち。ちょっと見栄えを気にするならこっちだな」
差し出されたのは、深緑のチュニックと焦げ茶のズボン、それに丈夫そうな革のベルト。シンプルだが整っていて、冒険者らしい雰囲気もある。
試しに袖を通してみる。布は柔らかく、思っていたより軽い。
「……いいな。これなら街中でも浮かないな」
代金を銀貨で払い、店を出る。
布屋の前の鏡板に映った自分の姿は、昨日までの“異邦人”という印象から、少しは馴染んだ冒険者らしい姿に変わっていた。
服を整えたあとは、宿のことを考える。
今いる宿は安いが、ベッドは硬く、食事も味気ない。
今日もも明け方に目を覚ましてしまった。
「……そろそろ、ちゃんと休める場所に移ってもいいか」
できれば湯舟に浸かって、一日の疲れをゆっくりと癒やしたい――。
けれど、この世界の宿にそんな気の利いたものがあるのか?
せいぜい木桶に水を張って、ちまちまと体を拭くくらいのような気がする。
あったとしても、この世界で湯舟付きの宿なんて、きっととんでもなく高いはずだ。
……こういうこと、リディアさんに聞いておけばよかった。
「魔法が使えれば、水を出したりお湯を沸かしたりできるんだろうな……」
そう考えて、ふとひらめく。
――魔術道具だ。
もし「水を出す魔道具」と「加熱の魔道具」があれば……大きめの桶や木の槽に張って、簡易の風呂くらいは作れるんじゃないか?
想像した瞬間、胸がわくわくと高鳴る。
だが、すぐに苦笑が漏れた。
「いや……そんな都合よく、大きな桶なんて置いてないよな」
――仮にあったとしても。
魔術で水を満たしたあと、そのお湯をどう処理する?
床にぶちまければ宿が水没するし、外に流せば通りまで洪水になる。
「……ああ、絶対怒られるやつだ」
脳裏に浮かんだのは、水浸しの部屋を見た宿の主人に、首根っこを掴まれて放り出される自分の姿。
贅沢な風呂生活――そんなものは夢のまた夢。
「……やっぱり現実は桶で我慢か」
ため息をつきつつも、心の奥でひとつの野望が芽生えていた。
――いつか、自分だけの「魔道具風呂」を作ってみたい、と。
いや、でもなぁ……。
思えば、この世界に来てから何だかんだで女性と接する機会は多い。
リディア、セリナ、イリスにたまたま出会った双子聖女。
――もしあのとき、ルミエルに治療してもらっている最中に、
「……においますね」
なんて言われていたら……立ち直れないどころか、心にはあの時の傷よりも深い爪痕が刻まれていただろう。
「……だめだ。やっぱり風呂は必須だ」
思わず拳を握る。
これからは毎日、鍛錬で汗だくになる。
衛生を保つためにも、風呂はただの贅沢じゃない。
必要経費だ。
――そう、必要経費!
決意を新たに、風呂付きの宿を探してみることにした。
この街の宿屋は、店先に看板を出していて、料金や食事の有無がひと目で分かるようになっている。
通りを歩きながら宿を眺めていくと……一軒、外観からして高級感のある宿が目に入った。
看板にはしっかりと【客室風呂あり】の文字。
だが、その横に並ぶ料金に目が止まる。
――銀貨三枚。
今の宿が銅貨三十枚。つまり、実質十倍。
数字を見た瞬間、思わず足が止まった。
「……たっ、高い……!」
財布の中身を思い浮かべ、顔がひきつる。
確かにラムネ瓶を売った金はまだまだ残っている。だが、それを湯に消すのはどう考えても分不相応だ。
――あれ?
よく見ると、金額が書かれているのは「お湯張り」の部分だけだ。
「……ってことは、桶そのものはあるってことか?」
目から鱗が落ちた気分だった。
つまり、お湯さえ自分でどうにかできれば――高い料金を払わずに済む。
「水と加熱の魔道具さえあれば……いけるか?」
胸が高鳴ると同時に、不安もよぎる。
暴走して水が止まらなくなったり、熱しすぎて煮え湯になったり――そんな最悪の未来図が頭をよぎる。
それでも、風呂の誘惑には抗えなかった。
「……イリス師匠なら、何か知ってるかもしれない。先生にこんなことを相談するのは、さすがに気が引けるしな……」
エドガーの鋭い視線が脳裏をよぎる。
昨日、イリスから魔術の基礎を学んだばかりだ。ちょうど実践の名目で、魔道具作りを試すには良い機会でもある。
俺は迷いを振り切り、東の職人区へ足を向けた。
◆
石畳の通りには煙突の立ち並ぶ工房が続き、熱せられた鉄の匂いと槌音が響いている。
その先に、ひときわ高くそびえる灰色の塔――魔術組合が姿を現した。
受付でエドガーの紹介札を見せイリスに会いにきたことを告げると、奥の扉へ通される。
螺旋階段を上り、重厚な扉を叩くと、すぐに中から元気な声が返ってきた。
「はーい、開いてるわよ!」
扉を押し開けると、机に散らばった図面と薬瓶の山の中、イリスが頬杖をつきながら羽根ペンを走らせていた。
「あら、ミハネ。今日は思ったより早く来たのね」
「おはようございます、師匠。ちょっと相談があって」
イリスはペンを置き、ぱちりと瞬きをする。
「相談?」
「はい。……あの、宿で風呂に入りたいんですけど」
「………………は?」
イリスの手が止まり、目が点になる。
思わず両手を振った。
「いや、違うんです! 真面目に! この街の宿だと湯付きの宿は高くて……中のお湯だけでも魔術道具でどうにかできないかなと思って」
「あー……なるほどね」
イリスは呆れたように笑みを浮かべたが、すぐに興味深そうに指先を顎に当てた。
「実はね、前に研究した人がいるのよ。水を出す術式と加熱の術式を組み合わせた魔道具――まあ簡易浴槽ってやつね」
「やっぱりあるんですか?」
「あるにはあるわ。――ただし、欠点も多いの」
そう言ってイリスは引き出しを漁り、魔石をはめ込んだ金属の筒を取り出した。
そして机の端に置かれた木桶を指差す。
「まずは、水の魔道具ね」
次の瞬間、筒の先から轟々と水が噴き出した。
みるみる桶が満杯になり、あふれた水が床へ滝のように流れ落ちていく。
「ちょ、ちょっと! 止まらないんですか!?」
「そう、止まらないのよ」
イリスは腕を組み、楽しげに頷いた。
続いて彼女は、魔石を取り付けた金属板を取り出し、桶へ放り込む。
途端に水面が一瞬でぐらぐらと煮え立ち、白い蒸気が部屋いっぱいに広がった。
「うわっ!? あっつ!」
慌てて飛び退く俺を横目に、イリスは肩をすくめる。
「ね? ぬるま湯か煮え湯の二択」
「……致命的すぎる」
「ちなみにこの魔道具、どういう刻印がされているんですか?」
俺の問いに、イリスは板を取り上げ、刻まれた模様を指先でなぞった。
「よし、今日は実際に魔道具を作ってみましょう」