016.金色の羽亭
双子の聖女と別れた後、まだ朝食には少し早かったので、王都の街を歩いてみることにした。
この世界に来てから足を運んだのは、宿とリディアさんの喫茶店、冒険者組合、それに魔術組合くらい。
――王都のことを知るにはあまりに少なすぎる。
それに、そろそろ服装も変えたいところだ。
歩いていると、ときどき好奇の視線を感じる。
見慣れない服を着た異邦人――そんな風に見えるのだろう。
だが、絡まれたり咎められたりすることはない。
冒険者という肩書きが大きいのかもしれない。
王都には珍妙な装備を身につけた冒険者が少なくない。
誰も、いちいち他人を気にしている暇はないのだ。
そうして歩いているうちに、気づけばリディアさんの喫茶店の前まで来ていた。
「……せっかくだし、寄ってみるか」
まだ開いていなければ、今度はヴァンと一緒に来よう。そう思いながら近づくと、ちょうど開店の看板を出しているリディアさんの姿があった。
「おはようございます、リディアさん」
「おはよう。……あれ? ミハネさんだったよね。こんな朝早くからどうしたの?」
彼女は布巾を手に持ちながら、にこにこと笑って首を傾げた。
「早く目が覚めたので、この街を少し歩いていたんです。……もしよければ、朝食をいただきながら街のことを教えてもらえませんか?」
「いいよ。今日のお客さん第一号だね」
リディアさんは看板を立て終えると、布巾で手を軽く拭い、扉を開けて招き入れてくれた。
「仕込みも終わったとこだし、どうぞ。朝食ならパンとスープくらいは出せるよ」
まだ人影のない店内には、焙煎した豆の香ばしい匂いと、焼き立てのパンの甘い香りが満ちていた。
木の椅子に腰を下ろすと、不思議と胸の奥まで落ち着く。
「ん……? この香り……コーヒー?」
懐かしい香りに思わず鼻を鳴らす。
中世風の街並みだったから、飲み物といえば紅茶か麦酒かと思っていたのだ。
「リディアさん、この香ばしい香りは……?」
「ふふ、これはね――“蠱毒蛙のしぼり汁”。飲んでみる?」
あまりに物騒な名前に、思わず固まった。
「……じゃ、じゃあお願いします。あとはパンを、適当に見繕ってもらえれば」
「はーい。ちょっと待ってて」
やがて焼きたてのパンと共に、黒い液体の入ったカップが置かれた。
「お待たせ。熱いから気をつけてね」
一口、恐る恐る口をつける。
「……うん……おお、コーヒーだ!」
リディアは驚いたように目を丸くし、それからにっこり笑った。
「珍しいね。これ、頼んでも『苦い!』って顔する人が多いんだよ。美味しいのに」
名前と見た目と味、三拍子揃って敬遠されても不思議じゃない。
だが懐かしい苦味に、自然と肩の力が抜けていく。
「それで、街のことを知りたいんだったよね?」
「はい。正直、この街に来たばかりで……宿と組合くらいしか分からなくて」
打ち明けると、リディアは小さく頷き、指を折っていった。
「じゃあ説明するね。王都は大きく分けて四つの区画があるんだ。
まず西は商業区。市場やお店がいっぱいで、布屋や靴屋もあるから、日用品を買うなら西に行くといいよ。冒険者もよく通るし、一番にぎやか」
「東は職人区。鍛冶屋さん、革細工師さん、大工や魔道具職人もいて、武器や防具を直すならここ。煙突が並んでて、ちょっと焦げくさいけど活気があるよ」
「南は庶民区。普通の人たちの住まいが広がってる。昼は子どもが駆け回ってるけど、夜は……あんまり行かない方がいいかな。貧民街もあって、ちょっと危ない人がいるから」
「北はお城と貴族区。立派な屋敷が並んでて、道もぴかぴか。普通の人も入れるけど、無駄に行くと揉め事に巻き込まれるかもね」
彼女はそこで一度息をついて、楽しげに続けた。
「それとね、王都の主要な施設も場所が決まってるんだ。
冒険者組合は西の商業区寄りにあって、酒場も兼ねてるから昼も夜もにぎやか。
魔術組合は東の職人区に近い大きな塔。魔道具や研究が多いからね。
魔法組合は北の貴族区の手前。やっぱり才能ある人は貴族の子弟が多いから、場所もそっち寄りなの。
そして中央の教会――ここは王都の“心臓”みたいなものだよ」
指で机をなぞりながら話す姿は、まるで街の地図を描いているみたいだった。
「まとめると、西が市場と冒険者組合、東が職人区と魔術組合、北がお城と貴族区と魔法組合、南が庶民区、中央が大教会。これで王都をぐるっと回れるでしょ」
「……なるほど。頭の中に地図が描けてきました」
「ふふん、役に立ったでしょ」
リディアは小さな胸を張って、得意げに笑った。
「ありがとうございます。リディアさん。これで道に迷わずに済みそうです」
「どういたしまして。でもね」
リディアは声をひそめ、少しだけ真剣な顔をした。
「この街は大きい分、いい人も悪い人もたくさんいるんだ。特に裏通りは……本当に気をつけてね」
その口調の奥には、王都で暮らす者としての実感がにじんでいた。
一通り、城下町の説明を受けたあと、店内に少しだけのんびりとした空気が流れた。
そこで、前から気になっていたことを口にする。
「そういえば、このお店のメニューって……ちょっと独特な名前が多いですよね。何か理由があるんですか?」
リディアは一瞬目を瞬かせ、やがてふわりと笑った。
「それはね……多分、憧れてるのかも。お兄ちゃんが昔、冒険で見てきた話をよく聞かせてくれてね。私は強くもなんともないから冒険者にはなれないけど……せめてこの《金色の羽亭》の中だけでも、ちょっと冒険の香りがするようにしたくて」
そう言って、リディアは壁に掛けられたメニュー板を指先でそっと撫でた。
文字の一つひとつを大事に扱うその仕草には、彼女の想いが滲んでいた。
余計なお世話かもしれない。
けれど――ヴァンの妹であることもあり、なおさらこの店を支えたいと思った。
リディアの気遣いは優しく、あたたかい。
何より、この王都で珈琲を出しているのは「金色の羽亭」くらいかもしれない。
潰れてしまうなんて、絶対に嫌だ。
そう心に決めながら、俺は目の前の朝食をゆっくりと味わった。
苦味と香ばしさが舌に広がり、体の奥に沁みていく。
――確かに、ここは俺にとっても小さな“冒険の拠点”なのかもしれない。